アナログ派の愉しみ/音楽◎ヴィヴァルディ作曲『四季』

何が18世紀イタリアの田園と
20世紀アメリカの都市をつなぐのか


ヴィヴァルディの『四季』は、日本人にひときわ愛好されているそうだ。かく言うわたしも、初めて自分のバイト代で買い求めたLPの一枚がフェリックス・アーヨ&イ・ムジチ合奏団による『四季』の名盤だった(ちなみに、もう一枚はカラヤン指揮ベルリン・フィルのチャイコフスキー『交響曲第4番』)。そして、いそいそと帰宅するなりプレーヤーの針を落としてみたら、もう本当に春爛漫と表現したくなるような艶やかな音楽が流れだして笑いたくなってしまったことを覚えている。

 
イタリアのバロック時代を代表する作曲家のひとり、アントニオ・ヴィヴァルディの手になるヴァイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』(1725年)の全12曲のうち、冒頭4曲の第1番から第4番までが春、夏、秋、冬に割り当てられていたところ、その部分だけをピックアップした『四季』が第二次世界大戦後に爆発的なブームとなった。わたしが購入したイ・ムジチ合奏団のレコードも火付け役となったひとつで、コンサートマスターのアーヨ以下、弦楽器11名とチェンバロ1名の計12名によって繰り広げられる演奏は、自分たちが楽しくてたまらないといった風情で惜しげもなく輝きを撒き散らしていく。こうした親密なアンサンブルは小規模の編成ならではに違いない(カラヤン指揮ベルリン・フィルのやたらゴージャスな録音もあるけれど)。

 
その意味で、コロナ禍のさなかに東京・よみうり大手町ホールで開かれた『四季』コンサート(2020年11月)を体験できたことは僥倖だった。近年マルチな音楽家としてめざましい活躍を見せる鈴木優人のプロデュースのもと、みずからのチェンバロ(通奏低音)とヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽器10名という、あのイ・ムジチ合奏団とほぼ同じ編成で演奏するものだったからだ。それだけではない、オーソドックスなスタイルを守る一方で、あっと驚く野心的な試みも用意されていた。なんと、『四季』の春、夏、秋、冬を分断して、それぞれのはざまにアメリカの現代作曲家、ジョン・ケージの実験音楽を挿入してみせたのだ。

 
したがって、当夜のステージはふつうのコンサートとはまるで異なるしつらえだった。上手には、チェンバロを囲んで譜面台が並ぶ『四季』用のスペース、下手には、プリペアド・ピアノ(ピアノの弦に金属や木材・ゴムなどをはさんだもの)とにわかづくりのリヴィングルームが設けられている。男性ばかりの奏者たちは『四季』をやるときは上手で、ケージの作品の番になるとおもむろに左手へ移動して、ぎくしゃくした音響のピアノを弾いたり、応接セットに腰かけて書物や器を叩いたり……。数学的な調性のうえに成り立ったバロック音楽と、予測不能の「偶然」を取り込んだ現代音楽とのぶつかりあいに、はじめは戸惑って忍び笑いを洩らしていた聴衆も、やがてその対話の妙が呑み込めるにつれて没入し、最後に両者が融合して大らかな音楽が立ち現れたときには盛んな拍手が沸き起こった。想像だにしなかったこの破格の面白さはどうしたわけだろう?

 
実は、『四季』を冠したヴァイオリン協奏曲の第1番から第4番までは、各々にソネットが付随してそこに描かれた情景を説明している。春では、鳥たちのさえずる草原で眠りこけていた羊飼いが、やがて目覚めて陽気にニンフと踊りはじめる、夏では、気だるい暑気のなかで鳥だけでなくハエやアブまでが飛びまわり、羊飼いの恐れていた嵐がやってきて荒れ狂う、秋では、収穫の時期を迎えて村人が酒を煽りながら大騒ぎして、そのうちへべれけに酔いつぶれる、冬では、強風吹きすさぶ寒さに人々は家に籠って暖を取り、また氷結した川面を歩く者は引っ繰り返ってしまう……といった具合に。

 
そうなのだ。四季という言葉を前にすると、日本人なら条件反射のように花鳥風月を思い浮かべるのに対して、かれらはそうした自然の趣よりもあくまで人間の当たり前の営みを想起している。だから、18世紀のイタリアの田園生活を描いたヴィヴァルディの音楽と、20世紀のアメリカの都市生活を切り取ったケージの音楽とがダイレクトに接続して共鳴しあうのだろう。そして、当たり前のはずだったことが当たり前ではなくなったコロナ禍のもとで行われたからでもあろう、われわれも花鳥風月の美意識ばかりに安んじるのではなく、もっと人間を主役としたしたたかな季節感を養っていくことの意義を、この異形のコンサートは問いかけてきたように思われたのだ。

 
なお、このプロデュースが評価対象のひとつとなって、鈴木優人は令和2年度芸術選奨文部科学大臣新人賞(音楽部門)を受賞している。


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