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【自伝】生と死を見つめて(2)毒親

「死ね!死んで償え!」ビール瓶をテーブルに叩きつけ、私は絶叫していた。

29歳の時、祖父のお葬式の夜のことだった。

私は姉と二人で、父に向かって、幼少の頃から受けた精神的虐待がどんなにつらかったかを告白した。

しかし父は、それを受け止めて謝罪するどころか、逆に私達に向かって怒り始めたのだ。

「そんなこと今まで知らなかった」、「今初めて知ったのだからそんなこと言われても知らん」、「そんなことで俺を責めるな」耳を疑うセリフだった。

その瞬間、私の中で大爆発が起きた。物心ついた頃から今までずっと、心の中で押し殺していた気持ちを、とうとう父に直接ぶつけたのである。

粉々になったビール瓶の破片で、手足に切り傷ができていたことにも気がつかなかった。私は涙を流しながら「死ね!」と叫ぶばかりだった。

それまでなんとか、表面上は家族としての体裁をつくろってきた私達は、その日以来、皆バラバラになった。


ここ数年、欧米では、「チャイルドマルトリートメント」(日本語で「不適切な養育」)という考え方が浸透してきた。近年の研究で、精神疾患の原因の一部は、「脳の発達段階で著しいストレスを受けること」だと言われている。つまり、小さい頃より精神的虐待を受けて育つことが、精神病発症の引き金となっているのである(※参考文献「体罰や言葉での虐待が脳の発達に与える影響」)。


実家は機能不全家族、両親は今で言う「毒親」だった。

幼少の頃から、父親が家庭の雰囲気を常にストレスフルなものにしていた。肉体的な暴力こそなかったが、精神的な虐待を常日頃から受けていた。

「泣くな!お前が泣くと飯が不味くなるんだ!」しゃがみこんで泣いているわずか5歳の私に向かって、父は仁王立ちで怒鳴りつけていた。

足が不自由になってからも「お前は足が悪いから幸せにはなれないだろう」と言われた。「足が悪くてもお父さんが幸せにしてやるからな」とは決して言ってくれなかった。

精神疾患で何度も入退院を繰り返していた頃も「音楽に挫折しやがって」と吐き捨てるように言われた。さらに「甘えんな!自分で治せ!この家から出ていけ!」と怒鳴りつけられた。

とにかく人の心を壊すことばかり言う人間だった。そのくせ外面はすごくいいので、父親のことを「いいお父さんじゃない」と言われて、胸糞悪い思いをすることも多かった。

もう15年以上実家には帰っていない。夫と結婚する時も、父親には会わせもしなかった。

便宜上「実家」と呼んでいるだけで、あそこに私の家族はいない。私の家族は、夫ただ一人だけだ。

父親に関しては、未だに夢を見てうなされる。悪夢で目覚めた時は最悪の気分だ。私はもう今年で48歳になるというのに、いつまでこんなことが続くのだろう。


実家ではいつも、父の機嫌の良し悪しで、その時その時の家庭内の雰囲気が決定づけられていた。

父はくだらないことですぐに機嫌を悪くし、暴言を放ち、圧倒的な威圧感で場の空気を凍りつかせていた。

ある時、家族で日帰り旅行へ行った時にも、姉と二人で屋台で買い食いをしただけで、「せっかくの昼飯が入らなくなるだろう!」と言って怒り出した。そのままずっと父の機嫌は治らず、その日の旅行は暗いムードのまま終わることとなった。

また、母が作った食事が気に入らない時には、一から作り直させていた。母が仕事から帰ってきてから作った料理を食べもせず、わざわざ作り直させていたのだ。本当に思いやりのかけらもない人間だった。

常にこんな調子なので、私は父の機嫌を損ねないようにと、いつもビクビクしていて、表面上はいつも明るくヘラヘラと振る舞っていた。

しかし、足を悪くしてから、父の態度が少し変わった。私に対してだけ、変に甘やかすようになったのだ。子供心になんだか気味が悪かった。

高専の建築学科に進学した時も、父は「”建築家になりたい”という俺の夢をお前が代わりに叶えてくれたんだな」と満足気に言っていた。高専には学生寮があるから入学しただけで、別に父のために入ったわけではない。私が本当は「音楽をやりたい」と思っていたことを、父は知っていたはずだ。相変わらず勝手な言い分だなと思った。

