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地図にない町

武見が迎えに来ているという話でしたが、それらしい姿は見当たりませんでした。空はどんよりと曇っていて、二両編成のディーゼル車はがらがらという騒々しいエンジン音を響かせてホームに停車していました。

駅前は閑散としていました。ロータリーを囲むように商店や事務所が並んでいましたが人影はほとんどなく、タクシーが一台停まっているだけです。この町の中心部が駅から車で十五分ほどの距離にあることは知っていました。私の新しい仕事場も住処も、そこにあるのです。私は病を得て半年間の休職後、復職することなく仕事を辞めました。私には家族もいない。両親も十年以上まえに死んでしまった。それならば思い切って、縁もゆかりもない土地でしばらく過ごすのもいいのではないか、と、この町にやってきたのです。両親から引き継いだ家を売り払い、二十年勤めた会社から思わぬ額の退職金を受け取っていたので、貯えにもある程度、余裕がありました。

しばらく武見を待って、また駅に戻りました。駅舎はとても古びていて、板張りの外壁は白く塗ったペンキが剥げ落ち、長い編成の急行列車などが通過すればばたんと倒れてしまいそうでした。比較的最近付け替えられたらしい、くずみね、と平仮名表記されたプラスティックの駅名看板だけがつやつやと光っていました。駅舎のまわりは申し訳程度に花が植えられたプラスチック製のプランターが二つあるだけで、あちこちに雑草がひょろひょろと伸びていました。

改札の横に、小さな待合室がありました。壁に簡素な木製のベンチが据え付けられていて、色褪せたクッションがぽつんぽつんと置いてあります。布カバーにはどこかで見た覚えのある動物のキャラクターがデザインされていて、誰かの手作りのようでした。私はホーム側のベンチに腰かけ、ただ一つの荷物であるベージュのボストンバッグを足元に置きました。バッグはもう何年もまえから家にあったものでしたが、出不精の私は年に数回しかそれを使っていませんでした。それにもかかわらずバッグのあちこちには染みがあり、くたびれて形は崩れていました。家の薄暗がりのなかでは気にならなかったものの、明るい日差しのもとではそのみすぼらしさはかなり目立ちました。私はここにくるまでのあいだずっと、バッグを隠すように持ち歩いていたのです。ベンチは壁に対して直角に取り付けられており、バッグはその下の暗闇にちょうどよく収まったので、私は少し安心しました。しかしベンチはつるつるとよく滑るので、あまり座り心地がいいとは言えませんでした。

大きな窓を背にして、臙脂色のジャージを着た中学生ぐらいの女の子がじっと俯いて座っていました。窓は蠟のように鈍く光るばかりで待合室内は薄暗く、その顔は影になってよく見えませんでした。事務室から出てきた年を取った駅員がなにか女の子に話しかけました。訛りがきつかったからか、私にはよく聞き取れませんでした。女の子は顔を上げ、ひとことふたこと言葉を返しました。私は驚きました。その声はひどくしゃがれていたのです。よく見ると、うなじの辺りで緩く縛った髪には白いものが混じり、顔色も土気色に沈んでいます。それは女の子ではなく老婆でした。ジャージは孫のものかもしれません。体育の授業用のジャージは動きやすく、見た目さえ気にしないなら実用的なことは間違いない。じっさい、私のかつての同僚のなかにも、部屋の掃除や庭いじりの際、子どものジャージを着ているのだと笑い話にしていた者が何人かいたはずです。そういう意味でこの待合室の老婆に対して抱くべき感情はある種の微笑ましさであるべきなのでしょうが、しかし私はどこかうすら寒いものを感じたのです。

老婆は顔をしかめ、かなり強い口調でなにかまくし立てていました。駅員は笑顔で首を振ります。老婆は言いたいことを言い終えるとまた俯きました。バス、という言葉はわかりましたが、老婆がなにを言おうとしているのかはさっぱりわからなかった。バスの遅延があったのでしょうか。駅員は終始穏やかに頷き、ときには、それはちがうぞ、まあそうだな、などと相槌を打っている。老婆の表情や口吻に驚かされたのはたしかでしたが、それが親しい者に対してみせる類の率直な感情の吐露であると思えば、見知らぬ土地で一人迎えを待つ私の、どこかしら強張った心持ちも少しはほぐれたような気がしました。

駅員はいちど事務室に戻り、盆にのせたお茶と菓子を持ってきました。駅員は私にも茶菓子を勧めました。盆には湯呑が二つ、それから四角い陶器の皿の上に小ぶりなおはぎが乗っています。おはぎには抹茶きなこをまぶしてありました。童話に出てくるような、緑が茂る、なだらかな丘のようにも見えました。

「よろしかったら、どうぞ」駅員はこの地方の訛りがはっきりわかる言い方で言いました。

「ありがとうございます。これは美味しそうだ」

「ささよしという、この町の和菓子店のおはぎです。県外から買いに来る方もいらっしゃるほど人気があるのです」

私は木の菓子切でおはぎを小さく切り分け、粉をできるだけ落とさないよう皿ごと持ち上げ慎重に口に運びました。もち米と甘さ控えめな餡が口のなかで混じり合い、とろけるようでした。この和菓子の優しい味わいは、駅員のどこかのんびりした方言、母音のiがuのなかにじんわりと染み出していくような方言の暖かさが隠し味になっているようにも思えました。

「お気に召していただき幸いです。冷凍ものもありますので、よかったらお土産にでも」

「お土産?ああ、私は旅行者ではないのです。この町で働くのです」

「そうですか。それは失礼しました。どちらでお仕事をされるのですか」

「スーパーくずみね、です」

「ああ、くずみね。私もよく利用します」

私は駅員の顔つきになにか変化はないか、無意識に探っていました。スーパーくずみねで働くことになったのは、私の上司だった新井の、個人的な繋がりがきっかけでした。新井の父親が私の祖父と付き合いがあったらしく、新井は私を格別可愛がってくれていたので、退職することになったときもあれこれと世話を焼いてくれたのです。私自身はというと、スーパーくずみねがどんな店で、地元での評判はどうなのか、ほとんど気にしていませんでした。駅員の表情に、格別の変化はなかった。あいかわらず、穏やかに微笑んでいるだけでした。

私が駅員と話しているあいだ、老婆はおはぎを手にしたまま、こちらをじっと見ていました。そのとき、ターミナル駅に向かう列車が出発することを告げるベルが鳴り、老婆は駅員と一緒に待合室を出ました。そして駅員の助けを借りながら、ドア脇の手すりにしがみつき、まるで数メートルの崖をなんとかよじ登るようにして乗車を終えたのでした。

 

私は待合室を出て、外にある五段ほどの階段に腰を降ろして武見を待ちました。空は曇っていましたが少し蒸し暑くて、何度も開襟シャツの裾をはたいて服のなかに空気を入れていました。汗が滲んだ腿にデニムが貼りつき、少し気持ちが悪い。昨日までぐずぐずと雨が降っていたようで、木陰の土は水を含んで黒く沈んでいました。

近くでタクシーの運転手がタバコを吸っていました。甘いような、懐かしいような匂いが私の鼻先をくすぐりました。私も十年ぐらいまえまで、タバコを吸っていたのです。今日のような蒸し暑い日に、胸ポケットに入れた紙タバコが汗で少し湿っていたことを懐かしく思い出していました。また、タバコを吸うようになるかもしれない、と思いました。

ロータリーの出口は、二階建ての長屋のようになった小さな商店に挟まれた短い道路でした。その先には旧道が走っていて、ときどき車や自転車が通過するのが見えます。しかし駅に向かってくる者はいなかった。

二十分ほどそうしていると、その短い道路を大回りに曲がって大型の白いバスが到着しました。亜真手国際福祉大学と青い字で書かれたバスでした。若者が次々に降りてきて、あたりはにわかに華やかな雰囲気になりました。こんな山のなかに大学があるのかと、私は手元のスマートフォンでこの大学の名前を検索してみました。数年前に新設された大学で、このくずみね町の外れ、ほとんど山のなかといっていい場所にあるようでした。

学生たちは楽しそうに話しながら通り過ぎていきました。申し合わせたように同じような髪型、同じような服装をしている若者たちの姿は、とうぜんですが、都会で見かけるそれと大した違いはなかったのです。

そのバスの陰から、黒のミニバンが現れたのでした。次の列車が到着するのと、ほとんど同じ時間でした。ミニバンはゆっくりとロータリーを回り、フロントグリルを縁取るシルバーのパーツが、曇り空のもとに拡散していた光の粒を吸い寄せ、ぎらりと光りました。

武見は車を降りると、かけていたサングラスをポロシャツの胸ポケットにしまい、あたりを見回していました。

「本多さん」

武見は階段に腰かけたままの私を見つけると小走りに駆けてきて、到着が遅れたことを詫びました。まだ四十代半ばで親から継いだスーパーを切り盛りする武見ですから、急な用件が発生することもあるだろうし、私は逆に、多忙のなか私のためにここまで出向いてくれた礼を述べたのでした。

武見は私が膝に抱えていたボストンバッグを、車の後部座席に置くよう言いました。私はそれを、シートの足元に隠すように置いたのです。後部座席にはアニメのDVDやぬいぐるみが散乱し、鼠色の車内に賑やかな色彩を与えていました。先日家族旅行から帰ってきたばかりなのだ、と武見は額に滲んだ汗を拭いながら言いました。武見の言葉は、先ほどの駅員や老婆ほどではないにしろ、あのゆったりした、優しいアクセントをまとっていました。

「チビが二人います。うえは小学校三年、下は四歳なんですが、わんぱくでしてね」

空は厚い雲に覆われていました。ターミナル駅でこのローカル線に乗りかえたときはよく晴れた気持ちのいい天気でしたが、山をいくつか越え、くずみねに近付くにつれてあたりはどんよりと暗くなったのを思い出しました。武見は車のエアコンを強めました。ごうという音が鳴りました。

「またひと雨、来るかもしれませんね」

私は、尻の下に違和感を感じました。女もののヘアクリップでした。それは二つに割れてしまっていました。先端に真珠のような白い球が付いていました。私は武見に詫びました。

「忘れるぐらいだから……かまいません」武見はしばらくそれを左手で弄んでいましたが、信号待ちのあいだに窓から投げ捨てました。

 旧道沿いには板塀の民家や商店、それから小さなホテルまでありましたが、どれも古びて灰色に沈み、歩道の縁石もところどころ崩れたままになっていました。道を歩いているのも老人ばかりだった。しかし古びた民家の軒先には小さな花が植えられた鉢が所狭しと並び、寂しいながらも、どこかのんびりした空気を醸し出していたのです。

道は線路から遠ざかるように進み、次第に民家や商店の姿は見えなくなりました。蒼い山々の影が迫る曲がりくねった道を、武見はミニバンを軽快に走らせました。道よりも少し低い、開けた場所には背の低い木が整然と並んだ果樹園らしきものが広がっています。山に囲まれ起伏に富んだ地形ですが、少しでも開けた土地があれば残らず田畑になっているようでした。

武見は車の中で、当面の予定について私に話しました。勤務は三日後からで、それまでに役所での手続きなどを済ませておくこと、最初は簡単な品出しなどに従事してもらうが、なにしろ人手が足りないので商品の買い付けや宣伝などもやってもらうようになるということでした。私はアルバイトも含めて小売業の経験はないのですが、武見は、きちんと教えるから大丈夫なにも心配することはない、仲間もみな親切だから困ったことがあれば何でも気軽に相談すればいい、と請け負いました。リラックスした様子でハンドルを操る武見はすらりとした長身で、浅黒く日に焼け彫の深い顔の造作は、一昔前の刑事ドラマで見かける俳優を思わせました。武見自身もふだんはエプロンをつけて店に出ているというのですから、その姿を想像すると少々滑稽ではありました。

田畑に挟まれた曲がりくねった道を十分ほど走ると、国道沿いはだんだん賑やかになりました。まっすぐに伸びる道は二車線になり、ファミリーレストランや衣料品店、パチンコ店、ドラッグストアなどが並んでいました。

「もう少し先に町役場があります。見ての通り田舎ですが、この辺りにくればまあ、一通りのものは揃う」

くずみね町役場前と書いてある信号を直進し、さらに十分ばかり走ったところで武見は車を停めました。目の前にあるのは広々した殺風景な土地にぽつんと建った二階建ての古い木造アパートで、スーパーくずみねが従業員のために一棟まるごと借り上げていたのです。一階と二階に三部屋ずつ合計六部屋、錆びた鉄階段は建物の正面を右から左に斜めに横切るように設置されていました。一階と二階の外廊下とあわせてZの字を描くような具合でした。私の部屋は、一階の端の一〇三号室。Zの字の終わりの部分です。

道とアパートを隔てるだだっ広い空き地は砂利敷きで、ところどころ黒い土が見えました。水溜りもありました。武見はミニバンをがたがたと揺らし、小石を弾き飛ばしながらその真ん中あたりまで進みます。軒下にいた白猫がアパートの陰に逃げ込むのが見えました。あたりのくすんだ色彩のせいもあってか、猫の美しい白い毛はまるで発光しているように見えたのです。猫が隠れたあたりには角材と波板トタンで屋根囲いした小屋のようなものがありました。

武見は車のバックドアを開けました。そこには段ボール箱がひとつ置いてありました。側面にカチ割氷2キロ×6袋と緑色の字で印刷されている。

「身の回りのものに、こだわりはありますか」

「こだわりというと?」

「例えば歯ブラシは豚毛などでなければならないとか、シャンプーはノンシリコンのものを愛用しているとか」

「考えたこともないですね。だいたいホームセンターで安売りしているものをまとめ買いしていました」

「そうですか。よかったらこれを使ってください。当面の生活には困らないと思います」

 段ボール箱のなかみはカチ割氷ではなく、シャンプーやボディーソープ、T字髭剃り、ハンドタオル、スポンジ、プラスティック製の食器、下着などでした。私は食器用洗剤をひとつ取り出し、半透明の、濃い青色のどろりとした液体を曇り空に透かして見ました。ラベルはごくシンプルで、サラクリンという商品名が少し気取った書体で書いてあるほかは、主成分や製造者が素っ気なく記載されているだけでした。

「うちの店で取り扱っているものです。隣の県に工場がある。業務用をメインにしているメーカーです。おそらく聞いたことのないメーカーでしょうが、大企業のOEMもやっているし、質はそれほど悪くない」

OEMというあまり耳慣れない言葉の意味はよくわかりませんでしたが、私は頷きました。

私の荷物はボストンバッグひとつで、二、三日分の着替えとスマートフォンの周辺機器が入っているだけでした。時期外れのコートやセーターの類などは翌日宅急便で届く手はずになっていたのです。あとは現地調達するつもりでしたが、武見からの思わぬ贈り物のおかげでだいぶ手間が省けました。布団は自分で用意するように、と武見は言いました。布団。私は今回の引っ越しに当たり、布団のことはなにも考えていなかった。私は床のうえに直に寝るのも、さほど気にならないのです。

武見はポケットから取り出した鍵をしばらくガチャガチャやっていましたが、いちど首を捻ったあとでドアをゆっくり開けました。どうも、鍵がかかっていなかったようなのです。私は段ボール箱とボストンバッグを抱えて武見に続いて部屋のなかに入りました。

部屋のなかは真っ暗でしたが、武見が奥の窓にかかったカーテンを開けると、すりガラスが白くぼんやり光り少し明るくなりました。

古い畳は一歩踏み出すごとに少し沈み込むようでぐらぐらと揺れ、落ち着かない気分がしました。テレビ、エアコン、冷蔵庫、ガスレンジは備え付けてありました。

洗濯機は外にあるものを自由に使ってよいとのことでした。さきほど、武見の車に驚いた白猫が逃げ込んだ小屋のなかに洗濯機が二台あるそうです。それからそこには私たちが通勤に使う自転車も停めてあるとのことでした。

エアコンも冷蔵庫も、いったいいつからここにあるのかわからない古びたものでした。テレビは比較的新しく見えましたが、聞いたことのないメーカー製の十四インチ液晶テレビで、白いカラーボックスのうえに置いてありました。カラーボックスにはワゴンセールで格安で売っているような名画のDVDが数枚、それからけばけばしいピンク色のアダルト物がひとつありました。武見はそれを摘まみ、顔を顰めました。DVDプレイヤーは見当たりませんでした。

「私の記憶では、テレビとプレイヤーはセットで買ったはずなんです。プレイヤーだけ、まえの住人が売ってしまったのかもしれない」

電気とガス水道が使えることを確認しました。エアコンのスイッチを入れたとき、どんと大きな音がしましたが、すぐに清涼な風が吹き出し、私はほっとしたのです。風呂もトイレも、古びていたがきれいに掃除してありました。トイレはもともと和式だったものの段差を利用して、洋式便器を据え付けたものでした。古い飲み屋で同じようなものを見たことがあった気がしました。

玄関と六畳間のあいだは板張りの床で、流し台とガスレンジは玄関に並んで外を向く形になっていました。ガスレンジには水を張った雪平鍋が置いてあり、昆布が一枚沈んでいました。武見はそれについてとくにコメントをしなかったので、私もなにも言いませんでした。

床はつるつるに磨いてあって、化繊の靴下履きの足を滑らせそうになりました。何気なく開けてみた冷蔵庫のなかには、たくさんの缶ビールが冷えていました。四合瓶に入った日本酒も数本あった。一本四、五千はする、私からすればずいぶん高級な日本酒でした。武見が入れてくれたのかと思ったのですが、

「新井さんという方から、店に送られてきました」武見は言ったのです。私は新井の、ポマードでてかてかに光った黒髪やでっぷりと肥えた頬をぼんやり思い出していました。裕福で躾も厳しかったらしい家に育った新井のなかには、その反動からか、大人になってからも子どもっぽい反抗心のようなものが根強く残っていました。繁華街の真ん中に車を停めっ放しで何時間も買い物をしたり、仲間を家に呼び、深夜まで大きな音で音楽を鳴らしながら騒いだり、とても五十も半ばの大人のやることとは思えないことばかりし、私たちを呆れさせていました。そして新井はスノビズムを極端に嫌っていましたから、高級レストランや寿司店などには滅多に出向かない、付き合いで行かなければならないときはわざと汚らしい格好をして、店のなかでも大声で下衆な話をするのです。そんな調子ですから、酒など酔えればいいのだと、安い発泡酒やチューハイばかり飲んでいました。だからこういうものが送られてくるのは意外でしたが、きっと酒屋の店員に言って、適当に見繕わせたのでしょう。先述した通り、私は新井の紹介でスーパーくずみねで働くことになったのですが、武見と新井とは面識がないようでした。

武見は続いて、流しの下の扉を開けました。ペットボトルに入った醤油やみりん、保存容器に入っているのは塩と砂糖らしかった。

「これも課長、いや新井さんからですか」醤油もみりんも半分ほど空いていました。奥のほうにはステンレスのボウルとザル、フライパン、包丁やまな板まである。どれも新品ではなかったけれど、きれいに磨いてあって金物類は暗闇のなかで鈍く光っていました。

「この部屋は長く空いていたので、一部の住人が交流スペースのように使っていたのかもしれません」武見は言いました。「必要なければ捨ててください」

 

武見が帰ったあと六畳間のほとんど真ん中で足を投げ出し、部屋のなかをぐるりと見まわしました。天井板や長押のくたびれ具合に比べて、壁や押入れの襖はいやに白い。窓のアルミサッシはレールの隅まで磨かれ鈍く光っていました。私はすりガラスを開きました。裏手は空き地で、アパートから遠ざかるほどにだんだん雑草が増えて、その先は黒い川が流れています。とても川幅が広く、向こうは深い緑で、靄に霞んではっきりと見えませんでした。空は相変わらずどんよりと曇っていました。空き地には物干し台が三つ並んでいましたが、なにも干していなかった。

私は大きく伸びをしながら畳のうえに横になりました。まだ二時を少し回ったところでした。家を出たのは朝の六時まえでしたが、長旅の疲れはほとんどなかった。私は少し、あたりをぶらついてみようかと思いました。アパートに着いたら日用品を買いに行くつもりだったのですが、武見のお陰でその手間が省けた。それならば気楽に、このあたりを散策してみようと思ったのです。スマートフォンで天気予報を確認すると、夜までは曇り空が続くようでした。空いた時間に町役所で手続きをしてもよかったのですが、ようやく腰を落ち着けることができた開放感を楽しんでいた私は、いまさら堅苦しい場所に出向く気にはならなかったのです。

私はさっそく、与えられた自転車を活用することにしました。前輪の泥除けの上に設置された前かごの正面には、黄色地に黒色のゴチックで「安全パトロール中!スーパーくずみね」と書かれた色紙をラミネートしたボードが結束バンドで留められていました。白猫が洗濯機のうえに丸くなって、私をじっと見ていました。

「さっきは驚かせて悪かったね」私は言いました。白猫はじっと私を見ましたが、すぐに大きなあくびをして、顔をきちんと揃えた前足に乗せ目を瞑ってしまいました。首輪はしていませんでしたが、しなやかなからだつきの、美しい猫でした。

自転車は部屋の家具と同様古びたものでしたが、錆びなどはなく、きちんと油が差してあって、スムーズに漕ぎ出すことができました。でこぼこした空き地を出て振り返ると、アパートは周囲から取り残されたようにぽつんと立っています。鉄パイプでいい加減に囲ってある両隣も空き地で、黒い土がむき出しになっている。アパートはまるで海のなかに浮かんでいるようなのです。それとも大火事かなにかで、アパートだけが取り残されたような感じがしました。そのとき私の視界を、白いものがすごい速さで横切りました。あの白猫でした。白猫は鉄パイプに絡みつくように生えている低木のまえで私を一度振り返ったあと、からだを低くしてするすると、姿を消したのでした。

自転車で走っているうちに、雲のあいだに切れ目が見え始めました。道沿いには、ゆったりとした前庭のある古い農家が目立ちましたが、駐車場を一階に押し込んだような箱型の建売住宅もありました。小さな工場や児童公園、蕎麦屋もある。しかしやはり全体として、空き地が目立ちました。都心郊外の私鉄駅沿線の風景から建物をいくつか、背の高いものや今風の意匠を施した店舗を優先的に、大胆に間引きすればこんな感じになるかもしれない、と思ったのです。

右に曲がる道があり、その先に、橋のようなものが見えました。私はハンドルを右にきりました。

アパートの裏を流れている川のようでした。川幅は二、三十メートルといったところでしょうか、しかし肝心の橋はというと、土手のうえのたもとと川のなかの二本の橋脚が残っているばかりで、向こう岸に渡ることは不可能でした。たもとにはトラロープが張られ、通行止め、と書いた鉄のプレートが括りつけられています。もうずいぶん長いことそうなっているらしく、トラロープはすっかり色褪せ、橋の上にだらんと垂れ下がっていました。

川岸はほとんど草で覆われていましたが、橋の残骸の周辺は大小の石が転がる河原になっていました。私はそこに降りてみました。誰かがバーベキューをしていたのか、黒く焦げた石もありました。ふと見ると、古い鉄製の看板がある。このあたりに生息する鳥や魚がイラスト付きで紹介されていました。しかし看板は劣化がひどく、文字がかすれて読めない部分もあった。そして下のほうには誰かがいたずらに、マジックペンで「ノラネコ」と書いていました。「見かけたらコロすこと」。ひどい説明文が、汚い字で付け加えてありました。私は嫌な気分になり、河原を離れることにしました。そして明日にでも白いペンキを買い、落書きを消してやろうと思ったのです。

 

また国道に戻ってしばらく走りました。住宅の数は減り、代わりに、丈の低い青々とした作物の植わった畑が広がっている。狭い歩道と畑には四、五十センチほどの段差があるのですが、柵のようなものは設置されておらず、私はスピードを落として慎重に自転車を漕ぎました。

コンビニエンスストアが見えてきました。コンビニエンスストアは交差点の角に建っていて、かなり大きな駐車場には、地元ナンバーの軽トラックや軽自動車が何台か停まっています。私は交差点を右に曲がりました。そこから、両側を木立に囲まれた緩やかな上り坂になりました。狭い歩道は旺盛に伸びた木の枝で半分以上塞がれていたので、車道を走らざるをえなかった。ときどき、かなりのスピードで車が追い越していくので、ひやりとしました。坂は途中から急な左カーブとなり、視界はしばらく白いガードレールの向こう側の薄暗い雑木林だけとなりました。カーブが終わるとふいに視界が広くなりました。開けた場所があり、平屋の木造住宅が一軒建っていました。

スマートフォンの地図を確かめると、その道は一本道で、くずみねの町を囲む山のなかに入っていくようでした。私はここで引き返すことにして、家のまえで自転車を停めました。

家は鬱蒼と茂った木々に囲まれていました。道とのあいだに境界のようなものはなく、砂利敷きの広場がいつのまにか庭になっているようでした。それに面して大きな掃き出し窓があり、縁台のまわりに植木鉢が並んでいる。一軒の横に長い家と思っていましたが、扉は二つあり、それぞれに表札と郵便受けがついていました。

「くずみねの人だ」とつぜん声がしました。女の声でした。女は私のすぐ後ろに立っていました。「ねえ、いまから店に行くんでしょ?乗せてってよ。バスが行っちゃって」

 女がいつのまに現れたのか、わかりませんでした。私がこの場所を見つけたときは、人の気配がなかった。通りから走ってきたのか、建物の陰にいたのかもしれません。

「店には行きません」

「なんで?」

「今日は仕事ではないので」

「そうなの。じゃあちょっと、チャリ貸してくれないかな」女は言いました。見たところ三十代中盤から四十ぐらい、ほっそりとしたからだつきをしていました。肩ぐらいの髪を栗色に染め、色白で、頬の辺りにそばかすがありました。

「遅刻しちゃう」

「かまいませんよ」私は自転車を降りました。

「悪いね。アパートに今日来た人でしょ?帰りに返しに行くから。あ、ちょっと待ってて」女は踵を返すと二つ並んだ扉の右側を開け、またすぐに出てきました。

「スマホ忘れてた。スマホ忘れたのに気付いてバス停行く途中で引き返したんだった。バカみたい。あんた、どの部屋?」

「一〇三号室です」

「了解。帰りに返しにいくから」

女は引き締まった尻を振って漕ぎだすと、あっという間に坂を下っていきました。その姿はあっというまに見えなくなってしまった。

帰り道は歩くことになりましたが、まあ仕方ないでしょう。私は女を見送ったあと、平屋住宅のまわりを少し歩いてみました。通りに面した庭の物干しに古いハンガーがぶら下がっているだけで人の気配はまったくありませんでした。しかし野良猫がいました。白地に、黒いブチのある太った猫です。ブチ猫は裏手の繁みから歩いてきて、左側の家の縁台に飛び乗って座ると、私を見て大きなあくびをしたのです。するともう一匹、ほとんど同じ模様の一回り小さな猫が繁みから飛び出してきました。小さいほうも縁台に上がり、大きい方にからだを押し付けるようにして座りました。小さい方は大きい方の顔に、頭をぐいぐいとおしつけています。母娘なのかもしれません。とても微笑ましい光景でしたが団欒を邪魔しても悪いので、私はそこを離れて家の裏側に行きました。

丈の低いのやら高いのやら、様々な雑草が好き勝手に生い茂っている先は、急な斜面になっているようでした。それは非常に急峻で、かなりの高さがあり、鬱蒼とした木々に覆われていたのです。木は無秩序に、各々の領域を少しでも広げようと枝や葉を広げあい、複雑に絡み合っていました。崖の下には緑色の平野が広がり、少し先に川が流れていました。アパートの裏手を流れている川でしょう。川幅は広く、川縁まで緑に覆われていました。あたりに建物や道は見当たらず、原野といっても良さそうな場所でした。駅からここに来る途中の山道沿いでは、ほんのわずかでも平地があればそこを耕しなにか作物を植えていたのに比べると、少し奇妙な感じがしました。あるいは、眼下に広がる一帯は湿地に近く、農作物の栽培には向かない土地なのかもしれない。

しかし視界のずっと向こうの、山々が蒼い影となっているあたりには、町のようなものが見えました。白っぽい、箱のようなものがぽつぽつと並んでいるのが、薄靄の向こうに見える。あれはなんという町だろうと、私はスマートフォンで、地図を確認しました。しかし不思議なことに、その方角はどこまでいっても緑色に塗り潰されていて、町らしきものは見当たらないのです。私はもう一度木立のあいだから眺めてみました。今度は先ほどよりもよほどはっきりと、町の姿が見えた。町と村のあいだぐらいかもしれません。緑色の絨毯のうえに、白い、こじんまりした、赤い屋根の家がある。童話のなかに出てくるような、いかにも長閑な、心安らぐ風景でした。学校のような、比較的大きな建物もあったのです。

やがて私は繁みのなかに人幅ほどの切れ目を見つけました。そこは人の足で土が踏み固められ、雑草が生えていない。その先には道があるようでした。ひょっとして、そこから斜面を下っていけば、アパートの裏手に通じる道があるかもしれない。女に自転車を渡してしまった以上、どのみち歩いて帰らなければならないのだから、草むらのなかを歩くのもまた一興かと、気軽に思ったのです。

繁みに足を踏み入れると、小さな羽虫が一斉に襲い掛かってきました。手で羽虫を払いのけ、小さな石が転がる道を進むと、やはり道は崖の縁に沿って少しずつ下っているようでした。じきに、雑草に覆われた崖の縁は私の頭ほどの高さになり、剥き出しになった土からは木の根が絡み合いながら飛び出し、水が滲んでいました。さらに進むとあたりは背の高い木に囲まれて薄暗くなり、甲高い鳥の鳴き声がしました。張り出した木の枝が行く手を遮り、足元にも小さな草が増え道がはっきりしなくなってくる。それに地面はぐじゅぐじゅと湿っていて、うっかりすると足を滑らせて転びそうになる。そうすれば急な斜面をそのまま転げ落ちてしまうでしょう。

