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11年越しのラブレター

東日本大震災が起きた翌年2012年に僕たちは結婚した。
よく言えば授かり婚で、11年経った今でも後悔はなかったしお互いに望んだ事だ。

子は鎹(かすがい)

時々、夫婦喧嘩をして仲直りするとしみじみとその言葉が身に沁みる。

結婚したのは29歳の時。
30歳を目前としていて、漠然と20代のうちに結婚したい気持ちもあったし、東日本大震災を目の当たりにしていつ死ぬかわからない。と、考えるようになったのもある。

いきなり結婚の話で切り出したが、僕はとっても結婚と縁遠い人間だったと思う。いや、結婚というか恋愛に縁遠かったというべきか。

今、思い返してみても僕には恋愛が一体なんなのか定義や概念がよくわからない。おかしな話しだが、結婚願望はあったけど恋愛願望が無いに等しかった。

それでも異性を求める欲はあったわけで、大学時代に勢いよく、かつ運良くお付き合いさせて頂いたお相手と健全な青少年達憧れの同棲まで漕ぎ着けても結局お相手さんは恋愛を楽しみたかっただけのようで破局。

将来を見据え大きめの部屋に引っ越したアパートに僕一人取り残された。その頃は一度付き合えばずっといられるものと考えてたし、そうとしか考えれなかった。

勉強しようと思い、本やテレビや映画を通して結婚のゴールが見えない他者の恋愛を覗き込んで思うことは、

付き合うって一体なんなんだ?
結婚しないけど付き合うってなんだ?
結婚するために付き合うんじゃあないのか?
どうせ別れるのに付き合ってなんの意味があるんだ?
体の関係?わからなくもないかな?

健全な結婚目的の方もいたかもしれないが、合コンなどで男女が集い恋をしようと過度な男らしさや女らしさを出し合う場も苦手だった。
打算的な結婚願望や、それ自体を考えない恋愛感が、デパートの一階にあるようなブランド品でバックや時計や宝飾品やアクセサリーの試着のように思えて冷めた目で見ていた。

見た目がカッコいいと言われたらカッコよくし続けないといけない。
男らしいと言われたら男らしくい続けなければならない。
優しいと言われたら優しくし続けなければならい。
羽振が良いと言われたら羽振り良くし続けなければならない

そんな褒め言葉をそんなに言われた事ないけど、冗談じゃない。相手の好みに合わせて自分を作って生きていたくなんかない。

誰かの人生のアクセサリーの一つとしてではなく、自分らしく生きていたかった。

子供みたいに無垢だった僕は大人になって行くのに従って、職場や友人や男女関係において多くの人間関係が打算で成り立っている事が分かり始める。

仕事で仲良さそうに同僚という名の敵と喋るのもだって、異性関係だってそうだ。何をするのにしても、お互いにメリットになるかデメリットなのか?見返りを求めることが言葉の端々から見え隠れする。友達関係だって地位や年収や恋人自慢で「マウント」を取る相手と分かれば気が抜けなくなる。

就職活動の面接の時に「尊敬できる人は?」と尋ねられて「自分の親です!」と言うのがタブーだと言われてるがちっとも理解できなかった。
要は、社会に出る前に組織という宗教に飼い慣らされてきたかが問われているのだろう。
部活などのコミュニティに所属出来なかった性分のせいか、不器用だけど甘やかしてくれる家族と学校の先生以外の大人を知る機会に乏しかった幼稚な僕も悪い。

それでも僕は僕の両親が大好きだし、どの大人よりも尊敬していると声を大にして言いたい。

父親は身だしなみに全くと言って良いほど気を使わない人で、仕事着以外の着ている服は全て母親が買ったものを着ている。人付き合いが苦手なくせに会社の営業やらされている反動のせいか土日の休みのうち1日は必ずと言って良いほど一人で人気のない山へ釣りに行ってしまう。家族に対してはというと子煩悩で、当時は画質が良くないデジカメで写される事に自意識過剰になり逃げ回る僕と弟をつけ回して写真を撮っていた。今考えるともう少し写真を撮らせてあげればよかった。

