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#24 村上春樹さんがかつて猫を棄てた御前浜公園(香櫨園浜)でチェアリング、そして須田国太郎展を見て父と子を思う

2024年3月16日。
兵庫県西宮市へ出かけました。
先達ての連れ合いの膝の手術からまだ日も浅く、彼女の膝になるべく負担をかけずに気晴らしに出かけられる場所がないかとGoogleマップと睨めっこをし、探し当てたのが西宮でした。
西宮市大谷記念美術館で美術鑑賞からの御前浜公園(香櫨園浜)で海を眺めながらチェアリング。
両所とも駐車場が近いところが素晴らしい。

まずは西宮市大谷記念美術館で『須田国太郎の芸術ー三つのまなざし—』展を鑑賞しました。

西宮市大谷記念美術館を訪れるのは、2004年開催の『没後30年 福田平八郎展』以来だったので、20年ぶりということになります。
この20年という期間に、生活の拠点を京都から東京へ移し、転職をし結婚もしました。そして、再度京都に戻り……、と私にとって人生の転換期といってもいい時期でした。

しかし、時が過ぎ、こうして再訪してみると、前回の福田平八郎展で観た『雨』や『漣』の感動がついこの間の出来事のように感じ、20年の経過が嘘みたい。
手入れの行き届いた寺院や美術館、公園は、変化や劣化を感じさせないから、ふと気を抜くと時の経過を忘れてしまうから不思議です。

庭園も素敵です
ありがたいことに
無料で散策できます
岡本太郎『午後の日』

岡本太郎の『午後の日』に見守られながらうたた寝でもして、目覚めたら20年前にタイムスリップしてしまいそう。
瀟洒な佇まいの美術館は、午後のゆったりとした時間にそっと寄り添って、中年男性の仕様もない妄想も仕方ないなと受け止めてくれるような懐の深さを感じます。

今回の須田国太郎展ですが、実は名前は存じ上げているものの作品自体を鑑賞したことがなかったので一目見ておこうと好奇心だけでやって参りました。

須田国太郎さん(1981-1961)は京都に生まれ、京都帝国大学及び同大学院で美学・美術史を学ばれました。スペインに渡欧し、ヴェネツィア派の色彩理論やバロック絵画の明暗法など西洋絵画の底流をなすリアリズムの表現を探求し、「東西の絵画の綜合」という壮大なテーマを掲げ、日本の精神文化に根差した日本本来の油彩画のありかたを追求された洋画家です。(パンフレットの受け売り)

撮影可だったので幾つか写真を撮りました。

『自画像』1914年
『椿』1932年
『動物園』1943年

作品鑑賞後、エントランスでエンドレスに流れている動画を見ました。
須田国太郎さんの息子の須田寬さんが父について語っている動画で、その中に感銘を受けたエピソードが二つあったのでここに備忘録として残します。
※メモを取らず眺めていただけだったので、言い回しや表現は私のアレンジでいい加減であることをここに断っておきます。

アトリエの須田国太郎さん
(撮影:土門拳)

一つ目。
須田寬さんは、家が狭く、部屋数も少なかったため、父が絵を描いていた部屋で子供の頃から勉強をしていたという。
画家といえば、リラックスした格好で時に煙草を燻らせながら絵筆を動かすというようなイメージだが、国太郎さんは深夜だろうと背広にネクタイをして正座でカンバスに向かっていた。
そんな父の姿を疑問に思い、なんでいつも背広に正座なの、と訊ねたところ「絵を描かせていただいているんだぞ。いい加減な格好で絵が描けるか!」と答えたそうです。
カンバスに向かっている父にちょっと声をかけようものなら、「黙れ!」と一喝され、絵と対峙し、格闘しているように見えたという。実際「絵と闘っている」と本人は言ったそうです。

ここに書くのも烏滸がましいが、私も学生時代に絵を描いていたのだが、背広ネクタイで端座で絵を描こうと思ったことがなかった。
絵を描くことは、自己との闘いという側面はあったものの、寧ろリラックスした行為だと思っていた。
それだけに、須田国太郎さんの覚悟とか姿勢が見えるエピソードで衝撃を受けました。
私なんて仕事ですら、昭和の予備校生のような格好だというのに……。

二つ目。
中高校生の頃の寬さんは、荷物持ちとして国太郎さんのスケッチに同行することがあったという。
瀬戸内の広島の方(場所を仰ってましたが失念しました)に気に入った景色見つけた親子は、度々その場所に出かけました。

国太郎さんがイーゼルを置いて絵を描き始めると近所の人々が集まってくるので、寛さんは恥ずかしくてその場を逃げるように離れました。
寬さんが国太郎さんから離れて向かった先は呉(だったと思います)で、好きな鉄道を見に行っていたそうです。
呉で車両の見学をした後、スケッチを終える時間を見計らい、再び父の元へ荷物を持ちに戻ったといいます。

このエピソードがただの鉄道好きな男の子の話ではなくて、後にJR東海初代代表取締役になる寬さんの回想なのが、なんともスケールの大きい話である。
個人的に映画化できそうと思う父と子のエピソードでした。

***

美術館を後にして、近所の御前浜公園へチェアリングしに行きました。車で5分程度の近さです。

御前浜公園
チェアリング

公園は犬の散歩やウインドサーフィンをする人、ビーチバレーをする人、波打ち際を散策する家族など、皆さん思い思いに過ごされていて、とても気持ちの良い浜辺でした。

ogawaのチェアに腰掛けながら、奥の松林を眺めていると、もしかしたらここは村上春樹さんの『猫を棄てる 父親について語るとき』で村上さん親子が縞柄の雌猫を棄てに行った場所ではないか思った。本の挿絵の松の木が印象的だったからだ。
家に帰って数年ぶりに本を開いてみたら、やっぱりここだった。

 とにかく父と僕は香櫨園の浜に猫を置いて、さよならを言い、自転車でうちに帰ってきた。そして自転車を降りて、「かわいそうやけど、まあしょうがなかったもんな」という感じで玄関の戸をがらりと開けると、さっき棄ててきたはずに猫が「にゃあ」と言って、尻尾を立てて愛想良く僕らを出迎えた。先回りして、とっくに家に帰っていたのだ。どうしてそんなに素早く帰ってこられたのか、僕にはとても理解できなかった。なにしろ僕らは自転車でまっすぐ帰宅したのだから。父にもそれは理解できなかった。だからしばらくのあいだ、二人で言葉を失っていた。

村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』
夕日、砂浜、松林

対岸の芦屋浜シーサイドタウン団地群が蜃気楼のように見える。
村上春樹さんが猫を棄てた頃は、まだ埋め立てられてなかったはずで、スコーンと海が見渡せただろう。

それにしても偶然とはいえ、須田家、村上家、両家の父と子の情景を垣間見た西宮散策となりました。
家族の数だけ父と子の形はある。当たり前だけどそんなことに思いを馳せました。

村上さんの棄てたはずの猫は、そのままもう一度飼い続けることになったそうです。
いやあ、良かった、良かった。

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