アナログ派の愉しみ/音楽◎奈良法相宗薬師寺 声明『薬師悔過』

悔い改めよ、
さもなければ…


お寺の声明(しょうみょう)に接する機会はまずない。だから、黛敏郎作曲『「涅槃」交響曲』の1995年に録音されたCDに併せて、奈良法相宗薬師寺の僧侶10名による『薬師悔過(やくしけか)』の実演が収められていなかったら、こうした摩訶不思議な世界をいつまでも知らずにいたことだろう。実際、わたしは、メインの黛作品よりもこちらのほうにずっとインパクトを感じたくらいだ。

 
みずからが過去に犯した過ちを薬師如来に向かって悔い改めるための法要、『薬師悔過』は奈良時代に由来するという。そこでの声明は、散華、梵音、錫杖、呪請願、称名悔過(前段・後段)、唱名号、祈請、大懺悔、牛玉加持行道の十のパートから成り、これらのネーミングからもただならぬ雰囲気が伝わってくるのだが、ライナーノーツに黛が執筆した解説によれば、「伝統的声明として極めて音楽的価値の高いものといえば、私の知る限り奈良声明がまず頭に浮かぶ」として、「我々の知るいわゆる抹香くさいお経と違って、梵音や錫杖にみられるような幅ひろく自由なポルタメントと、変貌自在なテンポの移り変わり、そして導師と大衆のかけ合いやカノンでたたみかけてゆく、ドラマティックな構成を持つ」と賞賛しているから、自身が取り組む20世紀の前衛音楽と対峙させてもまったく引けを取らないものらしい。

 
もっとも、わたしの素朴な耳には、はるかな古代からせめぎ寄せてくる暴風のような気配のほうが濃厚だ。僧侶のリーダー(導師)とコーラス(大衆)が仏や菩薩の名号を唱えながら高揚したあげく、熱に浮かされたように「南無楽」と連呼しあったのち、突如、法螺や太鼓が荒々しく轟きわたってクライマックスを築き、かれらの唱える真言が時空を切断する成り行きの、このおどろおどろしさはどうだろう? これに較べたら、カトリック教会のグレゴリオ聖歌など、いかにもかしこまっておとなしく聞こえるほどだ。

 
『薬師悔過』がはじまった奈良時代、平城京の薬師寺に景戒という僧侶がいた。かれはわが国初の仏教説話集『日本霊異記』を編纂したことで知られ、その中巻の第10話には「つねに鳥の卵(かひご)を煮て食ひて、現に悪死の報を得る縁」と題して、こんなエピソードが記載されている。

 
孝謙天皇の御代のこと、和泉の国にしょっちゅう鳥のタマゴを見つけては煮て食べるのを習慣としている男がいた。ある日、国司の使いと名乗る兵士が訪れて、そのあとについていくと、やがて麦畑のなかに踏み込んだとたん足の下で火が燃えさかり、男は「熱いよ、熱いよ」と泣き叫びながら走りまわった。そこへ村人がやってきて助けだしたものの、男の両足の肉は焼けただれて骨がむきだしになり、翌日にはとうとう息絶えてしまった。そのあとにつぎの文章が続く。

 
「誠に知る、地獄の現にあるなりといふことを。因果を信(う)くべし。烏(からす)のおのが児を慈しびて他の児を食むがごとくにあるべからず。慈悲なきひとは、人といへども烏のごとし。涅槃経にのたまはく、『人と獣とは尊卑の差別を得たりといへども、命を宝(たふと)ぶると死を重みすると、二つはともに異なることなし云々』とのたまへり。善悪因果経にのたまはく、『今の身に鶏(とり)の子を焼き煮るひとは、死して灰河(けが)地獄に堕ちむ』とのためへるは、それこれをいふなり」

 
当時の人々はこうした教えのもとに過ごしていたのだろう。人間と動物の生命の重みになんら違いはなく、決して損なってはならない、と言うは易く、タマゴのひとつにも手をつけるな、とは行うに難い。しょせん、ひとは殺生なくしては生きられないのではないか。だからこそ、すべての衆生にみずから犯してきた過ちを悔い改めさせ、底知れぬ地獄への道行きから救済しようとすれば、僧侶たちの唱える『薬師悔過』におどろおどろしいばかりの緊迫感が漲ったのも頷けよう。

 
こうした声明が千二百年あまりの時空を超えてうたい継がれ、現代のわれわれの耳にも届いているとは考えてみれば途方もないことだ。それをどう受け止めればいいのだろう? よもや、前衛音楽に匹敵する音響のドラマとして鑑賞するだけでは済むまい。なぜなら、「鶏の子を焼き煮る」のを当たり前の日常としているわれわれは、そのぶん人間の生命についても軽んじているはずで、そこに気づいて悔い改めないかぎり灰河地獄に堕ちることを、かつて薬師寺の景戒は教えようとしたのだから。ばかばかしい、と笑い飛ばして話は終わりだろうか。それとも――。
 

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