アナログ派の愉しみ/映画◎オードリー・ヘップバーン主演『ローマの休日』

「あるいは永遠に」――
そこにはもうひとつのストーリーが


10代の終わりのころ、年上のガールフレンドと場末の映画館で『ローマの休日』(1953年)を初めて観て、こぼれる涙をごまかすのに苦労した思い出がある。2本立てのもうひとつは『狼たちの午後』(1975年)という、むちゃくちゃな組み合わせではあったが……。以来、このアン王女(オードリー・ヘップバーン)と新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)のラブストーリーを何度も観たけれど、いまだに感動が色褪せることはない。

この大人のメルヘンは、どうして永遠の名作となりえたのか? その問いは、おそらくオードリー自身のものでもあったろう。これによって一躍トップスターの仲間入りを果たしたのち、36年にわたって数多くの映画に出演しながら、ついに女優としてこの初主演作を超えることができなかったのだから。重ねて問う、一体どうしてなのか? あくまで仮説として私見を述べてみたい。

『ローマの休日』の原案・脚本がダルトン・トランボだとは、現在では広く知られている。それがフィルムにクレジットされていないのは、製作当時、アメリカでは共産主義の排斥を期してマッカーシズムの「赤狩り」が猛威をふるい、トランボも標的となってハリウッドを追われていたからだ。かれがこのストーリーをまとめたのは1940年代なかばのことで、直前には『恋愛手帖』(1940年)の脚本でアカデミー賞にノミネートされている。

その『恋愛手帖』は、フィラデルフィアの田舎町で父と暮らす娘が、たまたま出版社の青年社長と出会って秘書に雇われ、おたがいに愛しはじめるという物語。そう、『ローマの休日』の王女と新聞記者のカップルとは男女の立場が入れ替わっただけで、基本的に同じ設定になっているのだ。こちらのふたりはローマならぬニューヨークで休日を過ごし、ダンス・パーティで夜を明かしたのちに自然と性関係を結ぶ。そして、いったんは結婚するけれど社会階層の違いから破綻し、そのあと女の妊娠がわかったものの流産してしまう。数年後、かつての夫がヨリを戻そうと迫ってくるが、女は振り切って自分が選んだ道に確かな一歩を踏み出す……。ここでは、性関係を結ぶことでハンデを負わされる女が、その経験を糧に自立していくとの主題が力強く打ち出されているのだった。

これをもとに、双子の作品とも見なせる『ローマの休日』を眺めてみよう。アン王女とジョーは夜空の下、サンタンジェロの船上ダンス・パーティに出かけ、そこで黒づくめの情報部員たちと大乱闘を繰り広げたあげく、ふたりは川へ飛び込んで逃れ、岸に上がったところで熱い接吻を交わす。つぎのシーンは、ジョーのアパートの部屋だ。男のナイトガウンをまとった女。むろん濡れた衣服の代わりなのだが、その衣服を過ぎ去ったふたりはすでにベッドで愛を交わしたとするほうが自然だろう。

ボルトンが構想した『ローマの休日』は本来、女が性関係を経て自立していく姿を『恋愛手帖』とは逆方向から描くものだったのではないか。第二次世界大戦終結前後の混乱したローマを舞台に、当初はフランク・キャプラ監督、エリザベス・テイラー主演で計画されていたという。このとおり実現していたら、そうしたニュアンスがよりはっきりと浮かび上がったはずだ。ところが、その計画が頓挫して、戦後のローマがようやく活気を取り戻してきた時期に、改めてウィリアム・ワイラー監督とオードリーのコンビで製作されたことによってメルヘン色が前面に出てくる結果になったのだろう。

しかし、実のところ、観客はうすうす感じ取っているのではないか。その他愛ないラブストーリーの白黒フィルムには、二重写しのように男女のリアルなせめぎあいが影を滲ませていることを。つまり、特異な製作過程がもたらしたサブリミナル効果(閾下知覚)ともいうべきものが、この映画を類例のない傑作にしてしまった。それゆえに、オードリーのその後の懸命な努力をもってしてもアン王女の存在感を凌ぐことは不可能だった、というのがわたしの仮説だ。

ジョーと訣別して宮殿に戻ってきたアン王女は、侍従から「24時間、何もなかったとおっしゃるのですか?」と質されたのに対して、「ありました」と断言する。そして、静かな眼差しでこう続けたのだ。「わが国と王家に対する任務を自覚していなければ、今晩私は帰りませんでした。あるいは永遠に」――。


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