高専の受験の時も、父は難しい参考書や、建築パースの高い本を沢山買ってきて、「全部読まなくてもいいから。何ページかだけでも読んで参考になればそれでいいから」と言ってきた。私は強いプレッシャーにさらされて、本当につらかった。

18歳の頃、私が車で自損事故を起こしてしまった時も、私の身体の心配は全くしてくれなかった。現場にタイヤの跡が残っていたので、どうやって事故に繋がったのかということをとうとうと話していた。もちろんそれも大切なことだとは思うが、まずはじめに「怪我はないか?」とたずねるのが親というものなのではないか。冷たい人間である。

26歳の冬、留学先の音大が冬休みだったので、アメリカから一時帰国して一ヶ月程実家に滞在した。しかし、その時にも、父から音大での様子を尋ねられたことは全くなかった。父が私の音楽活動を応援してくれたことは、ただの一度もなかった。

この一ヶ月の実家滞在中、久しぶりの帰省で羽根を伸ばすどころか、父からの毒を沢山受け止めてしまい、アメリカに戻ってから、少しずつ抑うつ症状が現れ始めた。今思えば、このことがきっかけで、精神の病を発症してしまったのかもしれない。


父は高慢で尊大でプライドだけは高く、いつも「自分はどれだけ偉いのか」ということを幼い私に語っていた。「”尊敬している人は?”と聞かれたら”父です”と答えろ」と言われたりした。

でも、私の足を診てもらうために大きな病院へ行った時、そこの偉いお医者さんには、やたらヘコヘコしていた。幼い私は「あれっ?いつもと違う」と思った。父のそのような卑屈な態度を見る度、私はいつも収まりの悪い違和感のようなものを感じていた。

やがて私が成長していき、東京、アメリカと、どんどん前へ進んでいく私に対し、父はことあるごとに「自分の方がすごいのだ」と、必死にマウントをとって張り合ってきた。頑張っていた私のことを褒めてくれたことは一度もなかった。私は内心寂しさを感じ、あとは「みっともないな」という軽蔑に近い感情を抱いていた。

実は、父はコンプレックスの塊なんじゃないかと思う。そんな自分を受け入れることができず、必死になって家族に威張り散らしていたのかもしれない。職場で出世もできなかったので、威張ることができる相手は家族ぐらいしかいなかったのだろう。

でも、そんなことのせいで、幼い頃から当たり散らかされ、心に沢山の傷をつけられ、アダルトチルドレンに成長してしまった私を、一体どうしてくれようか。やりきれない。本当に理不尽な話だと思う。


母親もまた、「毒親」と言うべき存在だった。

父の精神的虐待から娘達を守ろうともせず、いつも父の言いなりだった。父の仕打ちを酷いと思ったのならば、父に反論するなり離婚するなり、何かしら方法はあったはずだ。

子供を健やかに育てることは親としての義務だと思う。それを放棄したのだから、母も父と同じ位の毒親だったと言える。

でも、父とは違い、母に対しては、愛憎相半ばする思いを抱いている。

一度目の大手術の時、骨の移植手術が必要になった際、「私の骨を移植して下さい」と申し出てくれたこと。

足の不自由な私の生活をいつも支えてくれたこと。

私の歌を誰よりも応援してくれたこと。

それらのことは、今でも感謝している。

だからといって、現在はとりたてて仲良くしているわけでもなく、数ヶ月に一度会う程度で、それでも2時間も一緒にいれば、内心しんどくなってしまう。

母に会うと、胸と息が苦しくなる。自律神経失調症の症状が現れるのだ。いつも表面上では笑っているけど、内心はつらい思いをしている。

今もなお、非常に歪な関係なのだ。でも今更それを変えるつもりは私にはない。


母はいつも、私達娘に対し、父の悪口をこぼしていた。そのくせ父から嫌なことをされても、文句も言わずにされるがままだった。それを母に告げると、「何?お母さんが悪いっていうの?!」と逆ギレしてくる有様だった。

