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【自伝】生と死を見つめて(11)大震災

2011年3月11日14時46分。その時は突然やってきた。

ゴゴゴという巨大な地鳴と共に、物凄い揺れが襲ってきたのだ。想像を絶する激しい揺れに身動きがとれず、夫がすぐに私の上に覆いかぶさった。

始めは絶叫をあげていたけれど、あまりの恐怖に、だんだん声が出てこなくなった。ふと右手に強い痛みを感じた。無意識のうちに、夫の服を物凄い力で握っていたからだった。

「天井もってくれ!」夫が叫んだ。この天井が落ちてきたら、二人共きっと死ぬだろう。部屋中の家具が倒れるガシャンガシャンという音が、あちこちから聞こえた。

「私は今ここで死ぬかもしれない」母の顔が思い浮かんだ。


被災直後の状況は恐ろしいものだった。マグニチュード7の余震が何度も起き、恐怖に打ちひしがれた。道路はあちこちひび割れし、電線が千切れて垂れ下がっていた。電気も止まり、携帯も非常に繋がりにくくなった。なんとか母とは連絡がとれた。そのうち、携帯はまったく繋がらなくなってしまった。

コンビニへ行ったら長蛇の列。陳列棚は空っぽだった。もちろん料理が出来る状況でもないし、アパートには食べられるものが何もない。どうしたら良いのか分からず、とりあえず区役所に避難した。

震災後の空は不気味な紫色で、まさに天変地異が起きていることを物語っているようだった。あんな不吉な空の色は、後にも先にも、この時しか見たことがない。

夜になると、星が物凄く綺麗だった。まさに満天の星空で、それが怖くて仕方がなかった。普段は街中にネオンが点いているからこんな星空を見ることはないけれど、明かりが全て消えるとこんな夜空になるのか。あまりの非日常さに、目眩が起きそうだった。

後から知ったことだけど、区役所は指定避難所ではなかったらしい。だから食料の配給等を受けることが出来なかった。窓口の方が善意でクラッカーを渡してくれた。私達はそれでなんとか飢えをしのいだ。

区役所の中は自家発電で電気がついており、テレビがつけられていて津波の様子を流していた。「海岸で500人程の遺体を発見」というニュースが入った。ここから約10km位の場所だ。私はますます恐怖に怯えた。「この先一体どうなってしまうのだろう」と。

一夜明けた朝、自衛隊の方がアルファ米と水を持ってきてくれた。ご飯が温かいのにはびっくりした。その時の食事の美味しさといったらなかった。

当時、祖母が津波被災地近くの病院に入院していた。心配で、ありったけの食べられそうなものや毛布などを持って、お見舞いに行った。実家の方ではもうガソリンがなくて、こちらに来られないとのことだったので、私達が祖母の様子を見に行ったのだった。

病院へ行く途中、片側7車線くらいの広い道路を通らなければならないのだが、吹雪の中、信号も点いてなくて、ビクビクと運転しながら交差点を通過した。他のドライバーの運転も、いつもより心なしか荒っぽい感じがした。皆心の余裕がなかったのだろう。

病院の駐車場は一面泥だらけだった。きっとここらへんまで津波が浸水したのだろう。それを見てゾッとした。院内は自家発電で電気はついていたけれど、節電していてエアコン等はついておらず、非常に寒かった。ばあちゃんは元気だったから安心した。「電話がタダで使えるんだー」と言って喜んでいた。さすが戦争を乗り越えてきた人は、肝の据わり方が違うと思った。でも病院で出される食事はカンパンで、「うまぐねー」と言っていた。贅沢言える状況じゃないけれど、さすがに80歳のばあちゃんにカンパンはつらかっただろう。

