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【30枚小説】ザッツオールライト、ママ

 玄関のベルがピンポン鳴った。鳴るまえからなんだか外がざわざわしている気がしていた。台所の窓は開けたままだ。いるんじゃないですか、そう言っていた気がする。もういちど、ピンポン鳴った、私は、はあ、と答えた。だいぶ掠れていた。そういえば昨日から誰とも話していない。声の出し方もいっしゅんわからなくなった気がした。
「小野寺さん、」男の声がした。キツネみたいな声だった。キツネ?キツネの声なんて聞いたことがない。要するに、男にしては高くて、ちょっと鼻にかかっているということだ。アニメに出てくるキツネが喋ったらこういう声だということ。私は、もういちど、はあ、と言った。返事はない。思ったよりも声が出ていないのかもしれない。もしかしたら、私はまだ眠っているのか、それとも死んでいるのかもしれない。私は、手を伸ばして、最初に指に触れたものをつかんで、玄関に向けて投げた。居留守だと思われたくないのだ。
 ごつん、と鈍い音がした。灰皿だ。喫茶店からパクってきた白い灰皿。それは流しの下の鍋とかが入ってる扉にぶつかって、板の間のうえをゴロゴロと転がっていた。
「小野寺さん、いらっしゃるのですか」今度は、どんどん、とドアをノックする音。窓が開いているのだから、向こうの声はよく聞こえる。しかし私の声は聞こえていないみたいだった。
 起き上がることができるだろうか。私は目を瞑って(ということは、私はそれまで目を開けていたのだ)、深呼吸して、お腹の下あたり、丹田というところ、人間のパワーが集中するところに力を入れて、なんとか、からだを起こした。肩のあたりが畳にひっついてて、べりべりと剥がれた。
「いるみたいですね」女の声がした。ころころ転がるみたいな、可愛い声だった。私もちょっとまえまでは、あんな声だったはずだ。私はむかしの私に向かって、一生懸命這った。引き戸のレールの、金属で、膝をがりっとやった。さっきまで部屋にあった灰皿を蹴っ飛ばして、流しにつかまりながら立ち上がった。
 窓の外から、メガネをかけた、中年の男がこちらを覗き込んでいた。
 顔が小さくて、メガネが異常に大きく見えた。キツネじゃなくて、ネズミだ。キツネ、ネズミ、ミミズク、クジラ、ラッコ、コアラ、ランラララララ。ネズミ男は私と目が合うと、ひょこっと頭を下げた。
 私はドアを開けた。私はあまりにふらついていて、ドアノブを握ったまま、外に持っていかれそうになった。コンクリートに足をついた。冷たくて、ちょっと痛かった。
 ドアの前に立っていたのはスーツを着た女の子だった。薄ピンク色のシャツと、紺色のパンツ。栗色で、ふわふわのショート。声と同じぐらい可愛かった。女の子はびっくりしていた。私もびっくりした。私はほとんど裸だった。もちろんすっ裸ではない。レプリカバスケユニを着ている。メンズだからだぶだぶで、たぶん、ドアノブに持ってかれそうになったとき、女の子におっぱいをみられた。パンツは履いていた。百均で買ったやつだ。百均でもそんなに悪くない。買ったのは、半年ぐらいまえだったか。お尻の右側がちょっとけば立っている。
 私は強がって腕を組み、壁に凭れて立った。
「なんですか?」まだ声が掠れていた。ので、言い直した。そうしたら、ネズミ男とかぶった。
「小野寺一輝様はご在宅ですか」
「主人ですか?」主人、というと私は少し気分が良くなる。
「奥様でいらっしゃいますか」
「そうですが」
「じつは私ども、M区役所から参りまして」
 ねずみ男はくびからぶら下げた名札を持ち上げ、女の子もそれに合わせた。ネズミ男は私の目をしっかり、わりと優しめの目で見ながら話す。さっきからおっぱいをいちども見ないのは、好感が持てる。女の子はなんどか見ている。私のおっぱいはわりと評判がいいのだ。
 でもネズミ男は私のおっぱいに興味をもってくれず、一生懸命、話をしていた。