しかし私はその先に進みたいという好奇心を抑えられなかった。そのときは、斜面を下ってアパートの裏手に向かうというよりは、崖のうえから眺めたあの町を訪ねてみたいという気になっていたのです。さきほどスマートフォンの地図で確かめたところ、山裾までの距離は五キロ弱といったところでした。一時間もあれば町が見えたあたりまで辿り着くでしょう。町のなかを少しぶらついて、あとはタクシーでもなんでも捕まえて帰ればいい。確認のために、もう一度スマートフォンをポケットから出してみました。しかし地図アプリは動かない。電波を受信できていなかったのです。

とつぜん、がさがさっと、木の枝を揺する音がしました。先ほどの猫か、鳥かもしれません。枝葉は私の頭上を覆いつくし、曇天の空からはまた雨が落ちてきそうでした。私は急に心細くなり、踏み出す足には先刻のような勢いがなくなっていました。引き返そうか、と思ったときでした。斜面を削って木の板を敷いた、長い階段があるのが見えたのです。階段はときどき曲がりくねりながら、鬱蒼と茂った森のなかをずんずんと下っていきます。どうやらそこから下に降りられるようでした。そしてそのあたりの木々は比較的背が低く、また原野を眺め下すことができたのです。町が見えた方角は靄に包まれていましたが、川幅の比較的狭いあたりに、大きな石がごろごろと転がっているのが見えました。それを辿れば、とにかく向こう岸に行くことはできそうでした。すると私は、あの町まで歩いていく気にすっかりなっていたのです。

しかしさっそく困難に見舞われました。十段ほど下がったあたりで土が崩れ、大人の背丈以上の高さが急峻な斜面になっている。私は足止めをくらったのです。まわりの木に捕まりながらなんとか降りられないこともないかもしれませんが、足元はかなり湿っているし、大きな石も転がっていて、途中で飛び降りることもできなさそうでした。私は階段にしゃがみこみました。目のまえに広がるのは黒色の太い幹の連なりで、その先になにがあるのか、まるで見当がつかない。

胸ポケットに入れたスマートフォンが震えたような気がしました。取り出してみると、なぜかここには、電波がしっかりと届いているようでした。先ほど見ていた地図アプリが起動しました。私のいる位置を示す青い点は小刻みに震え、そのすぐ隣には大きな川が緩やかに曲がりながら流れている。私は画面をスクロールし、向こうの山裾の辺りをもう一度表示させようとしました。私は驚いた。先ほど一面の緑だったあたりには道が走り、建物を示す四角い表示もある。しかし画面はそこでとつぜん固まり、暗くなってしまったのです。

 

日は陰り、あたりは色彩を失って濃い灰色に沈み始めていました。まばらな街灯の灯りが暮れ始めた青黒い空のなかに頼りなく浮かんでいました。いつのまにか、すっかり時間を食いつぶしてしまったのです。私はあれから住宅の周辺を丹念に歩き、崖の下に繋がる道がないかどうか調べていたのですが、徒労に終わったのでした。

私は長い坂を下って国道沿いに戻り、交差点のコンビニエンスストアで水とハンドタオルを購入しました。コンビニエンスストアは、入り口が二重になっていました。虫が飛び込んだり、雪が吹き込んだりするのを防ぐためでしょう。しかしそれ以外は東京で見るのと変わらない。同じ商品が、同じ配置で並んでいる。どこか不貞腐れたような若い店員の態度も同じです。しかしずいぶん長いあいだ誰とも会わずに繁みのあいだを歩いていた私には懐かしく、心がほっと落ち着いたのです。視線を落としたままこちらに顔を向けようともせず、マニュアル通りの言葉を早口でぼそぼそと口にする男でさえ、まるで何年も会っていなかった懐かしい友人のような気がしました。私はレジ袋を要求しましたが店員はそれに気付いていないのか、あるいは面倒だったのか、会計を終えても商品をカウンターに置いたままでした。れ、じ、ぶ、く、ろ、と私が言うと、店員はカウンターの下からレジ袋を取り、大きな音を立てて広げ、乱暴に商品を入れたのでした。

私は広い駐車場の車止めに座り、買ったばかりの水を飲みました。目の前の横断歩道のガードレールには鉄製の空き箱が針金で括りつけられ、なかには色褪せた横断旗がいくつか、うなだれたように収まっていました。車はほとんど通過しませんでした。道路の向こうは山が迫り、段々に小さな家が建っていました。

歩き始めてしばらくして、雨が降り出しました。私はスマートフォンと財布をレジ袋に包み、傘もささずに歩きました。コンビニエンスストアに戻って傘を買うことも考えましたが、まだ雨の勢いもそれほど強くなく、こうして歩いていればじきに、アパートが見えてくると思ったのです。しかしそれは大きな誤解で、雨はどんどん激しさを増し、二十分近く歩いてようやく、アパートが見えてきたのでした。そのころはすっかりびしょ濡れで、いくぶん、投げやりな気持ちになっていました。アパートのまえの空き地には、先ほどはなかった白いワゴン車が停まっていました。ワゴン車はそうとう年季が入っていて、ところどころに小さな傷や凹みがありました。

ようやく軒下に逃れ一息ついたときは、シャツもジーンズもたっぷりと水を含んで、白いコンクリートにぼたぼたと滴を落としていました。からだがガタガタと震えました。明日、役所に行って手続きをするよう、武見に言われていたことを思い出しました。部屋に入ったらすぐに風呂につかろう、と思ったのです。

扉を開けるまえから、甘い匂い漂っていました。匂いの正体は、ガスレンジでぐつぐつと煮立っている土鍋でした。痩せた男が台所に立っていて、私に向かって片手を上げました。

男はホンダムツオと名乗りました。

「ブックの本に、田んぼの田。夫婦睦まじくの睦、それから夫婦の夫だ。独身だがな」

「どうも本田さん、私も本多といいます。本多道雄です」そう言って私はぐっしょり濡れて重くなったスニーカーを履き直しました。「部屋を間違えたようだ」

 記憶にないのですが、きっと表には、本田という表札が出ていたのでしょう。そしておおかた武見が字を間違えて作ったのだ、と一人合点し、私は扉を開けた。ほんの数秒前のことが記憶にないのもおかしな話ですが、私はそれほど疲れていた。私は頭を下げ、部屋を出ようとしました。

「いや、ここは間違いなくあんたの部屋だ。俺が寝起きしているのは隣の部屋だ。ではなぜ俺がここにいるかと言うと、あんたの歓迎会をやろうと思うんだ」本田は言いました。

「それは、どうも」いつのまにか他人の部屋に上がり込んで、料理までしているとはなかなか常識外れのようでしたが、私はそれを受け入れていた。本田の話し方にあの、駅員や武見の話し方と同じ、ゆったりした、優しく暖かいこの地方の訛りが強く感じられたからかもしれません。いや、ただ単純に、ずぶ濡れになって数十分、慣れない土地を歩き続けた疲れが、戸惑いや警戒や怒りの感情を萎えさせていただけなのかもしれない。とにかく私は本田がそこにいることをごく自然に受け入れていたのです。

「濡れ鼠だな。傘は持たない主義か。イギリス流だな」

「いえ、ふだん、傘は使います。持っていなかっただけなのです」

「そうか。あんたがイギリス人じゃなければ、傘があれば使わない手はないぞ。そんなふうにずぶ濡れにならなくても済むからな」

「私もまったく同じ意見です」私はシャツを脱ぎ、たたきのうえでぎゅっと絞りました。

「靴も濡れているな。靴のなかに新聞紙を入れておいた方がいい」

「新聞紙はありません」

「新聞は読まない主義か」

「そういうわけではないのですが、ここに来たばかりなので」

「あとで俺の部屋のを持ってきてやる。新聞は便利なものだ。濡れた靴を乾かせるし、イモを包んでおけばずいぶん日持ちする。ときどき、世間で起こってることなんかもわかる。いいことも悪いこともな」

私は本田の話を聞きながら、すっかり濡れてしまった衣服を脱いでいました。先ほど武見と一緒にお湯が出ることを確認しましたから、シャワーを浴びようと思ったのです。武見にもらった段ボール箱からタオルを出し、風呂場で下着もすべて脱ぎました。扉は曇りガラスの引き戸で、台所に立つ本田の影がぼんやり見えました。

「ホンダミチオさん」本田がとつぜん、大きな声を出しました。

「なんですか」私はシャワーを止めて答えました。

「ブックの本に、田んぼの田か」

「いえ、多い少ないの多です」

「ブックが多いというわけか。読書家だな」

「そういうわけではない。むしろ本は読まないほうです」

「ミチオは」

「道路の道に、オスの雄です」

「そうか。いい名前だな」

「ありふれた名前ですよ」

「そんなことはない。とにかく同じホンダじゃ紛らわしいから、俺はあんたをミチオさんと呼ぶ。あんたは俺をムツオさんと呼んでくれ。みんなそう呼んでいる」

「わかりました、ムツオさん」私はまたシャワーの栓を捻りました。

ムツオさんの話し方には、例の、この地方の方言がときどき強く現れました。駅員と同じように、母音のiがuのなかに滲み出す。そうすると、せっかく下の名前で呼ぶことにしたのに、二人ともムツオさんになってしまう。私は熱い湯を浴びながら一人でくすくすと笑ったのです。

軽くシャワーを浴びただけでもずいぶんすっきりしました。濡れた服は風呂場の浴槽の縁にかけてありました。乾かそうにも、ハンガーも洗濯ばさみも持っていなかったのです。するとムツオさんが、俺のを貸してやろう、と言って部屋を出ました。そして針金ハンガーを二つ、洗濯ばさみを持って戻ってくると、長押に刺さった古釘とハンガーレールのあいだにビニールひもを渡し即席の物干し場を作ったのです。私は新しいトランクスとTシャツだけで、濡れた衣服を部屋のなかに干しました。用意した着替えは外出用のチノパンだけだったのです。シャワーを浴びたあとに部屋でくつろぐには、少し窮屈でした。

それを見ていたムツオさんはまた部屋から出ると、臙脂色のジャージと新聞紙を手にして戻ってきました。駅に到着したとき待合室で老婆が着ていたような、白いラインの入った学校ジャージでした。

「これを着るといい。洗ってあるから心配いらない。伸縮性に富んでいるし、部屋着にはちょうどいい。俺は同じものをあと二着持っているんだ。こいつは俺には少し大きいのだが、あんたにはちょうどいいだろう」

「ありがとうございます」私はムツオさんに与えられたジャージに足を通しました。たしかにジャージは私の下半身にぴったりで、まるで何年も着ているように肌に馴染んだのです。このムツオさんという男は、ずいぶんと世話焼きなようでした。「遠慮なくいただきます。このお礼はいつか、させていただきます」

「気にすることはない、こういうものはリサイクルショップで、二束三文で手に入るのだ……しかし雨というものはきれいに見えて、大気中の塵や埃をたくさん含んでいるものだ。その証拠に、雨上がりには空気が澄んで見えるだろう。俺が言いたいのは、雨に濡れたものを干しただけでは大気中の塵埃は繊維のなかに残ったままなのだということだ。きちんと洗いたければ明日の朝中谷に言えばいい」ムツオさんは新聞紙をくしゃくしゃと丸め、私の靴に詰めながら言いました。

「中谷とは」

「中谷は二階に住んでる。ここの管理人みたいなもんで、洗濯だけじゃなくて、掃除、草むしり、自転車の整備、屋根の修繕から風呂釜の修理もやる。それから、猫の世話だ」

「白い猫ですか」

「そうだ。雌の白猫だ」

「ここに着いたときに見かけましたよ。中谷さんという方が、その猫の世話係ということなんですね」

「そういうことだ。猫の世話だけではないぞ。中谷に頼めば一通りのことはやってくれる。洗濯やら、草むしりやら……」

ムツオさんは鍋に匙を入れ、味見をしていました。私は風呂場の扉に凭れかかって、料理を続けるムツオさんを見ていました。ムツオさんは細面で、頬骨と鼻が突き出てごつごつとしていました。真ん中でわけて耳までかかった髪の毛と、ぽつぽつ生えた髭にはところどころ白いものがありました。五十代後半か、六十ぐらいでしょうか。顔色は少し悪いのですが、目だけは異様にぎらぎらと光っているのが印象的でした。

「もう少しだな。待ってくれ。この部屋、古いけどきれいだろう?」

「そうですね」

「あんたが来るまえに、中谷と俺とで掃除したんだよ。隅々までな。主に水拭きだ。洗剤を使わなくても、乾拭きをきちんとやればよほどきれいになる。たしかに手間はかかるし、まだ二の腕や腰が少し痛いぐらいだ」

「それは申し訳ない。私が入居してから一緒にやってもよかったのに」

「そういうわけにはいかないよ。迎え入れる側の礼儀ってもんがあるんだ。礼儀を欠いちゃいけないよ。そんなものは意味がないと言う者もいるがね、世の中っていうのはたいてい、いっけん意味のないことで成り立ってるんだよ」

「たしかにそうです」

「まあ、いい運動にもなったしな。俺たちは慢性的な運動不足なんだ。なにせこのからだは、野良猫のように、一日中獲物を探してうろうろするような生活をしてなきゃうまく働かないようにできているからね。洗剤を使えばたしかにひと拭きだ。しかし雑巾で何度もごしごしやるのがからだにもいい。だいいち、俺は洗剤の匂いが苦手なんだ」

「匂いがきついものもありますからね」

「もっとも、洗剤もときには便利だ。黴がとくにそうだな。黴は拭いてもだめだ。洗剤は黴を根こそぎ退治してくれる。塩素系のやつだ。もちろん取り扱いには十分注意しないといけない。まずゴム手袋とマスク。下手をすれば指紋が消えちまうからな。指紋が消えて都合がいい人間もいるが」

私は笑いましたが、ムツオさんは真剣でした。

「それから窓は開け放す。半日かけて、俺たちはカビを駆除したわけだ」

「とても快適です」

「そう言ってくれるとありがたいよ。もっとも、常日頃風通しをよくしとかないとダメだぞ。川が近いしな。すぐに黴が生える」

「わかりました。ところでアダルトビデオがありましたが、あれもムツオさんが用意してくれたのですか?」

「そうだ。好みに合わなければ捨ててもかまわない。あの子は俺の親戚なんだ」

「親戚?」

「世間は色々言うがな、なにも悪いことはしていない。素直でいい子だよ」

「そうなんですね」私は返答に困ってしまいました。冗談なのか、本気なのか、容易に判断がつかなかったのです。ムツオさんは構わず話し続けました。

「映画もあっただろう。アクション映画が好きなら『大脱走』、サスペンスなら『鳥』と『白い恐怖』。SF映画なら『二〇〇一年宇宙の旅』、『猿の惑星』もある。しかしいちばんのお勧めは『ローマの休日』だ。オードリー・ヘップバーンは実に魅力的だ。俺は何度見たかわからないよ」

「映画がお好きなんですね」私は部屋に入り、テレビの下のDVDを一枚一枚手に取りました。レンタルショップのバーコードのうえから値札が貼れらたもの、ジャケットが半分以上破れたものもありました。

「古い映画ばかりだがね。若いころはしじゅう映画館に行って東映のヤクザ映画なんかを観ていた。俺が若いころは、駅前に映画館があったんだよ。さいきんの映画はまったく見ない。さいきんの映画はたしかに面白い。しかし疲れるんだ。俳優はぎゃあぎゃあわめきながらピストルを撃ちまくり、車やビルが爆発して画面のこっちにまで飛んでくる。とにかく疲れるね。年のせいだろうが」

「私も同じかもしれません。話のネタに観にいくぐらいです」

「古い映画はいいものだよ。たしかにさいきんのものに比べればセットも特殊効果もチンケだ。しかし映画っていうのは作り物めいているぐらいがちょうどいいのだ」

「さっそく今夜にでも観てみたいですね。しかし、プレイヤーがないようで」

「プレイヤーか。たしかにそういうものは必要だな。円盤をいくら眺めてたって、なにも見えない。自分の顔が見えるだけだ。オードリー・ヘプバーンぐらいの美人ならそれでも満足だろうが、俺たちはそういうふうにはできていない。いや、俺たちと言ったのは失礼だったな。あんたはなかなか、男前だ」

「そうですか。そんなこと言われたことはないですよ」

「男前さ。一人前の仕事をしてきた男の顔をしている。それに『ローマの休日』に出てくる主演俳優に、少し似てるな」

私はDVDのパッケージを裏返してみました。眉が濃いところと、顔が細長いところは似ているかもしれないが、ムツオさん以外にそんなことを言う人はまずいないでしょう。この俳優に少しでも似ているところがあれば、私がいままで独身であった説明がつかない。しかしムツオさんのゆったりした、地元訛りの混じった話ぶりだと、たとえ見当外れなことでも心地よく耳に響くのです。

「とにかくプレイヤーが欲しいなら、リサイクルショップに行くといい。少し先だが、俺の友達がやっている店がある。渡辺っていうんだ。もとは農家だったが、野良仕事にも飽きたんで、畑を売ってリサイクルショップを始めたんだ。飽きたのはあいつ自身ではなく、あいつの遺伝子だと言っている。もう何百年も畑を耕してきたんだからな。そろそろいいだろうってことだ。渡辺の店に行けば、たいてい、なんでも揃っている。小説や漫画、こういうDVDやレコード、古着、もちろんジャージもある。それから渡辺は修理の達人なんだ。すっかり映らなくなったテレビでも、渡辺の手にかかれば新品同様になる。車も直せる。表にワゴン車があっただろう。あれも渡辺があちこち手を入れてくれてな、もう二十年以上問題なく走ってる。あいつは機械の言葉がわかるって言うんだ。それでだいたい、悪いところの見当がつく。おかしな話だと思うだろ。しかしな、俺も料理をやってると、魚や野菜の気持ちがわかることがあるんだ。そこらの人間よりも、魚や野菜のことのほうがよほどよくわかる。一番わからんのが人間だよ。とにかく俺たちは似た者同士ってわけさ。俺が明日渡辺にひとこと言っておこう。二、三日のあいだに極上のプレイヤーを、格安で用意してくれるよ」

ムツオさんが土鍋の蓋を開けると、白い湯気が立ち上りました。ムツオさんはぐつぐつと煮立った鍋に匙を入れました。

「いいだろう。テレビを降ろして、台を動かしてくれ。それからこのガスコンロをセットするんだ」

私は言われた通り、テレビ台にしていたカラーボックスを六畳間の真ん中に移動し、ガスコンロのスイッチを入れました。私たちは私の下着やシャツの下で、乾杯したのです。

 

土鍋の真ん中に、白い目がありました。目は私の下着をじっと見ている気がしました。ムツオさんが作ったのは、真鯛のアラの鍋だったのです。大きな土鍋には、鯛の頭が二匹分沈んでいました。私は温かい湯気に包まれた、鯛の横顔をじっと見つめていました。

「いい顔をしているだろう」

「そうですね」

「やはり顔がいい方が旨いんだ」

「ずいぶん、顔に拘りますね」

「拘ってるわけじゃねえよ。それが真実だからそう言ってるだけだ。今度店に行ったら、魚の顔をよく見るといい。辛気臭い顔してる奴、間抜けな顔をしてる奴、ずいぶんいろんなのがいるもんだよ。やっぱり旨いのは、目元や口元がきゅっと引き締まって、どこか色気がある奴だな」

「色気のある魚ですか」

「そうとも。あんたもよく見てれば、じきにわかるさ」

私たちは、汗だくになって鍋をつつきました。アラ鍋は出汁がよく効いていて、ムツオさんが用意したおろしポン酢をつけるとまた格別の味わいでした。

「そう言ってくれるとうれしいよ」

ムツオさんはスーパーくずみねの、鮮魚担当だと言いました。塩焼きやフライなどの総菜作りも一手に担っていたようです。くずみねで生まれ、高校卒業後町を出て料理店などで働き、二十年ほど前に戻ってきたそうです。私は冷蔵庫から、日本酒の四合瓶をひとつ持ってきました。ムツオさんはぬかりなく徳利とお猪口を準備していました。ひょっとして私より先に冷蔵庫のなかの酒を確認していたのかもしれません。

「こりゃいい酒だ。あんた、なかなか好きだね」

「私はあまり詳しくないのです。これは知り合いにいただきました。餞別みたいなもんです」

「こりゃ珍しい酒だぞ。東京でもなかなか手に入らんだろう。そいつはいい人だな、間違いなく」そう言ってムツオさんは上機嫌に日本酒を徳利に移し替え、お猪口になみなみ注いだのです。新井は酒の味にほとんど興味がなく、チューハイや発泡酒ばかり飲んでいることを思い出すと少しおかしかった。

「近くの山の中に古い酒蔵があってな。近くと言ってもまあ、一、二時間はかかるんだが。あそこの酒も絶品だ。なにせ水がいい。そこの川の源流なんだ」

私は昼間川の近くまで行き、解体された橋や、いやらしい落書きが書かれた古い看板を見たことを話しました。ムツオさんは、あの橋が使えなくなったせいで向こう岸に行くには二、三キロ大回りしなければならなくなったとか、そもそも向こう岸に渡ろうという人間はむかしからほとんどいなかったとか、ぽつぽつと話しましたが、あまり関心はないようでした。看板のことについてはなにも言わなかった。それよりも、湯気の向こうのムツオさんは、鯛の骨の隙間の肉をほじくるのに夢中なようでした。

「これが楽しいんだ。切り身よりうめえんだよ。骨のあいだに閉じ込められてると旨味が逃げないからな。鯛の頭は百円かそこらで買えるんだのに、あんまり売れねえんだな」

「顔がいいとはいえ、少々グロテスクですからね」

「そうかね」

「魚とはいえ、顔を食べるというのに抵抗がある人がいるかもしれません」

「慣れればどうってことはない。こうやってほじくりほじくり、小骨をよけながらちょっとずつ身を摘んで、日本酒をちびちびやるのが最高なんだがね。牛肉や豚肉や唐揚げなんかだといっきに食えるから、そりゃ工業用アルコールみたいな安物のウォッカに砂糖をたっぷり混ぜたチューハイでもぐびぐび飲めるわけさ」

「あれは私も苦手ですね。悪酔いする」新井の家で、新井に付き合わされて深夜までチューハイを飲み続けたことを思い出しました。あのときは凄まじい二日酔いになった。

「まあ切り身でもなんでもいいが、要するにみんなもっと魚を食うべきなんだ。魚を食べると頭が良くなるんだ」

「聞いたことがあります。DHAとか、脳に良い影響を与える成分が豊富に含まれていると」

「わかってるね。俺はさ、ここ数年人間の頭脳と魚の関係について研究をしているのだ」

「研究!」私はムツオさんの顔をまじまじと見つめました。ムツオさんは魚をほじくっていた手を止めて私を見返し、にやりと笑いました。

「それで論文を一本書いて、大手出版社や新聞社に送ったんだ」

「それはすごい」

「しかし黙殺された」

「黙殺ですか」

「俺の論文が拙かったのは認めるが、別の理由がある」

「別の理由?」

「思うに、そこには大きな力が働いている」

「というと」

「アメリカだ」

「アメリカ?」私は思わず笑いだしそうになるのをなんとか堪えました。しかしムツオさんには感付かれたようでした。

「おかしいか」

「笑ったのは失礼しました。あまりに唐突だったので」

「大丈夫気にするな。みんなそういう反応をするんだ。慣れている。誇大妄想だという者もいる。それでも俺はかまわない。田舎者の老人の妄想だと思って、気楽に聞き流してくれればいい」

「わかりました」

「つまりこういうことだ。アメリカは、日本人にあまり頭がよくなってほしくない。戦争前の日本人はとても頭がよくて、アメリカを散々苦しめたからな。だからアメリカ人は、日本人に魚を食わせたくないのだ。政府もアメリカの言いなりだ。年次要望書というのを聞いたことがあるだろう。要するに戦争に負けてこの方、アメリカは日本に内政干渉を続けてるわけだ。だから、俺のような意見を言う人間はとても不都合な存在なのだ」

「それは、圧力があったということですか」

「まあ、そういうことだな」ムツオさんは鍋をつつき、また酒を少しずつ飲み始めました。ムツオさんの表情はさきほどとほとんど変わりなく、胸に秘めていた自説を開陳し終えた人間によく見られる、神経の興奮状態はどこにも見えませんでした。

「ご自身でお調べになったんですか」

「経験だ」ムツオさんは言いました。「一つ一つの経験の積み重ねだ。ふつうに生きていても、いろいろとおかしなことがあるだろう。そこで俺は色々、調べ始めた。中谷が大いに助けてくれたよ」

「中谷さんも同じような考えを持っていた?」

「いや違うね。そもそも中谷は、俺の論文が黙殺されたことについてアメリカの圧力などないとはっきり言っている。そして思想的に、俺と中谷は対立する部分のほうが多い。例えば中谷は夫婦別姓や同性婚に賛成しているが、俺は違う。それについてはお互い話さないようにしている。その方がいいんだ。とくにこういう田舎町ではな。ともかく、あいつが俺に教えたのは、本の読み方だとか、自分の考えをまとめるやり方さ。中谷のお陰で、俺のなかでもやもやしていた考えがかたちになった。なにしろ中谷は東大を出てるんだ」

「それはすごい」

「東大を出たあと東京で働いて、ちょっとばかりからだを悪くしてな。それでしばらくこっちに戻って休養をしているわけだ。俺も少し休養が必要なようだ」

ムツオさんはそう言うと、とつぜんスイッチを切ったように横になり、深い眠りに落ちてしまったのです。休養が必要だ。たしかにそうだ。東京での生活に疲れ、仕事を投げ出してこの町にやってきた私は、中谷という男にほのかな共感を抱いていました。

私は、ムツオさんの言葉に従ってちょっとずつ鯛の頭をほじり、ちびちびと日本酒を飲んでいたものですから、鍋はまだたくさん残っていました。しかしムツオさんが起きたときにすっかりなくなっていては残念がるだろうと思い、手を付けないでいました。

ムツオさんは思う存分、新入りの同僚に自説を披露して満足したのか、穏やかな表情で、静かに寝息を立てて眠っていました。

私はスマートフォンを取り上げ、地図アプリを起動しました。ムツオさんの話を聞きながらも私は、あの繁みから見えた町のことが気になっていたのです。ムツオさんに聞こうにも、なかなか言葉を差しはさむきっかけがなかった。私は地図アプリをすっかり赤くなった指先でスクロールしました。やっぱり一面、緑色でした。

 

ドアを叩く音がしました。ドアは私が音に気付くとほぼ同時に開き、女が立っていました。昼間に自転車を貸した女でした。

「ムツオさんじゃん」女は言いました。「もう友達になったの」

「歓迎会をしてくれたのです」

「そうなんだ。チャリ。ありがと」女は自転車のキーを投げました。キーにはピンク色のプラスティック板の名札がついていて、マジックで、一〇三と書いてあります。自分が乗っていたときからついていたかどうか、覚えがなかったが、それはついていたに違いなかったのです。

「あんた、名前聞いてなかった。あたしは水沢さつき」

「本多です。本多道雄」

「ムツオさんとかぶるね」

「私は田んぼの田じゃなくて、多い少ないの多です」

「東京の人は田んぼに縁がないからね」

「私が選んだわけじゃないです」

「べつに怒らなくてもいいでしょ」

「怒ってないですよ」

「それならいいや。ムツオさんが本田って名字だなんてみんな忘れてるから大丈夫だよ、ホンダさん」

水沢は部屋に上がると大の字になって寝ているムツオさんを跨ぎ越して、部屋の壁に凭れて座りました。

「美味しそう」

「ムツオさんが作ってくれたのです」

「あたしも貰っていい?ご飯まだなんだ」水沢は土鍋を覗き込みました。

「温め直しますか」

「いいのよ。冷めたのをがつがつ食べる方が好きなの。ムツオさんが作ったごはんって美味しいんだよね。ビールある?」

「ちょっと待っててください」

水沢は私が差し出した缶ビールをいっきに飲むと、紙コップに日本酒を注いで、これもごくごくと飲みました。

「おっさんのパンツを肴に飲むのも、また乙なもんだね」

水沢は、部屋の洗濯物を見上げて言いました。その目は大きく、少し潤んでいて、なにか子どものような好奇心に満ちていて、今日遭遇した三匹の猫に似ている気がしました。

「女の人の下着を見ながらでは、食べるどころではなくなってしまいます」

「そういうお店もあるんでしょ?よく知らないけど」私は新井が好きでよく通っていたクラブを思い出しました。そこにいる女性たちはみな、下着のような格好をしていた。しかしもちろんそんな思い出話をべらべら喋るほど、酔ってはいなかった。

「しまいましょうか」

「いいよ、べつに」

水沢は髪をなんどかかき上げ、後ろでまとめる仕草をしました。少しよれたTシャツの裾から、白い脇の下が覗きました。あまり外見に気を使っていないので年相応に見えるのですが、水沢は色白で整った顔立ちをしていました。何か楽しいイタズラを考えている子どものように、無邪気な笑みを浮かべている。ぼんやりと水沢の横顔を見ていたことに気付き、私は慌てて下を向きました。そして何気ない調子で、