母は父ときちんと向き合おうとはしなかった。いつも嫌なことからは逃げて「つらいことがあったら考えるのをやめる」と言っていた。そのくせ母自身の機嫌が悪くなると、こちらに八つ当たりしてきた。父に言いたいことを、代わりに私に言わせたりもした。

アメリカでの手術を終えて帰国したばかりの頃、何もしていなかった私に対して「この3食昼寝付き!」と罵倒してきた。12時間の大手術と過酷なリハビリを終えてようやく帰ってきた娘に対して、あんまりな言葉だと思った。自分は病院へお見舞いにも来てくれなかったくせに。私はたった一人で手術を乗り越えてきたというのに。

小学5年生の時に受けた一度目の大手術の時にも、しばらく寝たきり生活になるということを、事前に話してはくれなかった。手術後に全身麻酔から目が覚めて初めて、起き上がることが出来ないということを知り、もの凄いショックを受けた。それから1ヶ月半も寝たきりの生活だったのだ。事前に教えてくれていたら、それなりに心の準備をしていたのに。

せめて、心身共に「五体満足」に産んで欲しかった。幼少の頃から精神的虐待を受けて育ち、足の病気や精神疾患を発症し、今も尚、虐待の後遺症に悩みながら生きる私の人生は、あまりにも過酷だ。「せめて健康だったなら…」と思う時も多々ある。もしくは、もしも大切に育ててくれていたなら、足や精神の病気も、孤独感に苛まれずに乗り越えることが出来たのかもしれない。


小さい頃は、姉によくいじめられていた。入院先から一時帰宅した時も、「あんたなんか病院に帰れ」と言われた。酷いもんだった。

同じ毒親に育てられたという意味では、姉もまた被害者だった。精神疾患を発症し、父から受けた精神的虐待の後遺症に酷く苦しんでいた。でも、大人になってから「小さい頃いじめて悪かった」と謝られたけど、「両親の仕打ちで傷ついて、八つ当たりしてしまっていた」と弁明された。勝手な話だと思った。

大人になってから、姉自身は父を避けて、決して会わないようにしていた。なのに、姉の息子が小さかった頃は、実家にしょっちゅう息子を預けていた。息子は実家で祖父である父と一緒に過ごしていた。それでは、私達姉妹を父から守ってくれなかった母親と、やっていることはまるで同じではないか。自分は父のせいで苦しんだのに、その父から自らの息子を守ろうと何故しなかったのか。

また、私が精神病院に入院していた時、その頃は症状が今までで一番悪化していた時だった。まったく食べられない、全然眠れない、幻覚が止まらない。主治医からも「あなたこのままでは死ぬよ」と言われた。

そんな時、姉にメールで苦しみを訴えた。でも、返ってきたメールはこんな内容だった。

「あなたの体はあなたのものです。あなたの人生はあなたのものです。私にはあなたの苦しみを取り去ることは出来ません」

文章だけ見れば、その通りだとは思う。でも、こんなタイミングでそんなこと言わなくても…と思った。絶望と怒りを覚えた。

何故なら、以前、姉が大量服薬をした時、私に「助けて」とメールしてきたことがあったからだ。私のことを、同じ毒親から育った「戦友」だとも言っていた。なのに自分が回復したらすぐこれだ。薄情だと思った。姉は昔からそうだったけど、自分の痛みにはひどく敏感なくせに、他人の痛みには鈍感なのだ。

姉はその後また精神の病が再発し、母によく私の悪口を言っているらしい。それをわざわざ報告してくる母も母だと思うけど。

もう一生会うことはないだろうし、姉のことは早く忘れてしまいたい。


甥に「謝らなければならない」と思っていることがある。

実家に住んでいた頃、小学生の甥は毎週のように実家に泊まりに来ていた。その頃の私は精神の病が重く、寝込んでいることが多かったので、あまり遊んであげたりすることが出来なかった。

また、父と喧嘩したり、感情を抑えきれなくなって叫んだり、喚き散らしたり、そんな姿を幼い甥に見せてしまったことが度々あった。

さぞかし怖い思いをさせてしまったのではないかと思う。大人になった甥が今どう思っているのかは分からないけど、いつか会う機会があれば、誠心誠意を込めて、謝らなければと思っている。



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