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【自伝】生と死を見つめて(3)足の病気

小学校2年生の頃、走り方がおかしいと周りから言われるようになった。自分では普通に走っているつもりなのに、どうしても上手く走れない。やがてクラスでのあだ名が「ガニ股」になってしまった。色んな病院に行ったけれど、原因が分からない。

小学校5年生の春、学校の廊下を走っていたら、突然左足に強烈な痛みが走った。何ヶ所か病院で診てもらって、ようやく痛みの原因が発覚した。

病名は「多骨性線維性骨異形成症」だった。骨が非常にもろくなり、病的骨折を起こしていたのだ。すぐに入院し、母の骨を移植するという大手術を受けた。

入院して手術を受けるまでの間、幼い私は内心胸を高鳴らせていた。まるでドラマの主人公になった気がして、その非日常感にドキドキしていた。ストレッチャーで手術室まで運ばれた時の気持ちを、今でもよく覚えている。

手術は一瞬で終わった。全身麻酔だったので、眠りについてすぐに意識が戻った感覚だった。でも、手術室に入ったのは昼間だったのに、目が覚めたら夜になっていたのでビックリした。実際に手術にかかった時間は3時間半だった。

目が覚めて、すぐに絶望した。腰から左足のつま先までギプスで覆われていて、起き上がることが出来なかったのだ。こんなことになるなんて、事前に何も聞かされていなかった。全身麻酔のせいで気持ちが悪くて、3日間吐き続けた。厳しい現実を目の当たりにして、ワクワクどころか、手術を受けたことを心底後悔した。


手術後の寝たきり生活は、とてもつらくて退屈なものだった。

ギプスのせいで、起き上がれないだけではなく、寝返りも打てなかった。食事はお腹のギプスの上にお盆を置いて、首だけ起こして食べた。トイレはもちろんベッドの上で、看護師に介助をお願いしていた。

本や漫画を読んだり、祖母とトランプをしたりして時間を潰していたが、やがてそれも飽きてしまった。やる事がなくなると、髪の毛を結わえるためのゴムを飛ばして天井に当て、それをキャッチするという遊び(?)を繰り返していた。動けないしどこへも行けないし、本当に苦痛な毎日だった。こんな状態が1ヶ月半も続いた。

無事にギプスが取れて起き上がれるようになると、今度は過酷なリハビリが私を待ちうけていた。ギプスを外して最初に起き上がった時は、久しぶりに体を起こしたので、フラフラと目眩がした。始めの頃は自力で座ることが出来ず、ベッドを傾けて体を起こしていた。自分でちゃんと座れるようになるまで1週間程かかった。

車椅子に乗る時は、左足の下に板を敷いて、足を固定しなければならなかった。長期間足を伸ばしたままギプスで固定されていたので、膝関節を曲げることが出来なかったのだ。リハビリ用のプールで、足の曲げ伸ばしの訓練を受けた。これが非常に痛くてつらかった。膝を曲げられるようになるまで、結構な時間を要した。

少しずつ体力が回復してくると、今度は両松葉杖で歩く訓練が始まった。始めの頃は平衡感覚を失っていたのか、頭がグルグルと回り、立ち上がることすらままならなかった。始めは5歩、次は10歩というように、少しずつ体を慣らしていった。

松葉杖での歩行に慣れてくると、病棟の外まで散歩することが出来るようになった。手術室の前とか、関係者以外は立入禁止となっている場所にまで、こっそりと足を忍ばせたりした。よく見つかって怒られたりせずに済んだものだ。

また、病棟の患者さん達と一緒に、皆でパジャマのまま近くの公園へ散歩しに行ったりもした。花火大会があった日には、夜のデイルームで皆と一緒に花火を楽しんだ。

さらにリハビリが進み回復してきて、結局私は、片松葉杖の状態で退院することが出来た。3ヶ月半の長い入院生活だった。故郷から遠く離れた病院で、わずか10歳の時にこのような大変な経験をしたのかと思うと、「本当に良くやった」と当時の幼い自分を褒めてあげたい。


