親ガチャについて続きを語る

親ガチャを感じて思うこと

幼い頃から当時感じたことをなんとか思い出して言語化しようと思う。
(※当時の感情なので拙い上、かなり不快な内容になっているので
気分を害したならすぐにブラウザバックを推奨する。)

小学生時代は「周りがゲームしているのに何故自分だけさせてくれないのか」

周りがゲームを持っていて自分だけ買ってもらえないとき
周りがゲームをし始めるとただ眺めているだけで蚊帳の外なのだ。
現在進行形で遊んでいるはずなのに部外者にされているようだった。

中学生時代は「周りが遊んでて何故自分だけ勉強しなきゃいけないのか」

家では漫画、ゲーム禁止。
家でできることは宿題のみ。

当時の自分は授業についていけないし
家で勉強しても成績が上がらない。
学校では授業がキツイし家にいても休まることもなく
しかも親からは大学へ行かないといけないという。
(当時は勉強したくなかったため大学へは行きたくなかった)
この先状況が好転する未来も見えず中2までは生きてて辛いと感じていた。

高校時代は
「硬式テニスがしたくて中学受験するならクラブ行けよ」

これは中学から上がってきた内部生が中学受験した理由で
部活で硬式テニスがしたいからだという。
当時はなんて無駄遣いをしているのかと思ったものだ。
ただ今思えば、質の高い教育をしたい親としては
硬式テニスが子供のモチベを上げるには都合が良かっただろう。
(余計なお世話だが)

「父親が浪人して上の大学行ってるクセになんで俺だけ受かった大学で妥協しなければいけないのか」

中学で成績が上がり良い高校へ入学した成功体験をきっかけに
大学でも上を目指すようになる自分。
ただ自分は3人兄弟の長男。
だから下2人の負担を減らすために
自分は受かった大学で妥協しろと言うのだ。
早く生まれただけなのに、なぜ下2人の犠牲にならなければならないのか。

当時なぜ自分だけこんな扱いを受けなければならないのか。
家族全員が敵に見えた気がする。
当時の僕は家族が嫌いで会話を避けていた。

金銭的にカツカツなら3人も生むなと禁句を思っていそうだが
よく言語化しなかったと思う。
(結局は浪人させてもらえたので最終的には親に恵まれたと思えた。)

もし当時に親ガチャというワードがあったら使っていた?

当時先ほど挙げたようなことを思っていた時点で
高校生までは悪口にも使っただろうし
大学になってからは「運良いわ~」などと軽く言えたかもしれない。

親ガチャというワードを禁句にするべきか?

僕は禁止にする必要はないと思う。
親ガチャの当たり外れはあくまでその当時の主観的評価であって
年齢を重ねていくにつれて評価なんてコロコロ変わるのだから
わざわざ他人が上から口出しするような内容ではない。

特に若いときなんて自分の狭い世界の中でしか評価できない。
後に自分の知らないことを知っていき
「当たり前だと思ってたことが当たり前ではない」と気づくことで
親に対する評価が変わるものだ。

評価は不変的ではない。
強いて親ガチャについて口を出すなら
自分の知らない世界へ行って自分の視野を広げていてほしい。
それでも今の環境が苦しいなら新しい環境へ行く努力(資金、情報を増やす味方になってくれる人を見つける等)をする必要がある。

また本当に虐待、育児放棄など親に苦しめられている人はいる。

そんな人が外に声を上げるには必要なワードではないかと思う。
親ガチャのおかげで虐待や育児放棄などに関心を持つようになった人もいるだろう。
自責思考の押し付けは、世の中におこっている問題を他人に丸投げしていることと同義だと自覚すべきだ。

過去の自分に言うなら

自分は当たり前だと思ってたことが
親の努力の賜物であると気づく場面がたくさんあり
最終的に親には恵まれたと思えるようになり
当時より楽しく今いる環境に感謝している。

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