アナログ派の愉しみ/映画◎相米慎二 監督『台風クラブ』

10代が爆発させた
夢とエネルギーはどこへ?


日本最高の青春映画だろう。相米慎二監督の『台風クラブ』(1985年)のなかに、いまとなっては貴重な時代風俗が写し込まれている。中学3年の理恵(工藤夕貴)がボーイフレンドの三上(三上祐一)の家で、手にしたスプーンを指先でせっせとこすっているのだ。そう、あのころ一世を風靡したユリ・ゲラーなる超能力者が、しばしばデモンストレーションで披露したスプーン曲げの動作だ。どうやら理恵もよほど洗脳されていたものらしい。そして、翌日、彼女は家出をする……。

 
舞台は、信州の田舎町。半年後に受験を控える中学3年のクラスでは、幼馴染みの男女生徒たちが机を並べていたが、このところ「お前、最近変だな」とたがいに言いあうことが増えていた。夏の終わりに大型台風が来襲した日、理恵は駆り立てられるように上記のとおり家出して東京へ向かう。学校では教員たちが早々に引き上げたあとに、演劇部の女子3人は部室で愛撫しあい、野球部の男子は好意を寄せていた女子を追いかけてレイプまがいの挙に出たのを、三上が仲裁に入って、やがて一堂に会したかれら6人はダンスをはじめる。教室から体育館に移るにつれエスカレートして、女子も男子も制服を脱ぎ去り、さらには校庭へ飛びだすと、下着も捨て全裸となって豪雨のなかで踊りまくるのだった、口々にうたいながら……。


もしもあしたが晴れならば
愛する人よ あの場所で
もしもあしたが雨ならば
愛する人よ そばにいて

 
まだ成熟にはほど遠い、華奢な身体を躍動させてやみくもにエネルギーを爆発させる、この儀式が意味したものはなんだろう?

 
劇作家の別役実は社会評論にも健筆をふるい、映画と同じ時期の著作『犯罪症候群』(1981年)に収められた「あみだくじ自殺事件」という論考は、富山県の松林で高校1年の双子の姉妹が首吊り自殺をした事件を扱っている。あとに残されたカバンからは、あみだくじを記したノートが見つかり、そこには4本の縦線に「日本人のX」「自殺」「ROS」「御三家」の選択肢が書かれ、鉛筆のなぞった跡が「自殺」の個所に導かれていたという。「この事件を報道する新聞記事に接した時、誰しもが一種奇妙な感触を得たはずである。それは、衝撃というのではない。抵抗感がないのだ」として、姉妹がどんなリアリティのもとで生きていたのかを考えるにあたって、別役はUFOやスプーン曲げのブームを取り上げ、テレビのスタジオ番組でアナウンサーと若者がこうしたやりとりを交わすのに着目する。

 
「あなたは、UFOを信じますか?」
「信じます」
「それは、どうしてですか?」
「だって、その方が夢があるから」

 
これを受けて「私は考えるのだが、若ものたちの側にとっては、それは決してユーモアではない。彼らは、思いがけなく真剣なのだ」と分析する。あみだくじも、UFOも、スプーン曲げも、台風の下での全裸のダンスも、大人にはふざけた振る舞いとしか見えないけれども、かれらにとってはユーモアどころか痛ましいまでに真剣な儀式というわけだ。

 
この映画では、三浦友和扮する担任教師が、カネがらみのトラブルで婚約者の母親に教室まで怒鳴り込まれるような醜態を演じながら、かれの行動だけはだらしないなりに理屈が通っているのでわかりやすい。それに対して、生徒たちのほうは行動の道筋がハサミでばらばらに切断されたみたいに理解不能だ。台風一過の晴れわたった朝を迎えたとき、三上はいきなり「オレたちは厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。だから、オレが死んでみせる、みんなが生きるために」と宣言して、2階の教室の窓から飛び降りるが、たとえどれほど真剣であれしょせん儀式でしかなく、その結末の死さえも現実と虚構のはざまに溶け込んでしまう。理恵のスプーン曲げと同様に。

 
少年非行の戦後第三のピークだったという。今日ではちょっと想像がつかないぐらい家庭内暴力・校内暴力の嵐に世間が翻弄され、マスコミが盛んに「荒れる10代」と声を張り上げる時代に、あたかも劇中に描かれる暴風雨のような破天荒をまとって『台風クラブ』は出現した。この作品が暴いてみせたかれらの物狂おしい夢とエネルギーはいま、どこへ行ってしまったのだろうか?


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