 要するに、一輝が役所に払わなければいけないお金を払っていなくて、取り立てに来たのだ。
 それならば私は自信があった。先月一輝がとつぜん、五万円を私に手渡して、これを役所に持って行くように、と言ったのだった。私は言いつけを守り、役所に行って、正確には四万二千円を払ってきた。お金が余ったので、帰りに美容院で前髪を切ってもらって、ファミレスでハンバーグを食べてビールを飲んだ。
「それは私どもも確認しています。しかし小野寺さまが先月お支払いいただいたのは住民税でして、私どもは健康保険料を払っていただくために来たのです」ネズミ男は言った。
「役所に二回もお金を払わなければいけないのですか」私は少し腹を立てていた。
「そうではなくて、先日お支払いいただいたのは税金で、こちらは健康保険です。別々に払う必要があるお金です。病院にかかるときに保険証を使うでしょう。そのためのお金です」
「病院にはずっと、行ってないです」私はウソをついた。大畑がしつこく言うので、月に一回、メンタルクリニックに行くようになったのだ。もう半年ぐらい通っている。もちろん保険証を見せている。保険証を見せたからと言って、ただになるわけじゃない。いつもなん千円か取られている。
「これだけ、お支払いが残っていますので」ネズミ男は私に、紙を一枚見せた。いろいろごちゃごちゃ書いてあったが、ピンク色のラインマーカーを引いたところに、三十万とかいうとんでもない金額が書いてあった。
「これをいつまでに払うのですか」
「期限が過ぎてますので、すぐにでも払っていただく必要があります」
「お金なんてないです」
 お金がないのはほんとうだ。電気代を使いたくないから、こんな格好で、窓を開け放して、それから、ご飯代だってないから、いちにち、ごろごろと寝ているのだ。
「いえのなかを見てもらってもいいです。ほんとにないんだから」
「今日無理にお支払いいただくわけではないのです。小野寺一輝様にお伝えいただき、できるだけ早く、区役所に連絡するよう、お伝えください」
「わかりました。主人に伝えておきます」
 ネズミ男はにこりと笑って、頭をさげた。女の子も頭を下げた。私も下げた。ネズミ男は最後まで、おっぱいを見なかった。
 
 一輝はもう一週間ぐらい、帰ってきていない。スマホもないし、服もちょっと減ってる気がする。商売道具のギターもない。一輝は音楽学校で講師をしている。しているはずだ。まえは、こんなにお金のことで苦労はしなかった。いまは、お金がない。一輝の口座は、私が管理している。去年から、音楽学校からの振り込みは、いつも二十万あったのに、ときどき十万いかないこともあって、今年に入ってからは、ない。ゼロだ。振り込まれるお金が減るのにあわせて、一輝が家にいる日も減った。一輝はひょっとして、音楽学校をクビになったのかもしれない。クビになって、どこかをふらふらして、たまに駅前なんかで歌を歌って、通りすがりの人から小銭をもらって、それでネカフェかなんかにいるのかもしれない。
 一輝はむかしから音楽学校の講師をしていて、たまに、ライブハウスで歌っていた。店の客の、坂本が連れて行ってくれたレストランで、一輝は歌っていた。
 ザッツオールライト、ママ。
 ザッツオールライト、ママ、と一輝は歌っていた。私はお店が休みのとき、ひとりでも、そのレストランに行った。一輝がいる日を調べていった。演奏が終わったら話をして、一緒の席でお酒を飲んで、セックスして、そして仲良くなって、結婚してください、と言ったのだ。一輝は三十五歳で、バツイチだった。そういえば、一輝もあまり、おっぱいを見なかった。
もちろん一輝のことは心配だが、私は私でなんとか、生活をしていかなければならない。お店に戻ってもいい。お店は結婚したときにやめたけど、ときどき、遊びに行っていた。でもいまは肌もぼろぼろだし、からだも口も臭い。腕も足もがりがりだし、おっぱいも、少し小さくなった。でもおなかだけ、ぽっこりでている。こういう状況をなんとかしてからでないと、お店に戻るのも、なかなかたいへんだ。
