アナログ派の愉しみ/映画◎デンゼル・ワシントン主演『アンストッパブル』

列車の暴走、
資本主義の暴走


鉄道マニアだったドヴォルザークが、交響曲第9番『新世界より』(1893年)の最終楽章に驀進する列車の轟きを取り入れたことはよく知られている。同じころ、フランスのリュミエール兄弟はシネマトグラフ(スクリーン投影型の映画)を開発し、『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)という50秒ほどの白黒サイレント作品を上映して評判になった。画面の奥から手前へ向かってくる列車の映像に、観客たちが恐れをなして逃げまわったと伝えられている。

 
18世紀イギリスに誕生した蒸気機関が人間社会のあり方を揺るがしたなかで、鉄道こそ、文字どおり産業革命の牽引車であり、膨張する資本主義のシンボルであったろう。網の目のごとく張り巡らされたレールの上を、黒煙を吐きながら疾走する鋼鉄のかたまりは、交通・輸送の仕組みを一変させただけでなく、それまでの人類が知らなかった時間・空間の感覚を生みだし、ドヴォルザークやリュミエール兄弟が示したように、まったく新たな世界観や美意識へとわれわれを突き動かしていったのではなかったか。

 
あらためてそんなふうに考えたのは、トニー・スコット監督の『アンストッパブル』(2010年)を観たからだ。アメリカで2001年に起きた列車暴走事故の実話にもとづくこの映画は、すでに『ラ・シオタ駅への列車の到着』から1世紀以上が経過したいまなお、鉄道というものが強烈なインパクトを孕むことを教えてくれていると思う。少なくともわたしはその映像を前にして硬直状態となり、エンドロールに切り替わってからもしばらく身動きができなかったほどだ。

 
ペンシルベニア州北部の操車場で作業員のミスにより、最新式のディーゼル機関車が牽引する39両編成の貨物列車が無人走行をはじめる。そこには大量のディーゼル燃料や有毒化学物質が積載されて、いわば巨大なミサイルに等しい破壊力を持ったまま、やがてスピードは時速120キロ以上に達する。一方、南部の操車場からはベテラン機関士のフランク(デンゼル・ワシントン)と新人車掌のウィル(クリス・パイン)の乗務する貨物列車が出発して、間もなく同じ軌道上を反対側から制御不能の貨物列車が猛スピードで接近しつつあることを知らされる。

 
事故の発生が公けになると、州の警察・消防は緊急体制を敷き、テレビの取材クルーは列車の動向に合わせてリアルタイムで中継するのを全国民が固唾を呑んで見つめる。そうしたなか、鉄道会社の上層部は早急な処理をめざして、もう一台のディーゼル機関車を先頭にあてがって減速させながら、ヘリコプターで海兵隊員を運転席へ送り込むことを目論んだものの、死傷者を出してしまう。このうえはなんとしても人口密集地への突入を食い止めなければならないとして、あらかじめ郊外の踏切に車輪を跳ね上げる装置を仕掛けて脱線を企図する。それを耳にした老練なフランクは、若いウィルに向かってこう告げる。

 
「あの長さと速度ならすべてを蹴散らす。会社の連中はわかっちゃいない」

 
実際、その予言どおり二度目の作戦もあえなく失敗に終わった。かろうじて待避線に逃れて正面衝突を回避できたフランクとウィルは、暴走列車をやり過ごすと、みずからの機関車を貨物車両から切り離してあとを追いかけはじめる。決死の覚悟でその停止作業に立ち向かうために……。以後の成り行きは推して知るべし、ハリウッドお得意の、タフな男たちのプロフェッショナリズムと家族愛がほとばしる感動のクライマックスについて多言を用いるまでもないだろう。

 
それはともかく、わたしの目には、ふたりの鉄道員を主役とするドラマがこの映画のオモテの顔とするなら、合わせ鏡のようにもうひとつのウラの顔が見て取れる。そこでの主役は上記のセリフの「すべてを蹴散らす」列車で、それがヘリコプターから下降してくる海兵隊員を振り払ったり、踏切のレールにずらりと装着された脱線器を踏みにじったり、あるいは、鉄道会社の上層連中の思惑やら保身やらを翻弄したりするありさまに、実のところ、スクリーンの前の観衆は快哉を叫んだのではないか。オモテの顔が列車の暴走を描いているとするなら、ウラの顔が描きだすのは留まることのない資本主義の暴走であり、その結果、空前の社会的な格差・分断をきたしたアメリカの現実に対して、レールの上をひた走る列車というシンボルが鉄槌を下したドラマなのだ。

 
これからも鉄道は、イザとなれば鋼鉄の牙をむいて、われわれの社会において一個の主役でありつづけるのだろう。


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