「暑いですか」と聞いたのです。

「うん、ちょっとね」水沢はしばらく脇に置いたポーチを探っていました。そして黒いゴムバンドを摘まみ上げ、髪を縛ったのです。

「冷房を入れますか?」

「ありがとう。でも冷房は苦手なんだ」

「窓を開けましょうか」

「窓なんか開けたら大変なことになるよ」

「大変なこと?」

「明かりをつけてるとね、待ってましたとばかりに虫が飛び込んでくるの。賑やかなのが好きならそれでもいいけど」

「遠慮しておきます」

そのときムツオさんがむっくりと起き上がったのです。

「おう。さつきか。仕事終わりか。そんな時間か」

「暇だったからな、さっさと片付けたさ」

二人とも、私と話すときよりもかなり訛りの強い言葉で話しました。一対一で話しているときは安らぎすら感じたあの方言に、少しよそよそしく、私を蚊帳の外に追いやるような響きを感じました。もちろん二人にそんなつもりはないのです。私はまだこの町に来たばかりなのです。こうした違和感も、じきに消えていくはずでした。

「そうだ。米を忘れていた」ムツオさんはそう言うと部屋に戻りました。

水沢と二人きりになると、少し気づまりだった。それに私は、テレビ台にしていたカラーボックスを動かしたとき壁際に避けておいたピンク色のアダルトDVDの主演女優、ムツオさんが親戚だと言った美しい女性が、こちらに魅惑的な笑顔を向けていることに気付いたのです。水沢もおそらく気付いているでしょう。いまさら片付けるのもおかしなような気もしましたし、しかし女性のまえにこのようなものを置きっぱなしにしているのは失礼なのではないか、と迷っているあいだに、ムツオさんが炊飯器をぶら下げて戻ってきました。

「雑炊にするぞ。雑炊が本番なんだ。このスープが最高なんだからな。まだ鯛があるだろ。さっさと食っちまえ」ムツオさんはさっきまで寝ていたことなど嘘のように、快活に言いました。

「ちょっと待って……あった。幸せのお守り」

水沢は鯛の頭の端のほうから器用に小さな骨を取り外しました。魚のような形をした骨でした。水沢はまだ小さな肉片のついたそれを細い指で摘まみ、私の目の前で振って見せたのです。それは先ほど水沢が投げてよこした自転車の鍵によく似ていました。

「知らない?鯛の鯛。縁起ものよ」

「いままでずいぶんたくさん鯛の鯛を見てきたが、こいつはかなりいい形だ」

「ね。金色に塗って財布に入れてる人もいるのよ」

水沢は鯛の骨を洗うために流しに立ちました。私はそのあいだに、例のDVDを、オードリー・ヘップバーンの上品な微笑で隠したのです。

水沢はハンドタオルのうえに鯛の鯛を乗せ、じっと見つめていました。

「だいたいの魚にはこういう骨があるの。ブリとかアジにも」

「人間のなかにも、人間のかたちをした骨があるのでしょうか」私は言いました。

「はて、どうだろう」ムツオさんはそう言って、顎の下や肩回りを探り始めました。鯛の鯛があったあたりを人間に当てはめているようでした「さすがに皮膚と脂肪のうえからではわからんが、あながち空想とも言えないぞ」

「その骨だけうまく抜き出せたらさ、その人を好きなように操れそうじゃない?」水沢は笑いました。「骨抜きにするっていうじゃない」

「たしかに研究の余地があるな」ムツオさんの目が輝きました。きっと彼の理論に重大な飛躍を与える手応えを得たのでしょう。

 

話しているうちに、ムツオさんは、部屋の隅に丸くなって眠ってしまいました。ついさっきまで元気にしゃべっていたのに急に声が聞こえなくなったと思うと、すっかり眠りに落ちてしまっているのです。

「たぶん朝早くから準備してたんだよ。あなたのためにね」水沢が言いました。

「ありがたいです」

「世話焼きなのよ」

土鍋はすっかり空になっていました。部屋の隅にはビールの空き缶がいくつも転がっています。私はとても幸せな気分でした。ムツオさんも水沢も、とても気持ちのいい人間でした。二人との会話はとても穏やかで、私の心を和ませるものでした。それはやはり、私に合わせてか露骨には出さないものの、隠しきれないこの地方のイントネーションが影響していたのは間違いない。ムツオさんの素朴で滑稽な陰謀論すら私の耳には心地よく響いていたのです。このような人たちに囲まれて新しい生活を始められるとなれば、これ以上のことはない。しかし口のなかに、ちょっとした違和感がありました。雑炊に鯛のウロコが紛れていたのです。すぐに吐き出しましたが、違和感は残り続けました。

水沢は壁に凭れて、少し膨れた腹をさすっていました。

「やあ、満足。帰るかな」

「送っていきましょうか」

「なんで」

「暗いでしょう」私は水沢の家からずいぶん長い道のりを歩いて帰ったことを思い出していました。

「都会から来た人はみんなそう言うけど、あたしたちは慣れっこだから」

「そうですか」

「でもせっかくの申し出だからお受けするわ」水沢はシャツの裾を直しながら立ち上がりました。

私たちはすっかり眠り込んでしまったムツオさんを部屋に置き去りにして外に出ました。雨は上がっていましたが、外は真っ暗で、じめじめしていました。ムツオさんが丸めた新聞紙を詰め込んだスニーカーは当然、まだ湿っていました。しかし私はどうしても外に出たかった。

じつを言うと私はもう一度、あの町の姿を確かめたかったのです。夜ならば町の明かりが見えるかもしれない。そうすれば、町の存在をもっとしっかりと認識することができると思ったのです。なにもそんなに慌てなくても、よく晴れた休日にでもゆっくり確かめに行けばいい。それはそのとおりでした。しかしあの町の存在は、口のなかに残ったウロコのように私の神経をチクチク刺激していたのです。

私は自転車を押し、水沢と並んで歩きました。道路沿いは街灯もまばらで、靄のなかにぼんやりとわっかを浮かび上がらせているだけでした。自転車のダイナモライトはほとんど役に立ちません。たまに通過する車のヘッドライトが照らさなければ数歩先も不確かでした。そのぶん、湿った土や草いきれの匂いが強く私の鼻腔を刺激していた。しかし水沢はどんどん、先を進むのです。

水沢は、ムツオさんの話をしていました。

「あの人は少し頭がおかしいから、適当に調子を合わせておいてね」

「そんなふうには見えませんでしたが」

「今日は調子が良かったみたいね。論文の話は聞いた?」

「だいたいのところは」

「バカバカしいでしょ。ネットばっかり見てる中学生みたいで」

「なかなか興味深い部分もありました」

「気を使わなくてもいいのよ。ハイハイってテキトーにあしらってても、べつに怒んないから。でもあれ言いだしてからちょっと若返った感じがするな。生きがいができたのかもしれない。良くも悪くも」

 そのとき私は歩道の窪みに躓き、自転車を倒しそうになりました。

「大丈夫?だいぶ酔ってるね。顔、真っ赤だったもん」

「そうでもないです。しかし、足元もかなり暗いですね」

「今日はとくに暗いね」

私たちは真っ暗な空を見上げました。

「ほんとはね、もっと星がきれいなんだよ。さいきんずっと曇ってるから」

「見てみたいですね。東京では少ししか星が見られないですから」

「いつでも見れるよ。ホンダさんが今夜ホームシックにかかって明日東京に戻ったりしなければね」

「いくらなんでもそれはないです。先のことはわかりませんが」

「あなたのまえに来た人、ひと月でいなくなっちゃったの。三十歳ぐらいの若い男の子。アパートの裏庭にちっちゃい畑作ったりして張り切ってたんだけど。多いんだよ、田舎暮らしに勝手に憧れて勝手に幻滅する人って。あたしも若いころ東京にいたけどさ、そんなに変わんないよね。べつに田舎の人がみんな優しくて穏やかってわけじゃないし。東京っていったって、地方から来た人ばっかりでしょ。けっきょく人と建物が減るだけなんだから。まあ、減る、なんて簡単に言っていいレベルじゃないけど」

「私は別に田舎暮らしに憧れていたわけではないので、大丈夫だと思います」

「だといいね」

私たちは暗い夜道を黙って歩きました。ときどき車が私たちを追い越していきました。

「あのね、ムツオさん、ほんとはくずみねで仕事してないの」水沢は言いました。

「そうなんですか」

「頭がおかしくなって、お客さんにもしつこく絡むから、クビになったの。社長のお情けであそこに置いてもらってるだけ」

「とてもそんなふうには思えませんでした」

「まあたしかに、こんな世のなかじゃ頭がおかしくならないほうがどうかしてるって気もするしね。意外とムツオさんはまともなのかも」

コンビニエンスストアが見えてきました。水沢は、買い物をしていくからここまででいい、と言いました。

「なにを買うと思う?」

「デザートですか」

「残念でした。トイレットペーパー。くずみねで安く買えるんだけどね、なんかごわごわしてて嫌なんだよね。節約するところは節約して、お金をかけるところはそれなりにかける主義なの。あたしはトイレットペーパーと、下着」

水沢は、じゃあね、と手を振りました。しかし私は水沢と並んで歩き続けていたのです。

「なんでついてくんの?」水沢の口調は強めでしたが、怒っているわけではなさそうだった。

「ついていこうとしているわけではないのです」

「家に来たい?お茶ぐらいなら出すけど、セックスはしないよ。もっと星が見えてたら違ったかもしれないけど。ごめんね」

「そうではないのです」

「じゃあなんなの」

「この先の、坂のうえに行ってみたいのです」

「そこには私のおうちがありますけど」

「知っています。私は家にお邪魔したいわけではない。じつはこういうことなのです。昼に、あなたに坂のうえで会いました」

「そうね。自転車を借りたわ。なかば強引にね。ちょっと座らない?」

私たちはコンビニエンスストアの駐車場の車止めに腰かけました。街灯はまばらで、信号機の光がいやに明るく見えました。

「私は、あなたが行ってしまったあとも、しばらくあのあたりをうろついていました」

「あたしの家を覗いてた?部屋に洗濯物干したままだったからなあ。あんたと一緒。あたしのパンツ見えた?けっこう高いの」

「そうではないのです。坂のうえから、景色を眺めていました」

「たしかに見晴らしがいいね。あたしも天気がいい日はぼんやり見てたりする。川がきらきら光ってね、大きな鳥が飛んでて。でもなんにもないよ。草ぼうぼうで」

「町が見えたのです」

「町?」

「川のずっとむこうです。ぼんやり霞んでしまうぐらい遠くの、山裾です」

「町なんてないよ。山のほうまでずっと原っぱだと思う」

「そうです。私は地図を見ました。たしかに町などない。でも私は見たのです」

「へえ。ところでこの話、長くなりそう?先にトイレットペーパーを買ってくるし、コーヒーもあったほうがいいな。割引クーポンがあるから、よかったらご馳走するよ。あとトイレも行っておきたい」

「大丈夫です。すぐ終わります」

「ならいいけど」

「そのあたりは小さな家がいくつも並んでいて、大きな建物もあった」

「そのぐらいのところにショッピングモールとかがあるといいんだけど。柔らかいトイレットペーパーがすぐ手に入るし。うちの店で売ってるやつは固いんだよね」

「確認はできませんでしたが、そういうものもあるかもしれません。それなりに大きな町でしたから。学校みたいなものもあった」

「で、その町がどうしたっていうの?いまから一緒に行く?おしゃれなバーとかあるといいけど」

「バーがあるかどうかはわかりません。居酒屋ならあるかもしれない」

「このあたりの居酒屋なんて、地元のおっさんたちがクダ巻いてるだけ。女の人見るとすぐに絡んできてホステス扱いするし、ちっとも面白くないよ」

「私が言いたいのは、それぐらいの町ならばまだ明かりが点いている家もあるということです。暗闇なら、町はない。私の錯覚だと、納得できる。私は確かめたいだけなのです」

「変わった口説き方ね」

「だから、そうではないのです。いや、もちろんあなたは魅力的だ」

「ありがとう。嬉しい。自慢じゃないけど、よく誘われるの。おじさんばっかりだけど」

「私もおじさんですが、あなたを誘うつもりはない」

「それはそれで失礼ね」水沢は笑いました。「なんかあんたって、面白いね。クソ真面目っていうか」

「私は、ただ確かめたいのです。おそらく暗闇が広がっているだけでしょう。それがわかればすぐに帰ります」

「じゃあ、行きましょうか」水沢は笑いました。「あたしもなんだか気になってきちゃった」

 信号が青に変わり、車が一台、駐車場に入ってきました。私たちは立ち上がりました。私は、水沢が買い物を終えるまで外で待っていました。駐車場に入ってきたのはミニバンで、エンジンを切ってからもずっと人は降りてきませんでした。運転席に座っていたのはまだ高校生ぐらいに見える若い男で、ぼんやりと窓の外を見ていました。

 

 私は自転車を押しながら、坂道を登りました。坂道はかなり急なうえ、昼間も悩まされた枝葉が、ときどき私の顔をひっかきました。歩道が狭いので、水沢が私のまえを歩き、ときどき振り返っては話かけてきたのです。

「北のほうに住むのは初めて?」

「そうです。旅行で訪れたぐらいです。温泉に行ったり、港の市場で海鮮丼を食べたり」

「このへん、すごい雪積るよ。雪道を自転車で走る訓練をしておいたほうがいい」

「雪が積もっても自転車に乗るのですか」

「みんなじゃないけどね。あたしも高校までチャリ通だったから、別に何とも思わないで乗ってた。あと車も。たぶんあなた、配達をやらされるよ。スーパーくずみねはひとりで住んでるご老人向けの宅配サービスをしてるの。ひと月一万円で、適当に食材とか日用雑貨とか見繕って毎週届けるのよ。あなたの部屋にも段ボール箱があったよね。あれ社長に貰ったんでしょ」

「そうです」

「あんな感じで、必要なものを詰め込むの。サブスクみたいなもん。大赤字よ」

「武見さんにはまだ聞いていませんが、そういうこともやるんですね」

「宅配サービス兼、生存確認。ちょっとまえ、死んでたの見つけたの。八十歳のお婆さん、台所で倒れてたって。通報した人、警察に疑われてすごい取り調べを受けて、怒って仕事辞めちゃったのよ。っていうのもむかし、売り上げをごまかしたり、家にあるものを盗む人もいたから。ウチの店に入ってくる人って、ロクでもない人が多くて。前科もんもいるし」

「前科ものですか」

「そのうちわかるよ」

「しかし、私もロクでもない一人です」

「失礼したわ。でもあたしだってまともじゃないのよ。みんな頭おかしいの」

私たちは家の裏手に立ちました。街灯の光がかすかに届くおかげで目のまえの水沢の表情がようやく見分けられる程度で、繁みのほうはまったくの暗闇でした。目のまえに黒い壁が立ちはだかっているようだった。私はスマートフォンで足元を照らし、探り探り足を進めようとしました。しかし水沢がふいに腕を掴んで、私を止めたのです。

「ずいぶん大胆ね。たぶんもう一歩であんた、崖の下に落っこちてたよ。ここらへんて救急車呼んでもすぐ来ないから。気を付けてね」

「まだ行けそうですよ」

「草で隠れてるんだよ。ビルの屋上みたいにまっすぐじゃないんだよ」

「しかしこのあたりではおそらく、木の陰に隠れてしまっている」

「ううん、ちゃんと見える場所にいるよ。川があるの、わからない?ホンダさん」

 水沢が指さす方向には、言われてみれば、ほかの部分とは違う感じがあった。しかし、水沢が私に嘘をついているような気もしました。

「ずーっと左のほうに、ゆっくり目を動かしてみて。ちょっと光ってない?」水沢は山裾の町のほうとは反対側に指を動かしました。

「よくわからないです……」

「橋があるんだよ。かなり先だけど。けっこう、大きい橋」

「その橋は、私が町を見たあちらの山裾よりも近いのですか」

「どうかな?同じぐらいか、ちょっと遠いぐらいかな」

私はじっと目を凝らして見ました。しかし水沢が言う方角はまったくの暗闇で、なにも見えない。かえって、黒い壁が一層迫ってくるようでした。私は溜息をつき、少し後ろに下がりました。

「残念だったね。晴れた日にもう一度見に来たら?」

「そうですね。そのときはお茶をごちそうになります」

「来るまえに言ってね。洗濯物干しっぱなしかもしれないから」

「ええ」私は笑いました。

私たちは繁みから少し離れました。街灯の灯りで、水沢の顔がはっきり見えました。水沢の表情は、部屋のなかで見たときとほとんど変わりがなかった。少し笑いを含んだ、悪戯好きの子どものような表情でした。

先ほどよりはマシという程度でも明るい場所に戻ると、気持ちの張りのようなものがほぐれ、同時に町に対するこだわりは消えていました。消えていたどころか、非常に滑稽で恥ずかしく思えてきた。酒に酔っていたときにはあれこれ腹を立てて一人で悪態をついていたことを、翌朝に後悔しているような感じでした。するとほとんど同時に、先ほど私の腕を捕まえたときからずいぶん近くにいる水沢の肉体的な気配が濃密に立ち込めてきたのです。私は戸惑いました。

水沢は初対面の私にも、まるで何年も知り合いだったかのように、ある意味無防備に接してくれた。それに水沢の、この地方の訛りを感じさせるゆったりとした口調に心地よさを覚えていたのはたしかです。しかしそれは次第に私を誘惑する危険な囁きのようにも聞こえ始めたのです。町のことを口実にして、水沢に会うために足繁く通う惨めな自分の姿が勝手に頭に浮かんできて、心臓が強く打つのを感じました。ムツオさんが言うように私がほんとうに「ローマの休日」に出てくる主演俳優に似ている男前ならば、水沢を口説いていたかもしれない。しかし私はそういうふうにはできていないのです。

「お邪魔しました。そろそろ帰ります」私は家のまえに停めてあった自転車に向かって歩き出しました。

「帰るんだ」

「ええ」

「本当は、あのあたりに町があったんだよ」

「え?」水沢の言葉に、私は思わず足を止めました。

「色々な事情があって、住人がみんな立ち退いたの。ゴーストタウンよ。たぶんあなたが見たのは、もう一つの世界。町が残ってて、人も家もお店もどんどん増えて、みんな幸せに暮らしてる場合の世界。見える人には見えるらしいよ」

「もう一つの世界……」

「嘘よ」

「え?」

「嘘。からかっただけです」水沢はそう言って、けらけらと笑いました。

「あなたも、人が悪いな」

「そういう話のほうが好きかと思って。都市伝説とか、ノストラダムスとか」

「いや。そういうものに興味はないのです」

「疲れてるんじゃない?だって今日東京からここに来たばかりでしょ」

 私はこの町が近付くにつれ、列車の窓から見える深い緑に覆われた山々に目を奪われていたことを思い出しました。そこになにか、人知を超えた神秘的な存在を見出して、ぼんやり空想に耽ったりもしていた。山のなかに無骨な鉄塔が立っていたりすると、勝手に腹を立てていた。自然豊かな土地を旅した者なら誰でも経験する、ありふれた感情でしょう。しかし私がアパートのまわりに見出したのは、東京の私鉄駅周辺から大きなマンションや商業施設、戸建て住宅や工場を間引きしただけの、ありふれた光景でした。私は山々に抱いた神秘的な感情の余韻を求めて、疲れも雨に濡れる恐れも忘れて無邪気に自転車を漕いでいたかもしれないのです。

「だから、ありもしない町が見えたんだ」水沢が言いました。「お腹空いてると石ころでも食べ物に見えるじゃない。そういう感じじゃない?」

そのとき、近くの家の灯りが点き、大きな音を立てて掃き出し窓が開きました。部屋の灯りを背にした黒い影が、私たちをじっと見ていました。それは中年の女性のようでした。かなり太っていて、ゆったりしたTシャツが腹の辺りに貼りついていました。

「ごめんなさい、すぐ家に入るから」水沢が、いつもより少し高いトーンで言いました。女は黙って、窓とカーテンを閉めました。灯りはすぐには消えませんでした。

「起こしちゃったみたい。隣のおばさん。大丈夫、怖い人じゃないから」水沢は声を潜めて言いました。「小さい子がいるからね。起こしちゃったかも」

濡れたスニーカーの嫌な感触が急に気になり始めました。昼間の蒸し暑さが嘘のように気温が下がり、足の先は冷え切って、刺すような痛みがあったのです。

「ねえずっと気付かなかったけど、そのジャージってあなたの?」

「これですか。ムツオさんに借りたのです。適当な部屋着を持っていなかったので。けっこう履き心地がいい」

「それね、うちらの中学のジャージ。あたしが通ってたころから変わってないの。このへんの人、みんなジャージ好きなんだよね。リサイクルショップにもたくさんあるし」

「駅でも、これと似たようなのを着たお婆さんを見ました」

「野良仕事にちょうどいいんだろうね。……ねえ、まだ気になってる?」

「いや、そうでもないんですが」私はたしかに、ぼんやりと町があったはずの方向を眺めていたのです。すっかりどうでもよくなっていたつもりなのに、私の目は、まだなにかを求めているようでした。

「あの辺はほんとうになんにもないよ。原っぱ。倉庫とかはあるかもだけど、基本原っぱ。原っぱと、石ころ。どうしても確かめたいって言うんなら、長袖着て長靴履いて、虫除けスプレーを塗りたくらないとダメだよ。あとヘビがいるから。そのジャージだとちょっと心細いかな。もっと厚手のやつのほうがいい」

「行く気になったときは、そうします」

「これあげるよ」水沢はとつぜん、ハンドタオルに包まれた魚の骨を差し出しました。「送ってくれたお礼。お財布に入れておけば億万長者になれるよ」

私は魚のかたちをした鯛の骨を受け取り、財布に入れました。

 

ひとりになってみると、慣れない土地の夜道は水沢と歩いたときとは比べ物にならないほど暗く、寂しかった。水沢の家から下る坂にはほとんど灯りがなく、私はなんどか、突き出した木の枝に顔をひっかかれたのです。それにこの先も、四、五十センチは段差がありそうな畑と道のあいだには柵のようなものがなく、昼間でも危ないと思ったのです。私は自転車を押して帰ることにしました。コンビニエンスストの灯りがようやく見えたときにはかなりほっとしたのでした。

私はまたコンビニエンスストアに立ち寄り、私の部屋で寝ているはずのムツオさんのために清涼飲料水と缶コーヒーを買いました。サンダルでもあれば買おうと思いましたが、そこまで品ぞろえが豊富なわけではなかった。水沢を見送り、町の存在を確かめるためだけなのに財布を持って出たのは、眠っているムツオさんをほったらかしにしておいて手ぶらで帰るのも申し訳ないと思ったからでした。それから私はレジ横にあった小さな饅頭と、チョコレートを買いました。レジで応対したのはやはり愛想のない、若い男でした。昼間の男と同じだったかもしれません。

ぐずぐずと湿ったスニーカーの気持ち悪い感触から早く解放されたいと思い、私は自然早足になっていました。街灯もだんだん多くなり、車の通りもあるのでそれほど慎重になる必要はなかった。道はデコボコしていて、前かごに入れた飲み物や菓子がカタカタと鳴っていました。自転車を押しながら暗い道を歩くあいだ、ずっと町のことを考えていました。たしかに水沢の言うとおり、倉庫のたぐいを町と見間違えたのでしょう。コンクリートだらけの都会を離れて、車窓から見える緑豊かな山々の連なりに私は興奮して、なにか神秘的なもの、自分を喜ばせてくれるものの存在を求めてさまよい、ありもしない町を勝手に作り出した。そうに違いない。しかしそれにしても、あの町はとてもリアルだった。遠く離れていても、人の息遣いのようなものが感じられたほどだった。童話の世界に出てくるような、こじんまりした、いかにも長閑な風景の中で暮らす人々は、きっとみな穏やかな性質で、争いもなく、あのゆったりとした心落ち着かせる方言で語り合いながら、平和に暮らしているに違いない。水沢はからかったつもりでしょうが、誰もいなくなった町がひとりでに成長しているという空想的な話のほうが、私の印象にはしっくりくるのです。

「町なんてないよ?」

ようやくアパートに辿り着いたときでした。とつぜんの声に私は思わずびくりと震え、自転車のペダルに脛を打ち付けてしまったのです。

私の目の前には少女が一人立っていました。パーカーのフードをすっぽり被っているので、顔はよく見えません。少女は一人のように見えました。誰かと話していたわけではなさそうだった。少女の口元には笑みが浮かんでいた。そしてそれはたしかに私に対して向けられていたのです。

中学生ぐらいに見えました。私は気味が悪くなり、立ち止まって少女をやり過ごそうとしました。ゆったりしたパーカーを身に包んでいても、華奢なからだつきなのはよくわかる。こんな夜中に堂々と、中年男のまえに立つのは不自然だ。こちらになんの悪意がなくとも、警戒して走り去ってしまうのがこのぐらいの少女の、自然な姿なのです。どこか物陰にタチの悪い男友達がいて、この娘が痴漢だなんだと騒いだとたんに私を取り囲む魂胆なのかもしれない。私は繁華街で酒を飲んだ帰り、裏道に迷い込んで似たような経験をしたことがあるのです。

私はあたりを見回そうとしました。すると少女はとつぜん私の顔に手を伸ばし、顔を接近させ、私に口づけしたのです。

甘い、柔らかい、懐かしい感触。私は先ほど水沢に対して抱いた濃密な女性のからだの気配を思い出しました。しかしそれと同時に、股間に痛烈な痛みを感じました。誰かが背後から、私の睾丸を握っていたのです。

「潰されたくなかったら、お金をちょうだい」

 少女の声でした。私の背中にぴったり貼りつくように、もう一人の少女がいたのです。そしてその少女は、私の睾丸を絞り上げていたのです。私が履いていたのはムツオさんから借りた柔らかい素材のジャージでした。ほとんど、直に握られているのと変わらない。少女は巧みに指を動かし。私の二つの睾丸を打ち合わせたり、捩じったりして弄んでいる。少しでも抵抗しようとすると少女は指先に力を込め、激しい痛みが喉元までせりあがってくるのです。それはただ握っているのではない。どこを抑えればもっとも効果的かよくわかっている、非常に、手慣れた感じでした。正面の少女は口づけを辞めない。むしろいっそうの力を込めて、私の唇を吸うのです。

私はポケットに入れていた財布を、アスファルトのうえに放り投げました。すると私に口づけしていた少女がそれを拾い上げました。背後の少女の手が離れました。しかしほっとする間もなく激痛が走り、私は膝から地面に崩れ落ちました。どうやら、私は少女に股間を蹴り上げられたようでした。去り際に、少女は私を見下ろして笑っていました。そして謎めいた言葉を残して立ち去ったのです。

「キュウリオシテキルダケ」

 私にはそう聞こえたのでした。

私は地面に大の字になり、真っ暗な夜空を見上げていました。どれぐらい時間が経ったのかわかりません。気を失っていたようでした。背中からはTシャツを通して、アスファルトに染み込んだ夜の冷気が滲んできます。私は救急車のサイレンを聴きました。

救急隊員は私の傍らにしゃがみ、立てるか、と聞きました。私は首を振りました。そして、なんでもないから、もう帰ってくれ、と言いました。アパートはすぐそこなのです。もう少しこのままでいさせてくれれば、私は部屋に戻り、明日の朝にはなんでもない顔をしていることでしょう。なにより私は、か弱い少女たちに屈辱的な仕打ちを受け、いまここにこうして横になっているのです。誰とも話したくなかった。それに、少女の柔らかい唇、それから巧みな指使いの余韻がまだ残っていて……恥ずかしながら私のからだは興奮していた。ジャージのうえからでもわかったかもしれない。とにかくひとりにさせてほしかった。私はそのとき、あたりに饐えた匂いがするのに気付きました。それは私の吐瀉物だった。私の口のまわりも、粘々した体液で汚れていたのです。

「あなたは頭を打っているかもしれない。きちんと病院で診察を受けるべきだ」救急隊員は私を𠮟りつけると、車輪のついた寝台に載せたのです。

 宿直の医師は、多少の痣や擦り傷がある程度で頭は打っていないようだし、特に問題はなさそうだと言いました。

「しかし念のため、もっと大きな病院で精密検査を受けたほうがいい、なにせ小さい町だから、設備が不十分なのでね」

通報したのはタクシーの運転手だったそうです。もう少し車道側に倒れていたら、危うく轢いていたところだったとのことで、それを聞いた私の心臓は少し強く打ちました。医師は私に、財布を手渡しました。私が倒れていた場所のすぐ近くに落ちていたそうです。現金もカードも残っていた。私はもともと財布のなかにいくら入っているか無頓着な質でしたから、金がなくなったかどうかも怪しいのです。

「猫がね、財布のそばにじっと座っていたそうです。手を伸ばすと、しゃーっと威嚇して、救急隊員の手をひっかくのです。あなた、猫を飼っていますか」

「いや……」財布の中には、水沢から貰った鯛の鯛が入っていました。私はそれを摘んで持ち上げました。あのとき財布を地面に投げ捨てたせいか、鯛の鯛は二つに割れていました。

「縁起物だ。なるほど、猫はそいつを狙っていたわけだ」医師は笑いました。

医師は私に既往歴について尋ねました。私は、概ね健康だが高血圧の気があるといいました。医師は、酒はほどほどにしておいたほうがいい、と笑いました。

診察室を出ると、暗い待合室のソファに武見が座っていました。そういえば、搬送中に救急隊員から親族等の連絡先を聞かれていました。しかし私は、親族は誰もいないし、この町にもきたばかりで友人はいないと答えたのです。おそらくくずみねの自転車が現場にあったことから、武見に連絡が行ったのでしょう。武見は病院代の清算をしてくれました。

車のなかで私は、武見に失態を詫びました。もちろん私は、少女たちに襲われたなどとは口が裂けても言うつもりはなかった。私は、酒を飲み過ぎて足がもつれたのだ、と弁明しました。武見は黙って頷きました。

「ここのところ、夜道で一人歩きをしていた人が襲われる事案が何件か、報告されているそうです。そういうことではなかったのが幸いだ。しかし救急車が来るまえに、誰かが財布のなかみを抜き取った可能性もないとはいえない」

