アナログ派の愉しみ/音楽◎『ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ』

シベリアの凍土からよみがえった
マンモスがダンスするような


豪快なピアニストだった故・中村紘子の夫君で作家の庄司薫は、エッセイ集『ぼくが猫語を話せるわけ』(1978年)のなかで、つぎのような体験を綴っている。自分の通う都立日比谷高校に「新校歌制定委員会」なるものが発足して、そこに結集した生徒たちが音楽のあり方をめぐり「シェーンベルクなどをかついでいるのはまだワカイのであって、音楽は結局モーツァルトに始まってモーツァルトに終るのだよ、といった例の悟りすました老成派から、当時流行りだしていたミュジック・コンクレート絶対の前衛派に至るまでのあらゆるあの手この手」を繰り出して議論しあったときの出来事だという。

 
 ところで、そういったあの手この手のなかで、最も鬼面人を威すことに成功したものとして、「ラフマニノフはいいなあ」という一喝があった。これはまさに「天才的」若いモンどもの盲点をついた感じで、満座を圧した。『運命』『未完成』『新世界』などに感激しては沽券にかかわる、少なくとも人前ではいけない、といった心境に置かれていた時期の記憶を誰もが持っているとぼくは確信するものだが、そんな状況のまっただ中でラフマニノフをかつぎ出すことのダンディズム(?)。

 
わたしは思わず声をあげて笑ってしまった。確かにラフマニノフは20世紀を生きた作曲家でありながら、しばしば映画音楽やフィギュアスケートのBGMに使われた『ピアノ協奏曲第2番』が代表するように、あまりのわかりやすさに戸惑いと恥じらいを覚えて素直に受け入れられない気分は理解できるのだ。もっとも、多分野にわたる作品が広く認知されるようになったのはこの世を去ったあとのことで、生前は作曲家としてより、むしろ稀代のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして圧倒的な存在感を誇っていたらしい。

 
セルゲイ・ラフマニノフ。1873年にロシアの由緒ある貴族の家系に生まれ、モスクワ音楽院を優秀な成績で卒業後、ピアニストや指揮者として活発に仕事をはじめる。一方で、心血を注いで作曲した『交響曲第1番』の初演が大失敗に終わると極度のノイローゼに陥り、精神科医ダーリの催眠療法に導かれ『ピアノ協奏曲第2番』を完成させることで立ち直ったというエピソードは人口に膾炙している。そして、1917年にロシアのボリシェヴィキ革命が勃発すると、家族とともに祖国を離れて各地を転々としたのち、アメリカを本拠に以降はもっぱらコンサート・ピアニストとして旺盛な活動を展開していく。身長が2メートル近くあり、鍵盤のドの音からオクターヴ上のソの音まで届く手の持ち主だったラフマニノフは、文字どおり「ピアノの巨人」と呼ぶにふさわしかったろう。

 
そんなラフマニノフが残したレコードを聴くと、確かにどんな難曲も楽々と弾きこなしてしまうテクニックには舌を巻く。半面で、当時のアコースティック録音の限界でダイナミックレンジが狭いため、早めのテンポでスマートに仕上げた演奏のイメージが強いのもやむをえないのだろう。ところが、手元にある『ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ』というアルバムではずいぶんと印象が違うのだ。

 
これは他の自作自演盤と異なって、1919年~29年にアンピコ社の自動ピアノ向けに制作されたミュージック・ロールにもとづき、その紙に穴を開けて記録する方式に対して当初は懐疑的だったラフマニノフ本人も再現性の高さに脱帽したという。それをさらにNASAのジェット推進研究所が開発したコンピュータ技術によって処理して現代のピアノに演奏させたのがこのCDの音源だそうで、もう20年以上前に制作されながら、いまの耳にも鮮烈な驚きを与えずにはおかない。たとえば、『前奏曲ト短調作品23の5』を聴いてみよう。これは、くだんの『ピアノ協奏曲第2番』と同じ1901年に作曲されたほんの3分半ほどの小品だが、アコースティック録音では農民の祭りの場面のように聴こえるのだけれど、こちらのロールでは強靭な打鍵が生々しく、まるでシベリアの凍土からよみがえったマンモスがダンスするような凄まじさなのだ。

 
おそらく、ラフマニノフの実演に接した人々はコンサートホールの客席でかしこまって鑑賞するというより、こうした異次元の音世界に熱狂したのではなかったか。昔日の生意気ざかりの高校生たちも、このレコードを耳にしたらラフマニノフへの認識を改めたかもしれないと想像してみるのである。
 

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