見出し画像

限界寺社(写真はフリー素材から引用)

私の住む地域は典型的な田舎です。
少子高齢化はもちろん、地区内の小学校は統廃合により廃校となり、空き家もたくさん。
また、サルや鹿も出没して畑作業も思うようにいかないといった各地の田舎の課題がそのままわが地区にも当てはまります。

さて、そんな田舎ですが、今年はお寺の役が当たりました。
基本的に自分は無宗教なんですが、新家として地区内に家を建てて住み始めた際に自動的にというか当たり前のように檀家となりましたね。
そのことに対して別に不服はないですよ。小さいころから慣れ親しんだお寺ですし、小学生のころにはそのお寺にお経を習いに行ったりしていましたからね。
ただ、自分の成長過程ですべての宗教そのものに胡散臭さを感じてしまい、無宗教を貫いていますが、正月には初詣に行き、除夜の鐘をついて、結婚式はキリスト教の教会で挙げるという典型的な日本人ですよ。

先日お寺での集まりがありました。簡単に言えばお寺の会費みたいなもんで本山への納付金やもろもろのお金を集金してくださいというもの。今年からその金額も上がりました。本山納付金はもちろんのことお寺の修繕にかかる積立も含めて値上げを実施したとのこと。
たしかにお寺は立派な作りで修繕ひとつとっても専門の大工による必要もありますし、修繕費も普通の家とは違い高いもの。
歴史もありますからねえ。仕方ないとはいえ、地区民にとってはなかなかの負担です。
昔のお寺というは住民にとって学びの場であったり、遊び場所であったり、相談場所であったり、集会の場所であったり、また心を落ち着ける場所であったり、お寺の住職は地区の名士の役割もあったりして自然に人が集まる場所だったと思います。

でも時代が過ぎるにつれて、こういった役割を担うお寺というものの存在が薄くなってきたように感じます。
高齢者はまだこういった機能に期待して心の平安を求めたり、葬式などにはやはりお寺の役割は重要なので必要性を感じていますが、最近では葬儀もお寺ではせずに専門の業者による葬儀(住職による読経は必要ですよ)と葬儀場で行うのが当たり前になっていますし、家族葬という小ぢんまりとした葬儀もコロナあたりから当然のようになってきています。
そんなことから私たちのような壮年世代から下の世代にとってお寺の存在というのは非常に薄くなってきているのではないかと思うんです。
そんな存在のお寺に対して年間結構な額のお金を収めないといけなくなるというのはお寺離れが加速してしまうのではないかと思うんですよね。
事実地元の壮年世代より下の年代は地域から殆ど出て行ってしまってまず帰ってくることはないでしょう。住んでいるところが都になり、実家というのは逆にお荷物状態になってしまう。これが現実ではないでしょうか。

限界集落、限界ニュータウンなどなど限界のついた言葉をよく聞きますが、お寺や神社もまさに限界が来ているのではないかと痛感してしまう今日この頃です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?