「財布のなかみは無事でした。もっとも、小銭がいくらあるか、あまりしっかり把握はしていないのですが」

「そうやって安心させておいて、クレジットカードをスキミングしているケースもあるようだから、用心してください」

「そうなんですか。明日さっそく、カード会社に連絡します」

アパートに戻ったときは、まだ真夜中でした。そのとき私は、ムツオさんのために買った清涼飲料水や缶コーヒー、それから饅頭やチョコレートのことを思い出しました。私が倒れていたあたりに、それは見当たらなかった。ただ自転車は、自転車置き場に戻されていたのです。

「精密検査を受けてください。私が明日隣町の総合病院に予約を入れておきます。二、三日後には検査を受けることができるでしょう。このあたりには一つしかない総合病院なので予約を取るのも容易ではないのだが、私は院長と知り合いなのです。日にちはすぐにお知らせします。そして必ず、結果を私に報告してください。それまで、出勤は先延ばしにしてかまいません」

 

 武見が帰ったあとで私は、風呂に湯を張りました。夜も更け、日付も変わっていましたが、神経が昂りなかなか寝付けそうになかったのです。酒を飲めばかえって、目が冴えてしまいそうでした。

私は薄汚れたボストンバッグの底から、ビニール袋に包んだ蝋燭を出しました。身の回りのものはほとんどすべて整理してこの町に来たのですが、この蝋燭だけは捨てる気にならず、たいしてかさばるものでもないからと、バッグのなかに突っ込んだのです。

 それはジャム壜の蓋に凹面レンズのように蝋が貼りついた、みすぼらしいものでした。もともとは友人の結婚式で持ち帰った大きめのキャンドルでしたが、十数年前、停電が頻繁に起こっていたころ、クローゼットで眠っていたものを引っ張り出して風呂の灯りにしていたのです。最初はそんなふうに使っていたのですが、電気が復旧してからも私は蝋燭を使い続け、いつしか手放せないものになっていました。浴槽の縁で揺れている小さな炎、そして湯面が柔らかく反射するオレンジ色の光を見ていると、不思議と気持ちが落ち着き、一日の疲れが溶けだしていくような気がしたのです。芯が燃え尽きると、私は仏壇用の安い蝋燭をその上に立てて、また火を灯しました。そうして十年以上、蝋を継ぎ足し継ぎ足し、使ってきたのです。

 私はたっぷりと張った湯に浸かり、ゆらゆらと揺れる蝋燭の火をぼんやり眺めていました。からだにじわじわと血が流れるのがわかり、擦り傷の小さな痛みですら、心地よく感じました。少女に掴まれた睾丸も、湯のなかをふわふわと漂うようでした。

「キュウリオシテキルダケ」

 とつぜん、少女たちが去り際に残した言葉が頭のなかで響きました。私はその謎めいた言葉を何度か口の中で繰り返し、意味を探りました。答えに辿り着くまで、そう時間はかからなかった。

「胡瓜押して切るだけ」

 そう言っていたに違いないのです。片言の日本語のような、ヘンな発音でしたが、おそらくこの地方特有のアクセントが混ざっていたのでしょう。

胡瓜とはなにか。真っ先に思い浮かんだのは、湯のなかを気持ちよさそうにたゆたう私の陰茎でした。胡瓜とは、陰茎を指す隠語にちがいない。この地方でそう呼ぶのか、それとも少女らしい照れ隠しなのかはわかりません。そしてあれは少女の警告だったのです。次は胡瓜、つまり私の陰茎を押して切るのだ、ただ切るのではなく、押し切る、というのもひどく陰惨な印象を私に与えました。

湯船からはまだ湯気が立ち上っていましたが、私はぶるぶると震えました。そしてすっかり縮こまった陰部を手でぎゅっと握りしめました。暗闇はにわかに密度を増したように思えた。私はすぐに、浴槽の縁に置いた蝋燭を手で引き寄せました。暗闇のなかに、少女たちが身を潜めているような妄想に襲われたのです。しばらく身を固め、耳を澄ませていました。しかし聞こえてくるのは車の音と、裏手の草むらで鳴く虫の声だけでした。私は次第に落ち着きを取り戻したのです。

私は蝋燭の火を、ぼんやり見ていました。中心部の溶けて色を失った蝋を硬い蝋が囲むさまは、まるで山のなかの湖のようでした。そう思っているとだんだん、ジャム壜の蓋の蝋が、今日水沢の家の裏手から見た草だらけの平野のようにも思えてきたのです。山裾の、町が見えたあたりは、燃え残った古い真っ黒な芯の滓がいくつも、乳白色の蝋のなかに閉じ込められていました。

 

町役場はとても古く、黒ずんだ、まるで刑務所のような建物でした。隣には図書館と公会堂、スポーツセンターも併設されていますが、どれも同じように、鈍い色に沈んでいます。先日運ばれた病院は、徒歩で五分ぐらいの場所にありました。駅からはかなり離れていますが、このあたりが町のメインストリートでした。

役場の入り口はちょっとしたホールになっていて、グランドピアノが設置されていました。ピアノのまわりにはテーブルや椅子がいくつか置いてあって、若い夫婦が小さな子どもにおやつを食べさせたり、老人が休んだりしていました。

私は転入の手続きをするため、ホールの正面にある住民課に向かいました。フロア案内の女性に用件を告げると、ボールペンが挟まった用箋ばさみと届出書、それから番号札を渡されました。私は待合室の椅子に腰かけ、書類を埋める作業に取り掛かりました。そのとき、右手の小指の外側と肘に鈍い痛みを感じた。痛みを覚えた個所は皮膚が少しめくれ、赤くなっていました。おそらく昨日倒れたときの傷でしょう。

待合室には大きなディスプレイが設置され、町の文化や歴史、産業について解説するビデオが流されていました。いまでは平仮名表記のこの町が、かつては九頭峯と呼ばれていたことを知りました。ホールは最上階の三階まで吹き抜けになっていて、各階には回廊のように事務室や会議室が並んでいました。

ビデオが二周ほどして私の番号が呼ばれました。驚いたことに、窓口に座っていたのは昨夜私を救助しに来た救急隊員の一人でした。

「昨夜はたいへんお世話になりました」

「どこかでお会いしましたかな?」男は首を傾げ、静かに微笑みました。男の話し方も、この地方の訛りをはっきりと感じさせました。

「昨日の夜、救急車に乗っていたのはあなたではないのですか?」

「ごらんの通り、私はただの事務職員です。過去に消防署の任務に就いたことはありませんし、これからもないでしょう。そうしたければ試験を受けて、またイチからやり直さなければならない」

「そうですか、それは失礼しました。昨夜お世話になった救急隊の方に、とてもよく似ていたもので」

「気にしないでください。恐らく他人の空似というやつでしょう。それに消防署員も我々と同じ、町に雇われている人間です。同じ組織に属し、同じ理想のもとに日々業務を遂行していると、考え方はもちろん、言葉遣い、身のこなし、髪型、服装、さらには顔つきや体型まで似てくるものです。それはよくあることです」男はそう言って、私が提出した書類にぽんと受付印を押します。それとほぼ同じくして、階上から、どん、という大きな音が聞こえました。私は思わず天井を見上げました。

「皆さん驚かれます。空調が古く調子が悪いのです。ときどきあのような音がします。もちろん修理はしています。しかし業者が修理を終え職員立会いのもと動作確認しているあいだは静かなんですが、次の日にはダメですね。職員は誰も腹を立てていません。まるで怒られたときだけ大人しくなる児童のようで、むしろ愛おしくなる。ところであなた、この住所はスーパーくずみねの寮ですね」

「そうです。くずみねで働くことになったのです」

「非常に素晴らしい会社です。地域貢献にも積極的だ。私は社長の武見の同級生でね」

「そうなんですか」

「あれはとても気持ちのいい人間だ。二枚目だし、頭もいい。正直で、隠し事をしない。隠し事をしないのはいいことだ。私はカクシゴトをしていますが」

 事務員は書類になにか書きつけ、にやりと笑いました。私は事務員の言葉の意味が理解できず、奇妙な間が訪れました。そのときまた、階上から、どん、という大きな音が聞こえました。さきほどよりはよほど大きな音だった。

「あなたは売る仕事。私は書く仕事」事務員はそう言い書類をつまんで私の目の前でひらひらと揺らしました。「さあ、あとは住民票の写しをお渡しして終了です。準備ができしだいお呼びします」男は執務室に戻ると数人の職員たちとなにやら話し込んでいました。私は待合室をぐるりと回り、洗面所に向かいました。洗面所の入り口は柱の陰に隠れていましたが、塩素系の洗剤の匂いが漂っていたので、すぐに場所がわかりました。

用を済ませ、廊下の角を曲がったところで、私は一つの展示物に目を止めました。畳一畳より一回り大きいぐらいで、四階までまっすぐ伸びた太い柱のあいだにきっちりと収まっています。それはこの町の全景を精巧に再現した模型でした。この役場、私が到着したくずみね駅、それから私の住まいであるあの古アパートまでが、砂粒ほどの大きさではありますがしっかりと再現されている。おかげで昨日辿った道のりが正確に把握できる。しかし作られたのが少しむかしのようで、近年開設されたという大学も見当たらないし、武見の車で走った道路沿いに商業施設はまばらで、代わりに青々とした田畑が広がっていました。

模型にはもちろん、緑に覆われた斜面の際に建つ水沢の家もありました。そして崖下の原野を流れる川が樹脂で巧みに表現され、あたりは山裾まで、緑色の絨毯に覆われていました。しかし私が見た町のあたりは、少しだけ周りと色が違っているように思えました。わずかだが緑が濃い。模型に用いている材料がなにかはわかりませんが、それも違うものを使っているように見えるのです。

私は顔を近付け、模型を丹念に眺めました。草いきれのような匂いやかすかな湿り気も感じる。虫眼鏡でも持ってきてみれば、建物の一つ一つが屋根の素材や窓ガラスにいたるまで精巧に再現されているような気さえしたのです。さらに驚くべきことに、砂粒よりもさらに小さな、黒い染みのようなものが、道や学校の校庭のうえをもぞもぞと動いているのです。私は目をこすりました。

「素晴らしいでしょう」突然の声に振り返ると、さきほどの職員が立っていました。彼は封筒に入った住民票の写しを私に手渡しました。

「町民の方が寄贈したのです。その方はたった一人で、これだけのものを作り上げたのです」

「非常に緻密に作られていますね」

「そうでしょう。しかしもちろんこれは町の全部ではない。この中心街を取り囲む山々の稜線までが我が町なのです。しかしそれをすべて入れると、山ばかりになってしまいます。このくずみね町のうちで人間が居住しているエリアは一割もないのです。およそ二十平米といったところです。くずみね町の真の住人は、人間ではなくタヌキや熊、鳥や魚、虫たちなんです。しかし私たちはこの町を取り囲む山を愛し、誇りに思っているのです。ずっとむかし、高名な山伏が修行に訪れたという言い伝えもあります」

それにしてもこの模型はよくできていた。私はすっかり魅入られて食い入るように眺めていたのです。

「まるでほんとうに、このなかでほんとうに人が暮らしているようだ。なにかもぞもぞと、住民のようなものが動いているようにさえ思えます」私は冗談めかして言いました。

すると男は模型のうえにからだを伸ばし、川の向こう側の山裾のあたり、緑色のじゅうたんが敷かれた、私が先日町の姿を認めたあたりをぎゅっと指で押さえたのです。男は指先をしばらく見つめ、ふっと息を吹きかけました。

「ダニやなにかの類でしょう。しばらくクリーニングをしていないから。この模型はリアルさを表すために本物の土や苔などを利用しているので、虫などが湧きやすい」

「たしかにこのあたりは、あまり日の当たらない植木の根元に生えている苔のような感じがします」私は川の両岸に広がる緑色の原野を指さしました。それはなだらかな、じゅうたんを敷いたような緑色の大地でした。

「たしかにそのあたりは苔かもしれません。そう見えるのは間違いない。しかしどこにどんな材質を使っているのか、製作者にしかわからないのです。とにかく非常に繊細なつくりなので、私たちが迂闊に手を出すことはできない。製作者が指定した専門の職人を呼んでクリーニングをしなければならない。そしてそれはそう頻繁にできることではないのです」

「たしかに。かなり手間がかかりそうだ」

「それに、あなたはとても幸運なのです。なぜなら、ふだんこの模型は黒い幕に覆われているのです。今日は一週間に一度だけ、この模型から黒い幕が取り払われる日なのです。製作者の要望で、ガラスケースなどに入れることができない。ガラスケースなどに入れると模型が窒息すると製作者は言うのです。苔が窒息するのですかと聞くといや模型だと言う。あなた方は自分たちがガラス箱に閉じ込められていることに耐えられるのか、とね。彼は天幕を被せることには同意しています。非常にきめ細かく編まれた特別な暗幕です。通気性に優れていながら、塵や埃の侵入を完全に遮断する。我々はそれを、夜空と呼んでいます」

「夜空」

私はからだを屈め、職員が指を押し付けたあたりを見ました。そのあたりはやはり、まわりとは少し色が違うように見えました。そしてよく目を凝らすと、針の先で突いたような赤い点が見えたのです。

「しかしそんなに熱心に見ていると、模型のなかに取り込まれてしまいますよ」男は言いました。私ははっとして模型から離れました。

 ホールのピアノを誰かが弾いていました。演者の技術はとても高く、優雅な調べでした。しかし音の一つ一つが、小さな石つぶてのように私を撃つのを感じました。私は逃げるように、町役場をあとにしたのです。

 

役所のそばにホームセンターがありました。私はそこで布団や衣類などを買い、レジに備え付けてあったビニールひもで縛って背負うと、自転車に跨りアパートに戻ったのです。新しい部屋着も買いましたが、私はまた、昨日ムツオさんに貰ったジャージを履きました。なぜかそのジャージを履いていると、気持ちが落ち着くのです。なにかに守られているような気がする。たしかに昨夜私がこのジャージではなく厚手のジーンズを履いていれば、少女にあそこまで好き放題されることはなかったかもしれない。むしろこのジャージが災難を招いたと言ってもいいぐらいです。しかしジャージは私の下半身にしっくりと馴染むのでした。

私は二階の中谷の部屋に行きました。中谷は救急車の音に目を覚まし、私が運ばれるのを見ていたそうです。中谷は自転車の壊れ具合をチェックしてくれていました。幸い、チェーンが外れていたほかは大きな故障はなく、私は無事、役所で用事を済ませることができたのです。

中谷はまだ二十半ばぐらいの、髪の長い、青白い顔をした美しい青年でした。ほっそりとした手の指などはまるで女性のようです。中谷の膝の上には白猫がいて、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らしていました。先日見かけた白猫でした。

「自転車の修理や洗濯だけじゃなく、部屋の掃除もしますよ」

昼食がまだだと言うと、中谷は蕎麦を茹でて、卵焼きを焼いてくれたのです。

「僕はなんでも、頼まれればなんでもするのです」

「なんでも、というと、なんでもですか」

「ええ。なんでもです」中谷の青白い顔が、さっと赤くなりました。「もちろん、誰かを悲しませるようなことはできません」

「もちろん、そんなことは頼まないよ」

私は中谷もスーパーくずみねの従業員かと尋ねましたが、中谷は笑顔で首を振りました。

「僕はその、みなさんのお手伝いをするためにここにいるわけでして」

中谷はこのくずみねの、農家の一人息子だということでした。ムツオさんが言っていたとおり、大学を卒業後就職した会社で体調を崩して帰郷し、スーパーくずみねで働いていた親戚の紹介でこのアパートの一部屋を借りていた。そして住人たちの雑用を引き受け、いくらかの収入も得ているようでした。

「週に二、三回ですが、学習塾で勉強を教えたりもしています。小学生から高校生。大学生もいます。レポートの手伝いなどもするのです」

「それはすごい。東大を出られたそうですね」

「ムツオさんに聞いたのですか。またそんなことを言っていましたか。僕は東大に行ってはいないんですよ。たしかに受験はしましたが、不合格だったんです。箸にも棒にもかからないという感じでした。しかしこのあたりには僕が東大に行ったと思い込んでいるご老人がけっこういるんですよ。高一のときに受けた模擬試験で全国十位以内に入ったのが噂になったせいです。そのあと成績は下がる一方だったんです。親も否定しているんですがみんなすぐに忘れてしまう。しかしムツオさんに悪気はないので」

「ムツオさんとは昨日会ったばかりだが、ずいぶん話をしたよ」

「魚の話をしていましたか」中谷は笑いました。

「そう。ずいぶん熱心だったし、あなたに助けられたと言っていた」

「パソコンの使い方を教えただけですよ。僕が手伝っている学習塾では高齢者向けのパソコン教室もやっているんです。インターネットとかメールのやり方とか、病院の予約や通信販売の使い方、悪質な詐欺に遭わないための講習とか。それから一緒にパソコンや周辺機器を買いに行ったりもします。電気店の店員は相手がお年寄りだとわかると余計なものをたくさん売りつけようとしますから、監視しているのです。ムツオさんも一時期、ずいぶん熱心に通って一日中ネットを見ていましたよ。とうとう、ヘンテコな論文をひとつ書き上げてしまった」

「出版社や新聞社に相手にされなかったと、かなり憤慨していましたね」

「アメリカの陰謀ですね。こんな田舎町にまで監視の目を光らせているとは、油断できませんね」中谷は首を傾げて微笑みました。それはやはりどこか女性的で美しかったのです。「本多さんはSNSをやりますか?」

「いぜんはやっていましたが、もうすっかりやめてしまいました」医師は私に、SNSやネットニュースから少し距離を置いた方がいいと助言していました。私の過敏な神経には、雑多な悪意が剥き出しになったネット空間は刺激が強すぎるというのが医師の意見でした。

「そうですか。じつはムツオさんのアカウントがあるんです」

 中谷は自分のスマートフォンを私に見せました。五百人ぐらいのフォロワーがいるのには驚きました。フォロワーのプロフィールを見ると、くずみね町や地元新聞の公式アカウント、学生や大学教授、主婦など様々な人がいます。ムツオさんとはケンカになりそうな、親米保守政治家を熱烈に支持するアカウントもありました。そして肝心の投稿の内容はというと、おととやという名前の、弁当の移動販売店の告知ばかりだったのです。

「ムツオさんが作ったお弁当を販売しているのです。理屈をこねても人はなかなか耳を貸してくれないだろうから、味覚に訴えるのも重要だ、と言ってみたのです。音楽や絵画や詩で自分の思いを伝える人もいるでしょう。その点、ムツオさんの得意分野は料理だから。魚の美味しさをみんなに伝えれば、自然とムツオさんの思いも伝わるだろうと言ったのです」

「なるほど、うまく誘導しましたね」

「アメリカが圧力をかけたせいで論文が無視されたいう話は、たぶんインターネットの掲示板かなにかからヒントを得たのでしょう。その手の話はうんざりするぐらい転がっていますからね。しかしムツオさんはずいぶん興奮して大変だったのです。町に一軒ある印刷屋に一万枚近いチラシを作らせ、駅前やお店、それから近くの大学に出向いてそれを配り、まるで政治家みたいに、ビール箱に乗って演説をしていたんです」

「スーパーで色々大変だったことは、水沢さんから少し聞きました」

「もうさつきさんに会ったんですか。そうなんです、大学に行ったときなんかは、意地の悪い学生たちにずいぶんからかわれて……でもいまはそんなことはしていません。弁当は大学や町役場で販売してますが、当時のことは誰も気にしていません。それになかなか好評なんですよ」

「あなたも手伝ってるのですか?」

「そうです。ムツオさんのワゴン車で、週に三回ぐらい売りに行きます。三十食です。自慢じゃないですが、いつもほぼ完売なのです。地元の新聞に取り上げられたこともあるんです。まあ、取材中は自慢の説を長々披露して、記者の方が気の毒でしたが」

「たしかに、ムツオさんのアラ鍋をごちそうになったが、とても美味かったよ」

「そうです!あの人の料理の腕前は素晴らしいのです。あの人は料理に関しては特別な才能を持っているのです。もちろんムツオさんは惜しげもなくレシピを教えてくれるのですが、どうしても同じようにはできない。ムツオさんのからだから染みでる出汁が効いているんじゃないかなんて冗談を言っていたんです。それにスーパーくずみねで働いていたときの仕入れルートも協力してくれるし、ムツオさんには農家をやっている友人がたくさんいる。そういうわけで、新鮮な魚や野菜が安値で手に入るのです」

「それはすごいね。こんどご馳走になろうかな」

「次の販売日は明後日なので、本多さんのぶんも作っておきますよ。お気に召したなら、毎回、本多さんのぶんを作ります」

「楽しみだ。その猫も楽しみにしているだろうね」私は中谷の膝のうえで気持ちよさそうに丸くなり、中谷が顎を撫ぜると甘えたような声で鳴く可愛らしい猫を指さしました。

「ああ、こいつですか。この猫はもちろん、魚を食べます。しかしどちらかというと自分の食べ物は自分で取ります。トカゲ、モグラ、ネズミ、ヘビ、小鳥。裏の河原が彼女の狩場です。天性のハンターなんです」

「へえ。ずいぶんおっとりしてそうに見えるけどね。でも言われてみれば、たしかにスマートでしなやかなからだつきをしている」

「そうでしょう?」中谷はまるで自分のことを褒められたように微笑み、ネコの背中を撫ぜました。「猫は本来雑食ですからね。魚のイメージを日本人に植え付けたのは、サザエさんの歌だと思いますよ」

「お魚咥えたドラ猫、というやつだ」

「サザエさんが昭和的な家族像を日本人の無意識に浸透させたなんて批判する人もいますが、僕に言わせれば一番の被害者は猫なんです。まあ、お魚を咥えた猫は絵になりますからね。トカゲやヘビではそうはいかない」

「たしかに、あまり可愛げはないね」

「この猫はこのまえ、鳩を捕まえたのです。可哀想な鳩は首がちぎれて羽をむしられてもまだ許してもらえず、この猫は楽しそうに何度も何度も、泥だらけで骨が見える鳩の骸を放り投げて遊んでいたのです。まだ湯気が出てるような臓物があたりに飛び散っているのです。洗濯物に当たらないか冷や冷やしましたよ」

私はその光景を想像し、ぞっと震えました。中谷の顔つきは穏やかなままでしたが、そこにはどこか冷たいものが潜んでいるような気がしました。正直、中谷という礼儀正しい、美しい青年のなかに、なにか薄気味悪いものを感じさえしたのです。中谷がからだを壊した、というのは、或いは私と同じ精神の方面で、それがまだ寛解していないのではないかと思いました。私は話を変えようと、このアパートのほかの住人について聞きました。永瀬と木村いう男性が住んでいると、中谷は言いました。

「そのお二人にも、挨拶しておかなければ」

「それは、そうです」中谷の顔色がかすかに赤くなったのがわかりました。「もちろん、そのほうがいいです。あなたのおっしゃる通りです。もちろんそのほうが、礼儀にかなっている」

「それではさっそく、今夜にでも行ってみよう」

「今日はやめるべきです」

「なぜ?」

「なぜ?それは、二人とも朝早く出かけ、そして夜はとても遅く帰ってくるからです。とにかく、あなたが彼らの部屋を訪問したとしても、彼らは気付くことすらないでしょう。アパートにいるときはたいてい、深い眠りに落ちているのです。そしてアパートにいることなどほとんどないのです」

「スーパーの仕事は、そこまで大変なんですか」

「いえ、二人は特別なんです。じきに、武見さんから説明があるのではないかと思います。私などが中途半端な知識で喋ってしまっては、却って二人に迷惑をかけることになるかもしれない。それはいけない。いたずらな好奇心は却ってあなたに害を及ぼすかもしれない。キュウリオシテキルダケ」

「え?」

 私は驚きました。中谷が口にした言葉、それはたしかに、私が昨夜屈辱的な強盗に遭難したあと、彼女たちが残していった言葉とほとんど同じだったのです。

「いま、なんと言いました?」

「curiosity killed the cat」中谷はゆっくりと言い、頬を赤らめました。「私は英語の発音があまり得意ではないのです」

「誰かが猫を殺した?」

「好奇心は猫をも殺す、というイギリスの諺です。九の生を持つと言われる猫でも、好奇心のせいで身を滅ぼすという意味だそうです。僕は受験勉強のときこのことわざを知ったのです。curiosity はアクセント問題に必ず出る単語ですからね。受験生はuを選びがちですが、正解はoなのです。学習塾でも口を酸っぱくして教えています。それはともかく、curiosityという単語のなかに、猫の生の数、九という響きが混ざっているのが、なんとも不思議で素敵ではないですか?」

 

ほどなくしてムツオさんが現れました。ムツオさんは汚れ物の入ったビニール袋をぶら下げていました。中谷に洗濯を頼むつもりなのです。私たちは卓袱台を囲んで座りました。

「昨日は病院に運ばれたそうじゃないか」

「ええ。ご存知なんですか」

「午前中、中谷に聞いたのだ。まず、俺は昨日、眩い光に目がくらんで目を覚ました。部屋にはビールの空き缶やら、汚れた土鍋やらがあって、天井には下着がぶら下がっている。俺は一人だった。状況を理解するのに少し時間がかかった」

「申し訳ない。私は水沢さんを送るために、ちょっと外出したのです」

「大方そんなことだろうと思ったさ。俺はあんたの部屋のなかをすっかり片付け、自分の部屋に戻り、歯を磨き、顔を洗って、また眠りについたのだ。しかしほんの数分後に叩き起こされた。何度もベルを鳴らしたのは郵便配達ではなく救急隊員の連中だ。中年の男が道端に倒れていて、近くにくずみねの自転車があると言うのだね。しかし俺は寝ぼけていたし、寝入りばなに起こされたことで非常に腹を立てていた。救急隊員を怒鳴り返してしまったのだ。たしかにくずみねの自転車はそこに倒されていたかもしれない。しかしきっとタチの悪い酔っ払いが自転車を盗もうとして、足がもつれて倒れたんだろう。俺は救急隊員の鼻先で、ぴしゃりと扉を閉めてやったのさ。しかし朝になって俺はとんでもない間違いを犯していたことに気付いた。倒れていたのはあんたに違いないと確信したんだ。あんたの部屋を訪れ謝ろうとしたが、あいにく不在だった」

「午前中は役場に行っていたんです。昨夜のことは気にしないでください。幸い、これといってケガもなかったのです」

「中谷はあんたが酔っ払って倒れたと言っていたが、ほんとうは誰かに襲われたんじゃないのか?」

「いえ」私は首を振りました。睾丸がむず痒くなるのがわかりました。「私が勝手に転んだのです。あなたもご存知のように、かなり酒を飲んでいましたから」

「なるほどな。ビールの空き缶は十から二十程度あった。それからあんたの友人の贈り物はとても良い酒だった。俺とあんたですっかり空にしてしまった。さつきもいた。さつきも酒飲みだが、それでもあんたがたいした量を消費したことには変わりない」ムツオさんは目を閉じ、深い物思いにふけっているようでした。ときおり眉間にしわを寄せ、苛立たし気に指先を揉み合わせたりもしました。白猫がゆっくり近づき、ムツオさんの腿に首筋を擦り付けます。するとムツオさんは表情をやわらげ、猫の背を優しく撫ぜるのでした。そして何ごとかぶつぶつ口にした後で、大きく頷いたのです。

「しかし、やっぱりあんたは襲われたと考えて間違いなさそうだ」

ムツオさんは、私はたしかに暴漢たちに襲われたのであり、それも襲撃者が私をムツオさんと間違えたのだと結論しました。そして私に頭を下げたのです。ムツオさんは、私がムツオさんのジャージを履いていたこと、そして武見が私に与えた自転車が、かつてムツオさんが使っていたものだということを根拠として挙げたのです。

「あんたも一人前の男だ。だから暴漢に襲われたなどというのは恥ずべきことと考えているのかもしれない。その気持ちはよくわかる。或いはあんたの優しさか。ひょっとして暴漢は未来ある若者だからと、庇っているのではないか」

「私が勝手に転んだのはたしかです。それに、私とムツオさんでは見た目がまるで違う……」私は、この地方の言葉で私の名前を呼ぶと、ホンダムツオと聞こえることを思い出しました。

「もちろん、俺じゃないとわかってやった可能性も十分にある。俺自身に対する警告だ。連中にとって不都合な真実をこれ以上話すなということだ。要するに、次はおまえだぞ、ということだ」

白猫がムツオさんの腰のあたりに首を擦り付けました。ムツオさんがごつごつした手で頭から背を撫ぜると、白猫は気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らします。そして喉を鳴らしながら、私をじっと見ているのです。私はそのとき、私を襲った少女たちが去り際に言い残した言葉を思い出した。

「curiosity killed the cat」

 あの、橋の下にあった看板に書いてあった落書き。あれにも、ネコは見つけ次第コロすこと、と書いてあったのです。私は少々、気味が悪くなりました。私を襲った二人組の少女、あれは町の存在を隠しておきたい人たちの仲間で、私と水沢の会話を一部始終聞いていたのかもしれない。それはもちろん、ムツオさんの話となにも変わらない、くだらない妄想でした。しかしあの白猫にじっと見つめられていると、なんだか私も、頭がおかしくなりそうだったのです。

「心配しなくてもいい。犯人はとっくにわかっているのさ。亜真手大学の学生寮の連中さ。学生寮の連中は親米保守派と繋がっているんだ。しかし警察に訴えても有罪にするのは難しい。警察署長こそこの町の親米保守派の親玉なのだ。すれ違いにぶつかっただけだと誤魔化すことだろうし、警察もそれ以上は追及しない。実に巧みなのだ」

