賞が規定する文学(文学とは何か⑥)
「文学的でありたい」と考える人間が、その前提として「文学とは何か」を考えるとき、
そして現時点において「文学とは何か」と考えることは流動的すぎて難しく、「文学とは何であったか」を考えることならたやすく、芥川賞や直木賞の選評などを読んで、とりあえずこれらの賞の関係者が、「それぞれの賞に相応しい文学は何であるか」を、どのように考えていたのかは確認できる。
これまで、特に、賞を受賞したから読むとか、そういうことはなかったのだが、そういう文学の愉しみ方、そういう文学の規定の仕方もある。
直木賞の選評がデータベースとなっているサイトを見つけた。
芥川賞も、子サイトとして、扱っているみたい。
言葉と同じで、対象の物事を「分類する」「名付ける」ということは、整理に非常に有効である。
なので、「文学とは何か」を考える時、まずそれが「純文学か大衆文学か」と考える仕方は、ふるいにかける必要がある時、有効なのではないか。
では、個人がふるいにかける必要がある時とはいつか。
読むべき本を選ぶ時。我々にとって、時間は有限である。
残しておくべき本を選ぶ時。我々にとって、本棚は有限である。
読むべき本を選ぶ時。我々にとって、時間は有限である。
純文学であろうが大衆文学であろうが、すべてはテクストであり、読むべき対象であり、我々はそれを所詮ひとかじりしかできない。
情報だって同じである。世界のすべてを知ることはできない。
結局、我々が手に取れるものは、限られているのだ。
なので、他人にも、読書を手伝ってもらう。
誰かが読んでくれる、そのレビューを楽しむ。
キュレーションに頼る。
AIが要約してくれる、その要約を眺める。
もともと見ることができる世界は一部であり、
我々が受容し、ストックできる情報の量には限界がある。
そして、誤読の問題。
たとえすべての情報を手に入れて、すべてに目を通す力が備わったとしても、それを「正しく」読解できているかなんて、わからない。
文学的でありたい、とは、もしかしたら「読文的でありたい」かもしれない。
文章であらわされ、伝えようとされた世界は、私にとって受信可能である。
その世界を、広大で、まばゆいが、読もうとするその姿勢。
それこそが、私にとっての生き甲斐であり、私の姿勢であるのではないか。
そのようにぐるっと考えまわってから、あらためて「文学的でありたい」という言葉を考えるとき、「文献(テクスト)から学びたい」、とこの言葉を読み替えたとき、それは「読文的でありたい」と同義になる。
今、私は、「文学的でありたい」という視座に、もうひとつ、腑に落ちる定義が加わって、満足している。
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