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じいちゃんに似てきた・・・(苦笑)

朝、洗面台の鏡の前で、久しぶりにヒゲのない自分の口元をみつめていたときだった。

「なんかおじいちゃんに似てきたな・・。」

とふと思ったのは・・。

確かに、この絶妙のへの字具合とか、死んだおじいちゃん以外の何者でもないではないか。

そして、このとき僕は思わず

「まいったな~。」

と心の中でつぶやいた。

もちろん嬉しくないわけではない。だって、おじいちゃんには生前すごくお世話になったし、何より自分が世界で一番、尊敬している人でもあるからだ。

ただし、その一方で、おじいちゃんは、僕の父親を含めて自分の意見に逆らった人々を片っ端から勘当してしまうような人でもあった(僕は幸い勘当は免れたけど・・)。

そして、今の僕は一見、勘当とは程遠い虫一匹殺さないようなラブリーなルックスではあるけれど、このおじいちゃんの激情ぶりや頑固っぷりは正直、他人事ではないぞ、と戦々恐々としてもいる。

まぁ、実際に、(最近はしなくなったけど)今から2,3年前のとてもストレスフルな時期を過ごしていた頃には、それこそ2~3か月に1回くらいの割合で、家の中で

「バカヤロー!」

と大声で叫んでいたような人間だったからだ。

ちなみに当時、そんな僕に妻と息子が付けたあだ名は、

だった(渚=大島渚監督のことね)

つまり、僕が若かった頃、あれだけ

面倒くさくて気難しいじじいだなあ

と思っていた人に、いつの間にか自分も近づいていた

という不都合な真実(笑)に今更ながら気づいてしまったと言う次第・・・。

でも、それは確かに「まいっちんぐマチ子先生」並みにまいった話ではあるけれど、実はそれ以上に喜んでいる自分がいることにもちゃんと気付いている。

というのも、似てきたというのは、すなわち

あの大好きだったおじいちゃんがずっと自分の中に生きていた

証だとも思えたから、それが何にも増して嬉しかったんだよね。

というわけで、ここで、そんなおじいちゃんのことを少しだけ振り返ってみることにしたい。

瀬戸内海の小豆島で暮らしていたおじいちゃんのことを、僕と弟は

ずっと

「島のおじいちゃん」

と呼んでいた。

僕らが小学生の頃、島のおじいちゃんは、ただただ寡黙で怖い人だった。

中学生、高校生になると、島のおじいちゃんは、孫の成績や志望校をやたらと気にしてしょっちゅう家に電話をかけてくるようなウザい人になった。

そして、大学生になって、ようやく、おじいちゃんは、孫(=僕)のことを可愛がってくれる、そして、おこづかいもたくさんくれる(これ何気に重要)とてもいいおじいちゃんになった。

まぁ、だからと言って、僕は、おじいちゃんが期待するような旧帝大や早慶といったいわゆる名門校に受かったわけでは決してなかった。
にもかかわらず、島のおじいちゃんはわざわざフェリーと新幹線を乗り継いで、僕の大学の入学式、卒業式のどちらにも来てくれた。

そして、それがきっかけで、何となく気が大きくなった僕は、夏休みや冬休みが来るたびにその「島のおじいちゃん」の家に頻繁に遊びに行くようになっていた。

そして、その度に、島のおばあちゃんから、

幼少のころずっと継母にいじめられていた話や、成績は良かったのに中等学校には入れてもらえず、小学校卒業後すぐに丁稚奉公に出された話や先の大戦の話、そして、戦後は貨物船のエンジニアとして活躍した話等々

おじいちゃんの波乱万丈のライフヒストリーを聴くのが定番になっていた。

正直、「なぜ、本人じゃなくて、おばあちゃんが話すんだ?」って思いながらずっと聞いてたけど(苦笑)

あと、確かに大変な人生だなあと思う反面、平和ボケした今の自分の日常とはあまりにもかけ離れた世界線過ぎて、そんなおじいちゃんの過酷な人生をきちんと理解できたかどうかは我ながら甚だ心もとない。ぶっちゃけ、おじいちゃんに限らず、その世代の人達は多かれ少なかれそういう人生だったんじゃないかな、くらいに思っていたし・・・。

一方で、口数が少ないおじいちゃんが自ら話してくれたエピソードが実は一つだけあって、その話だけは未だにすごく鮮烈に印象に残っている。

それは、彼が船乗りだった頃、航海中に大病を患って、ニューヨークで下船して、数か月間に渡って現地の病院に入院していた

というだけの話なんだけど、あの普段、全く動じずに威風堂々としたおじいちゃんが、このときばかりは

「言葉が分からない場所で、ずっと一人きりで入院していたのが、とにかく心細くて仕方なかった・・。」

としきりに嘆くのを見て、本当にそのときの彼の孤独感やさみしさが真に迫ってくるように感じられたのだ。

そして、このときはじめて僕は、周囲の人々に対してずっと分厚いATフィールドを張ってきたおじいちゃんの素の顔を垣間見たような気がして、実際、そこからどんどんお互いの心理的な距離が縮まったような気がする。

おじいちゃんが毎朝、コーヒーを飲むために愛用していたアメリカのファイヤーキング製の緑色のマグカップも、それ以来、より一層カッコよく見えたのは言うまでもない。

そして、僕が大学を卒業して上京してからも、島のおじいちゃんとの交流は続いた。

上京したての頃はそれこそ毎週のように電話がかかって来たし(そのほとんどに出れなかったけど(苦笑))、僕が初めての転職の時も、両親や友人がみんな反対する中で、おじいちゃんだけは応援してくれて、そのおかげで僕は転職に踏み切れたし、突然、倒れて入院したおじいちゃんを見舞いに、当時の彼女を連れて病院に行ったときには、もうほとんどしゃべれない状態だったにも関わらず、彼女を一目見るなり「べっぴんさんやのう・・・」って言ってくれたり、そして、その別れ際には、急に僕の腕をつかんで、「このやせ細った腕のどこにそんな力があるのか」と僕が驚いたくらい、ぎゅっと力強く握ってくれたりした・・・

ああ、なんか、書いてるうちに、涙がどんどんあふれてきたわ。

そう、なんでだか理由は分からないけど、おじいちゃんは、決して自慢の孫でもなんでもない、ただただ頼りないだけの青年だったあの頃の僕のことを、

本当にそのままの姿で

愛してくれていた人だった。

そんなわけで、照れ隠しで今まで色々とごちゃごちゃ言ってきたけど、そんなおじいちゃんに口元や性格が似てきたのは、まさに身に余る光栄以外の何物でもないのである。

そして、僕という人間の役割のひとつは、間違いなく、このおじいちゃんから受け取った愛を、息子なのか孫なのかは分からないけど、ちゃんと次の世代に託すことだって思っている。





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