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【自伝】生と死を見つめて(4)小・中・高

小学校低学年の頃の私は、ものすごくきかん坊だった。

男子と喧嘩をすることもしょっちゅうだったし、帰宅して玄関にランドセルを放り投げて、物置からホウキを持ち出して、喧嘩をしに行くような毎日だった。でも、私は女子だから、やはり男子にはかなわなくて、よく泣かされていた。

小学校中学年になると、絵や漫画を描くことが大好きになった。放課後、宿題が終わった後、よく漫画やイラストを描いて楽しんでいた。当時流行していたアニメの絵を模写したり、漫画は鉛筆描きではなく、ちゃんとGペンやインクなどを買ってきて、それらを使って本格的に描いていた。特に、スクリーントーンを使うのが好きだった。

小学校高学年になると、反抗期が始まって、何事も斜に構えた、素直じゃない、生意気な子になっていた。左足の手術を受けたことも重なって、現実を真っ直ぐに受け止められない、ちょっとひねくれた子に育っていた。

入院中、小学校の先生方が病院へお見舞いに来たことがあった。その時、ある先生から、「足が痛いと言っていたのに、無理矢理体育の授業を受けさせてしまって悪かった」と謝られた。わたしは「何を今さら」と怒りを覚えた。しかもこんなシチュエーションで謝られたら、「いいんですよ」と言うしかないではないか。ズルいと思った。この時も表面上は明るく振る舞っていたけれど、内心はこの先生の謝罪を受け入れることは出来なかった。


中学生の頃は、色々なことに積極的に挑戦する、とても活発な生徒だった。絵を描くことが相変わらず好きで、県の絵画展で金賞を受賞したこともあった。吹奏楽部ではフルートを担当し、部長も務めた。また、生徒会副会長にも任命された。成績も優秀で、自他共に認める優等生だった。今の私には考えられないくらい、いわゆる「リア充」だった。

足の病気の方は、1年生の頃は自転車通学が出来るくらいまで回復していたのだが、1年生の終わり頃に病状が悪化し、左足の膝から足首までを覆う装具を付けて歩くようになった。自転車に乗ることも出来なくなり、毎日母に車で送迎してもらって通学するようになった。

2年生の終わり頃、再び足の病状が悪化し、今度は装具だけではなく、両松葉杖を使って歩かなければならないようになった。さらに、病状が落ち着くまで、入院した方がいいと医師から告げられてしまった。でも、もうすぐ3年生になるし、受験勉強のことが心配だったので、養護学校が付属している病院に転院することになった。

その養護学校は、筋ジストロフィーの生徒が半数を占めていて、私なんかよりもずっとずっと重度の障害を抱えている人達ばかりだった。初めはどんな風に接したらいいのか分からなかったけれど、だんだん「内面は自分と何も変わらない中学生なんだ」ということが分かってきて、いつの間にか皆と仲良くなっていった。

受験先は、国立高専の建築学科を受けることになった。学校の敷地内に学生寮があり、足の病気のために電車通学が出来ない私にとって、そこしか選択肢がなかったのである。

電車に乗っても、必ずしも席に座れるわけではないし、立って乗ると、電車が揺れた時に、左足に負荷がかかってしまうかもしれない、だから危ない、というのが、電車に乗ることを止められていた理由だった。

高専受験に関しても、絵を描くのが好きだから、設計図やパースを描くのもきっと大丈夫だろうと、かなり楽観的に考えていた。でもこの選択は、後々間違っていたと気づくことになる。


14歳の秋、養護学校の修学旅行に行ってきた。

当時は入院中で、地元の中学校の修学旅行には行けなかったので、この養護学校の修学旅行はとても楽しみだった。また、必ず親も同伴するという、珍しい形式の修学旅行だった。

一日目は日光東照宮を見学した。ほとんどの生徒は車椅子で、なのに現地は階段が多かったので大変だった。一人につき四人がかりで、車椅子に乗った生徒を運んでいた。私はあまり歴史には詳しくなく、説明を受けても分からないことが多かったが、「見ざる、言わざる、聞かざる」が印象に残った。最後に、関係者の方々へ生徒を代表してお礼の言葉を伝えた。

宿泊したホテルはとても立派なところだった。当時では珍しく、バリアフリーの設備が整っているホテルで、食事もフレンチのフルコースという豪華なものだった。部屋は母と同室のツインルームだった。あらかじめ渡されていた「修学旅行のしおり」に、フォークとナイフの使い方や、洋室のバスルームの使い方等が記載されていたので、特に困ることもなく、快適に過ごすことが出来た。

二日目は、現在ではもう閉園しているウェスタン村に行った。ここもバリアフリーが整備されており、車椅子でも自由に楽しむことが出来た。しかし、今では巨大な廃墟として、その道のマニアには有名な場所になっているらしい。悲しいばかりである。