 ムツオさんは例のゆっくりとした口調で、彼の推理を解説していました。私はムツオさんの話に真剣に耳を傾けました。もちろん信じてなんかいない。私は、私自身の妄想に飲み込まれそうで、それに必死に抵抗していた。いわば、毒を持って毒を制しようとしたのです。

亜真手大学は町の外れに十年ほど前に新設された大学で、社会福祉士や理学療法士の養成コースや語学コースが中心なのですが、最近はスポーツにも力を入れていて、プロが注目する野球選手やオリンピック候補の体操選手も在学しているとのことでした。

大学を誘致するにあたっては、町長を先頭に町の有力者たちが散々骨を折ってきたようです。その甲斐もあって、遊ばせておくしかなかった土地にアパートができて地主は喜び、卒業生が地元企業や町役場に就職したり、大学に職を得た者も多数いる。そんなふうに大学ができたことで町の経済にもそれなりの効果があったため、学生たちの多少の不祥事は見過ごされることが多い、とムツオさんは言います。

「大学の横暴を告発しようとした町役場の職員もいたのさ。しかし川で溺れて死んでしまい、真相は闇のなかに消えてしまった」

「殺されたのですか」

「その職員は、俺もよく知っている男だが、川釣りが趣味でね。とても巧みな釣り手で、あの川の底がどうなっているか、そして川の流れの一筋一筋までしっかりと頭に入っていたのだ。それほどの男が、うっかり脚をすべらせて深みにはまってしまったというのだ。そんなバカな話はない。とにかく、警戒を怠らないことだ。盗聴器のチェックをもう一度、した方がいいかもしれない。あんた、俺とさつき以外の誰かを部屋に入れたかね。配送業者でもなんでもかまわない」

「武見さんが部屋に案内してくれました」

ムツオさんは中谷に顔を向け、頷きました。中谷は少し困惑した笑顔を浮かべて、あいまいに頷きました。しかし私は、ムツオさんが見当はずれな推理の羽をどんどん広げてくれることを望んでいました。むしろ、犯人が大学生たちであって欲しいと望んでいたのです。

「たしかに武見さんは、部屋のなかを色々、見て回っていたようでした」

「武見が関わっているのは、ほぼ間違いないようだ。なにせ武見は俺をスーパーくずみねから追い出した張本人だ。武見の家は今でこそ地の者のような顔をしているが、もとは余所者なのだ。武見の祖父さんに当たる人物が戦後どこからかやってきて田畑を買い漁り、スーパーマーケットを作ったのだ。もちろん武見も、大学誘致に奔走した一人だ」

「しかし武見は私の雇い主です。私を痛めつける理由はないはずです」

「武見が病院に迎えに来たんだろう。不自然じゃないか。奴は何もかも知っているのさ。或いは、俺とあんたを遠ざけるためかもしれない」

「私が救急隊員に緊急連絡先として、武見さんの携帯の番号を伝えたので」私はとっさに嘘をつきました。

「なんにせよ迂闊だったな。俺と中谷は、徹底的にあんたの部屋を掃除した。もちろんあんたを歓迎するためだ。もてなしの心だ。しかし同時に、盗聴器の類が設置されていないか、確認するためでもあったのだ。武見はただ部屋に入っただけかね。あちこち、棚を開けたりはしなかったかね」

「トイレ、風呂はもちろん、押し入れや流しの下なども開けました。それから、私が入居するまえに、私宛に届いたビールを冷蔵庫に入れたようです」

「あんた宛てにビールを送ったというのは?」

「私の、以前の仕事の上司です。ムツオさんが日本酒を褒めていた」

「そうか。それならその線はないな。あんないい酒を贈ってくれる人間が悪事に手を染めるなど、到底考えられない」

「まあ、たしかに善人と言えば善人でしたが」

「とにかくあとで盗聴器を探そう。渡辺に頼めば、盗聴器探知機が手に入るはずだ。むしろ渡辺は、そのあたりの廃品の部品を活用して、どこよりも優れた盗聴器探知機を作ることができるだろう。先日の話もすべて筒抜けだったかもしれない。俺としたことが迂闊だった。出勤日を伸ばされたというのも、あんたをしばらく泳がせて様子をみるためなのだろう」

 

水沢はその夜また現れ、ムツオさんと、中谷も私の部屋に呼んで食事を共にしました。水沢は売れ残りだというマグロと太刀魚の刺身とたこぶつを持参し、ムツオさんは私の部屋の台所でアジの南蛮漬けを作り、中谷は自室の卓袱台を運び込みました。そして私は冷蔵庫の酒類を提供したのです。

水沢は、ムツオさんから昨夜のことを聞かされて、驚きを隠せない様子でした。

「お風呂に入ってたら救急車の音が聞こえたの。あなただったのね」

「おそらく」

「救急車の音って子どもがぐずるときの泣き声に似てるよね。なんか昔を思い出しちゃって」

「お子さんがいらしたのですか」

「そうよ。いまは遠くにいるけど」

「遠くに」

「県外の寮のある高校に通ってるの」

「スポーツ選手かなにかですか」

「そんないいもんじゃないよ。あたしが母親失格なの」水沢は皮肉っぽく笑いました。私は不用意なひとことを後悔しました。

「なに、すぐに戻ってくるさ」ムツオさんが強い訛りで言いました。「おめえが悪いわけじゃない」

「そうね」水沢は呟くように言うと、ビールをごくりと飲み干しました。

「で、ほんとうはなにがあったの?」

「勝手に転んだのです」

「襲われたんだよ。亜真手大の連中に」

「犯人はエムケン強盗じゃない?」

「またその話か」

「なんですかそれは」

「男の人のタマタマをぎゅっと握ってね、お金を出せって脅すの」

私はどきりとして、手にしていたグラスを落としそうになりました。おそらく私の顔には、私の驚きと戸惑いと羞恥がはっきりと現れていたことでしょう。睾丸がムズムズし始めました。しかし水沢は俯いたままビールをグラスに注いでいて、ムツオさんと中谷はもぞもぞとアジの南蛮漬けを食べていたので誰にも顔を見られずに済んだのは幸いでした。

「M検っていうのは、戦争のころの徴兵検査でね、男の人はみんな素っ裸にされて、おちんちんをぎゅうぎゅう絞られたんだって」

「性病検査のためです。性器だけではなく肛門も検査します。こちらは痔疾の検査です。一部の大学では、戦後しばらく行われていたのです」中谷が言いました。

「単なる噂話だよ」ムツオさんが言いました。

「現実の話ではないのですか」

「検査があったのはほんとうです。しかし強盗のほうはどうだか。被害に遭った人は恥ずかしくて警察に届け出ができないから表沙汰になってないだけだと言われていますが」

「そんなに怖がらなくてもいいのに」水沢が言いました。私は、知らず知らずのうちに自身の股間をぎゅっと握りしめていたのです。私はビールを飲み干して誤魔化しました。

「ホンダさんはなんでも真面目に受け取りすぎなのよ」水沢が笑います。

「本多さんだけじゃない。じつは僕も非常に恐ろしかったのです」中谷が言いました。「部活などで日が落ちてから帰宅する際、友人と別れたあとにふとエムケン強盗の話を思い出し、駆け出したことすらあるのです!ときどき後ろを振り返りながら!しかし馬鹿げた話です。都市伝説のようなものです。この町の中学校で何年かおきに話題になるのです。僕のイトコは三十代ですが、エムケン強盗のことなどなにも知らないと言います。しかしここ数年、また話題になっているようです」

「山田のところのおろちだよ」ムツオさんが言いました。

「塾長がですか?」

「塾長?」

「本多さん、山田おろちさんというのは僕が手伝っている学習塾の塾長で、中学の先輩なのです」

「あいつは子どもたちの歓心を買うために、根拠のない、バカバカしい噂話を学習塾で広めているのだ」ムツオさんの言葉に私は思わず笑いそうになりました。水沢もそれに気付いているようで、しっというかたちに口を動かして笑ったのです。「それをまた子どもたちが真に受けて友達に話すというわけさ。エムケン強盗なんてのも、おろちの妄想さ。子どもたちはエログロが大好きだからな」

「おろちというのはその方の名前ですか」

「おかしな名前だが、本名だ。山田の家は変わり者が多くてな。信一さんっていってな、おろちの祖父にあたる人なんだが、おろちって名前つけたのも信一さんだ。おろちのオヤジはまともな百姓だったが、信一さんに似たんだな」

「信一さんという方はなにかされたんですか」

「若いころに東京の学者先生に、このあたりのあることないことを書き連ねて送り付けたんだ。えらい騒ぎになったそうだ」

「塾長のお祖父さんは若いころ民俗学を熱心に研究していたのです。著作もいくつかあったらしいのですが、いまはもう残っていないのです」

「あたしも聞いたことあるよ。なんかエロいことばっかり書いてたんでしょ」

「そうだ。興味本位の、下衆な話ばかりだ。例えばこんな具合だ。この村では毎晩のように夜這いがあって誰が誰の子かわからん。それから、村の者は暇さえあればケモノと交わっていて、それで産まれた子だけが暮らす小屋が山のなかにある、とかな。ひどいもんだ。本がデタラメだというだけならまだいいが、『手ほどき』に関しては実際に村の者に被害があったのだ」

「『手ほどき』」

「要するに、村の若者衆や子どもにだな、後家さんやらがシモのことを教えていたという話だ。若い衆の寄り合いだとか、村の男の子だけが寺に集ったときだとかに必ず後家さんが来て、あれやこれや『手ほどき』したというんだ。俺の父親も祖父も、そんな話聞いたことはない、と言っていた。みんなそうだ。あれは信一さんがよその村の話をどこかで聞きかじって、面白おかしく書いたただの作り話なんだ。しかし東京の先生は興味を持ってな、信一さんの話を聞くために、わざわざ村に来た」

「誰かさんとは大違いね」水沢が笑い、ムツオさんはふん、と鼻を鳴らしました。

「村長を頭に村の者が総出で歓迎してな。二、三日、山田の家に泊まって帰っていったそうだよ。貧乏な村が、港町から魚を取り寄せたり、正月しか飲まないような上等な酒を振る舞ったり、精いっぱいのもてなしをしたそうだ。それから一年か二年ぐらいして本が何冊か送られてきたんだが、読んでみてみんな腰を抜かした。なにしろウソ偽り、デタラメだらけ、それがバカに詳しく、くずみねの名前つきで大々的に紹介されている。もちろんおおいに怒ったさ。本がデタラメだというだけならまだいい。実際にデタラメのせいで被害者があったのだ。うちの親戚に昭子さんという戦争未亡人がいたのだが、方々で『手ほどき』をしているのは昭子さんだと噂された。そのせいで決まりかけていた再婚話も立ち消えになった。昭子さんは悔しくて悔しくて毎晩泣いていたそうだ。俺はそのことで昭子さんと話したことがあるが、三十年経っても忘れない、と言っていた。村の人たちは東京の先生と出版社に村長の名前で抗議文を出した。しかし無駄だった。本はかなり売れたそうだ」

「それは大変でしたね。まだどこかにあるのでしょうか」

「村にあったものはすべて焼き捨てたと聞いた」

「僕は持っています。大学の近くの古書店街で偶然見つけて、購入したのです。なんと三万円もしたのです」

「あたし読んでみたい」

「まだどこかにあるはずですが……探してみます」

「時間の無駄さ。そもそも、こちらのお嬢さんは、信一さんは俺とは違うと当てこすりを言ったが、それは大きな間違いなのだ。なにしろ戦後何年も経っていないころの話だ。アメリカの連中は、日本人が文明的に遅れた野蛮人だと喧伝するのに熱中していた。そのほうが連中のやりたいように教育できるからな。そして日本人のなかにもアメリカの片棒を担ぐ奴らがいた。それが件の大学先生さ。信一さんはただ利用されただけってことだ」

 ムツオさんの話は、論文を揉み消されたという話に比べてそれなりに真実味があるように思えました。マッカーサーが日本人は十二歳の子どもだと言ったという話は、私でも知っていたのです。

「俺の祖父さんから聞いた話だが、信一さんは兵役検査でも不合格で、肩身の狭い思いをしていたらしい。だから戦時中の日本に対していろいろ思うところがあったんだろう」

「M検で落とされたのかもね」

「からだが弱かったからな。山田はずいぶんの土地持ちだったが、信一さんがあまり働けないところに武見が現れて、かなりの田畑を二束三文で売り渡したのだ」

「相撲勝負で武見さんが勝ったから仕方なく売ったのだと塾長は言っていました」

「またくだらんデタラメを」ムツオさんはそう言って笑いました。「ともかくエムケン強盗というのも、似たような話が東京の先生の話にも出ていたそうだ。後家さんが精をつけるために若い衆の睾丸をこりこりと揉んでやったとか、気に入らない奴が来たらぎゅうっと強く握ったとかなんとか、な。村中の男どもの睾丸の大きさや形をぜんぶわかっているから、夜道で顔が見えなくても睾丸を握れば誰だかすぐわかった。女たちは暗がりでは必ず男の睾丸を握る。それがこの村の挨拶みたいなものだというのだ。まったくバカバカしい。エムケン強盗なんぞというものは、このデタラメ話から思いついたんだろう」

「あたしもやってみようかな」水沢が笑いました。

「塾長はたしかさつきさんの同級生でしたよね」

「ヘンな奴はヘンな奴だったよ。成績はめちゃくちゃ良かったんだけどね。別にヤンキーじゃないんだけど、髪をピンク色とかオレンジ色に染めて、ピアスをいっぱい開けてさ。誰も知らない外国のパンクバンドのダサいTシャツをいつも学ランの下に着てて、外国のヘンな表紙の小説とか読んでた」

「ジュネですね、たぶん。塾長はジュネが好きですから」

「あの人自分でも小説書いてたんだよね」

「今でも同人誌を主宰しています」

「中学のころからなんだよ。クラスメートが出てくる小説書いてみんなに読ませたりしてたんだけど、なんかキモい話ばっかりで。基本はドラクエみたいな、勇者がドラゴンを倒しに行くみたいな話なんだけど。人が死ぬ場面とかね、内臓の臭いがどうこうとか、妙にリアルでキモかった。リアルさを追求するためにカエルやネズミなんかを解剖してたみたい。ほら、野良猫が何匹か川で殺されてた事件あったじゃない?あのときも犯人じゃないかって疑われて」

「塾長はそんな人じゃないですよ」中谷が強く抗議しました。「警察にも事情聴取されたようです。しかし塾長の家には猫が何匹もいた。塾長ほど猫を愛している人はいないのです。塾長はいまでも、疑われたことにひどく傷ついているのです」

 中谷はどうも、山田という男をかなり慕っているようでした。水沢も、しまった、という顔をしていた。

「その小説のなかで、水沢さんはどういう役回りでした?」私は話題を変えました。

「あたし?魔女。カエルだのヘビだのを捕まえてきて、大きな鍋でぐつぐつ煮るのよ」

「そりゃ傑作だ」ムツオさんが笑いました。「モデルに忠実だな」

「工藤くんっていう、野球部に入っててあんまり目立たない子がいたんだけど」水沢はムツオさんの言葉を無視して言いました。「なぜかあたし、山田くんの小説のなかで、魔女をやっつけに来た勇者役の工藤くんと恋に落ちるの。勇者はもともと魔女のことが好きで、自分はぜんぜん攻撃しないで魔女にやられっぱなしで死にかけるのよ。すんでのところで仲間が助けに来るんだけど、死にかけの工藤くんは、自分の恋心を打ち明けるの。それから意識しちゃってさあ。いま考えるとほんとバカみたい」

「恋人になったんですか」

「まあちょっと遊びに行ったりね。それまでぜんぜん興味なかったんだけど、まあまあかっこよかったし、意外にいい奴だったよ」

「塾長は工藤さんの気持ちを知っていて、アシストしたんじゃないでしょうか」

「そんなに気が利く人間じゃないと思うよ」

「あれで意外とロマンチストなんです。塾長は結婚するとき、満天の星空の下でプロポーズしたんです。あの星を全部集めても君の美しさには敵わないって」

「うわ、だっさ」水沢は大きな声で笑いました。

「素晴らしいじゃないですか。そんなふうに笑ってますけど、ほんとうに星空の下で言われたら、さつきさんだって恋に落ちるに違いないんだ」

「とにかく根も葉もない噂話で子どもたちを不安にさせるのは感心しないな」ムツオさんは二人を仲裁するように言いました。

「工藤くんで思い出した。あたしんとき、犯人はザシキワラシ説があった」水沢が言いました。「タマタマ握られた人は幸せになるとかなんないとか。工藤くんが言ってたんだよ」

「それもあいつが、あとで思いついたことだろう」

「ザシキワラシかどうかはわかりませんが、たしかに、金を出せというけどじっさいは金を取らないと聞いたことがありますね」

「ただ痛がるの見るのが面白いんじゃない?あたしもちっちゃいころ、タマタマ蹴ったりしたもん。偉そうにしてる男子が泣くの、面白いから」

「ここでやるのは止めてくださいよ」

「子どものころって言ってるでしょ」水沢はよろよろと立ち上がり、壁にどんと手をついてからだを支え、足を揉みました。「足、しびれちゃった」

水沢はトイレに行き、冷蔵庫から缶ビールを抱えて持ってきました。「……あのさ、亜真手大の学生寮の子たちが怪しいのはほんとだと思うよ」

「やっぱりそうだろう。エムケンだなんだとバカなことを言っていると、おまえまで疑われるぞ」

私はムツオさんの関心が亜真手大学にぐっと傾くのを確認し、ほっと胸を撫でおろしました。

「オヤジ狩りしようとしたら車かなんかが来たんで逃げたんじゃない?あたしも夜中、たまに大学生見かけるから。誰かの家で飲み会をしてて、夜中にあのコンビニに買い出しに行ってるんだよ。何回か冷かされたことがある。ほんと失礼なんだよ。無視してたらババアとか言いやがんの。冴えない連中なんだけど、何人か固まると調子に乗るんだよね。ああいう奴らのこと、なんていうんだっけ、中谷くん」

「イキってる、ですか」

「そうそう、それ。イキってるんだよ。若い子は悪口のバリエーションをたくさん持ってるよね」

「その意見には賛成しかねます」中谷は顔を紅潮させて抗議しました。

「寮は近くにあるのですか?」私はムツオさんに聞きました。

「ここから歩いて、ほんの十分ほどのところだ」ムツオさんが言いました。「ほんとうはもっと大学の近くに作る予定だったのだが、急遽この近くに建設されたのだ。もちろん、俺を監視するためだ」

「あら怖い。せいぜい気を付けることね」水沢はそう言うと、あんぐり口を開けてたこぶつを口に放り入れたのです。

ムツオさんの顔はまた真っ赤になり、いまにも眠りに落ちてしまいそうでした。私はその日買ってきたばかりの布団を指さし、よかったらここで眠ってくれてかまわない、と言いました。

「なんだ、布団を買ってきたのか。言ってくれれば中谷のところにいくらかあるのに」

「来客用に二組取っておいてあるのです。もちろん定期的に干していますから、清潔ですよ」

「ありがとうございます。しかしもう買ってしまったので」

「あんたあれか、自分の布団じゃないと眠れないタイプか」

「そういうわけでもないのですが」

「いいんだ。わかるよ。なんせ布団っていうのは人生で一番一緒にいる時間が長いものだからな。他人が臭くてたまらないと思うぐらいがちょうどいいんだ」

「あたしもお布団大好き」水沢はそう言うと、なにがおかしいのかけらけらと笑いました。

「まあ、俺も自分の布団じゃないと落ち着かないクチだからな」

ムツオさんはそう言って畳の上に大の字になると、すぐに鼾をかいて眠り始めました。そして十分もしないうちに中谷が立ち上がりました。

「もう帰るの?」

「申し訳ありません。永瀬さんと木村さんが帰ってくる時間なので、食事の準備をしなければならない」

「あ、そう。頑張って」

「帰ってきたら私にも声をかけてくれませんか?ひとこと挨拶がしたい」私が言うと、中谷はさっと顔色を変えました。

「いえ、それには及びません。彼らは、その、とても疲れているのです。疲れ果て、食事をとるのがやっとなのです。それに初対面の人と話すのはとても神経を消耗するのです。もちろん本多さんはとても気持ちのいい人だ。その点は心配に及ばない。しかし彼らはとても繊細で、それはみなさんが想像するよりもかなり……」

「わかったよ。よろしく伝えておいてください」

「了解です。彼らも、本多さんと会えないことを非常に残念がっています。必ず近いうちに、ご挨拶ができるでしょう」

扉が閉まると、私は言いました。

「二人は、いったいどんな仕事をしているのだろう。水沢さんは二人のことをご存知ですか」

「二人?仕事?」

「永瀬さんと木村さんのことです」

「そんな人いないよ」水沢は大きなあくびをしました。

「いない?」

「このアパートには、あなたとムツオさんと、中谷くんの三人しかいないんだよ。中谷くんの部屋におじさんのお人形が二つあるのかもしれないけど」

「中谷さんの妄想だというのですか。しっかりしているように見えましたが」

「東京からここに戻ってきたときはけっこうヤバかったみたいだよ。繊細な子だからね。そういうのでバランスを保ってるのかもしれない。ムツオさんと波長があうのもそういうことでしょ。あなたもここいいたら、そのうちヘンになっちゃうかもね」

「それは大丈夫だと思いますが」

 ムツオさんがとつぜん大きな音を立てました。喉だか鼻だかに詰まっていた空気がいちどに押し出されるような、滑稽な音でした。私たちはムツオさんの存在をすっかり忘れていたことに気付き思わず目を見合わせたのですが、幸いムツオさんはぐっすり眠っているようでした。水沢はムツオさんの肩を揺すって起こしました。

「おじさん、そんなふうにしてたら風邪ひくって」

「いかん、また眠ってしまった。中谷は帰ったのか」

「ついましがた。おじさんも部屋に戻ったら?自分のお布団が好きなんでしょ?」

「たしかにそうだな」

「片づけはやっとくから」

ムツオさんはふらふらと頼りない足取りで部屋を出ました。すぐに隣から、どすんと大きな音がしました。

「布団は敷けなかったみたいね」

「行ってきましょうか」

「親切なのね。ほっといても大丈夫よ」

「ずっとお世話になってるので」

 ムツオさんの部屋のドアを開けたとたん、ムッとするような匂いがしました。匂いの正体は、板間の隅に置いてあるネギでした。ネギは段ボール箱のなかにぎっしり詰まっていたのです。

「弁当に使う食材だよ」暗い部屋から声がしました。

「起きてらっしゃったんですか。勝手に入って申し訳ない。布団を敷きに来ました」

「助かるね。それでは今日はあんたに甘えることにしよう。押入れのうえの段に布団が畳んである。俺はいま、起き上がることができないことはない。しかし押入れから布団を出し、畳の上に敷くというのは案外重労働なんだ。思っているよりも腰に負担がかかるのだ。あんたが俺の横に敷布団を敷く。すると俺はごろりと転がるだけで、安らかな眠りにつくことができる。こういうわけだ」

「わかりました」一歩踏み出したとたん、私は躓いて畳のうえに両手をついてしまいました。食材の入った段ボール箱は一つではなかったのです。どすん、と大きな音がして、ボロアパートは大きく震えました。どうしたのー、と壁の向こうで水沢が間延びした声を出しました。

「躓いてしまって」

水沢は私の言葉に答えたようでしたが、何と言ったのかはよく聞き取れませんでした。

かなり大きな音でしたが、ムツオさんは眠っているようでした。私は手探りで押入れを開け、布団を敷いてムツオさんを転がし、掛け布団をかけたのです。

ムツオさんの部屋を出たとき、例の白猫がアパートのまえを小走りに走っていくのが見えました。部屋に戻ると水沢の姿はありませんでした。あのとき水沢は、あたしも帰るね、と言ったのだ、とわかりました。

 

私は先日ホームセンターで買い求めた厚手の作業服を着込み、リュックサックにおにぎりとロープ、軍手、コンパス、それからスマートフォンのバッテリーやタオル、虫除けスプレーを詰め込んで出かけました。どうしても、あの町のことが忘れられなかったのです。というよりも、一人になると睾丸がむずむずとし出し、するとどうしても、あの町の存在を確かめてやらなければ気が済まないという気になるのです。私を町から遠ざけようとする者たちがいるのかどうか、わからない。そっちがその気ならこちらからとことん、相手をしてやるという気になってしまうのでした。

もちろんそれがバカバカしい妄想であることは十分自覚していました。しかし町を見てやりたいという衝動はどうにも抑えきれなった。ひょっとして、子どものころの性衝動と同じ類のものなのかもしれない。それならばその衝動に敢えて乗っかってやったほうが、無理に抑え込むよりもいいと思ったのです。病院で検査を受けろと言われてから、武見からの連絡はありませんでした。私には十分、時間があったのです。そして私は自転車を漕ぎ出したのです。

その日も空はどんよりと曇り、蒸し暑かった。コンビニエンスストアに着くころには汗だくでした。

不愛想な店員からスポーツドリンクを二つ買い、少し休憩してからは立ち漕ぎで坂を上りました。相変わらず道端の草木は好き放題に伸び、鋭い枝先が私の邪魔をしました。見覚えのある一角が見えてきました。先日と同じように、平屋建ての住宅はひとけもなくひっそりとしていました。私は水沢の家のベルを鳴らしました。しかし反応はなかった。掃き出し窓は少し開いていて、レースのカーテンが風に揺れていました。

私は裏手にまわり、向こうの山のほうを眺めました。眼下に広がる原野には濃い靄がかかり、かろうじて、川のあたりが見えるだけでした。その先はぼんやりと、緑色に霞んでいた。

私は玄関に自転車を停めさせてもらい、スニーカーを登山靴に履き替えました。そして、ちょっと下を探検してくるから自転車は通勤に使ってもらって構わない、と、簡単なメモを残しておくことにしたのです。

「なにしてんの?」声がしました。水沢がカーテンを半分ほど開けて、眠たそうな目でこちらを見ていました。

「会いに来たの?あたし寝起き悪いのよ。それでもいいならお茶ぐらい出すけど」

「違うのです。やっぱり、あの町を見てみたくて、」

「見えた?」水沢はあくびをしながら言いました。

「いえ。靄がすごくて」

「そうだよね。天気がいい日にしろって言ったのに」

「でも、行ってみるつもりです」私は登山靴を履いた足を軽く上げました。すると水沢は吹き出しました。

「あんたって面白いね」水沢は子どものように、楽しそうに笑うのです。

「よかったら一緒にどうです?」私はそう言ったあとで赤面し下を向きました。つい調子に乗って余計なことを言ってしまった。恐る恐る見上げると、水沢は意外なことに、ちょっと思案している様子なのでした。

「今日は仕事休みなんだけどね、病院行かなきゃいけないのよ。月一回。バスと電車で隣町まで行くの。ついでに買い物も」

「どこか悪いのですか」

「これぐらいの年になればどっかしら悪いところがないほうが不自然でしょ」

「それは……失礼しました」私はこのまえの夜も、無遠慮に水沢の子どものことを聞いて悲しませたばかりだったことを思い出し、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

「いいよいいよ、そんなに落ち込まないで。あ、ちょっと待ってて」水沢は部屋のなかから戻ってくると、私に握った手を差し出したのです。

「あげるよ。お守り」

「鯛の鯛」

「そう。いっぱいあるから。遠慮しないで」

 水沢はそう言って手を振ると、さっとカーテンを閉めてしまったのでした。

 

原野はあいかわらず、濃い靄に包まれていました。あの日ははっきり見えた川も、おぼろげに霞んでいる。ましてや遠くの山裾などまるで見えない。しかし私は迷わず繁みに足を踏み入れました。

草はあの日よりもさらに伸び、木々も鬱蒼と葉を茂らせていました。じめじめしていて薄暗く、ほとんど洞窟のなかを歩いているようでした。しかし私の足取りは軽快だった。ある程度様子がわかっていれば、なんのことはない、東京でも珍しくないただの雑木林なのです。そしてなにより、作業服の胸ポケットには水沢から貰ったお守りが入っているのです。これさえあれば百人力なのです。

あの日と同じ階段が見えてきました。相変わらず足元は湿り、気を抜くとずるりと滑ってしまいそうだった。私は慎重に歩を進めました。ところどころ大きな石が転がっていて、苔に覆われている。私は軍手を嵌めた手で手近な太い幹に捕まり、ゆっくりと階段を降りました。しばらく行くと先日と同じように、土が崩れて急峻な崖になっていた。私は手ごろな木にロープを二本しっかり括りつけ、木の根が露出し水が染み出る土壁に足を押し付けながら降りました。それほどの高さではなかった。あっけなく、私は地面に足をつけました。あたりは少し開けて、岩のあいだを水が流れていた。私はそれを掬って顔を拭いました。水は驚くほど冷たく、疲れも緊張も、すべて吹き飛ぶようでした。

階段は途中で途切れていましたが、その先は土のうえに張り出した木の根が、いわば自然の階段を作り出していました。大きいのや小さいや、様々なかたちの踊り場が私を迎えたのです。それは愉快なリズムを刻んでいるようでもありました。

降り立った場所は一面の草原でした。しかし草の丈はそれほど高くなく、せいぜい膝ぐらいで、歩くのはさほど苦ではなさそうだった。それにちょうど人が歩けるぐらいの幅で、土が剥き出しになっているのです。川に向かって道が続いているようなのです。誰かが日常的に、ここを歩いているのは間違いなさそうでした。ひょっとして水沢も、ときどきここを歩いているのかもしれない。それを言わないことが逆に、彼女の秘密のなかに入り込んでいくようで、私のこころは昂り始めました。

