見出し画像

【自伝】生と死を見つめて(7)留学

25歳の夏、私は留学のために渡米した。9月から始まる音楽大学の新学期に向けて、事前に語学研修を受けることになっていたのだ。

そこの語学研修では、私よりも若い学生が多く、東京で音楽の仕事をしていた頃は、周りがみんな目上の人ばかりだったので、非常に新鮮な感覚を覚えた。

英語の授業の他に、週に一度ジャムセッションの時間があって、それが楽しみで仕方がなかった。英会話が全然出来なくて苦労していた私にとって、唯一の楽しいひと時だった。

仲間のアパートで皆と一緒に料理をしたり、学生寮に集まってパーティーをしたり、まるで久しぶりにきた夏休みのような感じだった。

肝心の英会話はあまり上手くならなかったけど、リーディングやライティングは上達することが出来た。また、アメリカに着いた当初は、一人で買い物も出来ないくらい英語が話せなかったけれど、語学研修が終わる頃には、最低限の買い物が出来るくらいまでにはなっていた。

約一ヶ月の語学研修が修了し、いよいよ音大での授業が始まった。しかし、それからすぐにあんな大事件が起こるなんて、この頃は知る由もなかった。


音大に入学してから2日目の朝。その日の授業は2時間目からだったので、アパートでのんびりしていた。

1時間目の授業に行っていたルームメイトが突然帰宅した。なんと、今日の授業は全て休講になるらしい。

「早くテレビつけて!」ルームメイトは只事ではない雰囲気を醸し出していた。

テレビの中で、高層ビルが燃えている。ニューヨークのワールドトレードセンターだった。その日は9月11日。アメリカ同時多発テロが勃発していたのだ。たった10日前、旅行で訪れた場所だった。

何が起きているのか、まったく分からなかった。

そうこうしているうちに、2機目の飛行機がビルに突っ込んできた。そして、2棟のビルはもろくも崩れ去ってしまったのだ。

まるで映画を観ているかのような気分だった。テレビに映し出された現実が信じられなかった。

とんでもない国に来てしまったのかもしれない。そう思いながら、ただただ呆然とテレビを眺めていた。


私が入学した大学は、非常に有名な学校で、世界中から留学生がやってきて勉強していた。音楽の初心者からプロとして活動していた人まで、幅広いレベルの学生達が集まっていた。

授業はボーカルの個人レッスンのみならず、専門学校でも習った音楽理論やイヤートレーニング、アンサンブルクラスをはじめ、作詞、作曲、編曲、ジャズ理論、コンピューターミュージック等、多岐に及ぶクラスの数々を受講した。他にも、英語の発音の授業、アフリカンミュージック、パーカッション、コーラスアレンジのクラスなども受けた。

とにかく常に宿題に追われている毎日だった。だいたい16時頃にその日の授業が終わったら、宿題を済ませ、それから個人練習をする。気がついたら夜中の12時になっていた、なんてこともザラであった。

また、この大学には「レーティング」という制度があり、一学期毎に2回、実技のオーディションを受けて、そのレベルが高ければ高いほど、高レベルのアンサンブルクラスを受講できる、というものであった。各学生が、どのくらいの実力を持っているかを測る指標でもあった。

私のレーティングは低かった。一番上がレベル7なのに対して、私はレベル4だった。何度もチャレンジしたけれど、レベルが上がることはなかった。初見演奏とアドリブが下手だったので、それが余計に足を引っ張っていた。レーティングが高い人を見ては、「どうして私には出来ないのだろう」と自分を責めた。いつも他人と自分を比較しては、つらい思いをしていた。

授業やレッスン以外の活動も積極的に行なった。学校内でリサイタルを3回開催した。1回目はジャズ、2回目はオリジナル曲、3回目はソウルミュージックを演奏した。準備が大変だったけれど、バンドのメンバー達に助けられながら、なんとかやってのけた。特に3回目のリサイタルは評判が良かったので、非常に嬉しかった。苦労した甲斐があったと思った。

校外でも活動を行なった。アフロアメリカンの教会で本場のゴスペル隊に所属して歌ったり、レストランで定期的に演奏したりしていた。

大学内のスタジオでレコーディングにも挑戦した。私があまりにも不慣れだったため、バンドのメンバーやレコーディングのエンジニアに迷惑をかけてしまったけど、なんとかアルバム1枚分の曲を録音することが出来た。いつもだいたい夜中の12時からレコーディングが始まって、終わるのが朝の7時頃、皆で朝食を食べてから帰る、といった感じだった。若いからこそ出来たことだよなぁ、としみじみ思う。

アメリカでの音大生活は、つらいことも多かったけれど、得難い体験が出来た貴重な日々だったと思う。今思えば、「もっとマイペースにやれば良かったのに」とか、「人と比べたり自分を責めたりしなくても良かったのに」などと色々思うところはあるけれど、それは今だからこそ言えること。当時は当時の私なりに精一杯だったのだ。そんな自分を褒めてあげたいと思う。


