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多様性、その前に

高校時代、弟の本棚からこっそり取り出して、むさぼるように読んでいた

白戸三平の「カムイ伝」

実はこれ、カムイという忍者の話ではなくて、正助という名前の農民が主人公の漫画である。

もうずいぶん前に読んだきりなので、あやふやな記憶ではあるけど、あらすじは確かこんな感じだったと思う。

聡明で見目麗しく性格もよい正助は、周りの村人から慕われとても幸せに過ごしていた。しかし、正助は、下人として差別されていた集落に住む娘に恋をして、彼女と一緒になるために農民の身分から下人になる道を選ぶ。

そして、そこで彼が目の当たりにしたのは、まともな田畑も与えられず、肥溜めの処理や何やらのシットジョブをしながら、生きるのにカツカツの暮らしをしている貧しい人たちの姿だった。

賢く人格者である正助はすぐにその集落をまとめるリーダーになり、少しでもみんなの暮らし向きがよくなるように、若手の仲間たちと一緒にいろんなアイデアを考えては実行に移していった。

大雨や嵐の危機も彼の的確なリーダーシップで乗り切り、正助への集落の人たちの信頼もいよいよ確固たるものになったとき、ひとつの奇跡が起きる。

それは、痩せ細った土に植えた綿の木がしっかりと育ち、たくさんの綿が収穫できるようになったことだ。

それらを商人に売ることで、彼らはあの苦渋を舐めた貧しさから解放され、ようやく「人並み」に暮らせるようになったのだった。

しかし、彼らが自分たちと同じ「人並み」になったことを不愉快に思った人たちによる巧妙な策略により、正助たちはとても悲惨な結末を迎える。

集落を裏切った(と仲間たちに思わされた)正助は、怒りで打ち震える集落の人々の前に放りだされる。必死に弁明しようとする正助だが、あらかじめ舌を抜かれてしまっていて、あわわとしか言えない。

そして、彼は無惨にもかつての仲間たちに撲殺されたのであった。

当時はこのラストシーンがとにかく衝撃的だった。

しかし、今になって鮮やかに思いだされるのは、青空の下、とても嬉しそうに綿毛を摘む集落の人々の姿だった。

なぜ今、僕はそんな風に思ったのだろうか。

自分にとってその理由は実は明快なのだが、ここではあえて説明はしない。

ただひとつだけ言えるのは、この話を決して過去の話だとかフィクションだという風に対岸の火事として捉えない方がよいかもしれない、ということだ。

だって、この世界には

このような

差別

がいまだに厳然として

存在しているからである。

え?

世の中からは差別はどんどんなくなって、今や多様性を重んじる社会になっているよね?

うん、表向きはそうかもしれない。

確かに集団で行う分かりやすい差別は減ったと思う。

でも、僕ら一人一人が自分自身の心をしっかりと見つめたときに、

相手のことを知る努力も分かる努力も怠って、ただ世間的なイメージや他人の噂話だけで

その人のことを勝手に決めつけたり、見下したりした

経験はないだろうか?

ちなみに

僕には

ある。

(僕はこれまで割といじめやパワハラを受けてきたタイプの人間なので、この事実に気づくのにかなりの時間がかかったけど)

あと、もうひとつしっかりと認識しておくべきことは、この世界から

差別する人たちは絶対にいなくならないということだ。

そして、そういう人たちに限って表向きにはむしろ真逆のことを言うから絶対に彼らの言動には惑わされてはいけない。

つまり、今、世間では、多様性だ、一人も取りこぼしてはいけないんだ(SDGs)なんてしきりと言われているけれど、本当にそれを実現したいなら、

そんな僕らがまずやるべきことは

自分にも差別意識があるという事実をしっかりと認めた上で、なんとかそれを言動に映さないように気をつける

ということなのではないだろうか。

少なくとも僕は

あの集落に住む正助たちが自らの努力で得た綿の実りに対して、

心からよかったね

と祝福できる人間でありたいと思う。

と同時に僕自身もまた自らの努力で得た実りを誰にも踏み潰されることなく、仲間たちと喜び合えるような人生を送りたい。

そのためには、

自分がなるべく差別をしないこと

そして、

差別する人たちからしっかりと逃げること

を徹底すべきなのだろう。

しかし、言うは易し、行うは難し。

僕がちゃんとその夢を叶えるには、まだまだ相当の覚悟とガッツと知性が必要なのはどうやら間違いなさそうだ。


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