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宝塚の妹

 私には年の離れた妹、A子がいる。両親にとっても遅くに生まれた子である妹は周囲の大人から甘やかされ、愛されて育った。幼い頃からバレエだのピアノだの演劇だの、本人が「やりたい」と言ったことはすべて習わせるその溺愛ぶりは、端で見ていて心配になることもあった。しかしそんな大人たちに囲まれて育ったにも関わらず、生来まじめな頑張り屋のA子は、一度始めた習い事は一定の成果が出るまですべて続けた。根性の人。それがA子なのだ。

 私が東京に上京して数年が経ち、A子が高校三年に上がる頃、母から電話があった。彼女が言い淀みながら話すところによると、A子が宝塚音楽学校を受験したいと言い出した、年齢を考えると最初で最後の挑戦になるであろう(宝塚の受験資格は18歳までである)、受験対策スクールにも通いたいらしく、費用がかなり嵩みそうだ、ということらしかった。
 私は即座に脳内で電卓を叩いた。

「受験費用とか対策スクールとか、全部でいくらくらい掛かるの?」
 母が言う金額を合計すると、それは当時新人のペーペーだった私の貯金額より遥かに高いものだった。

「うーん、おじいちゃまに頼むしかないな。何とかしてくれるやろ」
『でも、これまでもおじいちゃまには色々と助けてもらってるし……』

 我々がおじいちゃまと呼ぶのは父方の祖父だ。会社と富と地元からの信頼を一代で築き上げた傑人で、親類縁者は誰も頭が上がらない。父などは優秀な先代を目の上のたん瘤のように思っている節もある。

 このおじいちゃま、孫の中でもとりわけA子のことを気に入っていた。眼光鋭く地声が大きく、自他ともに厳しい老人を他の孫達は皆怖がったものだが、A子だけは彼にとても懐いた。我先にと(競う相手もいないのに)祖父の膝の上に飛び乗る姿は、私もよく見慣れたものだった。祖父がA子の才を見抜いていたのか、二人の人間的な相性がよかったのかは定かではないが、相思相愛の関係であることは間違いない。

 ともかく紆余曲折の末、祖父がパトロンとなり、A子は宝塚音楽学校の受験を目指して猛特訓を開始した。
 受験に至るまでの約一年間は、さまざまなハプニングが我が家を襲った、らしい。
 たとえば、A子は男役で試験を受けると決めたものの、元々の声が高いのを気にしていた。ある日、父のウォッカでうがいをしようとしているところを母が発見。パニックに陥った結果、二人が別々に勤務中の私の携帯電話に電話をしてくるという珍事もあった。曰く、声をだみ声にしたかったらしい。元々何でも器用にできる子だけれど、努力の方向がちょっとおかしいのも、彼女の愛すべき特徴の一つである。

 このような例は枚挙に暇がないが、ここでは割愛させていただく。とにかく我らの最愛の妹は、人生で一度っきりの宝塚音楽学校の受験に挑んだ。そして結果は、見事!合格。しかも主席で!

 朗報を聞いた地元は湧きに湧き、新聞やテレビにもずいぶん取材され、取り上げられたらしい。妹は今、舞台人として日々邁進している。
 宝塚とは縁もゆかりもない私ではあるが、一応ジェンヌの実姉なのだ。せめて日常生活では、美しくは難しくとも、清く正しく生きていきたいものである。……



……というのは8割方うそっぱちの作り話、こういう実社会でな〜んの役にも立たないことをつらつら考えるのが私のライフワークです。

以前ある人に「いやあ、こういうイマジナリーナントカがいるから今日まで何とか生きて来られたようなもんですよ、はは」という話をしたところ、「あなたにとって人生の視座の一つがそれなのですね」と言われたことがあります。後にも先にもあれほど“言い当てられた”と思ったことはありません。人に話せる経歴は特になく、自己紹介というのも何やら気恥ずかしいので、代わりにこの話を書きました。

※宣伝会議46期生 書く会「自己紹介」として作成


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