26歳の時、音大の夏休みを利用して、イギリスに語学留学した。

イギリスの南東にある、とても綺麗な町だった。まるでおとぎ話に出てくるような素敵な場所だった。

滞在中、英語の勉強だけでなく、何回か地元のミュージシャンと一緒に、レストランでライブを行なった。お客様達が皆私の歌を喜んでくれて、とても幸せなひと時を過ごした。

今思えば、イギリス英語とアメリカ英語は違うのだから、アメリカで語学を学んだ方が良かったのかもしれないけど、沢山の素敵な想い出を作ることが出来た。


私は70年代ソウルミュージックが大好きだ。マーヴィン・ゲイ、スティービー・ワンダー、ジャクソン5…。素晴らしいアーティスト達と楽曲の数々。特にモータウンが好きだった。他にも、リズムアンドブルースやファンクなど、アフリカンアメリカン音楽を片っ端から聴いていた。古いけど新しい、洗練されたサウンド。アフリカ系アメリカ人の魂とパワー。それらの魅力が私を夢中にさせていた。

特に印象に残っているのは、音大でリサイタルを開催した時のこと。「ソウル・トレイン」という曲名で、ソウルやファンクの名曲をメドレー形式にして演奏したことだ。ソウル・トレインとはアメリカの有名な音楽番組で、主にアフリカンアメリカン音楽が放映されていた。その番組も昔から大好きで、よくビデオに録画しては繰り返し何度も観ていた。その番組からヒントを得て、苦心しながらも、私自らが編曲したメドレーソングだった。

ジャクソン5の振り付けを真似したり、アフリカ系アメリカ人のバンドメンバーにアフロのウィッグを付けさせるという暴挙に出たり(彼らはノリノリで応じてくれた)、とにかくエンターテイメントにこだわった。当日はアフロアメリカンの学生達が多数観に来てくれて、会場はものすごい熱気に包まれていた。日本人の私が歌う拙いソウルミュージックが、本場の観客にもその熱意が伝わった気がして、最高のひと時だった。この時の感動は一生忘れないだろう。


私は英会話が苦手だった。

日本にいる時にはTOEFLの勉強をしていたし、あとは現地へ行けば少しずつ話せるようになるのではないかと楽観的に構えていた。

しかし、それはかなり甘い考えだった。

まず、相手が何を言っているのか全く聞き取れない。聞き取れたとしても、今度はなんて返せば良いのか分からない。よく「ジェスチャーで通じる」という話を聞いたことがあったけど、そんなものは全然通用しなかった。

英語が話せないというだけで、相手から何か馬鹿にされているような気がした。アメリカにいて人種差別を受けたことはほとんどなかったけれど、英語が話せないということで、差別を受けているような感覚を受けた。

それにしても、こちらは英語が不自由なんだから、もう少し話すスピードを落としてゆっくり話してくれればいいのに。もし片言の日本語を話す外国人がいれば、日本人なら相手に配慮して話すだろうに。そう思った。

でもこんな考えは甘いのだろう。日本にいる間に、語学学校に通っておけば良かったと強く後悔した。

こんな感じで、英語にはかなり苦労しながら、大学生活をこなした。上手く話せないながらもなんとか意思疎通を図り、単位を取得していった。成績が良くないと奨学金が止められてしまうので、死にものぐるいで勉強した。

そうこうしているうちに、少しずつ英会話が身についてきた。外国人の友達もできた。そして、大学も無事に卒業することができた。

英語が得意な日本人と比べたら、まるで下手な英語だったけれど、私なりに一生懸命頑張ったとは思う。でも、英会話の練習は、なるべく早いうちに始めておけば良かった。英会話が得意なら、きっともっと楽しい学生生活を送れたに違いないと思うから。


留学中、色々と大変なことが起きた。空き巣や置き引きの被害にあったのである。

夜遅くアパートの部屋に帰宅した時、部屋の中がめちゃくちゃに荒らされていた。窓の鍵が壊され、ノートパソコンやデジタルカメラ、電子辞書、MDプレイヤーなどが盗まれていた。犯人のものと思われる、靴の足跡がベッタリと残っていたりして、ゾッとした。警察に被害届は出したけれど、犯人は捕まらなかったし、盗まれたものが返ってくることもなかった。

あとは、バスに乗っていた時、リュックサックを盗まれてしまった。きちんと抱えていたつもりだったのに、一瞬の隙を突かれたのだろう、置き引きをされてしまったのだ。そのカバンには貴重品の他に、もうすぐ控えていたリサイタルの楽譜一式が入っていた。全部で10パート分、膨大な量の譜面を一から書き直さなければならなくなり、ものすごく大変だった。

これらの被害にあったことは、トラウマとなって、今でも心の中にこびりついている。買い物の際、財布を取り出す時にやたら緊張したり、部屋の鍵がきちんとかかっているか過剰に気になって、何度も確認したり、そのような症状が残ってしまった。