スマートフォンの電波は届いていなかった。私はコンパスを見ながら、川の方角を目指しました。靄は思ったよりも濃く、視界は百メートルもなかった。しかし私はまったく、不安を感じなかった。

途中、灌木の繁みを通り抜けたり、大小の石が転がっていて歩きにくい部分もあるにはありました。それにうえから見た印象とは違い、起伏もずいぶんありました。しかし私の行く手を遮るというほどではなかった。

私はふと、祖父のことを思い出しました。祖父は私が幼いころに亡くなってしまったのであまり記憶はないのですが、歴史学の研究者だったそうで、よく幼い父を連れ、史跡を求めて日本中をあちこち旅していたと聞いたことがあります。もっとも父は学究肌ではない平凡な男で、祖父には似なかった。父は、祖父が進路や仕事の悩みを聞きながら、どこかバカにするような態度をとるのをあまり面白く思っていなかったようです。祖父の晩年はあまり関係もよくなく、老人施設に入った祖父を、父が訪れることはほとんどなかった。写真も、祖父の業績を伝える書物も、家にはまったくなかったのです。もちろん私も父と同じ平凡なサラリーマンで、学者になれるような頭脳も探求心も持ち合わせていない。だから祖父への想いのようなものはほとんどないのですが、しかしこうして見知らぬ土地の原野を一人歩いていると、少しばかり祖父の気持ちもわかるような気もしてくる。ひょっとして、祖父もこの地を訪れたことがあるのかもしれないと思うと、見えない存在にそっと背中を押されているようで、どこからか力が湧いてくるのでした。

三十分ほど経ったころでしょうか。空気の感じが変わったように思いました。温度が少し下がり、湿った匂いが濃くなった。ところどころに低木が固まって見える先に、川がありました。

川べりに出ると、いっきに視界が広がりました。私はごろごろ転がった石のうえに立って川を眺めました。なんとも爽快な気分でした。川はほとんど、止まっているように見えました。まるで湖、あるいは町役場で見たミニチュアのなかに流し込んだ樹脂のようにも見えた。ところどころ顔を出した大きな石を、水は遠慮がちに迂回していました。

五十メートルほど下流に大きな石が転がっている箇所がありました。石はまるで庭の飛び石のように行儀よく並び、ほどよい高さで水面に顔を覗かせて。向こう岸まで渡れるようになっていたのです。石が長い年月のうちに自然と橋のように並んだのか、あるいは誰かが川岸の石のなかから手ごろなものを選び、川のなかに投じたのか、それは定かではありません。私は石のうえを慎重に歩きました。水のなかでは鮮やかな緑色の水草が揺れ、そのあたりに小さな魚がいるのもわかりました。

川のなかほどには大きな平石がありました。それはとても大きな平石で、ひょっとしたら、私のアパートの部屋ぐらいの広さがあるかもしれなかった。まるで川のなかに浮かんだ船のようでした。天気が良ければ、ここに座ってのんびり釣りでもするのもいいかもしれないと思いました。私は少し横になってみました。川の流れもゆるやかで、すぐ近くで控え目なせせらぎが聞こえる。私は重い登山靴と靴下を脱ぎ、疲れた足を川の流れに突っ込んだのです。穏やかな流れが私の足を優しくくすぐります。ひんやりとした風が、まるで絹のように私の頬を撫ぜていきます。見上げた空は手を伸ばせば届きそうにも、遥か遠くにあるようにも見える。胸ポケットのなかの魚の小骨が、じんわりと温かくなったような気がしました。このまま何時間でも横になっていたい気分でした。

石の表面にはわずかに凹凸がありましたが、横になるのに不都合なほどではなかった。そしてその凹んだ部分には、青々とした苔が生えている。近付いてみると、それはなだらかな段丘に広がる草原のようにも見えた。そして、あの、町役場で見た、くずみね町のミニチュアのようでもあったのです。

ほんの一、二分ですが、私は心地よい眠りに落ちていた。しかし足先の冷たさに、すぐに目を覚ましたのです。私は首筋になにか寒いものを感じました。とっさに手で払うと、石のうえに落ちたのは小さなヘビだったのです。ヘビは少し弱っているようでした。くねくねとからだを捩らせながら私から離れようとするのですが、その進みはひどく遅く、ときおり諦めたようにその場に留まってしまうのです。どうもヘビは、ケガをしているようでした。よく見ると胴体の真ん中あたりに、噛みつかれたような跡があって、赤い色の血が滲んでいるのです。ひょっとして、野良猫に襲われたところを命からがら逃げてきたのかもしれない。やがてヘビは転がるようにして、水のなかにぽちゃんと落ちました。

川を渡ってからも、先ほどと同じような原野が続いていました。丈の低い草がびっしり生え、石ころが転がり、ときどき灌木の繁みがある。目的地まであとどれぐらいなのか、まるで見当がつかない。コンパスを見ながらでしたから、方角を間違える気遣いはない。川を渡ってから、三十分ほど経っていました。そろそろ町の影が見えてもおかしくない。しかし目の前は靄が掛かり、遠くに山の影がうっすらと見えるだけなのです。

だましだまし歩いていましたが、疲れははっきりと現れてきました。足は重く、まるで老人を一人、背負って歩いているようでした。腿や膝、ふくらはぎはパンパンに張り、登山靴のなかの足指は痛みに悲鳴を上げていた。先ほどまでなんともなかった足元の些細な小石が、まるで大きな、両手でしがみついてよじ登らなければ越えられないほどの岩のように感じられました。私は山歩きなどほとんどしたことがない。ゆっくりと歩いているつもりでも、からだのあちこちに大きな負担をかけていたようでした。私は手ごろな大きさの石を見つけて、それに凭れかかって休息することにしました。

おにぎりを食べ、スポーツドリンクを飲み干すと、重い眠気が私を襲いました。スマートフォンはまだ電波を捕捉できていませんでしたが、時計は正常に動いていた。まだ正午前でした。私はタイマーを三十分にセットし、そのまま眠ることにしたのです。

私は水沢の夢を見ていました。私は水沢に、ついに町を発見したことを伝える。すると水沢は私と喜びをともにし、あの家を引き払い、私と一緒に町に住むことに決めるのです。とても幸福で、温かく、そして少しばかりエロチックな夢でした。私はまだ十五、六の少年で、いまと同じ四十代の水沢に、「手ほどき」をしてもらうのです。自分でも知らないうちに気がかりになっていた事柄が夢に現れ、はっとすることもありますが、この夢は私の願望がそのまま現れたもので、目新しい発見とか、無意識に閉じ込めていた本当の自分の姿に気付かされたということはなかった。しかし幸福な気分であったことは間違いありませんでした。私が水沢に恋焦がれていたのはたしかでした。しかし、現実に水沢とそういう関係にならなくてもいい。この幸福な感情を、いつでも好きなときに呼び出せるようにできたらどんなに幸せかと思ったのです。

タイマーの音で目を覚ましたとき目にしたのは、抜けるような青空でした。綿をちぎったような雲がゆっくりと流れている。さっきまで周囲を覆っていた靄もすっかり晴れ、まわりの草木が力強く陽光を跳ね返している。

そこは公園の片隅だったのです。私はすでに町のなかにいたのです。私が寄り掛かっていたのは、公園の植え込みを囲う岩の一つだった。とても大きな公園のようでした。すっかり手入れされた木々が整然と並ぶ小道にはゴミひとつ落ちておらず、清潔なベンチが等間隔に配置されていました。私はベンチに座り直しました。岩に凭れて眠っていては、浮浪者と間違えられかねなかったのです。

少し休んでから、私は公園を横切り外に出ました。町は、アパートの周囲とあまり変わりがなかった。畑や空き地が広がり、まばらに家や倉庫のようなものが建っている。人影はほとんどなかった。公園のなかでも、まだヨチヨチ歩きの子どもを連れた若い母親を遠くに見たきりでした。古い農家風の家の庭で、ジャージを履いた老婆が腰を屈め、植木鉢をいじっているのを見ました。老婆は私を見上げました。私は挨拶をした。しかし老婆は何も答えず、また植木鉢のうえに屈みこんだのです。

するとそのときから急に、人の気配が濃密になってきました。小さな畑で作業をしている男がいる。軽トラックがゆっくりと通り過ぎていく。電信柱のてっぺんにはオレンジ色のつなぎを着た作業員がいる。私は足を進めました。

私はかなり落胆していました。あれだけ私を悩ませ、これほどの苦労をしてようやく辿り着いた町は、どこにでもあるただの田舎町だったのです。アスファルトで固めた道路も、マッチ箱のような白い家も、だらしなく作業服を着崩した男たちが軒先でタバコを吸っている小さな工場も、くすんだショーケースに蝋細工の料理を並べた定食屋も、日に焼けたビール会社のポスターも、どれもありふれたものだった。私がアパートの周囲に見出した光景の印象と、なにも変わらなかったのです。

しかしなにより私を落胆させたのは、胸ポケットに入れていたはずの、水沢からの贈り物の鯛の鯛がどこかに消えてなくなってしまったことでした。私は道の途中に立ち止まり、ポケットというポケットをすべて裏返してみました。しかし鯛の鯛はどこにもなかった。川で眠りこけているあいだに落としてしまったのかもしれない。鯛の鯛は水を泳いで、どこかに行ってしまったのかもしれないのです。迂闊に川べりに近付いて、野良猫に食べられてしまわないことを願わずにはいられませんでした。

私は百メートルほど先に見える建物を目指して歩いていました。建物は古びたアパートで、道とのあいだのだだっ広い空き地には薄汚れた白いワゴン車が止まっている。ワゴン車のそばには二人の男が立っている。

「なんだミチオさん、道路工事でもしてきたのか」ムツオさんが言いました。「こいつが渡辺だよ。あんたに話しただろう。リサイクルショップをしている渡辺だ。DVDプレイヤーを届けに来てくれたんだ」

 ムツオさんの隣の、繋ぎの作業服を着たゴマ塩頭の老人が私をじっと見つめていました。

 

私はいつの間にか、アパートに戻っていた。川を渡ったつもりが逆に引き返し、此岸をずっと川沿いに歩いていただけなのかもしれない。白猫が狩場にしているというアパートの裏手の河原も、通り過ぎたのでしょう。そして川べりの公園に辿り着いた。公園の存在は、たしかに地図で確認できました。とんだ大冒険です。私はなんどもコンパスを確認して、歩を進めたつもりでした。しかしコンパスは狂っていたのかもしれない。このあたりには、強烈な磁気を帯びた石が転がっているのかもしれない。とにかく私は、大掛かりな装備をして、家の周りをぐるりと散歩しただけなのでした。

私はムツオさんが手配してくれたDVDプレイヤーで「ローマの休日」を観ていました。しかしストーリーは少しも頭に入ってこなかった。私の頭はずっと、あの町に囚われていたのです。

その夜もムツオさんがやってきて、ムツオさんが作った夕食を食べました。鱈の煮付けに青菜を和えたもの、それから厚揚げ豆腐にとろみをつけたキノコをかけたものでした。DVDプレイヤーは、「ローマの休日」を繰り返し再生していました。ムツオさんはうっとりと画面を見つめながら酒を飲み、いつもの饒舌はすっかり影を潜めていた。

「今日はとても良い気分だ。オードリー・ヘップバーンと酒を飲んでいた気分だ。いや、あんたと二人なのが不満なわけではない。オードリー・ヘップバーンは俺にとってそれだけ特別な存在だということだ。そこは誤解しないでくれ」

食事を終えたムツオさんはそう言い残すと、早々に部屋に戻ってしまいました。私はその日のことは一言もしゃべらなかった。

水沢は現れませんでした。自転車はアパートに戻ってきていましたが、メッセージのようなものはついていませんでした。

翌日も私は朝早く起きて、また水沢の家の裏手に自転車で向かいました。水沢の家の軒先に自転車を停めると、家のなかから、なにやら楽し気な話声が聞こえてきました。声の主は複数でした。例の、私には聞き取れない地元の言葉が飛び交い、ときおり歌声さえ聞こえてくるのです。声は女性のものばかりでした。私は少しホッとしました。

その日の冒険譚について、くどくどと書くことは止めにします。要するに私は、先日と全く同じことを繰り返しただけだったのです。

私は自転車を取りに、とぼとぼと歩いて水沢の家に向かいました。家はしんと静まり返っていました。しかし窓は開き、レースのカーテンがふわふわと、風に揺れていた。ベルを鳴らすかどうか迷いましたが、やめました。滑稽なことに私は、水沢と会うにはこの冒険の成功話を手土産にしなければいけないのだと思い込んでいたのです。

私は自転車にまたがると、一気に坂を下りました。そして町役場の方角を目指して走ったのです。町役場の向かいに、小さな書店があったのです。私はそこで、くずみね周辺の地図を買い求めました。

すぐにでも地図を広げたかった私は、道路を渡って町役場に入りました。ホールの一角に、小さな飲食スペースがあったのを思い出したのです。

ホールには人だかりができていました。グランドピアノのまえには鮮やかな青いドレスを着た女性が座り、指を鍵盤のうえに軽やかに走らせていました。ふれあいコンサート、という垂れ幕が張られていました。もうすぐ正午でしたが、ホールで演奏会が開催されるようでした。ピアノのまわりには小さな子どもたちが集まり、ドレスの女性は練習がてら、子ども向けのアニメの主題歌を弾いたりして、子どもたちを喜ばせていました。とても和やかな雰囲気でした。

ピアノの周辺にあったはずの椅子やテーブルは撤去されていました。正午の鐘が鳴り、館内放送で演奏会の開始が告げられました。階上の執務室や会議室から出てきた職員たちが続々、ホールに集まってきました。とてもゆっくり地図を広げる雰囲気ではなかった。

町役場を出ようとした私はふと、あの模型のことを思い出しました。そして人だかりをかきわけてホールを抜け、ひとけのない、トイレのまえの一画にぽつんと置かれた模型のまえに立ったのです。

模型には、残念ながら暗幕が被せられていました。以前町役場の職員が、暗幕が取り払われるのは週に一度なのだ、あなたは幸運なのだ、と言っていたことを思い出しました。

演奏会が始まったようでした。ホールから聞こえていたざわめきが消え、つかの間の静寂のあとで、静かに、ピアノの音が響き始めました。どこかで聴いたことがある曲でしたが、タイトルはわからない。

私はまだ模型のまえに立っていました。この暗幕をちょっとよけて、模型をもう一度見てみたいという誘惑に駆られていたのです。幸い昼休みで近くの執務室に職員たちの姿はなく、残った職員も来庁者も、みなホールに集まっていました。私はからだを屈め、そっと暗幕の端を摘んで持ち上げたのです。

あのときと同じように、見事な出来でした。まるでほんとうの町がここに置かれているようだった。私は暗幕の端を摘んだまま、あたりを見回しました。静かなピアノの調べのほかは、話し声すら聞こえない。もちろん私のまわりにも人はいないのです。私は思い切って暗幕を取り除きました。そしてそれをくるくると巻いて、腹に抱え込んだのです。暗幕はとても柔らかく、ひんやりとして、ずっしりと重かったのです。

もちろん私の目が最初に向かったのは、あの山裾の町のあたりでした。私は山の側から模型を見ていたので、向こうに回り込む必要があった。私は暗幕を抱えたまま、そろそろと足を動かしました。

私は小さな声を上げました。それは歓喜の声でした。そこには町があったのです。たしかに町があった。砂粒ほどではありますが、柔らかな緑のじゅうたんと、温かい茶色の土のうえに、赤い屋根の家がぽつんぽつんと建っているのです。

「よほど気に入られたようですね」

 とつぜんの声に、思わず抱えていた暗幕を床に落としてしまいました。声の主はゆっくり身を屈め、暗幕を拾い上げると、ばさっと大きな音を立ててそれを広げて、ふわりと、模型に被せたのです。私が初めて町役場に来たとき応対した、住民課の職員でした。

「いや、これはその、誠に申し訳ない。あまりにも素晴らしい出来栄えだったので、つい」

「ええ。ええ。わかります。あなたのような方は少なくないのです。まるでこの模型にとり憑かれたように、毎日ここに来ては、暗幕のかかった模型の周囲をうろうろしている。そして隙を見ては暗幕を取り除こうとする」

「私は、ちがうのです。たまたまこのあたりに来ただけでして」

「そんなに脅えることはない。たしかにあなたが犯した罪は重大です。なにも知らない素人が乱暴に暗幕を取り除けば、繊細な模型に傷がつきかねない。いやすでに、傷はついてしまっているかもしれない。そうなればもう、取り返しがつかないのです」

「申し訳ない。私は少し、おかしくなっていたのです」

「おかしくなっていた。みなさんそうおっしゃいます。昨年この町役場の職員が公金を横領していたことが発覚しました。町民に支給するはずの補助金を少しずつ掠め取り、じつに十年に渡って自分の懐に入れていたのです。勤続三十年の、とても真面目な男でした。彼もあなたと同じことを言っていた。私はおかしくなっていた、と」

「それは、」

 職員は私をじっと見つめ、そしてすぐに表情を崩しました。

「なに、大丈夫ですよ。あなたは私の大事な友人に雇われている方だ。なにも警察に突き出したりはしない。だいたい、よく考えてください。これほど貴重な模型にも関わらず、警備員もつけず、暗幕を縛り付けたり、警報機をつけたりもしていないのはなぜだかわかりますか?」

「いや……」

「あなたのように、この模型に魅せられた人たちを受け入れるためなのです。それは製作者の方も認めています。覗きたくなったときには覗けばいい。ある意味、この模型はすべての人に対して開かれているのです。誰でもくずみね町に入ることができるのと同じです。しかし私たちにはばれないように、こっそりお願いします。あなたのように、役場に入ってきたときからきょろきょろとあたりを見回し、ふらふらと歩いていてはまったくの不審者です」

「二度とこのようなことは」私は深く頭を下げました。

「さて、私は職場に戻ります。ちょっと用を足しに来ただけなのです。血圧を下げるために利尿剤を飲んでいましてね、私が頻繁にトイレに行くことはみんな知っている。そして私はなにも見なかった。模型は朝と同じ、すっぽりと暗幕を被っている。それはずっと変わらないでしょう」

「ありがとうございます」

「あなた、ちょっと演奏会を聴いていったらいかがです?榎戸さんは、この町に住む素晴らしい演奏家なのです。彼女の演奏をこんなに近くで、しかも無料で観られるなどという機会はそうない」

 私は職員の言葉に従い、人だかりの最後列に立ってピアノの調べを聴いていました。たしかに演奏は素晴らしく、私はあっという間に魅了されていた。とちゅう、ぐずり始めた子どもを抱いた母親が席を立ち、私はそこに座りました。そして優雅な調べに聞き入っているうちに、ぐうぐうといびきを立てて眠ってしまったのです。隣の婦人が肘で私をつつくまで、私は眠っていました。私は恥ずかしさのあまり、席を立ちました。演奏家が私を見て、微笑んだように見えました。

 

町役場の向かい、本屋の裏側の狭い路地に小さな喫茶店を見つけました。私はそこで地図を見ることにしました。眠ってしまったのはたしかですが、とにかく素晴らしいピアノ演奏のおかげで、私のこころの動揺や罪悪感はほとんど消えていました。

やはり地図にも、町の記載はなかった。そこは水彩絵の具が滲んだような淡い緑色に塗られていました。しかし私はそれほど落胆していなかった。先ほど模型で見た町の姿が私を励まし、勇気づけていたのです。

私が確かめたかったのは、逆側、すなわち町が背負っていた山のほうから降りる方法はないかということです。しかし山のなかをくねくねと走り県外へと抜ける一本道があるだけで、そこから下る道はなかった。一本道が西に分岐しているところが一つだけありました。しかしそれはすぐに行き止まりになっていた。そこには亜真手国際福祉大学の広大な敷地が広がっているのです。

店には油の匂いが立ち込めていました。喫茶店というよりは、スパゲッティやピラフなど洋食の提供を主としているようでした。昼どきには役場の人間で賑わっていたのかもしれない。カウンターに老人が一人いて、ときどき主人となにやら話をしていました。二人は話に夢中で、私のことは一顧だにしないのです。私は何度も地図を見つめては、途方に暮れました。そして次第に集中力が散漫になり、気が付くと店主と老人の話に耳を傾けていた。

二人の言葉は土地の訛りがきつく、聞き取れた話の内容は、プロ野球の結果から、知人の噂話、近いうちに隣町にできる商業施設のことなど、とりとめのないものでした。

「ドゥンダーダラ、ハア」

私は二人が話の切れ目に、必ずこの言葉を発し、そして大きな声で笑うのに気付きました。おそらく地の言葉なのでしょう。意味はわかりませんが、陽気で、楽観的な響きを持った、魅力的な言葉でした。そしてその言葉には聞き覚えがあった。朝、水沢の家から聞こえてきた陽気な話声、そのなかにはたしかに、

「ドゥンダーダラ、ハア」

この言葉が混ざっていたのです。

老人はビールを飲んでいました。やけに酸っぱいコーヒーは私の乾いた喉をいっそうからからにするばかりで、水滴のびっしりついたグラスが私を誘惑しました。

私は二人の会話に割って入るように、ビールを注文しました。主人はじっと私を見てから、冷蔵庫から瓶ビールを取り出して栓を抜き、グラスと一緒に私のテーブルに起きました。

「ちょっとお伺いしたいのですが」私は言いました。主人は立ち止まりましたが、無言のままでした。

「私はくずみね町にきたばかりでして、じつは山登りが趣味なのです。そして先日この山を遠くから眺めて、興味を持ったのです」

私は広げた地図の、例の町のあたりを指さしました。主人は、それがなにか、とでも言いたげに、私をじっと見つめるだけでした。老人もカウンターから振り返り、私を見ていました。

「要するに、私はこの山に登ってみたいのです。遠くから眺めただけですが、緑が濃く、雄大で、素晴らしい山だとわかる。おそらく私が見たこともない野草や花や鳥に出会えるし、山頂からの景色も素晴らしいことでしょう。私はきっと満足するはずです。そして、こちらの方まで降りてみたいのです」

「やめときなよ」老人が言いました。「なんにもねえぞ」

「登山道のようなものはないのですか」

「そんなものはねえ。誰もあんなとこ行かねえ。クマに食われるぞ」

 主人は私が広げていた地図に目を落としました。

「私も登山をやるのですが、この山を登ったことはないし、登ろうと思ったこともない。人が歩けるようなところはないのです。山伏が修行をしていたという昔話はありますがね」

「山伏ですか」

「ただの昔話ですよ。一時期修験道がちょっとした話題になって、都会のサラリーマンなどがわざわざ休みを取って険しい山のなかに入っていくなんていうこともあったようですが、そういうときでも、ここに人が来ていたなんて話は聞いたことがない。一本道は急な斜面に挟まれています。両側から覆いかぶさるように木が生い茂っているところもあれば、ほとんど垂直にどこまでも落ちていく急斜面もあります。それよりもこの道をずっと行くと、道をほんの少し外れたところに見事な渓流があります。新しい大学があって、そのもうちょっと先です。その地図だと別のページになります。ほら。これだ。そこには酒蔵もあります。この町を訪れた方はたいてい、渓流と酒蔵に行くのです」

「渓流と酒蔵ですか」それは左側のページの左下隅にありました。その少し右から現れた一本の太い道路が東北東にページを跨ぎ、辿っていくと、右側のページの端の方には比較的大きな町と、港がありました。

「機会があればそちらにもぜひ、行ってみます」私はそう言って、ページを元に戻したのでした。私は主人が勝手に私の地図に手をつけ、ページをめくったことに少し苛立ちを感じていたのです。

 それきり主人はカウンターの向こう側に戻り、老人と打ち解けた話を再開したのです。

「ドゥンダーダラ」

「ドゥンダーダラ、ハア」

 私は繰り返される呪文のような言葉に苛立ち、半分残ったビールもそのままに席を立ったのです。

 

私は遅く目覚めました。白い陽が曇りガラスに集まり、ぼんやりと発光していました。アパートはとても静かでした。私は起き上がる気分にならず、天井板の木目模様をぼんやり見ていました。

初老の男が私の部屋を訪れました。男は栗林と名乗り、スーパーくずみねの社員だと告げました。からだは少し縮こまり、きれいに撫ぜつけた白髪はだいぶ薄かった。ムツオさんよりもだいぶ年上に見えました。父親が生きていれば、これぐらいの年齢だったでしょう。栗林は、いますぐ出かける準備をしてほしいと言いました。検査の予約が取れたことは取れたが、午後一番でなければ空いていないというのです。病院まで車で一時間はかかるので、のんびりしている時間はない。栗林は私を急かしました。

「おう、じいさんじゃねえか」玄関を出たところでムツオさんに会いました。「まだ生きてたのか」

「お陰さまでな。こっちはさっさとくたばっちまいてえのに、地獄も不景気でバス便を減らしてるらしい。せっかく来たと思ったら、田端の野郎に割り込まれた」

「たばやんは脳梗塞だったな」

「酒もたばこも好きだったからな。まあ、ころっと倒れてそのまま逝っちまって、あんまり苦しまなかったのが幸いだな」

「こんどはおれが直通便の切符を用意してやるよ」

「ありがとよ。でもそいつはてめえのためにとっときな」栗林の口調は私に対するのとまるで違い、乱暴ですがくだけた、親しみのこもったものでした。そして二人の言葉は、あの駅にいた老婆と駅員のように訛りがきつかった。私が聞き取れた以外にも二人はなにか短い言葉を投げ合い、親しみのこもった笑みを浮かべていました。そして私はたしかに例の言葉、

「ドゥンダーダラ、ハア」

を、何度も聞いたのです。

「先日のことで、ちょっと病院で検査を受けてきます」私はムツオさんに言いました。

「そうかね。例の件は黙っておいた方がいいぞ。あんたまで睨まれるかもしれん」

「心得ておきます」

栗林の軽自動車で、私たちは隣町に向かいました。それはくずみねの北東の方角にあり、山を越えるバイパスを使えば一時間もかからずに着くということでした。あの喫茶店の店主が乱暴にページをめくった地図にあった、港町でした。

栗林は最初むっつりと押し黙っていましたが、私がムツオさんにアラ鍋をごちそうになったこと、それから何度か、夕食をともにしたことを話すと、次第に打ち解けてきたようでした。そしていったん始まると、栗林の話は容易には終わらなかったのです。それはムツオさんに勝るとも劣らない、饒舌ぶりでした。

栗林はスーパーくずみねの今後の見通し、それもかなり不安な見通しについて語りました。くずみねの人口は年々減少し、高齢化が進んでいること、再来年、車で二十分ほどの隣町に中規模のスーパーマーケットが開店する予定であること、同じ敷地内にクリニックや大手資本のドラッグストア、外食チェーンが入る予定であり若年層の顧客の多くがそちらに流れる可能性があること、など。

栗林の言葉は、ムツオさんに対するよりはだいぶ穏やかではあれ、やはり訛りがきつく、それに密閉性の低い軽自動車を百キロ近い速度で飛ばしているわけですからエンジンや風の音が凄まじく、私は何度も聞き返さなければなりませんでした。

スーパーくずみねは町に一軒だけのスーパーマーケットだったから、いままでは黙っていても客が来た。しかし近年はそれも厳しくなっている。武見はさまざまな改革を行い経営を立て直そうとしてきました。それが水沢の言っていた宅配兼見守りサービスであり、最近ではネットを活用して地元野菜の通信販売なども始めているようでしたが、先代の社長と農協の折り合いが悪く、関係の修復もなかなかはかばかしくないとのことでした。

「こんどスマホーを使って買い物ポイントが貯まる仕組みを作るようで、業者がしょっちゅう、社長のところに来ている。しかしインターネットとかスマホーとかな、そういう方面は社長しかわからんからなあ。いままでどおりぽんぽんハンコを押しておけばいいと思うのだがね。まあうちは年寄りばかりだからな、あんたには期待してるんだよ」

バイパスを降りてからは、栗林の言葉はだいぶ聞き取りやすくなりました。

「私もそれほど詳しくはないのです。ご期待に沿えるかどうか」

「まあ、インターネットもスマホーもいいが、そんなもんなしでも俺はそれなりに育ってきたからな。まあ、そんなもんがなかったからこういうふうになっちまったともいえるが」栗林は笑いました。

「そんなことは、ないですよ」

「ウチのオヤジも似たようなことを言ってたさ。車なんていらんってな。しかし車があれば俺みたいな老いぼれでも、あんたを隣町の病院まで送り届けることだって難なくできる。俺が子どものころなんて、あの町に行くのは一日仕事だったんだ。野菜を乗っけた荷車を押して、山道を歩いて市場に売りに行ったんだ。胡瓜を担いで九里の道を行くなんてシャレを言ったもんだ。ドゥンダーダラ」栗林は笑いました。

 栗林は、従業員の誰それの娘が東京でホストに騙され借金をして逃げ帰ったはいいものの、取立てのヤクザ者が店まで来たとか、誰それと誰それが高校生のころの些細な諍いを四十年経った今も引きずっていて、ときどき店のなかで派手な大立ち回りを演じるとか、特殊詐欺で服役していた若者が働いているとか、スーパーくずみねのゴシップ話をあれこれ話してくれました。おかげで従業員の人となりが事前にわかって助かったのですが、一方で、この男には注意しなければ、私の噂もあることないこといっきに広まってしまうだろう、と警戒心を強めたのでした。

「それにしてもあんた、東京生まれなんだろ?なんでこんな田舎に来たの。まだ若いのに、もったいねえ」栗林は言いました。

「いろいろ事情があったのですが、簡単に言えば、環境を変えるのがいいと思ったのです。私が以前働いていた会社の上司が、武見社長と繋がりがあったようなのです。お互い面識はないようですが」

