【note創作大賞2024応募作品】Monument(第19話)
幕間(2/2)
香澄(承前)
「あはは……やってくれるじゃないか。やっぱおまえ、見所あるわ」
妙子さんの手元でライターの炎は踊り続け、なかなか蚊取り線香に火を移せない。
「んで、そのダチョウ頭のケータロくんが、好きんなっちゃったわけだ」
「違います。どうしてそうなるんですか?」
「んじゃあ、巻き毛の毬野くん?」
もういい。
わたしは鉄階段の隅っこに、図書コーナーから掠めてきた雑誌を一冊挟むと腰を下ろした。
わたしの部屋には非常階段への出口があって、サムターンを覆う透明なカップを外すと、簡単に解錠できて外に出られた。
無論、禁止はされていたが、今夜は特別。妙子さんのお墨付きがある。
扉一枚。外は、別世界だ。
消毒の香りも、絶え間なく鳴る電子音も、廊下を渡ってくるささめきも、なにもない。
乾いた夜風は、さえないパジャマにも心地よく、空には十五夜前のお月さまが涼し気に浮かんでいた。
蚊取り線香を踊り場に据えると、妙子さんも、わたしの隣に腰かけてタバコを咥える。
「きれいだなあ。お月さん」
タバコの煙が、夜空に溶けた。
「まあ、なによりだったよ。おまえみたいなじゃじゃ馬にも、友達っぽいのができたみたいでさ」
「――うん」
月がわたしを、素直にうなずかせてくれた。
「喉が渇いた。なんか買ってくるけど、おまえははどうする?」
妙子さんが、タバコを揉み消す。
「わたしは、いいです」
「ん。すぐ戻る」
わたしは一人、月を見上げた。
今頃、あいつらはどうしているだろう。
もしかしたら、見上げていてくれるだろうか。
わたしと同じ、この月を。
◇
クチナシ。
記憶も定かでないほど幼かった頃、この山肌に張り付いた病棟の渡り廊下で、わたしが初めて「いいにおい」と評したのは、この花の香りだったと母はいう。
何を勘違いしたのか、以来わたしの家には、この灌木が絶えたためしがない。
またの名をクチナワナシ。
クチナワ――蛇くらいしか、その実を食べるものはないという。
純白と言うには程遠い、ドクダミを一回り大きくしたような一重の花弁。
薄気味悪い、昆虫みたいな、実の姿。
それでいて、その優雅な芳香は、控えめにその存在を主張する。
写生会で訪れた遊園地に、咲き誇るバラたち。
その群れの中にあって、ただ一人、わたしはわたしの居所を――クチナシを描き込んでしまわずにはいられなかった。
わたしは、いったいどうしたいのか。
やつらとともに在りたいのか、それとも一人で居たいのか。
かつてのわたしなら、迷うことなくこう言えたはずだ。
「友なぞ無用」と。
彼らは、長くても数カ月で病棟を後にする。
医師や看護師たちに見送られて。
花束を胸に抱き、そのほとんどは、両親と共に。
笑顔と拍手で盛大に、か、暗黙の内にひっそりと、かを別にすれば。
それが今はどうしたことか。
わたしは、いつのまにか囲まれていた。
わたしの座る、車室の席で。
お節介にも行動力にあふれ、心優しくも鬱陶しくてならない三人に。
緑いろの切符の端が、彼らのポケットの縁からのぞくとき、わたしはわたしに手渡された、小さな鼠いろのそれを、ポケットの奥深くへ押し込めた。
誰の目にも、触れないように。
「中途半端」は苦手だ。
だったが、私の手の内に、切り札はない。
ただただ、一方的援けを甘受する。
それこそが「かわいそうな優等生」を演じ続ける、わたしにふられた役割なのだ。
かりそめにも、彼らとともに往くのなら――その傍らに、あり続けようと思うのなら、わたしは、わたし自身を覆さねばならない。
あまりにも非力に過ぎる、自らの身と、行動とをもって。
「あんなに嫌がってたのに、どういう風の吹き回し?」
誕生会の支度を頼むと、喜色と不審を相半ばに、母はそう問い返した。
「だって歳のこと、ばれちゃうじゃん」
我ながら上手く切り返せたものだが、無論、これだけでことが足りるとは考えていない。
不足を埋めるためには、なにができる?