退院してからは、私は常に松葉杖で歩くようになった。周りの大人達からは、ことあるごとに「かわいそうに」と言われるようになっていた。

今の時代とは違って、人と違った姿をしていると、街行く人からはジロジロ見られ、時には心無い言葉を投げかけられたりすることもあった。

でも私は、そんな自分の事を、「かわいそう」だとは思いたくなかった。「かわいそう」と言われることが一番嫌いだった。足が悪いからと差別を受けているような気がしていたからだ。

だからいつも、強くて明るい自分を演じていた。皆を笑わせるひょうきんな子として振る舞い、今度は「足が悪いのに元気で偉いわね」と言われるようになった。

しかし、一人の時には、つらくて部屋で泣いていた。当時部屋に飾ってあった、運気が上がるという絵画に向かって、涙を流しながら「助けて…」と呟いていた。

小学校5年生の冬、夜中に家出をしたことがあった。つらいことばかりで全てが嫌になり、どこか楽になれる場所に行きたいと思ったのだ。

行くあてなどどこにもなかったけれど、とにかくこの家を出れば、楽しいことが待っているに違いない、もしかしたら、憧れの芸能人にも会えるかもしれない、そんな淡い期待をもっていた。

荷物をまとめてこっそり家を出た。しかしどこに行けばいいのか見当もつかない。暗いし寒いし誰もいない。孤独感と恐怖が私を襲った。

結局すぐに家に戻ってきた。家族には気づかれなかった。荷物を片付けながら、どこか諦めに似た気持ちで大きなため息をついた。

幸せになれる夢の国などどこにもないんだ。ここで絶望感を抱えたまま生きていくしかないんだ。幼い私の心は引き裂かれそうだった。


私が生涯で他人から一番多くかけられた言葉は、「足どうしたんですか?」だった。

そこで「元から不自由で」と答えるのだが、そうすると必ず「すみません」と謝られる。「謝るくらいなら初めから言わなきゃいいのに」と思う。

松葉杖を使っていた頃は、よくそうやって声をかけられた。見た目には症状が軽そうに見えたのかもしれない。冬になると「スキーで骨折したんですか?」と聞かれ、バイク屋さんに行くと「転倒したんですか?」と聞かれた。

あとは「私も足を悪くして〜」といった自分語りが始まるパターン。特に温泉へ行くと、そういう人に出くわすことが多かった。左足に大きな手術跡があるからなのかもしれない。でも人の傷跡を見て話しかけてくるなんて、本当に失礼な話だと思う。

昔は律儀に「小さい頃に手術して…」などと馬鹿正直に答えていたのだが、そうすると相手は余計に食いついてきてしまうので、最近では適当にあしらうことにしている。こっちが嫌な気分になっているのに、愛想良く振る舞う必要なんてないと思ったからだ。

ところが、車椅子を常用するようになると、その質問はピタリと訊かれなくなった。「訊いてはいけない事情があるのかも」と思ったのかもしれない。でも、病状が悪化して車椅子になったとはいえ、足の病気自体は以前と変わらず同じ病気だし、松葉杖と車椅子の違いでこんなに差が出るなんて、なんだか居心地の悪さを感じた。

相手に悪気がないのはよく分かる。でもだからといって、こちらの心をすり減らすことを言う人を、わざわざ受け入れる必要はないと思っている。


両親は、私の左足が一生治らないことを、決して話してはくれなかった。

小学校5年生の頃に手術してから、「足はいつ治るの?」と両親に尋ねると、「6年生になったら治るよ」と言われた。しかし、治る気配は一向に見られない。再度両親に「いつ治るのか」と訊いてみると、今度は「中学生になったら治るよ」と言われた。さらに中学生になると「高校生になったら治るよ」と言われ、高専に入学したら「大人になったら治るよ」と言われた。しかし、治るどころか、足の病気は悪化の一途を辿っていた。だんだん両親に対して、不信感を抱くようになった。

18歳の頃、覚悟を決めて、主治医に直接「私の足はもう治らないのか」と尋ねた。その答えは「これ以上回復することはない。一生このままである」だった。自分でも薄々と感づいていたことだったので、ショックを受けたり、悲しんだりすることはなかった。それよりも、「私は一生この足で生きていくんだ」という覚悟が決まって、むしろ良かったのかもしれない。

