アナログ派の愉しみ/本◎田中角栄 著『私の履歴書』

もし目の前に3000円が
むき出しになっていたら、あなたは?


わたしたちの世代が物心ついたころ、総理大臣といえば「佐藤さん」だった。テレビや新聞でいつも目玉をぎょろつかせ口をへの字に結んだ仏頂面を目にするたび、子どもなりに気分が萎えて、政治の世界はどんよりと雲に覆われている印象があった。

 
だから、1972年7月、史上最年少で「田中さん」が総理大臣になったときには、いっぺんに雲がはれて陽光が降り注いできたようだった。日本列島改造論に未来の光明を眺め、日中国交回復で隣国との友好フィーバーに沸き立ち、だれもが田中角栄の名を笑顔で口にしていた。やがて笑顔が影をひそめ、日本政治の頭上をこれまで以上にどす黒い雲が覆うようになるまで、さほどの年月は要さなかったにせよ……。

 
その田中が日本経済新聞の名物連載『私の履歴書』に登場したのは1966年2月で、当時、佐藤内閣の大蔵大臣を辞して自民党幹事長の職にあった。もとより多忙の身だったろうに、冒頭こそ早坂茂三秘書が口述筆記したものの、以降はみずから筆を執って書き進め、厳しい批評で鳴らす小林秀雄がその文章を「達意平明」と賞賛した。

 
新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)に生まれ、山っ気の多い牛馬商の父と実直に田畑を守る母のもとで育ち、長じては上京して建築事務所や土建会社を起こし、陸軍に徴兵されて大病を患ったのち、戦後2回目の総選挙で初当選するまでの半生が綴られている。いま読み返しても、確かにてらいのない自然体の文章で、書き手の田中とともに笑ったり、泣いたりすることもしばしばだった。

 
ただし、なかにどうしても腑に落ちない一節があった。尋常高等小学校に通っていたころ、ふだんはやさしい母親から「もし悪いことをしていたら、おかあさんはお前といっしょに鉄道の線路の上で死にます」と言われる。祖父の財布からお金を取ったのではないか、という疑いをかけられたのだ。そのあとに続く文章を引用しよう。

 
私はとらない。しかし茶だんすの上に五十銭玉が二つあった。むき出しに出ていたから、だれが使ってもよいおかねだと思った。だからミカンを一箱買ってきて、近所の子供たちにふるまった。「財布からとったわけではないが、使ったのはたしかに私である」と答えたら母親は複雑な顔をしていた。

 
この小学生の答えには、だれだって複雑な顔をするのではないか。昭和初期のことだから、「五十銭玉二つ」は現在の3000円ほどに当たる。もし目の前にそのくらいのお金がむき出しになっていたとき、ふつうに考えて、われわれが取りうる対応はつぎの三択のどれかだろう。(1)ネコババする、(2)家のなかなら家族に、路上であれば交番なりに伝える、(3)見て見ぬふりをする――。

 
田中のようにそのお金でミカンを買って友だちに振る舞うなど、およそ想像を絶した行為ではないか。仮にそうした資質が政治家に向いていたとしても、半面で、はるか後年に「金脈問題」や「ロッキード事件」を引き起こし、あまつさえ、当人にはまったく罪悪感がなかったらしい悲喜劇にもつながったのではないだろうか。ことほどさように、自伝とはその人物の過去だけでなく、不測の将来までをも映し出す恐ろしい鏡なのだ。

 
もっとも、当節の国会論戦を拝見するにつけ、いまの政治家にこれだけの自伝をものする文章力があるかどうかと考えると……いや、やめておこう。


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