アナログ派の愉しみ/音楽◎ベートーヴェン作曲『ピアノ協奏曲第4番』

愚直に生き通すこと――
それが天才の証ではないか


威風あたりを払う、という表現がぴったりくる。20世紀を代表するドイツのピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスがベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第4番』を演奏したカラー映像だ。カール・ベーム指揮ウィーン交響楽団の約60名の奏者と対峙して、微塵も動じないばかりか、その白髪の頭をかしげ口をへの字に結んだ風貌からは、むしろ覇気において勝っていることが伝わってくる。1967年の記録だから、このときバックハウスは83歳だった。

人間年を取れば、筋肉の細かな動きを制御するのに次第に困難が生じるのはいかんともしがたい。最近、自分の手書き文字がずいぶんと判読しにくいのも、指先の力の加減が不安定になったせいだろう。そんなわが身に照らしてみるにつけ、あたかも曲芸のような指先の運動を求められるピアニストとして、これだけの高齢にもかかわらず堂々と演奏を行っていることが奇跡にさえ思えるのだ。

大ピアニストで、バックハウスほど面白おかしいエピソードに欠けた人物も珍しいのではないか。1884年ライプツィヒに生まれ、16歳でデビュー、21歳のときにコンクールでのちの大作曲家バルトークを破って優勝。以後、教職についた一時期をのぞいて、もっぱら一介の演奏家として過ごし、1969年コンサート中に心臓発作に見舞われ、7日後に85歳で世を去った。酒もタバコも嗜まず、夫婦関係は実直で、せめてものエピソードに、ひとから「余暇には何をなさいますか?」と問われて、「ピアノの練習をします」と答えたことが知られている。まさにピアノ三昧の生涯、と要約してしまえば簡単だけれど、かれが活動したのは祖国が2度の世界大戦に敗れて国土も文化も破滅に瀕した時代だと考えると、シンプルな生き方こそ途轍もないことではなかったろうか。

バックハウスが得意としたのは当然ながらドイツ音楽で、レパートリーの中核はベートーヴェンだった。その32曲のピアノ・ソナタと5曲のピアノ協奏曲のレコード録音は現在でも金字塔として光輝を放っている。わけても、かれが最も愛したのが『ピアノ協奏曲第4番』だ。先の映像にはバックハウスへのインタビュー場面もあり、自宅のピアノの前にすわって、1896年、12歳のときに公開演奏会で初めてこの曲を弾いたときの思い出に触れたあと、「ここには神のように晴れやかで男性的な優雅さがあります」と語られ、さらに静かな口調が続く。

「毎日ピアノを弾いてきて、最近、ようやく上手に弾けるようになった気がします。私はこれから老いていくばかりで、やがて弾けなくなる日が訪れるでしょう。だから、いまのうちに、コンサートを聴かれるみなさまに『美しい』と記憶に刻んでいただけるよう、できるだけ上手にこの曲を演奏する責任があるのです」

演奏の場面では、ベーゼンドルファーのずしりと重量感のあるフォルテを轟かせるとともに、80代の老人とは思えないしなやかな指先が鍵盤上を駆けめぐって、万人に微笑みかける音楽を虹のように屹立させていく。やがてオーケストラが休止してピアノ独奏だけのカデンツァに入ったとき、バックハウスは背中を反らせて、その眼差しは永遠のかなたに向けられているようだった。

 
愚直。おのれの一生を愚直そのままに生き通すとは、何びともおいそれとできることではあるまい。それを淡々とやり遂げ、一介のピアニストとしての人生を全うしてのけたことが天才の証なのだ。「まじめな仕事が真の喜びを与えてくれる」――。古代ローマの政治家・哲学者であるセネカが残したこの言葉を、バックハウスは終生、座右の銘にしていたという。


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