アナログ派の愉しみ/音楽◎プロコフィエフ作曲『賭博者』

ステージ上には
ドストエフスキーそのひとが


25歳のセルゲイ・プロコフィエフによって作曲されたオペラ『賭博者』(1916年)が国際的なレパートリーとして定着してきたのは、ようやく近年になってからのことだ。ドストエフスキーの同名小説が原作。この作家にあってはとかく観念や妄想が主役の座を占め、登場人物は端役までが自己主張を繰り広げるという、およそ遠近法の利かない作風を特徴とするため、これをオペラ化するのは至難の業だろうし、たとえ天才肌の新進作曲家が腕をふるおうが世評をかちえなかったのも頷けるところだろう。

 
それが21世紀の現在、各地の歌劇場の演目にかけられ人気を博しているらしいのは、ドストエフスキーが暴いてみせた人間どものカネにまつわる際限のない欲望が、いまや資本主義社会の隅々にまで行きわたり、老若男女のすべてにとって身近なものとなったからだろうか。実際、わたしが目にしたのは、サンクト・ペテルブルクのマリインスキー歌劇場が2010年に行った公演(ゲルギエフ指揮)のライヴ映像だったが、劇中のルーレットをネットのマネーゲームに置き換えれば現代劇として十分通用するものだった。

 
舞台はドイツの架空の保養地。主人公のアレクセイは、かれが家庭教師とつとめる将軍家の人々と逗留しているが、その目的はギャンブルだけでなく、将軍の養女で気位の高いポリーナとヨリを戻すことにもあった。実は、このへんの人間模様はドストエフスキーの実体験に由来している。かれは分別ざかりの四十路に差しかかったころ、最初の妻マリアが病床にありながら、年若い女子学生に入れあげ、その尻を追いかけてヨーロッパ旅行へ繰りだしたものの、相手には新しい恋人ができて、腹いせにバーデン・バーデンでルーレットにうつつを抜かして文無しになるという過去があったのだ。

 
それから3年後の1866年、妻マリアはすでに世を去って独身だったドストエフスキーは、悪徳出版業者と結んだ新作の契約期限が迫るなか、やむをえず女性速記者のアンナを雇って口述筆記により仕上げたのが『賭博者』だ。無事に作業が完了するなり、45歳と20歳のふたりは結ばれる。おのれの不倫の過去を語ったのちに求婚したドストエフスキーの厚顔さにも呆れるが、そうと知ったうえで申し込みを受け入れたアンナのほうにも驚嘆してしまう。よほど肝が据わっていたのだろう。以降14年間の夫婦生活のあいだ、タガの外れがちな作家を彼女が厳しく管理してくれなかったら、あるいは『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』といった名作も存在しなかった可能性を考えると、われわれはアンナ夫人に幾重にも感謝しなければならない。

 
いやはや、まったくもって文学がなんと人間臭かった時代だろう。こうした切れば血の出るような原作をもとにしているだけに、オペラのほうも約2時間のあいだ、性欲と金銭欲に取り憑かれた人間どもの浅ましさをプロコフィエフの冷徹きわまりない音楽がいっそう生々しく浮き彫りにしていく。

 
クライマックスは、アレクセイがみずからも破産に瀕しながら、ポリーナの借金返済のために捨身の勝負に挑み、神懸かった幸運に恵まれ、あれよ、あれよ、とルーレットの勝ちを積み重ねていくシーンだ。心臓の異常なまでの高鳴りを表わす音楽に煽られて、歌劇場がまるごと賭博場と化していくかのよう。この不穏な昂揚はなんだろうか? ジークムント・フロイトは論文『ドストエフスキーと父親殺し』(1928年)のなかで、精神分析学の立場からこんな指摘をしている。

 
「事実、賭博癖は、あの昔からの、やむにやまれぬ自慰衝動の代用品の一つであって、子供部屋では、手で性器をもてあそぶ行為は、他ならぬ『遊ぶ』という言葉で表現されてきている。抗しがたいほど強い誘惑、二度とすまいという神聖な、けれども一度として守られたことのない決心、魂を蕩かすような快感、およびわれとわが身を台無しにしてしまいつつある(自殺)という良心の呵責、これらすべては、代用物たる賭博癖においてもそっくりそのままひきつがれている」(高橋義孝訳)

 
ついにアレクセイは法外な20万フリードリヒドルを儲け、呆気にとられた周囲の連中を睥睨して、そのうち5万フリードリヒドルを約束どおりポリーナに渡したとき、相手が猛然と札束を叩きつけるのを目の当たりにしてけたたましく笑い声をあげる。もはや狂気と異ならなかったろう。なるほど、それは文豪となりおおせる以前の、不埒で孤独な男がさまよった究極の「自慰衝動」の姿だったのかもしれない。プロコフィエフがオペラにしてくれたおかげで、われわれはステージ上にドストエフスキーそのひとを見ることができるのである。
 

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