アナログ派の愉しみ/本◎ショーペンハウエル著『読書について』

その辛辣な舌鋒が
現代に教えることは


哲学者といったら、たいてい頭でっかちの気難しげな人物を思い浮かべるのではないか。19世紀前半にベルリン大学などで教鞭をとったアルトゥル・ショーペンハウエルは、そんなイメージにぴったり合致するだろう。肖像画を眺めると、広い額の下から鋭い眼光が睨みつけ、唇を真一文字に引き結んで、いかにも難解な理屈をえんえん浴びせてきそうで、講義に学生たちが集まらなかったと伝えられるのも、むべなるかな、と頷かせる風貌なのだ。

 
外見ばかりではない。ショーペンハウエルは心血を注いで完成させた主著『意志と表象としての世界』(1844年)の付録のひとつで、本を読むことの危うさを論じている。つまり、読者に対して壮大な世界観を差しだしたあとに、こうした文章を読むのはやめたほうがいい、とハシゴを外したようなもので、いくら哲学的な探求心が導いた結果だとしても、あまりのへそ曲がりぶりに呆れ返ってしまう。

 
その『読書について』(1850年)のよく知られた個所はこんな具合だ。

 
「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである」(斎藤忍随訳)

 
グーテンベルクが活字印刷を発明して以来、人類の知的活動の礎をなしてきた読書という営為について、これほど辛辣な舌鋒をふるった哲学者は他にいないだろう。もっとも、日本では当節、国民の20~60代男女のざっと半数は「月に一冊も紙の書籍を読まない」そうだから(国立青少年教育振興機構の2019年調査)、ほとんどの人々にまったく痛くも痒くもない指摘なのかもしれない。

 
しかし、本当にそうやってやり過ごしていいのだろうか。あらためて考えてみるまでもなく、ショーペンハウエルが生きた時代はテレビやラジオどころか、そもそも電気工学という技術がまだ存在せず、したがって、ここで議論の俎上にのぼせた「本」とは当時の人々にとって自己と世界を橋渡しするほとんど唯一の情報媒体だったわけだから、これは現代哲学におけるメディア論の嚆矢と受け止めていいのだろう。

 
そうした観点に立って、先の引用個所に続く文章にわたしが少々手を加え、今日のメディア状況に合わせて「本」を「ネット」に置き換えたものを示してみたい。

 
「ネットにいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日をネットに費やす人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしそれこそ大多数の人々の実状である。彼らは過度のネット閲覧の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちにネットに向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである」

 
どうだろう? こんなふうに読み直してみると、21世紀の日本人に対しても重大な警鐘が打ち鳴らされていることがわかる。昨今、ネット依存症やスマホ脳と称されている社会病理の根は深いのだ。では、どのように対処すればいいのか。ショーペンハウエルはつぎのように教えている。

 
「さらに読書(メディア)にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙(ネット)に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない」

 
本のページを閉じ、テレビのスイッチを切り、パソコンやスマホの画面から視線を持ち上げて、おのれ自身の目で真正面から世界と向きあう――。ある意味では平凡な処方といえるかもしれない。しかし、すでにメディアにがんじがらめとなって久しいわれわれに、果たしてそれができるかどうか?




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