隣のベッドのおばあさんは、津波で家が流されたと言っていた。「いっそのこと、どこか遠くへ移住しようかしら」と話していた。いたたまれなくて返す言葉もなかった。

看護師さんに訊いたら、薬や食料の備蓄はあと2週間分しかないらしい。「でも、大丈夫ですよ!」と看護師さんは明るく言ってくれた。その言葉を信じるしかないと思った。

震災からしばらくたっても、物資の流通は回復せず、大雪の中、スーパーの行列に何時間も並ばなければならなかった。ガソリンが復旧する目処もたっていないのに、ガソリンスタンドには長蛇の列が並んでいた。あちこちに遺体安置所の案内の看板が置かれていた。津波で被災された方々と比べれば、私なんて弱音を吐く権利などないのかもしれない。でも、それでも私達なりに、大変な被災生活を強いられていた。

余震は相変わらず続き、4月にはまた大きな地震が起こった。せっかく片付けた部屋がまためちゃくちゃになってしまった。「どうせまた地震が来るんだから、もう片付けないでこのままにしておいてもいいんじゃない」なんて言うくらい、ヤケクソになっている状態だった。

また、本震で被災した時に、死の恐怖にさらされたことで、地震がすっかりトラウマになってしまった。今でもたまに地震は起きるが、その度に全身が震えたり、パニックになったりする。

あんなに死にたがっていた自分が、死の恐怖でトラウマを抱えるなんて、「なんて滑稽な話だ」とは思うが、これが体の正直な反応なのだと思う。このトラウマを抱えながら、これからも生きていくしかない。願わくば、あんな大震災はもう二度と起きてほしくないと強く思う。


大震災の後、沢山の人から連絡が来た。その半分位は、私の安否を心配してくれたり、「物資を送ってあげようか?」というありがたい申し出だったりしたのだが、あとの半分は、不愉快な思いをさせられるようなメッセージだった。

私はその頃ブログをやっていて、「被災しました。無事です」という短い記事をアップしておいたのだが、そこのコメント欄に「元気?俺は今音大の教授をやっているよ」という謎の自慢を書いてきた人がいた。その人とはアメリカの音大で一緒だったのだが、別にそんなに親しくはなかった。わざわざ検索して書いてきたのだろう。「元気な訳ないだろうバカ」と全身の力が抜けた。

あとは、わざわざ「1000年に一度の大震災にあうなんて不幸だよね」と言ってきた人がいた。その人とはこれまでは仲が良いと思っていたので、酷く傷ついた。

その他に非常に多かったのが、「無事ですか?」というメールを寄越してきておいて、大変な生活の中でなんとか「大丈夫です」と返事を送ったのに、それに対して返信もなく、何の音沙汰もなかった、というケースだ。生きていることさえ分かれば、それで満足、私自身のことはどうでもいいっていうことか。自分勝手だと思った。

「私はいつも笑顔でいることを心がけています。みんなの心が明るくなるように」というポエム調のメールを送ってきた人もいた。当時の私は生活するだけで精一杯で、とてもじゃないけどそんなお遊戯に付き合ってる暇はなかった。

一番頭にきたメールが、「命があることに感謝して頑張りなさい」などと偉そうなことを言っておきながら、「◯◯さんは無事ですか?分かったら教えてください」などとのたまってきたことである。

当時の私は、地元の友達と連絡することを控えていた。もちろん心配ではあったけれど、皆同じような状況だろうし、連絡することが負担になるだろうと思ったからだ。実家との連絡でさえ、行列ができている公衆電話から3分間だけ、といった状況だった。

上記の人には、「すみませんが、災害伝言ダイヤルを使ってください。家族以外の安否は分かりません」と返信してやった。これには本当に憤りを覚えた。

あの頃は日本中、いや世界中が被災地に注目していて、誰もが「現地の人と繋がりたい」と思っていたのだろう。善意の言葉も沢山頂いたが、上記のような無神経な人達がいたのもまた事実である。

震災の翌年、被災地がだいぶ落ち着いてきた頃、久しぶりに友達数人と集まったのだが、同じような経験をしていた人が多かった。「あの時は心が病んだね」と言っていた人もいた。