「社長はあれでかなり顔が広いからなあ。二十代のころは県庁で働いてたんだ。奥さんは県庁のそばに住みたかったらしいから、カズシ、和司ってのは社長の名前で、俺は社長が産まれたときから知ってるからついそう呼んじまうんだが、とにかく社長がオヤジのあとを継いだのがいまでも不満なんだ。まあとにかく、社長にはいろんな繋がりがあるんだよ。繋がりがありすぎるのも考えもんだがな」

「どうしてですか?」

「ありゃあ、男前だろ。女どもともずいぶん繋がってるさ。うちの若いので社長と関係ない女なんていないんじゃないの?若いといってもまあ四十は越えてるがな。ドゥンダーダラ、ハア」栗林はそう言って大きな声で笑いました。栗林はもっと話したそうにしていましたが、私はムリヤリ話題を変えました。私が精神疾患で苦しんでいたときのことを唐突に話し始めたのです。感情のコントロールができなくなり、満員の通勤電車でとつぜん大声をあげて泣き出したとか、ベッドから起き上がることができず、傍らに置いた洗面器に用を足していたから寝室はひどい臭いだったとか、そんなことさえ話したのです。余計な噂のタネをこの老人に仕込み従業員たちの好奇の目を私に向けるだけ、ひょっとして武見が私の雇用を考え直す可能性もあって私にはなんの得もないのですが、私は話さずにいられなかった。もちろん、武見と関係した女の話のなかに、水沢という名前が出てくるのを恐れたからです。

 総合病院のあるあたりは、くずみねに比べるとずいぶん開けていました。駅前には東京でも見かける外食チェーンや百円均一ショップの入った三階建ての商業ビルもありましたし、大手銀行や生命保険会社、機械メーカーの支店があったし、ビジネスホテルも数軒あった。東京郊外の少し大きめの駅のような感じでした。違うのは、歩いて十分もすれば田園が広がっていることぐらいでしょう。

 栗林は病院の受付まで、私に付き添いました。事務員は顔見知りのようでした。

「あれ?もう診察の日ですか」

「今日は俺じゃねんだ。ホンダムツオさんだ」栗林は私の背中をポンと叩きました。「社長から聞いてねえか」

「ホンダさん。ああ、ホンダムツオさん。はいはい。じゃあちょっと待っててくださいね」栗林も事務員もホンダミチオと言っているつもりなのでしょうが、私にはどうしても、ホンダムツオと聞こえるのが面白く、私は二人に気付かれないように口元に手を当て、笑っていたのです。

「悪いけど、帰りは鉄道を使ってください。ちょっと乗り換えが大変だから、時間はきちんと見ておいた方がいい。駅からアパートまではタクシーを使ってください。領収書はスーパーくずみねで切っておいて、あとで経理に渡してください。花井っていう太ったおばさんだよ。娘がホスト狂いの。ドゥンダーダラ」

「わかりました」

「俺はちょっと急がなきゃなんないんだ。病院に行くなら港にも寄ってくれって女房に言われててね。干物やなんかを買うのさ」

栗林はそう言うと、病院を出ました。

栗林の言うとおり、隣町とはいえ車で一時間も離れたくずみねとこの町は鉄道で直接繋がっていませんでした。少し大回りしてターミナル駅を経由しなければならないので、二時間はかかる。それに接続に失敗すると、駅で三十分以上待たされることになる。私はスマートフォンで時刻表を確認しました。七時半の列車を逃すと、くずみねに帰ることはできないのでした。

 待合室はかなり混雑していました。ぼんやりと長椅子に腰かけているのはほとんどが老人で、医務服を着た男女が忙しそうに行き来しています。廊下の端のほうでは子どもがぐずる声が聞こえ、それをかき消すように、音の割れた呼び出しのアナウンスが響く。なんとも騒々しかった。私は待合室ではなく、一つ上の階の小部屋に案内されました。部屋のなかはカーテンで仕切られ、段ボール箱が整然と積み重ねられている。私が待つように言われたのはベッドと医療器具が置かれた四畳半ほどのスペースでした。ベッドに腰かけて待っているあいだ、水沢が月に一回バスと電車を乗り継いで通っているというのも、この病院だろうかと考えていました。

ドアがノックされ、若い医師と看護師が顔を見せました。

「ホンダムツオさん。その後お変わりはないですか」医師は挨拶もなく丸椅子に座ると、カルテに目を落としたまま言いました。医師の発音は、私の標準語とまったく変わらなかった。しかし医師ははっきり、ムツオさんの名を言ったのです。隣でがしゃがしゃと大きな音を立てていた看護師はとつぜん私の腕を掴むと、乱暴にシャツの袖をまくってアルコールを塗りたくりました。

「その後?」私が問いかけたとほぼ同時に、肘の内側に鋭い痛みが走りました。看護師が私の腕に注射針を刺したのです。

「動かないでください。針が折れても知りませんよ」シリンダーの中には、赤黒い血液がみるみる溜まっていきます。手際はいいが、ずいぶん乱暴な看護師でした。

「手のシビレはないですかー」看護師がぶっきらぼうに言うのに、私は大丈夫だと答えました。

「前回の検査から、なにか変わったことは?」医師は少し口調を強め、顔を上げました。眼鏡の奥の、細い表情のない目がじっと私を見つめています。看護師が注射針を抜き、小さな脱脂綿をぎゅうと押し付けテープで留めました。私は親指でそれを抑えながら医師に言いました。

「前回もなにも、私は初めてこの病院に来たのです」

「え?」医師は看護師と顔を見合わせました。

「お名前をもう一度、お願いできますか」

「ほ、ん、だ、み、ち、お」

「少々、お待ちください」

二人は慌ただしく、診察室を出て行きました。だってくずみねの人でしょ、と看護師が言うのが聞こえました。

しばらくしてまたノックの音がし、入ってきたのは白衣を着た初老の男でした。

「院長の中島です」中島はにこやかに微笑み、私の隣に座り頭を下げました。「申し訳ない。受付の者が勘違いしていまして」中島の言葉には、ムツオさんや栗林と同じ響きが感じられました。私はそれで、かなり気分が落ち着いた。早とちりの医師たちを責める気持ちはほとんどなくなっていたのです。

「大丈夫です。いきなり血を抜かれたのは驚きましたが」

「定期的に検査を受けている方と間違えたのです。まことに申し訳ない」

「ホンダムツオさんは友人です。彼と知り合ったのはつい最近ですが、いつかこういうことがあるのではないかと思っていたのです」

「これは、大変失礼しました。どうかご容赦を」

「いえ、私も楽しみにしていたところがあったので」私は笑いました。患者の取り違えなど、本来なら非常に重大な問題となることでしょう。しかし私は何の気にもならなかったのです。医師と看護師の態度に問題がないとは言えませんでしたが、ひょっとしたらムツオさんはいつも例の調子で医師たちに得意の持論を披露した結果、病院で要注意人物としてブラックリスト入りしているのかもしれない。ずいぶんひどい傷みが残ったのはたしかですが、とにかく私には、ことを荒立てるつもりはなかった。

「それでは検査のほうを始めさせていただきます。地下に検査室があります。頭を打っているかもしれないとのことなので、スキャンを取ります。すぐにです。ほんの数分で終わりますので安心してください」

「わかりました」

「……あの、まことに勝手なお願いなのですが」

「なんでしょうか」

「今日のことはくれぐれも、口外しないように。とくに武見社長、それからホンダムツオさまには厳に、内密にお願いします。なにしろ、重大な個人情報に関わることですから」

中島はそう言って私に、紙幣を一枚握らせました。

検査は一時間ほどで終わりました。列車にはまだ時間がありそうでした。私は東京に少し似た匂いのする町をぶらつき、見つけた居酒屋で酒を飲みました。新鮮なメバルの刺身や地酒を堪能し、隣にムツオさんがいればさぞ喜ぶだろうと思いました。店を出た私はそのまま、駅前のビジネスホテルに泊まることにしたのです。飲み屋の代金とあわせても、中島に貰った金でお釣りがくるぐらいでした。こういうものはさっさと使った方がいいのです。

極上の魚と酒を堪能しているあいだも私は、栗林の言葉に囚われていました。武見は従業員の女性のほとんどに手をつけている、という話です。もし水沢が武見の愛人のような存在だとしたら。たしかに武見は私でも惚れ惚れするような男前だし、水沢も美しく、明るい性格で魅力的な女性だ。二人はお似合いだ。私など入り込む隙間は一ミリもない。勝手に好きになって勝手に幻滅する。私は何度同じことを繰り返してきたのか。同級生、取引先の社員、キャバクラ嬢。ふだん誰にも相手にされない私は、少しでも親しくされるととたんに好意を持ってしまう。しかしその親しさは、とうぜん私以外の男たちにも平等に向けられているのです。

とにかく私はすぐにくずみねに戻る気には、どうしてもなれなかったのです。いっそ検査の結果、どこかに重大な異常が見つかって、すぐに荷物をまとめて東京に帰るよう武見に言い渡されたほうがよほどマシでした。

 

中谷がドアを叩きました。中谷は段ボール箱をひとつ、胸に抱えています。

「本多さん宛の荷物が届きました」中谷は静かに、板張りの玄関に箱を置きました。「ずいぶん重い」

送り主は新井でした。なかみは果たして、缶ビールと、四合瓶の日本酒でした。

贈り物には新井からのメッセージカードが入っていました。いつでも戻ってこれる、というようなことが書いてありました。会社のほうも人手が足りなくて、困っているのかもしれない。私は大学を出たあと、二十年近く勤めていたのです。私しかわからないこともある。事細かに引継ぎのメモを残しておいたのですが、書き残してしまったことどもが、次から次へと私の頭に浮かんでくるのです。

私は急に、東京での生活を懐かしく思い始めました。新井からのメッセージカードは捨てずに、ボストンバッグにしまったのです。

中谷が洗濯物を取り込むのを手伝っているあいだ、白猫は縁台にごろんと横になり、毛繕いをしていました。その日もどんよりと曇っていましたが、夕方になると、山のほうが薄紫色に光り始めました。それはとても美しい光景でした。私と中谷は縁台に座って、その景色を眺めていたのです。

武見から、来週から勤務を始めるように告げられていました。どうやら検査の結果は良好だったようです。

院長の口止めにも関わらず、私はムツオさんに、病院での出来事を話してしまいました。しかしムツオさんの反応は素気なかった。もちろん病院の検査など、個人のプライバシーのなかでももっとも重要なもののひとつですから、ムツオさんが機嫌を損ねるのも無理はありません。ひょっとしたら、例の陰謀論と絡め合わせ、病院に怒鳴り込みに行かないとも限らない。私はムツオさんに詫び、名前を間違えられただけでそれ以上のことはなにもなかったことを、くどくどと説明しました。

「いいんだよ。たしかに俺は定期的にあそこで検査を受けている。まったく忌々しい話だ。まるでモルモットのようだ。しかしあんたが気にすることではない。悪いのは病院であって、もっといえば日本政府だ」

 また始まってしまった、と思いました。しかしムツオさんは言葉を続けることなく、口を噤んだままでした。いつもの饒舌は影も見えなかった。私は、ムツオさんがなにか重い、ひょっとして命に関わるような病を抱えているのではないかと察しました。会ったときから、ムツオさんの顔色の悪さ、それから、楽しそうに話していても急に眠ってしまうことなどが、多少気にはなっていたのです。スーパーくずみねで働くことを止めたのも病気のせいなのかもしれない。私はそれ以上、ムツオさんはもちろん、水沢にも中谷にも、病院でのことは話さないと決めたのです。

縁台で寝ていた白猫はおもむろに起き上がると、尻尾をぴんと立てて川のほうに向かって歩き始めました。

「夕食の狩りに出かけるのでしょう」中谷が言いました。

「ついていってもいいかな」

「あなたも物好きですね。まあ、白猫も狩りの腕前をあなたに見てもらえば喜ぶでしょう。じっさいたいしたものなのです」中谷はそう言って笑い、部屋に戻りました。

 猫はまばらに草の生えた空き地をどんどん進んでいきます。土は濃い黒色だったので、白猫を見失う気遣いはありませんでした。私はゆっくりと猫の跡を追いました。

 白猫は時々立ち止まり、地面の匂いを嗅いだり、首を伸ばしてなにかをじっと見たりしています。そして必ず最後に私をじっと見て、尻尾をぴんと立ててまた歩き始めるのです。まるで私がちゃんとついてきているかどうか、確認しているようでおかしかった。

川が近付くにつれ、丈の高い雑草が増えてきました。猫は雑草の切れ目にある、けもの道のようなもののなかに消えていきました。私は急いで跡を追いました。ひと一人やっと通れるぐらいの道は、両側を腰ぐらいの高さまである、非常に硬い草に囲まれていました。私は草をかき分けて進みました。川岸で草むらは途切れていました。川岸には石ころが転がっていて、猫はすいすいと進みますが、私は気をつけなければ足を挫いてしまいそうでした。川はとても広く、向こう岸はぼんやりと靄に霞んでいます。ざあざあという流れの音がします。川のなかにも大きな石がいくつも沈んでいて、川の流れに複雑さを与えていました。白猫は川下に向かって進みます。五分ほど、ごろごろと石が転がる地面に難儀しながら進むと、また足元には雑草が増え始めました。猫の行く先には橋の残骸があるのが見えてきました。これは私がこの町に来た日、自転車で通りかかったものに違いありませんでした。

白猫は橋の脇に回り込み、土手をたったっと駆け下ります。私も続きました。土手には階段があり、足を横向きにしなければ降りられないほど狭いものでしたが、なんとか降り切りました。あの日も私は橋のたもとから河原に降りましたが、はたしてこんなふうになっていたかどうか、思い出せませんでした。それから、あの看板です。野良猫を殺せ、と落書きしてあった看板。それはどこにも見当たらなかったのです。

そこには学校の教室ぐらいのスペースがあって、中学生ぐらいの少女たちがいました。全員ジャージ姿でした。円になって、なにやらひそひそと話し合っているようだった。猫はゆっくりと少女たちに近付くと、円の中心にぺたりと腰を落ち着けました。一人、こちらに背を向けている子が手を伸ばし、猫を撫ぜているようでした。

私はそっと少女たちの一団に近付きました。少女は九人いました。私は少女たちの円居から少し外れたところに座りました。やはり思ったとおり、それは女の子ではなく老婆だった。老婆たちはぼそぼそと、私にはまったく聞き取ることのできない言葉で話し続けました。

「ドゥンダーダラ、ハア」

 幾度となく、その言葉は発せられました。しかしそれはとても物悲しく、悲痛な響きを帯びていました。誰かがその言葉を口にすると、一同はじっと押し黙り、その沈黙は何時間でも続くように思われたのです。

 やがて老婆たちは立ち上がりました。そして川に向かって歩き始めました。先頭の老婆が川に足を踏み入れると、ほかの老婆も続々と、後に続きました。猫の姿はいつのまにか消えていた。どこかで獲物を見つけたのかもしれない。川の中ほどまで進むと、老婆たちは肩まですっかり水に浸かってしまい、小さな頭だけがひょこひょこと、水面を進んでいるのです。向こう岸に近付き、水の深さが老婆たちの胸あたりまで下がったとき、最後尾にいた老婆の姿が見えなくなりました。川底の石に足を滑らせたのか、老婆は水のなかに沈み、そのまま下流へと流されてしまったようでした。まえを歩いていた老婆たちは立ち止まり、川下のほうをじっと見ていました。しかしすぐにまえを向くと、また岸に向かって進み始めたのです。無事に渡り終えたのは八人でした。

中谷はまだ縁側に座って、ぼんやりと空を眺めていました。

「お戻りですか」

「今日は狩りの気分じゃないみたいだ」

「そうでしたか」

「橋の下に中学生ぐらいの子たちがいてね、可愛がられていたよ」

「あそこはよく溜まり場になるのです。僕らのころは不良がいたので、近寄らないようにしていました」

「不良どころか、真面目そうな子たちだったよ。なにか秘密の話し合いをしていたみたいだ」

「中学生ぐらいのときは、とても些細なことでも重大な問題に思えるものです。恋の話にしろ、家族の話にしろ、将来の話にしろ」

「エムケン強盗のことを話していたのかもしれないね」

「そうです、きっとそうでしょう」中谷はおかしそうに笑いました。「さて、僕はこの辺で失礼させていただきます。永瀬さんと木村さんが、今日は早く帰ってくるのです」

中谷は私の顔を覗き込みました。しかしその目はどこを見ているのか、わからなかった。

「会ってみますか。今日なら、二人は大丈夫だと思うのです。すっかり準備ができたのです。二人はきっと、本多さんを歓迎します」

「いや」私は断りました。「今日はあまり、体調がよくないんだ。二人にはよろしくお伝えください」

「わかりました」中谷は微笑みました。

 

私はムツオさんに誘われ、弁当販売に出かけることにしました。私たちは朝早くからムツオさんの部屋に集まり弁当を作りました。板間は野菜箱や氷を詰めたトロ箱が山のように積み重ねられ、土や潮の匂いが充満していたのです。先夜は暗くて気付きませんでしたが、ムツオさんの部屋には、古びたアパートには不釣り合いな、立派な冷蔵庫がありました。

ムツオさんは鯛めしを作るようでした。私がムツオさんの部屋を訪れたとき、ガスレンジには大きな土鍋が二つ並び、すでにぐつぐつと煮えていたのです。私は何か手伝えることはないかと聞きました。ムツオさんは鯛のウロコを取るように言いました。台所は狭く、私は板間の隅の小さなテーブルのまえに胡坐をかき、まな板に載せた鯛の胴体をペットボトルのキャップでこすってウロコを取りました。あまり慣れていない私は、鯛の背ビレを指に指してしまいました。指先のちいさな赤い玉は見る間に膨らんでいきました。

「ハサミで先を切っておくんだな」ムツオさんが言いました。「背ビレは水のなかでからだを安定させると同時に、外敵から身を守るためのものでもある。自然界の武器は容赦ない。人間が作ったものは、どんな鋭利な刃物でもどこか加減があるのだ。しかしこいつらと来たら見境なしだ。まわりはみんな敵だからな。近付いた者は例外なく痛い目に遭わせる」

ウロコを取った鯛はムツオさんが手早く捌いてトレーに載せ、中谷の部屋に運びました。ムツオさんの部屋のグリルではまだ先着の鯛が炙られている最中だったので、中谷の部屋のものも使うのです。中谷の部屋の台所ではイワシのすり身のハンバーグが焼きあがったところでした。ムツオさんの部屋にも大きな冷蔵庫があり、そのなかには小分けにしたゴマ和えホウレン草と茹でたサトイモが几帳面に並んでいました。

十時過ぎに、私たちはムツオさんのワゴン車で出発しました。よく晴れた日で、真っ青な空には綿を裂いたような白い雲が浮かんでいる。この調子なら、水沢が言っていた星空も見ることができるのではないかと思い、また武見と水沢の疑惑を思い出して、気持ちを沈ませてしまったのです。

亜真手大学は緑に囲まれた広大な敷地のなかにあり、正面にある五階建てのメインホールは総ガラス張りでした。私たちは車を駐車場に止め、弁当を詰め込んだ段ボール箱と折り畳みテーブルを台車に乗せていきました。守衛はにこやかに、ムツオさんにあいさつをしました。

私たちが向かったのは、メインホールの裏側にある中庭です。中庭は四階建ての校舎に囲まれており、とても広く、よく手入れされた芝生には惜しみなく陽光が降り注いでいました。まだ講義が行われている最中のようで、人影は余りありませんでした。

ムツオさんは芝生をぐるりと囲む道に台車を止め、手際よく折り畳みテーブルを組み立て弁当を並べました。

「非常に近代的な大学ですね」

「金だけはあるからな」ムツオさんは言いました。

「こんな山のなかにこれほどの土地があるとは。大学ができるまえにもなにかあったのですか」私は呟きましたが、二人には聞こえなかったのか、なにも返事はありませんでした。

 やがて昼休みを告げるチャイムが鳴り、学生たちが校舎から出てきました。しかし誰も私たちのまえで足を止める者はいませんでした。学生たちは芝生のうえに座り、寝転がったり、手持ちの昼めしを食べたりしているのです。

「ここの食堂は充実している。バイキング方式で、学生たちは好きなものを好きなだけ食べられる。月五千円払えばいくらでも食べ放題なのだ」ムツオさんは言いました。「スーパーくずみねは材料の納品を一手に引き受け、食堂の運営もしている」

「なかなか手広くやっているのですね」

「それが武見の狙いだからな。おかげでスーパーくずみねも潰れないで済んでいるようなものだ」

「ほんとうは別の業者に決まりかけていたようなのです。武見社長はかなりの手腕を発揮したようです」

「優秀な方なんですね」私はそう言い、ぼんやりと、水沢のことを考えていました。いまごろ、ひょっとしたら武見と水沢は二人で過ごしているのかもしれない。しかしそれは何の根拠もない妄想でした。

 禿げ頭に眼鏡をかけ、白い立て襟シャツにアスコットタイを締めた男が近付いてきました。

「やあ、まだ残ってるかな」

「あんたが一番乗りだよ」

「ありがたや、ありがたや」

禿げ頭の男は手をすり合わせ、五百円玉を差し出しました。

「この方は亜真手大で経済学を教えているキム准教授です」中谷は言いました。

「キムです」禿げ頭の男はにこやかに笑い、私に手を差し出しました。

「こんど中谷くんの近所に住むことになった本多です」

「とするとスーパーくずみねの方ですね」

「そうです」

「私はよく総菜を買います。なにせ男の一人暮らしで、まともな料理道具すらないもので」

「くずみねの総菜は売れ残りに砂糖をどばどば入れて味なんてわからなくしてるんだ。あんなものを食うぐらいなら毎日カップ麺にしておけと言っているんだ」

「いやはや!ムツオさんは相変わらず厳しいな!それでは失礼して」

 私たちが話しているあいだに、大きなバッグを持った高齢の女性が二人立っていました。大学が一般向けに行っている公開講座の聴講生とのことでした。

「今日は鯛めしですって。豪勢じゃない」

「サトイモとほうれん草のゴマ和え、イワシのハンバーグもついています」

「じゃあ三つください。お父さんと、おばあちゃんの分とね」

「そちらさんは?」

「わたしはいいわ。カレーがたくさん残ってるの。昨日孫が来てたから」

「カレーは冷凍できますよ」中谷が微笑んで弁当を差し出すと、女性は少し顔を赤らめました。

「それもそうね」

「なかなか商売上手ですね」女性が去ったあとで私は言いました。

「中谷のおふくろさんは、そりゃもう別嬪だったからな。こいつも多少はその血を引いてるってわけだよ」

「きっかけはなんでもいいのです。ムツオさんのお弁当が美味しいのは間違いないんだから。……最初のころは猫を連れてきてたんです。あのとおり可愛らしい猫ですから、女子学生が集まるかと思いましてね。しかし猫はじっとしていない。そこの芝生で獲物を見つけるとすぐに飛んでいってしまうのです」

「あんときは弁当ほったらかしにして猫を探し回ったからな。もうこりごりだ」

 その後も弁当を購入する客は続き、残りは半分ほどになりましたが、若い学生たちはほとんど見向きもしませんでした。

 しかしそう思っていると、三ん人連れの女子学生が賑やかに話しながらこちらに向かってきました。

「おじさん、ひさしぶりー!やっほ!」小さな、まだ可愛らしい子どものような学生が両手を前に突き出して振りました。

「やっほ!」なんとムツオさんは女子学生の呼びかけに、笑顔で、手を振って答えたのです。私は笑いをこらえるのに必死でした。

「ごめんね、講義長引いちゃって。あ、中谷くんも、やっほ」

「やっほ」中谷も笑顔を返しました。

「知らないおじさんも、やっほ」

私はさすがに、やっほと返すのは気が引け、曖昧に笑ってごまかしました。

「今日は鯛めしだって。美味しそう」

「妹さんの分も?」

「うん。だから二つ」

「サヤの分は?」

「今日は午後帰るって」

「じゃああと三つでいいね」

「おじさん、次いつだっけ」

「また来週来るよ。俺の弁当がない日も、忘れず魚を食えよ」

「わかってるって」

学生たちは財布を開け、中谷から弁当を受け取りました。うっすらと香水の匂いが漂っていた。それは甘く、どこか懐かしい感じがしたのです。女子学生たちはまた賑やかに話しながら帰っていきました。そのあとも学生がぽつぽつと訪れ、弁当を買い求めていき、けっきょく弁当はすべて売れてしまいました。みな常連のようで、ムツオさんや中谷とひとことふたこと、言葉を交わしていったのです。片づけをしているあいだに声をかけてきた学生もいました。

「すごいですね。もっと持ってきてもいいんじゃないですか」

「欲たけるな」ムツオさんは満足そうに呟いたのです。

 私はこの、少し頭のおかしい男たちを愛していました。彼らと過ごすことが、私にとってかけがえのない貴重な経験だと思えてきたのです。水沢のことを考えると、スーパーくずみねで働くのは気が重かった。私はいっそ、武見に退職を申し出て、この二人と一緒に細々と弁当売りを続けようかと思いさえしたのです。

 

 駐車場まで台車を押して歩いているとき、ムツオさんは私に、時間があるか、と聞きました。

「ニンジンを掘りに行くぞ。近くに俺の畑があるんだ」

「ああ、今日は火曜日でしたね」中谷が言いました。

車は狭い一本道を下りました。スマートフォンで確かめると、私が崖の上から見た町、訪問を試みて何度も跳ね返された町が背負った山のなかを、車は走っているのでした。大学に向かうときはまったく気付かなかった。しかしたしかに大学は、あの山を走る一本道の近くにあったのです。私は町のことなど、ほとんど忘れていました。それほど水沢のことが、心に暗い影を落としていたのです。

しかし町のことを考え始めると、私の心は踊り始めました。水沢のことでくよくよしていた気持ちなど、どこかに吹き飛んでしまった。そもそも栗林は、武見の女癖の悪さを言っただけのことで、水沢が関係しているなどとは一言も言っていない。もちろん私が必死に妨害したせいでもあるが、とにかく水沢のみの字も口にしていない。私の思い込みにすぎないのです。私がやっと町を見つけたことを告げれば、水沢はきっと、自分のことのように喜んでくれるに違いないのです。私は後部座席から身を乗り出し、ギアをローにして慎重に坂を下るムツオさんに、じれったい思いをしていたのでした。

車は少し開けたところでようやく停まりました。至る所に雑草が生えていましたが、地面は舗装されており、端のほうに、すっかり草木に覆われた建物が見えました。

「あれはドライブインホンダといってな。俺の叔父がやってたんだが、借金ばかりかさんでな。すっかりほったらかしだ」ムツオさんはバタンと音を立てて、ワゴンのドアを閉めました。

「もう少し先には野菜の直売所もあった。このあたりも渓流釣りに来る人で賑わったこともあったのだが、いまでは閑古鳥が鳴いている」

 私は蔦に覆われた建物に近付きました。モルタル外壁でオレンジ色の屋根が乗った、しゃれた作りでしたが、草木の侵略を受けて精気をすっかり吸い取られたように、暗い色に沈んでいました。窓は割れ、ベニヤ板が打ち付けれられていました。

「気をつけろよ。幽霊が出るからな」ムツオさんはにやりと笑いました。

「幽霊?」

「オジキはなあ、あそこで首括って死んだんだ」

「死んだ……」私の浮かれた気持ちに、冷や水をかけられたような気がしました。

「ヒトシさんが最後まで残った一人でしたね」中谷が静かに言いました。

「町に人が帰ってくれば店にも客が戻るって思ってたんだから、めでたい男だ」

 ムツオさんの言葉にはきつい訛りがあり、それにいつもとは違ってかなり早口でしたが、そう言っていたのははっきりわかりました。町とはなんのことか。渓流釣りに人が来なくなったと言っていますが、そのあたりに人が住んでいたのか。私は、水沢があの夜冗談めかして言った、住人がいなくなった町のことを思い出していました。しかし二人は私を置いてまっすぐ建物に向かい、そのなかに消えていたのです。

しばらくして、かつてドライブインであった廃墟から出てきた二人は、土に汚れたかごを抱えていました。かごには古びた農具が入っていた。

「たまに線香をあげてるのさ。それから、倉庫代わりにしてんだ。その方が寂しくなくていいだろ」ムツオさんは照れたように笑いました。

駐車場から西の方角へ、山道を登りました。道らしい道はなかった。ただ鬱蒼と茂った木々のあいだが少し開いた場所を、二人はどんどん歩いていくのです。足元はデコボコで、木の根が張り出し、私は何度も躓きながらなんとか二人についていきました。

十分、二十分は歩いたでしょうか。ムツオさんの畑が見えてきました。斜面が少しだけ平らになった場所で、うっかりしていれば見過ごしてしまいそうな、小さな畑でした。

とつぜん大きな破裂音が響き、私は思わず身構えました。ムツオさんがポケットから取り出した爆竹に火をつけたのです。クマよけということでした。

「なにもこんな、クマの庭みたいなところに作らなくてもと思うだろ?もっと下のほうにも作ってみたんだが、このあたりがいちばん土壌がいいらしいのだ。うちでは昔からここでニンジンを育てている。そしてここのニンジンは甘い。そのまま齧っても旨いぞ」ムツオさんは言いました。そのあいだに中谷は畑に入り、せっせと土を掘り返していました。もう少しうえのほうにはキノコが生えているということでした。

「やっぱり採れたてがいちばんなんだ。あんたの仕事始めも近いからな、今日はみんなで、鍋でもつつこうと思ったんだ」ムツオさんは言いました。

私は二人を手伝わず、畑のまわりをぶらぶらとうろついていました。キノコを探すふりをしていました。二人は私を気にかけることもなく、熱心に畑を掘っています。私は徐々に、畑から離れました。コンパスもなにもありませんでしたが、私が囚われていたあの町が、すぐ足の下にあるはずなのです。どこかに山を下る道がないか、私は探していました。

