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【短編】天叢雲剣

    ぐらぐらと船が揺れる。飛び交う怒号、断末魔の叫び。
 まだ幼い安徳天皇は、祖母である二位尼にいのあまに目隠しをされるようにして、その胸にしかと抱かれていた。そのため、幼い瞳には辺りに広がる地獄絵図はまったく映っていない。
 ふいに、周囲がざわつく。
 平知盛たいらのとももりが船に飛び移ってきたのだ。鎧姿の彼はどこから持ってきたのか、箒を手に掃除をはじめる。
「見られて困るものはすべて海へ」
 その言葉ですべてを察したように、二位尼は安徳天皇を抱いたまま、三種の神器のうち宝剣と勾玉を身につけて船の端へと移動する。
「おばあさま、なにをなさるの」
 あどけない声で問う安徳天皇と視線を合わせて、二位尼は安心させるように小さく笑みを浮かべてみせる。
「よくお聞きくださいませ。君は前世でのよき行いにより帝となられましたが、もはやこの世は穢れに満ち、安寧の地ではなくなりました。ですから、このばあばが、君をあの波の下の極楽浄土へとお連れいたします。どうぞ、東の伊勢神宮にお別れをお告げになり、西の極楽浄土へ御念仏くださりませ」
 二位尼の両の目からは滂沱ぼうだと涙が伝い落ちる。船におろされた安徳天皇は、神妙な顔で東に向かって手を合わせて一礼し、つぎに西へ向かって手を合わせ念仏を唱える。そのけなげな姿に、女房たちの啜り泣きがいっそう大きくなる。平知盛でさえうつむいて目頭を押さえた。
 念仏を終えると、ふたたび二位尼に抱かれて海を見下ろす。
「さあ、この波の下にも都がございますよ」
「はい、おばあさま」
 ぎゅ、と祖母の衣を握りしめる。
 
 冷たい。息ができない。水のなかで小さな手足をばたつかせながらもがいていると、指先に触れるものがあった。とっさにそれにすがりつく。冷たく、長い、なにか。とたんに、それは大きく変化へんげし、ぬるりと身体に巻きついてきた。驚いて目を開けると、巨大な蛇のようなものがそこにいた。思わずこぼり、と水を飲んでしまい、そのまま意識をうしなった。

 目を覚ますと見知らぬ男が顔を覗き込んでいた。起きあがろうとするも、身体がいうことをきかない。
「ああ、どうか、ご無理をなさらず」
 あわてたように男が押し止める。
「お加減はいかがですか。痛いところなどございませぬか」
 いわれて身体をあらためてみると、すこし息が苦しく、あちこちが痛む。そう伝えると、男は重々しくうなずき、ゆっくり休むようにと告げた。
「どなたさまでしょうか」
 掠れた声でそう誰何すいかすると、男は居ずまいを正して一礼した。
「申し遅れました。それがしは梶原景時と申す者でござる」
 梶原景時いわく、波に打ちあげられていた幼子おさなごを見つけて引きあげると、幸いにもわずかに息があったので連れ帰ってきたのだという。
「畏れながら、安徳天皇とお見受けいたす」
「はい」
 状況がよくわからない。
「あの、ここは極楽浄土でしょうか」
 問うと、景時は驚いたように目を見開く。
「おばあさまが、わたしを波の下の極楽浄土へお連れくださると、そう仰せでした」
 安徳天皇のまっすぐな眼差しに、景時は言葉をうしなったようだった。
「残念ながら、ここは極楽浄土ではござらぬ。安徳天皇のおられた現世うつしよにござる」
「そう、ですか」
 自分は極楽浄土へ行きそびれてしまったのか。信心が足りなかったのだろうか。みるみるしおれてゆく幼子をまえに、景時は慰めるようにいった。
「ご心配召されるな。某が責任をもって、御身おんみを頼朝どののもとへお連れいたすゆえ」

「よくぞご無事であられた」
 安徳天皇の顔を見るなり、開口一番、源頼朝はそういってするりと近づいてきた。そしてその身体をひょいと抱きあげると、そのまま上座へと戻る。はじめて会った人物に気安く抱えあげられ、安徳天皇は緊張で身を固くする。御身を他人に触れられてはなりませんよ、と二位尼からよくよくいい聞かせられていたのだ。だがもう遅い。
「景時、よくやった」
「ありがたきお言葉」
「さぞや苦しく心細い思いをなさったことでしょう。この頼朝、心よりお詫び申しあげまする」
 そう謝罪すると、頼朝はまじまじと顔を覗き込んでくる。
「これは、清盛どのにしてやられたな」
「さようにございますな」
「おじいさま?」
 きょとんとする安徳天皇に、頼朝はふわりと笑いかける。
「安徳天皇がよもや姫君であろうとは」
 御身が女であると、けっして知られてはなりませんよ。
 ああ、おばあさま。
「なるほど、景時の知らせどおり、うつくしく、聡いおかたのようだ。大事にお育てしようぞ」
「御意に」

 景時が安徳天皇を見つけたのは偶然ではない。波打ち際になにやら光るものが見え、なにごとかと駆け寄ると、巨大な蛇のようなものが身をくねらせ、ふっと消えた。そしてこの安徳天皇が倒れていたのだ。
 天叢雲剣あめのむらくものつるぎはいまだに見つからない。景時は思った。あの光る蛇はまさに天叢雲剣の化身であったのではないかと。頼朝にそれを伝えると
「それがまことなら、天叢雲剣のご加護を得た御身、わが手許で慈しもうぞ」
 と満足げに笑った。


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