noteに書くことは「ねえ、お母さん」みたいなもの(創作的な文学的⑪)
母親の教育方針で、小学校の頃、絵日記を毎日書かされた時期がある。
父親の教育方針で、正月には決意作文を提出させられた。
特に厳しく直されるものではなく、ただ書きっ放しでよかった。
ただし、必ず書かなければならなかった。
思えば、ともかく書くというこの習慣は、文学的であろうとする今の自分にとって、とてもよいものであった。
兄弟姉妹たちは、しかし、現在文学的であろうとは思っていないようなので、この「書かなければならない」という習慣は、私の特性とぴったりとはまった、ということなのだろう。
文学は「言語芸術」全般であると考えると、じゃあ人間は言語以外で考えられるのか?という問いにぶつかった。
認知の方法として、五感があると思うんだけれど、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、すべて、一度は言語に置き換えてはいないんだろうか。
そして、言語に置き換えずに、人間は思考を一時的にでも記憶して、考えを深める、ということを、できるんだろうか。
考えていきたい。
日記を書く原初は、子どもの、「ねえ、お母さん」みたいなもの。
聴いてほしいのだ。
大人になって、親離れして、むしろ自分が親になったけれど、文章を書く時には、どこか、「ねえ、お母さん」という無邪気さが名残っている。
※ところで、記事画像にyukkoさんの水彩画を使わせていただいた。淡い感じ、なんて、記憶にフィットするんだろう。