 私はSNSで、父親のアカウントを見つけた。父親は設計事務所をやっているから、実名でアカウントをもっているのだ。私は父親に、あなたの娘のさとみですが、お金がないので、少し送ってください、と伝えた。父親はダイレクトメールを返して、そういうことはタイムラインに載せないように、お金は送るから、投稿はすぐに削除しなさい、と言ってきた。父親は私が脅迫したみたいに感じたみたいだった。なるほどそれもそうだ。そんなつもりはなかったけど、悪いことをした。父親の友達、仕事関係の人、それからいまの奥さんと子どもたちに、あたしの父に宛てた投稿は見られてしまった。ひどく迷惑しただろう。
 父は毎月、多いときで五万、少ないときでも一万ぐらい、送ってくれる。でも子どもたちが受験だったりで、父もあまり、お金を持っていないようだった。いまの奥様も、とつぜん、むかしの娘がたかってきて、怒っているかもしれない。それでも私は助かった。ケータイ代も、電気代も、水道代も、ガス代も、なんとか払えるようになった。父とラインを交換した。父は私に、働くように言った。私は派遣会社に登録して、倉庫の仕事をした。でも一週間でダメになった。とても、からだが持たなかった。仕事中にくらくらして、このまま死ぬのかな、と思った。
 派遣の仕事をしてよかったのは、バイトリーダーの大畑と知り合えたことだ。大畑は四十なかばの冴えない中年男だったが、優しくて、私の話をよく聞いてくれた。大畑は若いころ銀行に勤めていたけどメンヘルになって、辞めて、それでずっと、倉庫の仕事をしている。だから、というわけでもないけど、私の顔を見てすぐ、こいつヤバイな、と思ったらしい。大畑は優しかった。倉庫なのに、きちんと髪を七三分けにして、ワイシャツのボタンをちゃんと一番上まで留めて仕事に来る。ワイシャツはいつもちゃんとアイロンがかかっている。大畑はお母さんと二人暮らしなのだ。埼玉の一軒家に住んでいる。セックスは下手だったので、いろいろ、教えてあげなければダメだったし、大畑自身がダメなこともあって、そういうとき辛そうにしている大畑を見ていると私も辛くなってきた。
 
 音楽学校から振り込まれるお金はだいたい全部使ってしまうので貯金なんてぜんぜんなくて、音楽学校から振り込まれるお金が減ると、家賃も払えなくなった。音楽学校からお金が振り込まれる口座から、家賃を払っていたのだ。父親からのお金はあったけど、優先順位がよくわからず、家賃はほったらかしにしていた。そうすると、春ごろだったと思うけど、管理会社から手紙がきて、やばいと思っていたら、一輝はどこからかお金を用意してきて、すっかり、二十万以上あったと思うけど、払った。もちろんいまも家賃は払っていないから、手紙はまた来ている。さいしょのうちは、また一輝が、どこからかお金を持ってきてくれるから大丈夫だと思っていたけど、一輝が家に帰ってこなくなると、また不安になった。でも大畑が、家にずっといればむりやり追い出されることはないよと言ってくれて、それで安心した。でも外に出ている隙に、管理会社の人が来て、ドアのカギを取り替えてしまうこともあるから、気を付けたほうがいい、と大畑は言った。だから私は仕事に、出ることもなかなかしにくいのだ。仕事に行かなければ家賃は払えないのに、仕事に行けば家のカギを取り替えられる。ヘンな話だった。
 買い物に行くときも、いつも家のことが気になって、だから買うものはぜんぶ決めて、ばんばんカゴに入れて、走って家に帰ってくるのだ。それで、カギがちゃんと、鍵穴に入ると、私は嬉しくて、悲しくて、泣きそうになる。
 