母親はパートで夫婦共働きだった。正義感が強く、よく感情的になる人だった。母はよく自分で話していたが、公立の高校受験に失敗して誰でも入れてしまう私立高校に行ったそのコンプレックスからか、僕や弟や妹に対して、人生のゴールが公立高校受験合格と言わんばかりに小中学と勉強を強要した。しっかりした教育ママのが印象的だったが意外な一面があった。僕の祖父母が亡くなった時に、葬式では声をあげてわんわんと「父さん父さん」と叫び泣いていた母が印象的だった。僕も祖父母が亡くなって悲しかったけど、自分の親が亡くなるとこんなに叫んで泣くんだなと、そんな母を見て胸が締め付けられたのを今でも覚えている。

決して裕福な家庭としての思い出はなかったけど、日々人間らしさに満ちた自分の家族が本当に大好きだった。

恋愛の話に少しだけ戻すと、例えば航空会社の客室乗務員やTVの女子アナ的な(今となっては古い?)ロールモデルとしての素敵な女性と知り合えたとしても、そこから先の展開が全く想像できなかった。
そんな素敵な女性は、服に無頓着な男性を好きにはならないだろうし、葬式で必ず周囲が引くほどわんわん泣いたりしないだろう。

勝手なイメージだけど。

30歳に近づくにつれて、自分の人生や男女関係に想い耽っているとより結婚が頭の中をチラつき、僕の中で「恋愛」という難解な方程式の「解」はいつも仲良しな自分の両親の顔が頭に浮かんだ。


大学に在学中の就職活動で本命の企業の最終選考に落とされて以来、半ば自暴自棄になった僕はやりたい事を見失い転職を繰り返し何度目かの職場で同僚の妻となる女性と出会った。
容姿は普通(自身が言っていた)オシャレに気を使う今時の女子だった。仕事の姿勢は、お客様相手に仲良くなることしか考えてない接客姿に自然と好感が持てた。仕事以外では、あからさまな打算的というかやりたい事やって欲しいことは気配からダダ漏れで話さずとも気持ちが汲み取りやすい末っ子。

社会に適応しようと、必死でその頃流行っていたハーバード流なるビジネスメソッドなど成功本が絶対と洗脳されかけて僕にとって彼女は異質な存在だった。

そんな彼女が、
お父さんの話をすると「穴が空いた靴下をずっとはいててうちのお父さん可愛いでしょ?」

お母さんの話をすると「いつでも死んだ犬の話をすると涙を流すんだよ?うちのお母さんかわいいでしょ?」

両親のことを心の底から好きなんだろうな。と話す表情と言葉の端々からそれを感じ取った。
何も言わなかったけど、そんなふうに嬉しそうに話しをしてくれる人と出会えた事に感謝をしてた。

そして、「この人は婚約者と素敵な人生を歩むのだろう」と思った。
当時、彼女には僕ではない別の婚約者がいたのだ。

おそらくというか、彼女は間違いなく僕よりも誠実でステータスが高い婚約者と人生を共に歩んだ方がどの世界線で見ても幸せだったと思う。ましてやその相手が大企業勤めなら尚更。フラフラ転職を繰り返している僕とは仕事上のキャリアや人生の終着点はステータスや金銭的に大きく違うだろう。
もちろん婚約者なのだから、彼女とそのお相手とは周囲には公認の関係。お互いに知人を交えた付き合い。お互いにのお互いの両親に挨拶済みだ。

