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天才・常田大希の考える、千年後に聴かれたい音楽

前の記事を書き直したくて書いてみたけれど、
結局また
とんでもなく長くて読めない代物になってしまいました。

1000年先にも読まれる文章だってさ!!


千年前の文章って大体は古文だったけど、上の記事の本文にも触れられているとおり、
源氏物語みたく、いい文章なら今も読まれている。

そもそも、千年後の人達が、もしも今の私達の現代の文章に興味があれば、
未来のChat GPTとかの比じゃないような爆裂ツールで、いとも簡単に読めちゃう気もする。

いやはや、そういう簡単に読めちゃうことにも飽きて、
『古文』みたいな感じで、あえて面倒くさく読んでくれているのかもしれん。

それとも、もう、この平成とか令和あたりは平和すぎて人気がなくて、読まれないのかも。

いや、イトーダーキさんなら、100年後もきっと読まれますよ。
100年後なら、多分まだ日本も日本語もありますし。

令和の北海道の生活を示す資料として、貴重な文章になると思う。

でも、1000年後となれば、話はちょっくら変わってくる。

なんたって千年だ。

今日は、その千年後を考えるお話。



さて、天才達は、どうしてこうも、『千年後』に想いを託すのだろう。

実は、半年くらい前に、この記事の表題の、
『天才・常田大希の考える、千年後に聴かれたい音楽』
について記事を書いていた。

皆さんは、常田大希という音楽家をご存知だろうか?

King Gnuの人と書いたらピンとくるかも?

King Gnuの作詞作曲を手掛け、プロデュースし、ギターとボーカルを担当する人物である。


それでもピンとこなければ、この曲のグループ。

その常田大希が、King Gnuでは飽き足らずに立ち上げた、『Millenium parade』というプロジェクトの曲の話である。

Millenium paradeについて補足:

多分、グループみたいにメンバーが固定ではない音楽ユニットプロジェクトのこと。
誤解を恐れずに書けば、King Gnuがポップでキャッチーなのに対して、Millenium paradeの方が、より込み入っていてわかりづらい。

その名も、『2992』

常田大希さんは1992年生まれの30歳(2023年3月時点)。

曲の題名は、2992。

常田さんの生まれた、1992年の千年後にあたる、西暦2992年にも聴かれていたら面白いな、と思って作ったそうだ。

皆さんに、この『2992』を聴いてみて欲しいのは山々だが、
まずは、私が、“千年後に聴かれるのはどんな曲か”を考えてみる。



■ そもそも、今の千年前に存在していた曲は?

(※正確ではないですが、あくまで目安)

○ 君が代

歌詞は10世紀初頭に書かれたといわれている。
ただし、曲は1880年に付けられたそうなので、1000年聴かれて歌われているとは言えない。


○ グレゴリオ聖歌

ちょうど、千年前あたりには、無伴奏複旋律の形になったんだとか。

○ 胡蝶楽(雅楽)