 久しぶりに一輝が帰ってきて、ビールと、私が好きなケンタッキーをたくさん、買ってきてくれた。私は、区役所のネズミ男が来たことは明日言おう、と思った。でも、ネズミ男が置いていった、あの、ピンクのマーカーで三十万円と書いてあるところにラインが引いてある紙を、どこに置いたのか、ぜんぜん忘れてしまっていた。だから一輝はそれを私より先に、見つけてしまった。流し台のうえにあったみたいだった。マーカーが水で滲んでいた。区役所の人が来たの、と一輝は言った。来たよ、と私は言った。一輝は何も答えなかった。私たちはテーブルにビールとケンタッキーを並べた。
 一輝は、音楽学校の仕事は辞めていない、と言った。でも、お金がないよ、と言うと、仕事は辞めていないけど、お金は貰っていない、と言った。それはおかしいよ、と言うと、一輝は黙ってしまった。ネズミ男の三十万も、家賃の二十五万も、なんとかなるから、さとみは心配しないでいいよ、と言った。私は、お父さんがお金をくれるから、わたしは大丈夫だよ、と言った。いくらくれるの、と一輝は言った。私は、五万くれることもあるけど、だいたい、一万とか三万とか、と言った。一輝は黙って、ケンタッキーをむしゃむしゃ食べて、ビールを飲んだ。
 久しぶりにセックスをしようと思ったけど、一輝がダメだった。ごめんね、と一輝は言った。なんだか大畑に似ている気がした。
 一輝は朝早くからごそごそとしていて、どこに行くの、と聞くと、仕事、と答えた。今日は帰るの、と聞くと、帰るよ、と答えた。私は安心して、また、倉庫の仕事をしようかと思った。一輝が出て行ったあとで、大畑にラインをして、また仕事をしたい、というと、僕じゃなくて、派遣会社に言わないとダメだよ、と言った。それもそうだ、と思った。病院はちゃんと行ってるの、と大畑は言ってきた。あたしはそう言えば、もう二か月ぐらい行っていない、と思った。クスリは飲んでるの、と大畑は言った。飲んでない、と私は言った。勝手に止めちゃだめだよ、お医者さんが言うとおりにしないと、と大畑は言った。勝手に止めると具合がもっと悪くなるよ、と言った。それはそうだ、と思った。ここのところなにもする気が起きないのは、そういうことかもしれない、と思った。区役所にお金を払っていないから、病院に行けないんだよ、と私は返した。それはおかしいよ、そんなはずはないよ、と大畑は言った。一緒に区役所に行って、話をしてもいい、とまで、大畑は言った。さすがにそれはよくないだろう、と思った。私は一輝と結婚しているのに、大畑と一緒に役所にいくのは、やっぱりおかしいと思うのだ。
ほんとうは、病院に行くお金がないのだ。いや、がんばればあるのだけれど、病院に行って、クスリを貰うと、それだけでなん千円もかかるのだ。それはもったいないと思って、病院に行くのを止めたのだ。
 とにかくなにもかも、お金だった。お店にいたころも、一輝と結婚したころも、こんなにお金のことを考えたことはなかった。沖縄に旅行に行ったし、好きな服も買っていた。一輝は車を買って、日本中をドライブしよう、と言っていた。だから、駐車場のある、このアパートを借りたのだ。車なんてすぐに手に入ると思っていた。一輝は、友だちのハスラーを譲ってもらえると言っていたのだ。軽だけど、シートを倒すと、車のなかで寝れる。一輝と、星を見ながら、車のなかで眠ったら、すごく楽しいだろうな。私は、道路でハスラーを見るたびにわくわくして、ついじろじろ見てしまって、運転手の人に、ヘンな目で見られたりしていた。あの話はどうなったんだろう。
お金、お金。やっぱりまた、お店に戻ろうかな、と思った。久しぶりに、ママにラインをした。ママは私が結婚するとき、ヴィトンのキーケースをくれた。キーケースは質屋に売ってしまった。ママにラインを送ってしまったあとで、それを思い出した。お店に行ったとき、あのキーケースを持っていなかったらヤバイと思った。どうしよう、と思うと、不安で、なにもできなくて、とにかく泣きたくなって、泣いていた。