アメリカでは、日本とは違い「犯罪」が身近な存在として常にあった。アパートにいる時に、外から拳銃の音が聞こえたこともある。これらのように、いつも緊張感がある生活を送らざるを得なかった。犯罪が多いこと、これがアメリカの負の一面だった。


留学先の音大には、有名大学というだけあって、お金持ちの人達が非常に多かった。

有名な音楽会社がスポンサーになって、学費や生活費を全額出資してもらっている人や、国費で留学している人、大企業の会長の孫など、凄い人達が沢山いた。

息子をデビューさせるために、その親が子供のためにレコード会社を自ら起こしたという人もいたし、3000万円の楽器を使っている人もいた。飛行機に乗る時は必ずファーストクラスを使う人、高級車に乗っている人もいた。とにかく、今までの人生の中では出会ったことがないお金持ちばかりだったのだ。

私は庶民の家の出だったので、彼らと自分を比べては、惨めな思いをしていた。今思えば、比べても仕方のないことだと思うのだが、当時はお金がないということに、酷いコンプレックスを抱いていたのだ。

また、周りの人達を見ていると、子供の教育に熱心な親、子供を大切にして愛している親、そういった親御さんに恵まれた人が多いということに気がついた。私の父親は、私の音楽活動を応援してくれたことは一度もなかった。大切に育てられたどころか、精神的虐待を受けて育った。彼らの親と自分の親を比べては、そのあまりの差に、暗く鬱々した気持ちになった。

お金に不自由なく、家族にも恵まれて、音楽の才能に満ち溢れている、そんな人達が沢山いた。幼少の頃からインターナショナルスクールで英語を習得し、3歳からピアノを習っていた、という人も多かった。そこには、努力だけでは到底追いつけない、圧倒的な格差が存在していた。その残酷な事実を目の当たりにして、私の抑うつ症状は、どす黒く重くなる一方であった。


留学時代、あんなに大好きだった歌が、次第に重荷と感じるようになってきた。

うちの大学には、世界中から才能溢れるミュージシャンが集まり、そのレベルの高さには圧倒されるばかりだった。いくら練習しても、なかなか上手くならない私と比べて、周りはいとも簡単に難しい曲をこなしてしまう。その差は開く一方だった。

私は段々音楽と向き合うことから逃げるようになっていた。歌う音楽のジャンルを変えたり、作詞作曲に力を入れてみたり、はたから見れば「お前は一体何がやりたいんだ」と思ったかもしれない。自分でも何がなんだか分からなくなって混乱していた。完全に自分の軸を失っていた。

そんな自分を誤魔化すために、パーティーでお酒を飲む時などは、大げさにおどけて見せた。皆は笑ってくれたけど、そうやって道化を演じて見せることしか、自分の存在価値がないような気がしていた。内心は心の底から惨めだった。

今でこそあの頃の気持ちを冷静に振り返ることが出来るけれど、当時はそんな自分を決して認めたくはなかった。皆の前では明るく振る舞い、一人の時には死にたくなる。その繰り返しだった。

音楽から逃げて、現実から逃げて、自分自身から逃げて…。どんどん奈落の底に沈み込んでいく自分を、止めることができなかった。


音大の卒業間際、足の具合がどんどん悪くなって、「これはもう再手術を受けなければならないのではないか」とまで思うようになった。

アパートから学校までは徒歩で片道15分。最後の方は、その距離すら歩けなくて、タクシーに乗って通学するほど足の痛みがつらかった。周りにそのことを話しても、「大げさな」、「頭おかしいんじゃないの」などと笑われてしまい、理解されずに悲しい思いをした。私はいつもひょうきんに振る舞っていたので、その時もあまり深刻には受け取ってもらえなかったのだろう。

また、その頃は精神の状態も非常に悪かった。これはもう自分の力ではどうすることもできないと思い、カウンセリングを受けることにした。

ニューヨークでカウンセラーをやっている日本人女性がいて、その人から週一回の電話カウンセリングを受けていた。特に手術直前、精神的にも不安定だった時期は、カウンセリングに支えてもらっていた。周りに誰も相談できる人がいなかったので、本音を話せる唯一の人がそのカウンセラーだったのだ。

また、音大を卒業して、手術を受けるまでの間、オリジナルアルバムのレコーディングを行なっていた。バンドメンバーやエンジニアとのスケジュールの関係上、手術の前日の深夜まで歌の録音作業をやっていた。

あの頃はもう何もかもがめちゃくちゃだった。何故あんなに無理をしようとしていたのだろう。しかも何か上手くいかないことがあると、それは全て自分自身の実力不足のせいだと思い込み、ひたすら自分を責めていた。

自分を大切にできなかったこと、とにかく自分を責めたこと。今思えば、これらは典型的な抑うつ症状だったのではないかと思う。

20年経ってあの頃を思うと、「自分は良くやった」、「自分を大切にして」と言ってあげたくなる。しかし、当時はそんな言葉をかけてくれる人は、誰一人としていなかったのだ。



全話まとめて読みたい方はこちら

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?