日本はちょうど、平安時代。
この胡蝶楽は、源氏物語の中で演奏される曲として出てくるのだそう。

いわゆる、神楽とかで聴く機会のあるような、雅楽。

■ ここまででわかること

あくまで、私の雑な調査の範囲内でわかった、千年聴かれる曲とは。

○ なんらかのセレモニーで演奏される曲。

○ 演奏可能な曲。

○ 儀式上必要な曲。


ちなみに、『2992』は、その内のどれも満たしていない。

そもそも、一千年前は、平安時代なのだ。

録音という技術がそもそも存在しないし、楽譜は四線譜だそうだ。

それに、四線譜すら、平安時代の日本にはなかったはずだ。

だから、少なくとも、演奏可能な楽譜も併せて必要なわけだ。

あと、演奏できる楽器も。

そういう意味では、口だけで何となく口伝できる、歌の形だと、残せる確率もグンと上がる。


残そうという意思がないと残らないのではないか。

いや。

そもそも、今から遡った千年前と、今から先の千年後で、千年先に対する計画が同じなわけがない。

あの頃とは音楽に含まれる情報量が全然違うし、デジタル音源も出来た。
楽器も増えて、演奏方法も増えて、打ち込み音楽という概念も増えた。

口伝や伝承がなくても、ファイル変換の壁を乗り越えれば残せるのなら、別に名曲である必要もないかもしれない。


今の音源がmp3だとしたら、次のプレーヤーで再生可能な新しいフォーマットができるから、それはちゃんと出来て、曲そのものは消えない想定で。

いや、もう『プレーヤー』とか言ってる時点で全然千年後じゃないけど。

とにかく、技術的問題で残らない可能性はひとまず消しておく。


■ ここで、『2992』に改めて立ち戻る

この曲が、良い曲なのかとか、響く曲かとかは置いておく。

この曲がどんな曲かを、読み解いていく。

○ 音の重なりが多い

幾つ音が重なっているのか、常田さん本人が言及していたように記憶しているが、残念ながら、思い出せないし、見つけられない。

何百、とかだったんじゃなかったかなぁ。

とてもじゃないけれど、私の耳では聞き分けられない数の音だ。

そもそも、人間が同時に処理できる情報量は限られているのだから、音の重なりが多ければ多いほど良いとは少なくとも私には思えない。

でも、決して意味のある情報的価値ではない何らかの価値を感じる。

例えるなら、風だ。

耳に、何かしら、風のような刺激の感覚が残る。

音として認識することは出来ないけれど、耳と頭に何かが過ぎる。

そういう感覚が、千年後には、もっと具体的なものとして知覚できるようになるのかもしれない。

何てったって、千年後である。


○ 歌詞

全文英語である。

常田さん、もしかして、日本語は千年後になくなっている可能性も考慮している?

いやいや。
英語だって、あるかどうかわかったもんじゃない。

そもそも千年前にはアメリカがないだろ。

内容は……よくわからない。

もしかしたら、千年後は、日本はおろか、皆、宇宙の塵になって、宇宙の塵が聴いている想定の曲なのかもしれない。

宇宙の塵は、今の英語は通じる想定なのだろうか?

……わからない。

人間はいなくて、他の生命体がいる想定なのかもしれないし、

どことなく、世界の終わりを予感しているような内容のようにも思える。


○ オーケストラ×ロック

この曲は、ベース?の重低音がロック的なリズムを鳴らすところから始まり、オーケストラの壮大な感じで展開し、どことなくアンニュイ(アンニュイの正しい用法がわからないが)なボーカルが、スペーシーな歌詞で歌う。

アンニュイ : 物憂げで気怠そうな歌い方(※あくまで主観です)