立場の違いによる温度差、「この人は良い人だと思っていたのに」という、裏切られたようなやりきれない気持ち。人間の本性とは、あのような未曾有の出来事が起こると、あらわになるものなのかもしれない。それは時に残酷ですらあると思った。

あの時、暖かい言葉をかけてくれた人のことも、そうでなかった人のことも、私はずっと忘れないだろう。


震災が起きて約4ヶ月後、東京から知り合いがやってきた。

その人に「福島に友達が住んでいて心配だ」ということを話したら、「そんな所から早く引っ越せばいいのに!」と言われたのだ。

福島の友達は留学先の同期で、アメリカで大手術を受けた時、何度もお見舞いに来てくれた人だった。手術後、意識が朦朧としていた私の側に、何時間も付き添ってくれた。回復してからも、日本食のお弁当を持ってきてくれたりもした。本当に大切な友達だった。

友達は当時妊娠中で、臨月だったというから、簡単には身動きがとれない状態だったのだろう。

確かに遠くへ避難した人達も沢山いたが、色々な事情があってそこを動けない人、故郷から離れたくない人も大勢いただろう。

私はその知り合いの無神経な言葉を聞いて、心の底から怒りを感じた。自分が住む街のことを「引っ越せばいいのに!」なんて言われたらどんなに悲しいか、考えもしないのだろうか。


2011年、秋。被災地の仮設住宅で慰問公演を行なった。仮設で芋煮の炊き出しをするので、そこで歌って欲しいと頼まれたのだ。二つ返事で承諾した。私も被災者のために、何か出来ることをやりたいと常日頃から考えていたからだ。

会場に行く途中で津波被災地を見た。道路はだいぶ通れるようにはなっていたけれど、いたるところに積み上げられた瓦礫の山。津波の恐ろしさを物語っていた。こんな私みたいな人間が行って歌ったりしてもいいのだろうか。私も被災者だけど、津波で被災した人達のつらさは計り知れない。胸がギュッと苦しくなった。

久しぶりのステージだったので、上手く歌えたか自信はなかったけど、とにかく心を込めて全身全霊で歌った。お客さんはおばあちゃん達が多かったけど、皆真剣に耳を傾けてくれて、それがとても嬉しかった。

ステージが終わった後、おばあちゃん達が握手をしに来てくれた。「わだしあーゆーの聴いだの初めでだぁー。この歳で初めで聴いだぁー。」手を握り、泣きながらそう話してくれた。

依頼者の方が「好きな曲を歌ってください」とおっしゃっていたので、アメリカンポップスを中心に歌ったのだが、おばあちゃん達は、そういう洋楽を聴くのが初めてだったのかもしれない。津波から生き残ってくれて、生まれて初めて聴く音楽に涙して…。私も胸がいっぱいになって、涙が止まらなくなってしまった。

山形から来てくれた炊き出しの人達は、5時間も煮込んだという芋煮を振る舞ってくれた。芋煮は宮城や山形で食べられている郷土料理だ。味が染み込んでいて本当に美味しかった。

仮設のおばあちゃん達、山形の炊き出しの人達、自治会の人達、イベントのスタッフ…みんなの心が一つになった、とても素敵なイベントだった。仮設の皆さんに少しでも楽しんで頂けたのなら、こんなに嬉しいことはない。「歌を歌っていて良かった」と、心からそう思った。


震災後は、原発事故の影響で、世の中は大混乱に陥っていた。連日メディアはヒステリックな報道を繰り返し、まるでこの世の終わりを迎えるのではないかというような騒ぎだった。

そんな中、特に心が痛んだのは、福島への風評被害だった。福島には友達が沢山住んでいたし、しょっちゅう遊びに行っていたので、他人事とは思えなかったのだ。

SNSでは連日過激な発言が行き交い、まるで福島が呪われた土地であるかのような言われようだった。「福島に暮らす人達のお葬式」と称してパレードを行なう輩まで出てくる有様だった。

