アナログ派の愉しみ/本◎長谷川町子 著『サザエさん』

「じつになげかわしい……」
泥棒のつぶやきが善男善女の笑いを誘うとき


ジョン・ダワーが敗戦後の日本社会の諸相を活写した『敗北を抱きしめて』(2001年)を読んでいて、わたしは思わず膝を打った。「戦後のコマ割り漫画のなかでもっとも優れている」と、長谷川町子の『サザエさん』(1946~74年)を評していたからだ。朝日新聞での連載が終わってから読み返す機会もなかったけれど、なるほど、当時の人々の心情を辿り、自分が育った精神風土を知るには格好のテキストだろう。さっそく、生前の作者がセレクトした『よりぬきサザエさん』全13巻を入手してひもといた。

そこには確かに、久しく忘れていた庶民の笑いがあった。この安心しきった笑いは一体、どこからやってくるのか?

『サザエさん』ではだれでも気づくとおり、泥棒や押し売りの活躍ぶりが目立つ。試みに、先の東京オリンピック(1964年)前後の回を集めた第5巻を調べてみると、収録されている4コマ256篇のうち、13篇に泥棒・押し売りのたぐいが登場する。ざっと20回に1回の割合だから、全国の善男善女が毎朝、楽しみにしていたマンガとしては相当な頻度に違いない。たとえば、こんなエピソードだ。

(1)頬かむりした泥棒が「オイ、坊やだけか」と入ってくると、男の子はテレビの前で横になったまま振り返りもせず、「うん、パパは会社、ママもおつとめ」と応じる。
(2)「いもうとは保育所」と男の子が続けるのを、泥棒は腕組みして聞く。
(3)男の子はお菓子をつまみながら、テレビ画面の男女のラブシーンに「ケケケケ」と声をあげ、泥棒は開いた口がふさがらない。
(4)交番の警官とサザエさんの前を、泥棒は「じつになげかわしい……、ああいう生活かんきょうでよいのか?」とつぶやいて通りすぎていく。

『サザエさん』の3世代同居による団欒の姿が、日本の現実からかけ離れていることはかねて指摘されてきた。のみならず、このエピソードが示すように、人心の交流は身内ばかりでなく、隣近所やら、商店街やら、バスや電車の乗客やらと、世間一般にかぎりなく拡張され、ひいては反社会的な連中にまでおよんで、分け隔てなく笑いの網の目に取り込んでいくのである。大正の「説教強盗」のころならいざ知らず、東海道新幹線が走り、高速道路が延び、続々と超高層ビルが建ちはじめた時期に、それはもはや時代錯誤の牧歌的風景でしかなかったろう。

だから、老いも若きも屈託なく笑うことができた。庶民もまた「総中流」へと変貌しつつあったのだ。

こうしたヒューマニスティックな世界は、長谷川町子にとって必ずしも居心地のいいものではなかったらしく、雑誌のインタビューでは、『いじわるばあさん』を描くほうがずっと気が楽、と答えてから、こうつけ加えている。「あの意地悪ばあさんの原型は私だって、母や姉は言うんですよ。だってマンガを描くということは、ちょっとそういった気持ちが底にないとねえ」。クリスチャンの母のもとに生まれ、内村鑑三が創始した無教会派のキリスト教に帰依し、みずからは終生独身を貫いた作者こそ、『サザエさん』の人間模様の虚構を冷徹に見据えていたのかもしれない。


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