 ママからの返信は、夜になってからあった。戻ってきてくれるのは嬉しいけど、いまお店があんまり調子がよくなくて、女の子の出勤も調整しているから、もうちょっと待って、と書いてあった。ママの知り合いのお店はどこも、そういう感じらしい。私は、よかった、と思った。まずは倉庫の仕事をして、お金を貯めて、キーケースの同じヴィトンのやつを、中古でもいいから買って、それから、お店に戻ろう、と決めた。とりあえず目標ができたからか、私は少し元気になった。外に出たくなって、もう夜だから管理会社の人も、わざわざカギの取り換えにこないだろう、と思って、一輝のTシャツを着て、自分の半パンを履いて、ちょっとだけメイクして、外に出た。
 駅までまじめに歩くと、三十分ぐらいかかるから、だいたいはバスに乗っていたのだけれど、バス代ももったいないので歩いた。けっこうな坂道で疲れるし、駅の近くに役所がある。もう八時だったけど、役所の明かりはついていた。ネズミ男と可愛い女の子は、まだ仕事をしているのだろうか。もし会ったりしたら、なにか言われるだろうか。お金がないのに、遊びに行くのですかと言われるだろうか。少し怖くなったけど、大丈夫だった。これだけ暗いし、このまえはすっぴんだったし、たぶん、私だとわからない。それに私は大畑に、色々聞いていたのだ。役所に払えと言われているお金も、ずっと無視していれば、言われなくなる。時効というやつだ。役所がちゃんと調べれば、音楽学校からお金が振り込まれなくなっていることもわかるから、むりやりあたしたちのものを取り上げることも、たぶんないそうだ。クレカを払わないと、ほかのクレカ会社にも連絡が行って、ほかのクレカ会社から借りられなくなって、それでヤバイところから借りなきゃいけなくなるけど、役所のお金はほっておいてもそういうふうにはならないし、もちろん保険証は使える、と大畑は自分で調べて、さっき、そういうことを書いてあるメッセージが届いたのだった。大畑にお礼をしたかったけど、大畑の家は電車で一時間以上かかるし、電車代も、往復すると千円以上かかる。そんなお金は、いま、ない。大畑に来てもらえばいいけど、お礼をするのに来てもらうのもヘンだ。私は、倉庫の仕事に戻ったら、大畑にお礼をする、と言った。大畑からの返事はなかなか来なくて、やっと来たと思ったら、ありがとう、気持ちは嬉しいけど、役に立てただけでじゅうぶんだから、と書いてあった。大畑は、ヘタクソだなあ、と思った。お店にくるオジサンたちのラインもヘタクソでウザかったけど、大畑のは、ヘタクソだけどウザくはなかった。
 駅前で牛丼を食べて、ビールを飲んで、コンビニでチューハイを買って、歩きながら飲んだ。派遣会社に電話するのは、じつは、少ししんどい気持ちだったけど、いまはぜんぜん、平気だった。明日電話して、ちゃんと、このまえのことを謝って、そうしたらきっと、また倉庫で働くことができるだろう。
 
 派遣会社の人から、一度面接に来るように言われた。まえに働いたときからだいぶ、時間が経っているから、と言っていた。私は、三時に予約を入れてもらった。でも二時になっても、起き上がれなかった。電話をして、体調が悪いので、別の日にしてほしい、と言ったら、会社の人は、じゃあいつがいいですか、と意外に簡単に答えたので、私は、また、体調がよくなったら、電話します、と言った。それで、また横になって、ああ、倉庫はもうダメだなあ、と思った。大畑に、やっぱり働くのはしんどいかもしれない、とメッセージを送った。大畑は、いま最初にやることは、病院にいくことです、と言った。それもそうだな、と思い、病院に行こう、と思うと、なぜか起き上がることができた。
 病院に連絡して、クスリがなくなってしまって、とても辛いので、すぐにクスリが欲しいです、と言ったら、六時半なら予約が空いています、と、受付の女の人が言った。受付の女の人は先生の奥様で、お年を召していたけど、きれいで優しい人だった。奥様に会えると思うと、また元気になった。