運動会のプログラムに目を通したが、早々にわたしはそれを投げ出した。
五年生女子の種目に、このわたしごときが割って入れる余地はない。
まずは、目の前のことから、ひとつひとつ片づけていこう。
両親からのプレゼント、ピアノはもう、届いている。
返礼に弾く、曲を選んだ。
わたし向きに、程よい長さの、その曲名は「見知らぬ国と人々について」。
旅するわたしの実感に、この曲調はぴったりと合った。
問題は「どのつらを提げて、三人を誘うか」にあった。
なにせ、ヒマワリの一件の直後である。
見事、わたしの正体を見破った、小癪なダチョウ頭は敬遠とさせていただこう。
唐変木は、論外だ。
黛さんと二人きりになる機会を見計らい、口を開いたその途端、わたしは異変に見舞われた。
ああ、そうとも。
そうこなくてはいけない。
さんざん三人の好意をあざ笑い、いじけた悪ふざけを繰り返してきた。
その報いは、あってしかるべき――これは天罰に他ならない。
その夜、一向に食欲のわかないわたしに、母が出してくれたのは栗きんとんだった。
「誕生会のデザートにね。試作してみたの。味見してみて」
お正月じゃあ、あるまいし。
舌に載せて驚いた。
「うふふ……ちょっとアレンジしてみたの。気に入った? この黄色も素敵でしょう。知ってる? これから色を取るんだよ」
母の手には――虫の死骸?!
のけぞるわたしに、母が告げた。
「きんとんの黄色はね、クチナシの実から色をとるの」
数日ぶりに戻った学校は、わたしなんかがいなくったって、いたって平常運転だった。
変わったことといったら、写生会の絵が、ずらりと廊下に貼られているくらいだ。
家庭科室への移動を前に、それを眺める。
一席は、クチナシを描き込んだわたしの絵で、次点は黛さんだった。
「体調は、もういいの?」
背中から声を掛けられて振り向くと、顔しか知らない同級生の一団。
「写生会ではありがとう。チケット、わたしたちの班で使わせてもらっちゃって」
あんなに楽しみにしていたはずの観覧車に、三人は誰も乗らなかった。
やつらはそれを、おくびにも出そうとしない。
うれしかったのか、くやしかったのか、恥ずかしかったのか。
定かでない気持ちのままに手にした、ふつつかな包丁は、わたし自身に返ってきた。
刃物でケガをするのは初めてだったが、こんなの、痛みのうちにも入らない。
黛さんが巻いてくれた、清潔な白の布巾が、みるみる赤く染まっていく。
が、まあ見慣れたものだ。これくらいの血なんか。
「ほら、胸より高く手を上げて」
黛さんに肘を支えられ、保健室へと歩いていく。
窓の外では、騎馬戦の練習をする六年生。
ケガを防ぐためだろう、皆、手足にサポーターをはめ、騎手の頭にも、それらしきものがある。
――これだ!
あったではないか。こんなにも近くに。わたしにでも紛れ込めそうな競技がひとつ。
ダチョウと唐変木の馬が担ぐ、女ったらしの優男。
あのうらなり程度でいいのなら――いや、ずっとましだ。このわたしが乗るほうが。
自然、緩んでいた口元を、わたしは引き締め直した。
「あはは……傑作だよ。それ」
門前払いは承知の上での相談に、ダチョウ頭は腹を抱えて笑い転げた。
「でもさ、練習はなしだよ。やってみせる自信はあるの?」
わたしは、スケッチブックをひろげて見せた。
「これでどう? 練習は全部、見学してるし、手順はすべてクロッキーで写した」
もちろん、自宅へ戻ればベッドの上でクッション相手に、練習は欠かしたことがない。
「本気なんだ?」
「当然でしょう。そうじゃなきゃ、あんたに頭なんか下げると思う?」
「そりゃ、ごもっとも。ちょっと時間くれない? 作戦、考えてみるからさ」
「ちゃんと考えなさいよね。『思いつきませんでした』なんて返事、聞きたくないから」
「へいへい。御意のままに」
こうして迎えた誕生会当日の朝、ダチョウから作戦のあらましを告げられた。
わたしにとっては、なによりのプレゼントだ。
だったが、それを上回るサプライズもあった。
思いがけない雨宿りでもらった、子供じみたヘアクリップと、もうひとつ。
リボンを解くと、現れたのは、一輪のクチナシを照らす三匹のホタル。
それを目にして、ようやくわたしは確信を持てた。
ずっと、一緒に往きたい。この三人と。
四人揃って、丘の草の中に戻って来たい。
切符の色を、緑に替えて。
そのために取り得る手段を、主治医は、わたしに告げていた。
父と母を説得し、命を賭けるに相応しいリスクは、この身に引き受けなければならないが。
その日の遅く、父の帰り待って、わたしはわたしの覚悟を告げた。
美しいマホガニーのピアノを前に、湯上りの髪にクリップを留め、胸に電気仕掛けのホタルの飾りを抱きしめて。
◇
妙子さんに注ぎ分けて貰ったコーラの泡は、紙コップの縁、ぎりぎりにまで膨らむと、小さくさわさわと音を立てながら半分ほどに鎮まった。