「好奇心は猫を殺す」

 気が付くと私は繰り返し、心のなかで呟いていたのです。

 私は繁みをかき分けて、進みました。鋭い枝先は四方から私を狙いうちしているようで、腕は無数の引っ掻き傷で真っ赤になっていました。ムツオさんたちの話し声はずいぶんまえに聞こえなくなっていました。あちこちで甲高い鳥の鳴き声が聞こえ。草むらがふいにがさがさと揺れました。日は容赦なく照り付け、草いきれがあたりに充満し息をするのも一苦労でした。それでも私は先に進んだ。

 そのとき、白い小さな影が私の数メートル先を横切ったのです。ウサギだったかもしれません。しかし私は、それあの白猫だとわかったのです。私は猫が消えた方角に足を進めました。遠くで爆竹の音がしました。

 そこは直径十メートルぐらいの半円形の土地でした。先ほどまでの蒸し暑さが嘘のようで、汗をかいたからだには少し寒いぐらいでした。足元の土は固く締まり、芝のような草がところどころ固まって生えているだけでした。広場にはたっぷりと日が差し、緑が目に眩しいぐらいでした。しかし少し様子がおかしかった。その正体は、広場の端にある、大きな石でした。

石はとても大きかった。私は石を見上げていました。少し大きめの物置か、ひょっとしたら小さな家ぐらいの大きさがある。このような山の中に、いったい誰が何の目的で、このように石を置いたのか。それとも山のうえから転げ落ちてきた石が、この場所に留まったのか。あたりを見回しても似たような巨石はどこにも見つからず、人の手で運ばれた可能性は高そうでした。私はゆっくりと、石に近付きました。

「諸説ありますが、結論はでていません」突然の声に、私は腰を抜かしてその場にへたり込んでしまいました。石の陰から、一人の男が現れたのです。「自然に転がってきたのか、かつてこの辺りが水の底に沈んでいたときの名残なのか。しかし古代人がこの険しい山のなかを、この巨大な石をどうにかして運んだ考える方が楽しい。人間の信仰心、信念とは、それほどに凄まじいものなのです」

「あなたは誰ですか」

「驚かせてしまって申し訳ない」男はくっきりした眉のしたの大きな目でじっと私を見ていました。背が高く、ほっそりと痩せていました。鼠色の甚平を着て、素足に下駄をつっかけている。きれいに剃り上げた坊主頭で、このあたりにある寺の僧侶かと思いました。

「そうではない。私は山田おろちです」男はそう言って微笑みました。「あなたもご存知かと思いますが」

「あなたが山田さんですか」私はまだ、土のうえに尻をついたままでした。見上げた山田は巨人のように見えました。

「本多さんですね。あなたのことは中谷からよく聞いています」

「あなたはこんなところで、なにをしているのですか」私は聞きました。

「それは私のセリフですがね」山田はそう言って微笑みました。

「これは失礼しました。私は中谷くんと、私の友人であるホンダムツオさんの畑に来ているのです」

「あそこで採れるニンジンは非常に美味だ。私もいつも帰りがけに少し失敬して、生で齧るのです」

「私も、帰ったら食べる予定なのです」そう言ったあとで、私は突如、猛烈な不安に襲われました。帰ると言う言葉が、私を嘲笑しているような気がした。要するに、私はこの地に踏み込んだが最後、二度とあのアパートに戻ることはできないような気がしたのです。

「山に入るのは火曜日と木曜日と、だいたい決まっているのです。ほかの日に山に入ると神様がお怒りになるという迷信がこのあたりにあってね。誰も信じていないが、まあ習慣みたいなもんです。だからムツオさんたちがニンジン掘りに来ると、たいてい私と鉢合わせするのですよ」

「あなたの畑もあるのですか」

「私はときどきここに来て、苔を取っているのです」

「苔」

「町役場にこの町の模型がありましてね、素材の一部に苔を使っている。ここの苔が最適なんです」山田はそう言って、あの大きな石の表面を爪で引っ掻きました。「家にしばらく置いて、人に慣れさせてから役場に持って行くのです。とても繊細な作業だ」

「あれは、山田さんが作ったのですか?」

「私ではありません。私の祖父が老後の慰みにね」

「模型は、私も見ました。転入手続きに行ったときです。素晴らしい模型です」私のあたまには、町役場の精密な模型の姿が、はっきりと浮かんでいました。思い出しただけでもうっとりするようだったのです。「あれは素晴らしかった。おじいさまは多才な方ですね」

「多才?ああ、祖父の素人学問のことですね。『手ほどき』のことはもうムツオさんに聞かれたようですね」

「まあ、少しですが」

「祖父に悪気はなかったし、あれは事実なんだがなあ」

「ケモノと交わっていたというのもですか」

「そんなのはどこにでもある話ですよ。それこそアメリカにも、ヨーロッパにも。しかしそんなことはどうでもいい。祖父は、私が物心ついたころにはすでに模型作りに没頭していたのでね、私にとっては模型好きなじいさんでしかないのです」

「とても器用な方だったのですね」

「いやいや、自己流の、ひどいもんでしたよ。私が子どものころはよく、飛行機や車の模型を作ってくれました。しかし恥ずかしくて、とても友達には見せられなかった。いまでは懐かしい思い出です。……それはともかく、町の模型があそこまで成長したのは、この苔のお陰なんです」

「成長?」

「あの模型のうえに苔を適度に植えておくと、模型が勝手に成長するのです。成長と言ってもそれこそ雨垂れが石を穿つようなもので非常にゆっくりですから、誰も気付かない。私がそう言っても、役場の人間も信じないのです」

「私は、」私は信じる、と言いかけた言葉を、私は呑み込みました。たしかに私は、最初に見たときにはなかった町の姿が、ほんの数日のあいだに模型のなかに出現していたのを見たのです。しかしそれを口にしてしまえばこの奇妙な男に取り込まれる、私はそう思ったのです。

「私が苔を植え続ける。すると模型はどんどん緻密になる。いまは道路沿いの店などが建設中です。そうやって模型はこの町と瓜二つの姿となり、そしていつか町と入れ替わってしまう」山田の表情から、彼が冗談を言っているのか本気なのかわかりませんでした。私の怪訝な顔つきを見て、山田は笑いました。

「このことは内緒ですよ。役場の人間もほんとうはみんな気付いているんです。しかし口に出すことはできない」

「なぜですか」

「アメリカの圧力ですよ」山田はそう言って、楽しそうに笑いました。

 

 山田の態度はとても紳士的で、ムツオさんや水沢の話から想像していた人物像とはかなり違っていました。しかし私はとても不安でした。奇妙な苔の話を聞いているうちに、この広場を囲む木々が、悪意を持って私を取り囲み始めたような気がしたのです。私を脅し、嘲笑い、嬲りものにしようとしている。そしてそれを主導しているのは間違いなく、目のまえの巨石だった。

「私は戻ることにします。勝手に離れてきてしまったのです。おそらくムツオさんも中谷くんも心配している」私は意を決して、そう言いました。

「そうですかね。おそらく彼らも、あなたがここにいることを知っているんじゃないかな」

「なにも言わずにここまで来たので」

「いえいえ、知っているはずです。勝手に山のなかに入ったのに、あなたを止めなかったのでしょう?」

「それはムツオさんたちが、熱心に収穫していたから」

「大丈夫です。せっかく来たのだし、ちょっと私とお付き合いしませんか。あなたはかなり好奇心旺盛な方だと聞いています」

「誰がそんなことを」

「この石のうえに、登ることもできるのです。はるか向こう、あなたが住むアパートまで見晴らせます。それはとても素晴らしい、絶景ですよ。もちろん観光ガイドには載っていない。土地の人しか知らない。みんな秘密にしているんです。渓流や酒蔵なんか目じゃないんだ」

 もちろん私は、山田の言葉に強く心を動かされていました。山田の言うとおりなら、おそらくこの下にあるはずの、あの町の姿をすぐ間近に見ることができるでしょう。しかし私は強い誘惑を感じると同時に、石のうえに登ることを強く拒絶していた。好奇心は猫を殺す。町を見るべきではないと、私を強く引き留める存在があった。あの夜水沢の家の裏で私を圧倒した暗闇のように、それはほとんど物理的な力で、私のからだをがっちり掴んでいたのです。

「迷っていますね?もちろんこういった神聖なものを足で踏みつけるなど恐れ多いことだ。そういう考え方もある。しかし私はそうではないと思うのです。むしろ古代人たちはこのうえに登って、遥か下界を見渡していたはずです。そうすることによって、自然に対する畏怖の感情をより強くしたと思うのです。自然と共存するなんて誰しもが口にしますが、大事なのは畏れることと敬うことなんです」

とうとう私は山田の誘いに乗り、石に登ってみることにしました。難しく考えることはない。私は東京から来た呑気な観光客で、山田はこのあたりをよく知っているベテランのガイドなのだ。ムツオさんや水沢の話では、この山田おろちという人物は相当の変わり者のようでしたが、まさか石の上に登ったとたん、突き落とされることもないでしょう。それに私は、石のうえから見た光景のことを水沢に話したくて仕方がなかったのです。

私は石に近付きました。表面は濃い灰色と白の横縞模様で、かなり細かい凹凸があり、ところどころ、苔がびっしり生えている。私の頭の少し上には手のひらぐらいの大きさの段差があって、小さな植物が生えている。さらにそのうえ、石のてっぺんにも草が生えているようで、ちょろちょろと垂れさがる蔦のようなものもありました。私は石の表面を撫でるようにしながら、ぐるりと後ろに回り込もうとしました。しかしとつぜん、山田が私の腕を掴んだのです。

「気を付けて」ほんの数十センチ先は急峻な斜面でした。ほとんど垂直といっていい斜面には鬱蒼と木が茂っていて、底が見えない。あの、水沢の家の裏手で見たものとほとんど同じでした。そして驚くべきは、この巨石が、崖の縁に、三分の一ほど乗り出すようにして止まっていたのです。

「危うく落ちるところだった。先に言わなかったのは私の失態でした」

「ありがとうございます、私もついうっかりして……。しかしこの石はかなりきわどい場所にあるようだ」

「そうです。いまにも転げ落ちそうでしょう。何千年も、ひょっとしたら何万年も、ここにこうしてあるようなのです。ある学者が言うには、この石の重量からしてこんなところに留まり続けているのは、物理的にはあり得ないようなのです。もともと石があった場所に山崩れがあったのか、あるいは石がここまで転がってきて止まったのか、ひょっとして、古代人がぎりぎりのところに置いたのか、それはわかりません」

「しかし、こんな大きな石がいまにも転げ落ちてきそうなのを見上げながら生活するのは、どんな気分でしょうか」私は呟きました。

「転げ落ちてくるなどとは、露ほども考えなかったですね」

山田の口ぶりは、彼がこの斜面の下に、長く住んでいたような感じでした。もちろん、山田には私がこの下にある町の存在を信じていることなど話してはいません。私は町があることをさも当たり前のように口にしてしまった。しかし山田はなんの疑問も挟まなかった。もちろん町はここからは見えない。目のまえは草木が鬱蒼と生い茂り私たちの視界をしっかりと遮っているのです。

私は山田に導かれて石の下に立ちました。すると一本の太い蔦が、私たちの腰ぐらいの高さまで伸びていたのです。

「頼りないと思いますか。大丈夫です。これが見た目に寄らず、頑丈なのです。私は何度もこれに捕まって、石のうえに登っている。ナイロンロープよりよほど頑丈です」山田は蔦の端を掴んでぐいぐいと引っ張り、ぶら下がって見せたのです。たしかにぴんと張った蔦はビクともしないようだった。

「これこそが天上からの導きの糸なのです。例の蜘蛛の糸のようにぷつりと切れてしまうことはない。さあ、行きましょう」

 しかし私はまだ尻込みしていた。山田から手渡された蔦の端を持ったまま、石を見上げていた。蔦には細かい産毛が生えていて、滑り止めのようになっている。と同時に、それは小さな無数の棘で、いちど手のひらに刺さってしまえば一生抜くことができない。そんなふうに思いました。

「やはり畑に戻ることにします。ムツオさんも心配していることでしょう」

「ムツオさんはあなたがここにいることを知っていますよ。むしろあなたがここに来ることを望んでいる」

「そんなことは一言も言っていなかったです」

「ほんとうに伝えたいことははっきり言わないものです。とくにこのあたりの人間はね。ムツオさんが東京に送った論文、あれ、ほんとうはなにが書いてあったか知っていますか」

 頭上から、か細い声が聞こえました。猫でした。あの白猫が、一足先に石のうえにいて、気持ちよさそうに毛繕いをしながら、ときおり私を見下ろして、にゃあと鳴くのです。

「ごらんのとおり猫ですら登っているのです。好奇心旺盛な猫はあのとおり、死んではいません。あなたが登っていけないわけはない。さあ早く。私が肩を貸してあげます」山田は私に背中を向けて屈み、石に手をつきました。「遠慮しないで、私の肩に乗ってください」

 私は意を決し、蔦を強く握りました。そして山田の肩に足を乗せた。

「じっとしていてください。私はこれから立ち上がります。そうすればもう、目のまえには頂上があります。まったく簡単です」

 山田はゆっくりと立ち上がりました。私のからだはゆっくりとうえに上がりました。それは山田の細いからだには似つかわしくなく、まるでエレベーターのように力強く、安定していました。しかし不思議なことに、私はたしかにぐんぐんとうえに上がっていっているはずなのに、一向に頂上が見えてこない。目のまえにあるのは巨石の白と灰色の縞模様だけです。それがまるで滝のように、私の眼前をどんどん下っていく。捕まっていた蔦も遥か天上まで伸びて果てが見えないのです。

「いつになったら着くのですか」私は足元の山田に向かって叫びました。しかし返事はなかった。目の前の縞模様はどんどん速度を増し、いつか灰色一色となりました。

「怖がらずにしたを見てください」山田の声がしました。

 

 女たちは薄暗い土間で夕食の準備を始めていました。

 女たちは採れたてのニンジンを、飾り切りにしていました。それはよく見かける梅やモミジではなく、人のかたちをしていた。私が見つめていると、女は器用に包丁を操り、ニンジン人形に笑顔を刻んだのでした。

「このあたりでお正月に昔からやってるのです。人のかたちを作ると、神様が宿るの。それを食べると、病気にならないんです」

「これは身代わりです」この家の主人が言いました。主人はいつの間にか、私の傍らに立っていたのです。「この人形に悪運を担わせて、鍋のなかに溶かしてしまう。悪い気が湯気とともに逃げ出すので、窓をぜんぶ開けるのです」

「お金持ちの家と貧乏人の家だと違うのかもね」

「うちはべつに金持ちではないです」主人が笑いました。「田畑もずいぶん、取られてしまった」

「旦那様は相撲で負けたのでしょう」女が微笑みました。

「いい勝負だったと思うのですが」

 私たちがいたのは、とても大きな農家でした。黒く太い柱に支えられた薄暗い室内には畳敷きの座敷がいくつも並んでいました。

 主人が用意したのは、オカシラつきの鯛がまるごと入った鍋でした。鍋が煮えるあいだ、私たちはずっと酒を飲んでいました。広い座敷の真ん中にある一枚板の座机を、私たちは囲んでいたのです。

「東京からわざわざ、なあ。ご苦労様です」

家のなかにはそこらじゅうに猫がいました。猫は畳の上に寝そべったり、ケンカをしたり、女の膝の上で丸くなっていたり、好き勝手に過ごしていました。

座敷には猫と同じぐらいの人数の人がいました。年取ったのも、若いのも、男も、女も、いた。彼らは陽気に語り合い、笑っていました。

「ドゥンダーダラ、ハア」。私も彼らに合わせて笑いました。

女がぐつぐつと煮えた鍋を運んできました。いかにも旨そうな匂いがしていました。鍋の真ん中には大ぶりの鯛が横たわり、私をぎろりと睨んでいるように見えました。

私はかなり酔っていました。先日東京を出発しS市で一泊して、昼過ぎにここに着いた私を、主人は休ませることもなく連れまわしたのです。その疲れもありました。私は、主人が送った研究書にゆかりのある場所を案内してもらったのです。なだらかな丘に緑色のじゅうたんを敷き詰めたような平野がゆったりと広がり、空気は清浄であり、人の姿はあちこちに見えるのに、しんと静まりかえっている。まことに長閑な村でした。森のなかの小さな寺の境内を子どもたちが元気に走り回り、すれ違う若い衆はみな爽やかな笑顔を私に向ける。牛舎のまえを通れば牛たちが興味津々で私に鼻を近付ける。至る所に猫がいて、日に当たって長く伸びたり、ネズミを追いかけたり、なかよくからだを擦り付けあったり、賢し気な顔つきで農作業する人たちを見守っているようなのもいる。こんなにのんびりとした、平和そのものと言った農村に、主人が描いたような奇習が存在するとは、にわかには信じられませんでした。しかしこの長閑な風景とエロチックな風習の対比こそが、私の書物に彩を与えるのだと考えると、私の心は踊りました。

屋敷に戻ると、私は書斎で主人の話を聞き始めました。書斎は古めかしいいかにも農家然とした屋敷に取ってつけたような、洋風の居間でした。主人はきれいな東京語で、まったく淀みなく、彼の研究書には描かれていなかったことがらまで、私に話して聞かせました。私がちょっとした質問をすると、主人は次から次へと新しい挿話を私に披露し、それはいつまでも終わることがなかったのです。

そしてそのあいだ主人は近くの酒蔵から取り寄せたという日本酒を、しこたま私に飲ませていたのです。私はふらふらになり、手にしていたメモ帳とペンをぽとりと落としてしまいました。主人は身を屈めて私の筆記具を拾い、私の手元にそっと戻したのです。

「まだまだ、話は終わりませんよ」主人はまるで、なにかイタズラを企む子どものように、無邪気に笑うのでした。

駆け出しの民俗学者だった私は、この田舎の村からある日送られてきた素人学者の研究書に、非常な興味を持ったのです。もちろん宛先は私ではなく、すでにこの分野で一家をなしていた私の恩師だったのですが、毎日のように送られてくるこの手の素人研究書は、封を切られることもなく屑箱に放り込まれていたのです。恩師の研究室の片隅に捨て置かれた、几帳面に綴じられた厚さ一センチほどの紙束をたまたま手にした私は、そこに描かれていることがらに少しばかり興味を抱きました。もちろん学術的にはたいしたことのない、どこかで聞いたことのあるような話ばかりでしたが、当時はカストリ雑誌などといって下衆な好奇心を煽る低俗な書物がもてはやされる風潮がありましたから、これを面白おかしく書き立てて出版社に渡せばいくらかの金になるかもしれないと、私は思ったのです。私の学友で小さな出版社に勤める男が、なにか雑誌のネタになるような話はないかといつも私に聞いていたことも頭の隅にありました。当時私はバーにいた悪い女にひっかかり、少なくはない借金を負っていました。特攻崩れだという恐ろし気な男が、私の家の周囲をうろうろしているのを何度も目撃していたのです。両親にばれれば、学校を辞めるように言われるのは間違いない。いつまでも学究として芽の出る気配のない私に、両親がじりじりしているのは痛いほどわかっていました。じっさい、父の知人が経営する会計事務所を紹介するという話もあった。早急に金が必要だったのです。私が友人に田舎の素人学者の話を聞かせると、彼は即座に食いつきました。そして素人研究書に朱を入れながら、ここはもっとロコツに、グロテスクに、と、あれこれ指図し始めたのでした。そして書物のもっともらしさを喧伝するためには、この田舎者のもとをいちど訪ねるべきであり、旅費も出すと言ったのです。そういうわけで私がこの村に来たのは学術的な興味からではなく、全くの下衆な下心からで、やがて世に出す書物にメッキを施すためのアリバイ作りに過ぎなかったのです。

主人は、そんな私の下心をすっかり見通し、歓待しているふりをして、からかって、面白がっているような気がしました。主人が披露する新しい挿話は、私の友人が提案した嘘や誇張と寸分も違わなかった。私は友人と主人がすでに通じているのではないかと疑ったほどなのです。

そうすると、この家に集まった村人たちがみんなして、私をバカにしているような気さえしてくる。私は落ち着かない気分でシャツの裾を何度も握り、歯ぎしりをしていました。心が弱ったときはいつも、幼少期から現在までの嫌な思い出が私の頭を駆け巡り、私を苛み始めるのです。私はじっと耐えるしかなかった。このときもそうでした。近所の悪ガキたちに小突き回されたときの痛み。私が失敗をしでかしたとき父や恩師が見せる諦めの表情。花街の女たちが私に浴びせた嘲弄の言葉。そして、徴兵検査の屈辱的な、あの体験、素裸になった私を軍医たちが嘲笑し、私の一物を摘まみ、捩じり上げ、悲鳴を上げる私を皆が大声で笑う。あの醜い軍国主義者どもの顔の一つ一つが、鮮明に思い出される。そしてその記憶ひとつひとつを、この村の人たちは残らず熟知しているという、ひどい妄想が私を襲い始めたのです。しかし私はこのまますごすごと、あの特攻崩れのヤクザ者が待つ東京に帰るわけにはいかなかった。私は惨めで、酒を飲まずにいられなかったのです。

女たちが鯛を鍋から出し、小皿に分けて配りました。それは非常に美味だった。それで私の心の乱れも、少し収まりました。しかし私の口のなかには、妙な異物感があった。鯛のウロコが残っていたのです。さすがに山のなかの村だけあって、魚、それも鯛などは食べ慣れていないのでしょう。下処理がいい加減だ。ウロコは口裏に貼りつき、舌をぐるぐると動かしても容易にとれない。これだけ大勢の人のまえで、まさか口のなかに指を突っ込むわけにもいかない。座敷の隅では、顔を真っ赤にした男がほとんど裸に近い格好で、ぐうぐうと鼾をかいてい寝ている。私はあのような田舎者とは違うのです。私は用を足しにいくときにでもとればいいと、放っておくことにしました。

鍋をみると、ニンジン人形はにこやかに笑ったままでした。それは角切りにしたサトイモや春菊に囲まれ、まるで川辺に遊ぶ子どものようだったのです。

「旦那様の言うとおり、ニンジンは最後まで残しておきましょう。ニンジンにすっかり火が通って、かたちがなくなるぐらいまで煮込むの」女は言いました。「かたちがすっかりなくなるまで、ね」

 私はじっと、サトイモにも春菊にも手をつけず、笑顔のニンジンが溶けていくのを見ていました。集まった人たちはなにやら楽しそうに話をしながら鍋をつついていました。先ほどの女はずっと私の隣にいて、小皿に私の分を取り分けてくれ、猪口に酒を注いでくれました。女は開戦の少しまえまで東京で女給をしていたそうで、私に合わせて、東京の言葉を使ってくれていました。それはほとんど、東京の者の話ことばと区別がつかなかった。しかしほかの者たちの言葉は訛りがきつく、まるで外国語のようで、私には一つも聞き取れなかったのです。

「ドゥンダーダラ」

「ドゥンダーダラ、ハア」

 この言葉はまるで呪文のように、私の頭のなかをぐるぐると回りました。私はぼんやり、大きな土鍋を見つめていた。座机に置かれた土鍋は、またぐつぐつと煮え始めたように見えた。そのとき私は幼いころ読んだ絵本のなかで、魔女が、大きな鍋でカエルやヘビをぐつぐつと煮ていたことを、ふと思い出しました。それは禍々しい挿絵付きの、非常に気味の悪い本で、いったいいつ、誰から貰ったのか、まるでわからなかったのですが、私は自分の本棚の奥の奥にしまい込んで、二度とページを開くことはなかった。しかし私の記憶の奥底には、大きなねじ曲がった木の杖を煮えたぎる鍋のなかに突っ込み、いやらしい口元から鋭くとがった歯を覗かせ笑う魔女の笑顔が、どうやっても消えずに残った。それはまるで口のなかのウロコのようでした。

「気分でも悪いのですか?」女が言いました。「先ほどから、少しも箸をおつけにならない」

 私は思わず、ぞっとしました。女の顔が、あの魔女に見えたのです。そしてあの魔女は、西洋の魔女は、この女に、たしかに似ていた。あの顔はたしかに禍々しかったが、美しくもあったのです。

「少々、飲み過ぎたようです」私は言いました。

「長旅のあとですもの、疲れていらっしゃるんですわ」女は俯いたまま、小皿のうえの鯛を箸でつついていました。「あ、あったあった」

女は小さな白い欠片を摘まみ上げました。

「鯛の鯛。縁起物です」

私がぼんやり、その白い欠片を見ていると、女はなにかイタズラを企んでいる子どものように、無邪気に笑うのです。

「だいぶ酔っていらっしゃるようね。少し外に出ませんか。今日はとても星がきれいなの」

 私は女と一緒に、縁側から庭に出ました。座敷にいる人たちは誰も気付いた様子がない。私は女と並んで、空を見上げた。星よりも先に目に入ったのは、大きな黒い影でした。それはこの家が背負う急峻な斜面のなかほどにある、巨石だったのです。

昼間、主人は村のあちこちを連れまわした最後に、私にあの巨石を見せたのでした。木が鬱蒼と生い茂る、急峻な、道があってないような斜面登らされたときは、この男は私が足を滑らせて転げ落ちるのを見て楽しむつもりだろうと、疑ったものです。そして私はそうはさせじと、奇怪なかたちをした木の根や枝にしがみつき、必死に主人を追ったのです。そしてとつぜん目の前が開け、現れた巨石を目の当たりにした私の驚きはどれほどだったか。今でもあの瞬間のことを思い出すと、ぞっと身震いするほどなのです。主人は石のうえに登ってみるよう私を誘いました。しかし私は疲れを理由に断った。私が石のうえに立てば、なにか取り返しのつかないことが起こるような気がしたのです。

「あれが落ちてくると、思ったことはありませんか」私は女に聞きました。

「それは、天地がひっくり返ってもあり得ないことです」女は毅然と言いました。「それよりもほら、空を見て。星がきれいでしょう」

私は女に導かれるような心持で顔を上げました。たしかに満天の星空でした。それは空というより、細かく織り込んだ黒い布が、この盆地のうえに覆いかぶされたような感じだったのです。私は口のなかに指をつっこみ、忌々しいウロコを探りました。そしてそいつを舌に乗せ、ペッと吐き出したのです。

「あの星は、空に開いた小さな穴のようだ」私は呟きました。

「そんなこと、言わないで」女はなぜか悲しそうな声でそう言うのです。

そのときでした。山の端、空と地面の境界のあたりに、まるで夜明けのように一筋の光が走ったのです。光の幅はみるみる広がり、そしてそこから大きな目が、あの巨石よりも大きな目が、私たちをじっと見ているのです。驚く間もなく、すぐにあたりは真っ白な光に包まれました。なにも見えなくなった。それはまるで、爆弾が破裂したようだったのです。あの、二つの町を消滅させた新型爆弾かもしれない、と私は思ったのです。

 

 私はぽつんと、国道沿いの空き地に立っていました。

空き地はがらんとしていて、小さな石ころが転がり、轍の跡が水溜りになっています。ひどく寒かった。空からは雪が落ちてき始めていた。それはあっという間にあたりを覆ったのです。雪は街灯の灯りを反射して、きらきらと光っていました。

隣の家との境界は無骨な鉄パイプで仕切られている。それを囲うように繁った灌木の枯れ枝を潜って、白い猫がやってきました。猫は私の足にまとわりつき、離れようとしませんでした。

私は歩き始めました。すると猫がついてきました。十分、十五分、私は民家や小さな商店が並ぶ、寂しい田舎町の道路を歩いていました。まだ誰も歩いていない真っ白い地面に黒い足跡をつけながら、私と猫は歩いた。あたりにはだんだん、畑が増えてきました。畑も薄く雪に覆われていました。

コンビニエンスストアが見えました。それは大きな交差点の角にあった。猫はまだ私についてきています。私は猫のために、缶詰を買いました。店員は不愛想で、私の顔を見ようともしなかった。

店から出ると、猫はどこかで捕まえたらしい鳩の骸をガシガシと噛んでいました。そしてそれを空高く放り投げると、体勢を低くして待ち構える。地面に落ちるすれすれで、きわどく捕まえるのです。私は猫の遊びをぼんやり見ていました。私は猫缶をコートのポケットに入れました。するともう、そこから手を出す気がなくなっていた。私は冷え切った指先がポケットのなかでゆっくり温まるのを、猫缶を転がしながら待っていたのです。

雪は降り止むどころか、ますます勢いを増していました。私は傘を持っていなかった。傘は荷物に入っていなかったのです。そして多少の雪ならば傘などいらないと思っていました。しかしその考えをひどく後悔し始めたのです。

白猫の姿はときどき雪のなかに消えてしまいました。コンビニエンスストアのまえの信号が青に変わった。信号の先は急な坂道になっていて、小さな家が段々に建っている。坂道に一本の黒い筋がありました。誰かが自転車で駆け下りたのかもしれません。筋は交差点を横切り、コンビニエンスストアの横を曲がりながら登っていく道へと消えていました。

そして私たちは、雪のなかをまた歩き出した。私は猫を連れて行くつもりでしたが、ふと、猫は家につくという話を思い出しました。このまま連れていっても、猫はすぐに逃げ帰ってしまうのではないか。それはとても残念なことだと思いました。

たしか、猫に詳しい男がいたはずだ、と思いました。その男は私に、猫はべつに魚を好むわけではないと教えた。猫を連れて行ってもいいか、あの男に聞いてみよう、と思いました。しかしどうしても、その男の名前が思い出せないのです。

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