スペーシー : 宇宙的な感じ。


演奏して残す、歌って残す、という観点から考えると、
まず、バンドの楽器と奏法、オーケストラの楽器と奏法、楽譜、スコアをまず残さなければならない。

それに、打ち込みの音もあるから、その音源は確実に残さなければならない。
音の素材を保存する必要がある。

千年後に曲を存在させるハードルはグンと上がっているように見える。

そして、決して歌いやすいメロディとは言えない。
歌詞もキャッチーで覚えやすいとはいえない。
口伝では残すのが難しい。

千年だ。

あれ、確かに、千年普遍的な音楽が残るとは限らない。

でも、常田大希は天才だ。

天才は何を考え、千年後を見据えたのか。


■ 考察という名の妄想で千年後に2992が跳ねるロジックを考える

○ 千年後の方がわかりやすく聴ける情報処理技術の登場

千年前に比べたら、最近の音楽はずいぶんと情報量が増えた。音のバリエーションも、旋律のパターンも、音の重なりも。

これは音楽に限ったことではない。

やれビッグデータだと、この世界の情報量は爆発して、留まることを知らない。

情報量は増えすぎて、良い時代ではあるが、不要な情報も多すぎて、皆、必要な情報になかなか辿り着けない。

保存容量もどんどん増えて、クラウドも発達してるし、仮想基盤ありきで、データは増え放題。

それを、さらにAIとかいうものを挟んで、膨大な情報の中から、効率的に必要な情報を選んでもらうことを委ねつつある。

さぁ、千年後はどうか。

このまま情報量は増え続けるのか、どこかでプラトーになって縮退するのか。

はたまた、全然思いもよらない概念が生まれるのか。

アナログ→デジタルと来て、その次の何かしらがあっても全然おかしくない。

私の妄想。

ズバリ、情報処理のあり方に革命が起きていることに賭けてみる。


高度経済成長が起きて、その後の今は、いわゆるSDGs的な路線に帰着している。

化石燃料は消費され、環境は汚染され続けた、その先。
科学技術の発展そのものは止めないが、サステナブルに発展していくという考え方。

これが情報だとどうだろう。
今のところ、この情報量の増加に対して、地球滅亡の危機に瀕するほどの問題は露呈していないようには思える。

でも、これも時間の問題のように思える。

すなわち、増えに増えた情報量を大幅に削減することもしないが、サステナブルなあり方に変えていこう、というもの。

つまり、完全に今と同じ形で情報が全て残るということはないけれど、別の方法で、必要のない情報は削られて、より洗練された情報になる……
あるいは、「削る」という概念ではない何か。


これが、2992という曲を千年後に残すこととどう関連しているのかというと、

この曲の情報量の多さも、何らかの『サステナブルな情報処理』によって、『風』と表現した抽象的なものではなく、よりわかりやすい形に変わるのではないか、と。

よりシンプルに書けば、
今はわかりにくいと感じる音楽が、千年も経てば、それをわかりやすく解釈する技術ができて、この曲に含まれる本当の魅力がわかるようになるのではないか、ということである。

○ 音の重なりをなんとかできるオーディオ機器の登場

今のオーディオ技術では、音の表現に限界がある曲のような気がする。

生演奏で聴くと、もっと感動するのかもしれない。しかし、生演奏にしたって、打ち込み音や、録音を流している音があるだろうから、多分、現在では、曲に周辺技術が追いついていないんじゃないかと思う。

それを、わざとやっているんじゃないか、という気がする。

なんたって千年後に楽しめないといけないから。

千年後の人間が、「やっとこの曲が時代に追いついた」とか言うのだ。

そういう想いで曲を作ったのかなぁ、と。

まぁ、「オーディオ」とかいう概念すらなくなっているのかもしれないが、そこまではなんとも言えない。

でも、一応、千年前にも、楽器はあったし、歌もあった。

千年後には、今のオーディオでは聴こえない音まで聴こえるようになって、
より常田さんの盛り込んだ音が聴こえるようになっている未来を描いてみたい。

そこで多分、千年後の人たちが、
常田大希がこの曲に仕込んだギミックを初めて耳にするのだ。


○ 価値観の変容

私は、自分がまだ小さい時に宇多田ヒカルの『In my room』を初めて聴いた。

その時、宇多田ヒカルは、自分の曲の中でこの曲が一番好きだと言っていたのだけれど、私は、この曲のどこが良いのかさっぱりわからなかった。

でも、ついここ数年でたまたままた聴いた時、あー、時代がこの曲に追いついたんだ、あるいは私がこの曲に追いついたんだ、と思った。

実際、あの時、この曲はシングルとしては発売されなかった。
この時に一番流行ってたのはFirst Love。

In my roomは、この時から既に、令和に作られた最新曲として違和感の全くない曲だった。
(※あくまで個人の主観です)

『2992』が、ちゃんとファイルフォーマットの変遷に耐えて、淘汰されずに千年後まで残ったとしたら。

今は2992のことがまだ理解できていないような気がするけど、千年後、いや、そんなに経たなくても、この曲が素晴らしいと思える日。


それは必ず来る。

二十億光年の孤独には遥かに負けるけど、僕は思わずくしゃみした


■ 念押し(『2992』の音源はこちら)

今更だけど、YouTubeとかニコ動とかには、公式の音源はなさそうでした。

Spotifyのリンクを貼りますけど、Spotifyのアカウントを持っていない人は聴けないのかも…

ご興味があれば調べてみてね!


そういえば、聴かずに黙々と書いていたのだけれど、改めて聴きました。
フツーに良い曲じゃねーか。
千年が云々とか、どーでもよくなるね。

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