「月見にコーラってのも無粋だな。けど、付き合ってくれるっていうんなら、ありがたいよ」
「あの……この紙コップ、なんですけど」
「バカ。ティーサーバーのだよ。検体用なんかじゃないから安心しろ」
紙コップと、缶コーラの縁を合わせた。
恐る恐る、口に運ぶ。
喉がぴりぴりして、咳き込んだ。
「へっ。だと、思ったよ。初めてだろ? コーラなんて」
「平気、です」
「無理すんな。カルピちゅでも、ジューちゅでも、なんだって買ってきてやるぞ」
「結構です。子供じゃあ、あるまいし」
思い切りよく口にふくむと、鼻筋を抜ける刺激に、思わず目元を押さえ込む。
「んで、コーラ飲んでたのはケータロくん? それとも巻き毛の毬野くん?」
炭酸の圧に耐えきれず、喉を越し損ねたコーラが無様に滴った。
◇
保健室のドアが、律儀に三度、ノックされた。
入ってきた人の気配に、わたしはカーテンの隙間から外を覗く。
唐変木が、前髪をひねくりながら、突っ立っていた
「どうだった?」
そう訊きながら、わたしは胸をなでおろした。
もし、骨折でもしていたら、こんな包帯程度では済まないだろう。
「軽い肉離れ、だってさ。森ノ宮は?」
動悸もすっかりおさまって、空腹と闘いながら、退屈しきっていたところだ。
「なんともないよ。お昼は?」
「まだなんだ。佐伯先生は?」
ひっきりなしのけが人に、本部テントの救護所に行ったっきりで、戻ってこない。
「忙しくしてるみたい。ねえ、一緒にお昼にしない?」
『胸がつかえて、喉を通りそうにない』
そう言い張って、母に取り分けておいてもらったお弁当は、保健室の冷蔵庫の中だ。
「まだ、食べてなかったのか?!」
……これだよ。
これだから、お前は唐変木なんだ。
「うん。なかなか動悸が収まらなくって」
「ありがとう、森ノ宮。後でお母さんに、お礼言っといてくれな。『ごちそうさまでした。とってもおいしかったです』って」
遅い昼食を終える直前、顔を出した佐伯先生に念を押されて、唐変木はおとなしく、隣のベッドの上にいた。
「うん。ありがと。ねえ、なにが一番おいしかった?」
天井の蛍光灯を眺めながら、カーテン越しに訊いてみる。
「みんな、おいしかったよ」
「じゃなくて! どれかひとつ選んで」
お弁当の中には、ひとつだけ、わたしがこしらえたものが入っていた。
「うーん……そうだなあ。だったらやっぱ、きんとんかな。さっぱりしてて、あとひくんだよな。あれ」
「そう。伝えとく」
耳の下のあたりが、こそばゆい。
横で、やいのやいの言われながら作ったかいあって、色も味も、舌触りだって、母のお墨付はあったけど。
「――あのね……馨さん」
全身が震え出すほど、動悸があがった。
「わたし……手術、しようと思うんだ、この夏。そしたらね――そうしたらきっと、もっと一緒に、みんなと遊べるようになると思う」
返事は――ない。
なに、語っちゃってんだ、わたし。いきなり、こんな重たい話。
「ごめんなさい、毬野さん。へんなこと言っちゃった。気にしないで。今のは忘れて――って、毬野さん。毬野、さん?」
耳をそばだてると、カーテンの向こうから、規則正しい寝息が聞こえる。
胸元に溜まった熱気が、ぽっかりと宙に浮かんで霧消した。
「唐変木っ!」
わたしはケットを被り、寝がえりを打った。
隣のベッドに、背が向くように。
◇
「――にしても、騎馬戦とは、無茶やらかしたな。怒ってたぞ、美佳のやつ」
小児科外来の看護師、美佳さん。
わたしが背丈を追い抜いたものだから、ここのところちょっと、当たりがきつくなったような気がしないでもない。
「見かけたら、詫び、入れとけよ」
コーラの缶を傾けた妙子さんの喉が、ゴクりっと鳴った。
「ところでさ、そのホタルの飾り物、見せてくれよ。持ってきてんだろ?」
「修理、お願いしてるんです。電池替えたら、壊しちゃったみたいで」
「ふーん」
二本目のタバコに、火が点る。
妙子さんが注ぎ足してくれたコーラの泡が落ちつくと、紙コップの真ん中には、金色の月が揺れていた。
「……ねえ、妙子さん」
「んー?」
「できますよね? 手術」
「うーん。それは先生が決めること、だからなあ」
妙子さんが、頭を掻いた。
「あの、わたし……わたしまた、目、覚ませますよね……今度も、きっと」
コップの中の、月が震えた。
「よせやい。このあたしが、ついてんだぞ」
妙子さんの手が、わたしの頭をかき寄せた。
「任せとけって。何があったって、きっと叩き起こしてやるからさ。心配すんな」
妙子さんの肩に、身を任せる。
タバコの香りが、頼もしかった。
月の光は、蒼く高く、あまねく世界を照らしていた。
(つづく)
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