私は少しでも自分の体験が役に立てればと思い、いち被災者としての気持ちをブログに書き続けた。原発事故に対する偏った考えや、風評被害のせいで当事者はどんなに傷ついているのか、個人の視点から見た小さな意見だったけれど、一生懸命ブログに書いては、それをSNSで発信し続けた。

光栄なことに、大勢の人が私のブログを見に来てくれた。でも、共感したり応援したりしてくれる人がいる一方で、非難したり罵声を浴びせてくる人も多かった。私のブログは何度も炎上した。

左翼の人達からは罵倒され、右翼の人達からは持ち上げられることが多かった。私は政治的な信条のもとブログを書いていた訳ではないので、そのどちらも不本意だった。

ある人は私のことを「平成のジャンヌ・ダルクだ」と表現した。フランスで国を救い、称賛された後、火あぶりの刑に処された女性だ。「なんだ、結局私のことを持ち上げるだけ持ち上げておいて、最後には"死ね"と言うのか」と怒りが込み上げてきた。

ネットで不特定多数の人に対して何かを発表するということは、たとえ読み手にどんな反応を示されても、それを覚悟しなければならないということは頭では分かっていた。けれども、あまりの反響の大きさ、そして非難の多さに、だんだんと神経をすり減らし、心身共に疲れ果ててしまった。

それでもブログを続けたのは、大震災で受けたトラウマが負のエネルギーとなり、マイナスの感情が私を突き動かしていたからなのではないかと思う。未曾有の出来事に激しいショックを受け、混乱し、自分をコントロールすることが出来なくなっていたのだろう。


大震災の翌年、瓦礫の受け入れについて、世論は揉めに揉めていた。

私は、瓦礫を受け入れて頂けるのなら、こんなにありがたいことはないと思っていた。私が住んでいた県では当時、仮設の瓦礫処理場が約10ヶ所あって、そのうちの2ヶ所が同じ区内にあった。それでも県内で処理するには、まだまだ足りない状態だったので、もし手を差し伸べて頂けるのなら、本当に助かると思っていた。

しかし、世間の反応はそういう訳にはいかなかった。あちこちで「瓦礫受け入れ反対!」の言葉が飛び交い、放射能の危険性が叫ばれていた。

私の知り合いでも、SNSで「被災したんですね。大変でしょうけど、応援しています」というDMを寄越しておきながら、タイムラインには「瓦礫受け入れ反対!」という内容を発信している人がいた。なんというダブルスタンダードだろうと思った。怒りを抑えることが出来なかった。

そんな中、ある自治体が瓦礫を受け入れて下さることになった。その自治体(C市)に対しては、日本中が非難の嵐を浴びせているような状態だった。私は自分のブログに、C市の決断を支持する内容を書いた。そうしたら、なんとX(当時のツイッター)で1万リツイートも記録してしまった。私のブログは大炎上した。ほとんどは、私のことを非難・罵倒する内容だった。

その一方で、沢山の著名人の方々が、SNSで私のブログを紹介して下さった。また、C市に住む方から、「あなたの講演会を開くから、ぜひC市へ来て欲しい」とのご依頼を受けた。体調のこともあり、残念ながらお断りさせて頂いたが、騒ぎがどんどん大きくなっていって、私自身パニックになってしまっていた。

数年経って、C市の市役所の方々とお会い出来る機会に恵まれた。SNSでは繋がっていたけれど、直接会えるのは初めてだった。当時、私のブログをプリントアウトして、職場の皆さんに配って読んで下さったのだそうだ。C市の皆さんは、「あの時、声を上げてくれたこと、本当に感謝しています」と言って下さった。こちらこそ、感謝の気持ちで胸が一杯になった。

多少なりとも、私の行動は役に立ったのであろうか。そうであると願いたい。


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