お金がなかったので、銀行に行った。一輝の口座には一万四百円しかなくて、私の口座には二万円とちょっと、残っていた。私は父に、またお金をください、とメッセージを送った。主人が仕事をクビになって、家賃も払っていなくて、役所に払うお金も払っていなくて、たいへんです、と書いた。
 先生は六十歳ぐらいの白髪の人で、私は倉庫の仕事がもうできないこと、ママから貰ったヴィトンのキーケースを売ってしまったのでお店に戻れないことを話した。話しているうちに泣いてしまった。先生は私をベッドに寝かせて、深呼吸するように言った。先生の奥様が、コップに入れた水を持ってきた。私はそれをちょっとずつ飲んだ。
「ご主人は」
 私が落ち着いて泣き止んで、先生は言った。それで思い出した。まえにも、一輝と一緒に来るように、言われたのだった。私はそれで、病院に行かなくなった。病院に行っていることは一輝には言っていなかったし、大畑のことを、一輝が知ったら良くないと思ったからだった。
「主人は、元気です。仕事もしています」私は言った。
「そうですか」と先生は言った。それから、クスリの飲み方を説明した。クスリを、まえよりも増やすと言った。
「仕事のことは、病気が治ってから考えましょう」
 病院は住宅街のなかにあった。一番近い薬局まで、十分ぐらいかかる。私は急いで薬局に行って、閉まる直前になんとか、クスリを貰うことができた。とにかくそれで安心して、買い物をして帰ろうと思ったけど、でも急に、薬局の隣の不動産屋を見て、管理会社の人がカギを取り替えに来てしまったと思って、それで走って家に帰った。家には明かりが点いていた。やられた、と思った。管理会社が先に、私の家に来て、カギを取り替えてしまったのだ、と思った。でも大丈夫と、私は自分に言い聞かせた。とにかくもう、クスリを私は持っているのだ。管理会社の人も、私が、クスリを飲んで、体調がよくなったらまた、倉庫じゃないかもしれないけど、仕事をして、私は、ヴィトンのキーケース以外、とくに買うものもないので、家賃はきっちり払うから、とはっきり言えば安心するだろう。
 家には一輝がいた。管理会社の人じゃなくてほんとうによかった。私は安心して、泣きそうになって、靴を脱いでもしばらく玄関に立っていた。
 一輝はテーブルのまえで背中を屈めて、ビールを飲んでいた。テーブルのうえにはケンタッキーがたくさん置いてあった。
おかえり、と一輝は言った。そして私に、お金を渡した。一万円札の束だった。ちゃんと数えなかったけど、たぶん五十万以上あった。お金はしわしわのもあったし、向きもそろっていなかった。輪ゴムで縛ってあった。
一輝は明日、このお金を管理会社と、区役所に持って行くように言った。私はクスリの袋を見せた。私は、私が体調がよくなったら私が働くから、お金のことは大丈夫、と言った。
「それに、家にずっといればムリヤリ追い出されないし、区役所のお金は無視してれば時効になるよ」
 このお金で車を買って、旅行に行こうよ、と、私は言った。一輝は笑った。そして、ちゃんと管理会社と、役所に行ってね、と言い、私のグラスにビールを注いだ。
 寝ようかなと思っているとき、一輝のスマホが鳴った。一輝はバタンとドアを開けて、外に出て、外で誰かと話をしていた。部屋に戻ってくると一輝は、スウェットを脱いでチノパンに履き替えた。
「どこかに行くの」
「うん」一輝は言って、タバコに火をつけた。
「仕事?」
「そう」
 何分かして、台所の窓が、ぴかっと光った。ブンブンと車の音がする。一輝は立ち上がり、リュックを背負った。私は玄関から出て、一輝を見送ることにした。ミニバンの後ろのドアが開いていてなかに男の人が二人乗っていて、スマホを見ていたから、顔のあたりがぼんやり光っていた。
「行ってらっしゃい!」私が言うと、車のなかの人たちが、ちらっと私を見た。一輝がミニバンに乗ると、ドアは勝手にしまった。
「行ってらっしゃい!気を付けてね」私は車に向かって手を振った。

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