帰りのバスの中では、みんなでカラオケを楽しんだ。これが一番楽しかった思い出かもしれない。私はなぜか「三年目の浮気」を歌い、大いに盛り上がった。

一風変わった修学旅行だったかもしれないけれど、貴重な体験をすることが出来た。みんなと一緒に楽しいひとときを過ごすことが出来て、本当に嬉しかった。今でも大切な思い出として、心に残っている。


14歳の時、筋ジストロフィーの男の子に恋をした。

養護学校で同じクラスだった彼とは、初めの頃は、テストの成績を争うライバルみたいな関係だった。でも、真面目で凛とした彼にだんだんと惹かれ始め、嬉しいことに、彼の方から想いを告白してくれた。

病院から外出して、ボランティアの方々に連れられて、一緒にプリンセス・プリンセスのコンサートを観に行ったり、私が退院する前日、病院の屋上で二人きりで手を握り合ったり、退院してからも、バレンタインチョコを作って彼のところに届けに行ったり、淡く、幼いけれど優しくて、とても大切な恋だった。

筋ジスは当時、あまり長くは生きられない病気だと言われていたので、もし彼が亡くなったら、自分も死のうと思っていた。それくらい一途に想いを寄せていた。

結局、彼の方の想いがなくなってしまったということで、最後には振られてしまった。楽しかったけど、ほろ苦い想い出として、私の中に残っている。

数年前、彼が天国へと旅立ったという知らせが届いた。あの真っ直ぐな笑顔で、天国でも幸せに暮らしていることを心から願っている。


15歳の春、国立高専の建築学科に入学した。

そこは、各中学校の中でも特に優秀な生徒が集まる学校で、中学では成績が常に上位だった私が、高専での初めての中間テストでは、クラス内の順位が20位になってしまった。ちゃんと勉強したはずなのに、こんなことは初めて…。非常にショックな出来事だった。

また、学生寮に住んでいたのだが、そこでの上下関係が恐ろしく厳しかった。高専は高校の3年間と短大の2年間が合わさって、合計で5年間の学校なのだが、寮内では、5年生には絶対服従、新入生はことあるごとに叱られ、その度に大きな声で「すみませんでした!」と応えなければならなかった。今思うと非常に馬鹿馬鹿しいけど、当時は上級生の機嫌を損ねないようにと必死だった。

そもそも、そんなに建築を勉強したかった訳でもなかったので、何事にもやる気が起きなくて、私はどんどん落ちこぼれていった。入学してから気づいたのだけれど、私は文系が得意で、対して高専は理数系の学校だった。入学して半年くらいで、私は授業にまったくついていけなくなった。絵を描くのは得意だったので、製図の授業だけは点数が良かったけれど、構造力学などはチンプンカンプンで、テストで0点を取ったことすらあった。

中学の時から続けていた吹奏楽部も、わずか一年で辞めてしまい、寮内での人間関係も上手くいかず、結局退寮することになった。私はどんどん不貞腐れていき、だんだん授業をサボるようになっていた。

車の免許を取るまでは、母に学校まで送迎してもらっていたのだが、免許を取ってからは、自分で運転して通学することになった。これが決定的にいけなかった。いつも学校の駐車場まではたどり着くのだが、そこからどうしても校舎に行きたくない。大抵遅刻していたから、尚更行きたくない。そんな感じで授業をサボり、いつも海までドライブに出かけていた。

卒業研究や卒業設計をなんとかこなし、ギリギリの成績で、留年することもなく、なんとか卒業は出来た。5年間に何を勉強していたのかあまり覚えてないけれど、その後の人生において、高専卒という学歴はすごく役に立った。あまり良い思い出はないけど、その一点においては、卒業できたことに感謝している。


落ちこぼれだった高専時代、唯一情熱を注いだのがバンド活動だった。私の担当パートはボーカル。歌うことが好きだったし、何よりも目立ちたがり屋だったからだ。ここからシンガーとしての人生が始まった。

初めてのライブは高専祭のステージ。レベッカのコピーバンドだった。あの頃はとにかくがむしゃらに歌っていた。クラスメイトからの評判も上々で、私はこの時初めて、人前で歌うことの楽しさを知った。

私はどんどん歌にのめり込んでいった。ヤマハのボーカル教室にも通い始めた。やがて、高専祭のような学校内のステージだけではなく、街中のライブハウスにも出演するようになった。バンド活動をしている時だけが、「私は生きているんだ」と実感出来る瞬間だった。

初めの頃は、日本のロックバンドの曲を歌っていたのだが、だんだん洋楽を聴くようになり、やがて英語の曲も歌うようになった。特にホイットニー・ヒューストンにどハマりし、名曲「オールウェイズ・ラブ・ユー」を毎日何時間も練習した。後にこの曲は、自分のライブで歌うだけではなく、「結婚式の披露宴で歌って欲しい」と頼まれたり、音大のオーディションで歌ったりと、何かと歌う機会が多く、ひときわ思い入れが強い曲だった。

高専時代は、学校の勉強はほとんどせずに、ひたすら歌って過ごした5年間だった。やがて、「東京で音楽の勉強をしたい」という気持ちが強くなり、上京して音楽の専門学校に入学することになる。21歳の春だった。



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