しかし、その事実を隠し続けた両親には憤りを覚えた。私のことが可哀想で話さなかったのかもしれない。でも、私がこの先大人になり、いずれ独り立ちする時が来たら、その時は一体どうするつもりだったのだろうか。不自由な足を引きずって、一人でどうやって暮らしていくのだと考えていたのだろうか。それとも、私のことは一生自立させないつもりだったのだろうか。いずれにせよ、無責任な話だと思った。

初めから本当のことを話して欲しかった。足が悪くても生きていけるよう、導いて欲しかった。数々の嘘偽りを謝って欲しかった。結果的に裏切られ、私は自分の力で四苦八苦しながら自立した。

私のことを「可哀想」と同情するのではなく、「事実に立ち向かえる勇気」を与えて欲しかった。しかし、それは決して、叶うことはなかったのである。


私の左足の病気は「多骨性線維性骨異形成症」といい、大腿骨と脛骨、骨盤の左側に罹患している。8歳の頃に発症し、48歳の現在も闘病中である。

罹患率が一万人に一人という珍しい病気だ。「単骨性」と「多骨性」の二種類があり、多骨性だと、罹患率がさらに疾病全体の15%にまでしぼられる。(※参考文献「頭蓋底線維性骨異形成症例」)。良性腫瘍の一種であるが、稀に悪性腫瘍、すなわち「がん」に変質してしまうケースもある。そうなると最悪の場合、足を切断しないといけなくなり、さらに転移すれば、死に至ることすらある。

原因は不明だが、細胞内伝達機構のGタンパクという物質が異常を起こし、骨の形成に障害を起こすと考えられている。(※参考文献「脳神経外科の病気:線維性骨異形成症」)。遺伝性ではないが、胎児の頃に遺伝子の突然変異が起こり、この病気に罹患するとも言われている。

有効な治療法はなく、病状が著しく悪化した時には外科手術を行なう。私は過去2回の手術を受け、3回の長期入院を余儀なくされた。昔は松葉杖を使っていたが、今は車椅子で生活している。

10メートル程の距離も松葉杖なしでは歩けなかったり、左足で片足立ちをすることが出来なかったり、重い荷物を持つことや、左側に寝返りを打つこと、長時間立ちっぱなしでいることも出来なかったりする。左足をどこかにぶつけてしまうと激痛が走る。もちろんスポーツ全般を行なうことは不可能で、体育の授業はいつも見学だった。

一番つらいのは、左足が激しく痛むことである。小さい頃からこの痛みには悩まされていて、痛みが酷い時には、よく学校を休んでいた。なぜこんなに痛むのか、原因は不明だった。左足が痛いと、何もすることが出来なくて、ただひたすらベッドで横になっているしかなかった。

また、医師からはよく「無理をすると病的骨折するから注意するように」と言われていた。私の左足の骨は病気のせいで非常に脆く、ちょっとした負荷でも折れやすくなっているのだ。

さらに「足が痛むのは”骨が折れる”危険信号」だと言われており、「骨折すると悪性化する確率が高くなる」とも言われていた。私は子供心にこの言葉に恐怖を覚え、トラウマのようになってしまった。

手術を受けて、一時的には回復しても、数年経つとまた悪化してしまう。そして再び手術を受け、今度こそ良くなったかと思いきや、やはり数年経てば再度悪化してしまう。左足を悪くしてから40年、ずっとこれの繰り返しだった。

思春期の頃は、「何故私がこんな病気にかかってしまったのだろう」と嘆き悲しんでいたが、「もう足が完治することはない」と知った18歳の頃から、自分の病気のことを冷静に受け入れられるようになっていた。

今では、障害者手帳を所持しているし、障害年金も支給されているので、無事に暮らすことが出来ている。また、身体の他に、1級の精神障害者保健福祉手帳も持っていて、それにより、医療費も助成されているので、本当にありがたいことである。週に一度、家事全般をやってくれるヘルパーも来てくれているし、それも非常に助かっている。

数年に一度、MRIやCTスキャン、骨シンチなどの大掛かりな検査を受けなければならないのが大変だが、あとは平穏な日々を送ることが出来ている。願わくば、このまま左足の病気が悪化せず、無事でいられたらいいなと思う。



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