僕じゃない誰かの幸せだとしても、その時は素直に訪れるであろうその未来の幸福を願った。

梅雨が続くある日、職場の仲間が囲むバックヤードで外の雨音に消されかけた彼女の声が聞こえた。

「お父さんが倒れた」

脳梗塞だった。

仕事のコアタイムの出来事で僕は少しでも彼女の為になりたいと思い、社内でも重要な彼女のやりかけの仕事を引き継ごうかと尋ねた。

僕が「今やってる仕事どうする?期日が今日までだけど?」と言うと、

彼女は「そんな事できる気持ちに余裕があるわけないでしょう?」

強い口調とは裏腹に声が震えていた事だけはわかった。

その言葉以上何も語ってくれずに彼女は足早に早退をした。

「あっ」と思った。

失礼なことをした!と思ったのではない。

僕自身も社会人になって祖父が亡くなった時のことを思い出したのだ。
その頃所属していた会社で重要な仕事を頼まれていた時期に母から突然の知らせが来た。祖父が末期ガンに侵されていた事実と共に訃報を知って全ての仕事を放り投げて東京から北海道の実家へ飛んだ。
飛行機の中では祖父が遊んでくれたり、好きなお菓子を頼んでもいないのに買ってくれたり、年金生活にも関わらず無理言ってゲームを買ってくれたことを思い返しては涙ぐんだ。
会社の規定で「両親以外の葬儀は2日間の休みとする」とあったが、知ったこっちゃあなかった。
どれだけ僕のことを大事にしてくれた祖父が亡くっなったと思ってるんだ?
葬儀を一通り終えて東京へ、会社へ戻り、一応は前もって申請していたはずの一週間の休みに対して厳重注意を受けると共に退職願を申し出た。

大切な人が命の危機に瀕した時に、周囲が引くくらい感情的になるのは、僕も母も、そして「彼女」も同じなのだろう。

二週間ほどだったかな。彼女の父は一命は取り留めたものの体の右半身に麻痺が残ってしまい、家業である農家の仕事は肉体的に制限される事になった。
気丈に振る舞いながらも少しやつれて職場復帰した彼女本人から聞いた。

その日の夜、一人しんと静まり返ったワンルームの天井を見ながら僕が体験したことと彼女に起こった出来事に想いを巡らしていた。

都合がいい時だけアウトローぶってカッコつけて人付き合いから逃げて、実際は社会の常識や規範に則って生きざるえなかった僕がある決断をした。

「かみさま。たった一つ。僕に生涯に一度だけ誰かの大切な物を奪う選択をさせて下さい。家族を何よりも大事にする彼女を僕に下さい。今までこれから出会う誰よりも彼女となら同じ方向を見て、お互いの両親から貰った温かい記憶を彼女と分かち合い育み生きていく自信が僕にあります。」

何事にも受け身で消極的な僕の一生の間で、誰にも譲りたくないものが1つはあってもいいと思う。いや、誰にも譲りたくないものが1つはあって良いんだと自分で自分に言い聞かせた。

その1つが決まり、根拠のない自信だけがその日から僕を動かしていた。

自意識過剰な僕が職場で噂になることも恐れず、自然と僕の体が彼女のそばにいるようになっていた。やるべき仕事を言い訳に職場で二人でたくさん話をした。彼女のお父さんの病後の経過や少しでも彼女が笑ってくれたらなと冗談話がほとんどだったけど。

汗が滲むほど暑い日に外で2人でお客さんを呼び込んだりもした。僕は汗っかきなのに近くで見ても全く汗をかいていない彼女の首筋をバレないように見ていた。

それから、食事に誘って、映画に誘って、彼女の好きな食べ物をいっぱい聞いて、家に誘ってそれを作ってもてなした。

「あなたに胃袋を掴まれたわ」

と言ってくれた言葉の意味を盲信して、君を抱きしめた。

いつ思い返してみても、実に僕の割にはすごく大胆な事をした。本当に「一生に一度の選択肢」を選んだのだと思う。

そこから、ジェットコースターみたいに様々な出来事に日々追われて今日に至る。

元婚約者さんに関しては申し訳ない気持ちがゼロではないけど、何より僕の方が君をより強く必要としていた結果だったんだと思う。

僕と君が三兄弟だったのと同じくお互いに「自分達の子供も三兄弟じゃないとしっくりこない」という理由で、三人の子供が僕たちにも出来た。

プロポーズというプロポーズもなく勢いで11年が立ってしまったけど、多分きっと人生で最初で最後のラブレターを書いてみました。

なりふり構わず、心の底から家族のことを大事にするあなたに心を奪われました。
僕たちの子供もきっと家族を大事にして、その孫もずっとずっと孫も家族を大事にするでしょう。
ずっとずっと前の先祖からここにいる僕たちがその証なのだから。あなたを愛しています。

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