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月 石井裕也:監督

実は、この映画の原作を私は途中で挫折してしまった。だからこそ、この小説を原作にした映画が公開されると知って見てみたいと思った。見終わった率直な感想は、原作を最後まで読んでない人間が言っても何の説得力もないが、本作は原作の解釈が間違っているのではないかと感じた。本作は最も描かれなければならないものが、すっぽりと抜け落ちているような気がする。やまゆり園の事件をモチーフにしたフィクションとして見ても決定的に欠けているものがある。それは、もの言えぬ障がい者であっても、確かに人として存在しているという絶対的な心理である。小説では障がい者自身を主人公として、それを語らせていたわけだが、映画表現ではそれは難しい。だから代弁者がいるわけだが、その役を担った夫婦が非常に中途半端な存在としか描かれていなかった。犯人の青年にあれだけ雄弁に語らせ、その思想的背景まで見せたのと対照的にである。まるで、犯人の思想に賛同した共感者の作った映画なのかと思えてしまった。特に違和感を覚えたのが、オダギリ演じる夫が、アニメーションを作っているが誰にも評価されず、色んな人からバカにされ、存在を認められず苦しんでいたが、海外の賞を受賞し、夫婦で涙を流して喜んだ場面、誰かから評価されないと存在価値がないのか?代弁者が、受賞した事で初めて自分は存在を認められたと泣くほど喜ぶというのはどうなんだ?この作品には、濃淡の差こそあれ、口ではあなたの考えは認められないと言いながら、思想的には犯人の思考を否定出来ない人物しか出てこない。原作はひとまず置いて置いて、この作品の存在価値は何なのか?ただただ、人間に絶望する為だけの作品のような気がした。非常に後味の良くない作品だった。原作が果たしてどうなのか、今度こそ最後まで読んでみたい。

追記
監督のインタビュー記事にこんな事が書いてあった。

石井監督:原作は、きーちゃんという人の“想念”から始まります。きーちゃんの性別や年齢は不詳で、目が見えず、上下肢ともにまったく動きません。そもそも、きーちゃんの“思い”も存在するかどうかさえ分からないものです。でも、決して“ない”とも言えないもの。それを映像に変換するのは不可能でした。
ただ、原作の一番重要な部分は、きーちゃんの想念に入り込もうとする作家の姿勢なのではないか。当事者ではない、安全圏にいる私たちが「命は平等だから、この事件はひどい」と簡単に言うのは、あまり意味がない。洋子という第三者を加えて物語にすれば、作家がきーちゃんの想念に接近しようとした姿勢に近づけるのでは、と思いました。

https://gendai.media/articles/-/117512?page=1&imp=0

石井監督:もし今回の映画が事件のセンセーショナルな部分にフォーカスしたものだったら、僕は監督を引き受けていなかったと思います。さとくんの狂気や悪意の醸成を丹念に見せるというよりも、あくまで、さとくんは“普通の人”で、今のこの社会を生き写しにした存在だということを表現したかったんです。
それよりも、観客のみなさんが重度障がい者のなかに入り込む、聞こえないものや見えないものに思いを馳せる、そんな映画にしたかった。

https://gendai.media/articles/-/117515?page=1&imp=0

なるほど、そういうことかと。
「原作の一番重要な部分は、きーちゃんの想念に入り込もうとする作家の姿勢なのではないか」聞こえないものや見えないものに思いを馳せる」
だから、さとくんというキャラクターの闇に作品全体が呑み込まれたような作品になってしまったんだなと得心した。思いは確かにあるという前提からスタートしなければ、結局どこまで行っても安全圏側の視点に過ぎない、厳しいようだが、そう言わざるを得ない。だから、PRの一環でひろゆき氏にコメント貰うような作品の根本を揺るがすような愚行が平気で出来てしまうのである。
今、この国に巣食う病理の正体は何なのか?見て見ぬ振りをしていることなのか?だとしたら現状認識が甘すぎはしないか?むしろ、どちらかと言えばという層も含めて、さとくんの方にシンパシーを感じてしまう大衆のあり様こそが危機的状況ではないのか?

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