【note創作大賞2024応募作品】Monument(第22話)
第七章(1/3)
眞琴
「もうじきだよ。眞琴っちゃん。あと少し」
前を行く啓太郎が、呼吸の合間にわたしを気遣う。
「うん」
と、返すのが、精一杯になった。
急な登りを終えると水路は次第に浅くなり、もうわたしですら、ひざを屈めなければ歩けない。
ちょっぴり酸欠気味なのか、頭の芯がぼおっとなる。
「ついたぞ」
先頭の毬野が、足下を照らすランタンを消した。
啓太郎が背負うクチナシが、わたしの目の前、水路の床に降ろされる。
暗闇に目が慣れてくると、二人の頭の少し先で、天井から淡い光が漏れていた。
啓太郎の背中の向こうで、毬野がしきりに動いている。
そのガサゴソした気配が止んだ。
啓太郎の腰が浮く。
「一、二ぃ―のぉ――」
三で、二人は光の漏れ込む天井――グレーチングを持ち上げた。
新鮮な空気が、どっと流れ込んでくる。心地よい草花の香りを連れて。
啓太郎が立ち上がり、水路の外に頭を出した。
「オーケー、毬ちゃん」
「ん、ほら」
「サンキュ」
一度、弾みを付けて、啓太郎が、するりと地上に抜け出した。
降ろしていったクチナシの鉢を挟んで、手を踏み台の形に組んだまま、毬野は天を睨んでいる。
さっきの物音は狭い水路の中、四苦八苦して方向を変える音だったようだ。
「大丈夫。問題なし」
天井の開口から、啓太郎の腕が、ぬっと現れ、親指を立てた。
「よし。クチナシからだ。いくぞ」
突き出た腕が、親指と人差し指で輪を作った。
わたしが押して、毬野は引っ張って、クチナシの苗木を開口部の真下まで移動する。
毬野が、啓太郎の手首を取って、背負子に繋がる紐を握らせた。
苗木が水路の底を離れる。
花芽を痛めてしまわぬように、わたしと毬野で根を支え、啓太郎がゆっくりと引き上げていく。
毬野の顎に汗が光った。
「つぎは、おまえだ」
「うん。ごめん」
毬野の両手を踏み台に、勢いをつけて飛び上がる。
啓太郎に援けられて、なんとかかんとか這い出せた。
「時間はある。少し休んでから、立ち上がれ。水路のコンクリートの上以外、手も足も降ろすなよ」
開口から、毬野の声がエコーした。
深呼吸を繰り返す。
バラの香りと味がした。
闇でバランスを惑わされぬよう、慎重に立ち上がって周囲をみる。
雑木林の懐に抱かれて、バラ園は闇に沈んでいた。
「ほら、こっからはまた、背負っていくんでしょ?」
啓太郎が、クチナシのハーネスをわたしに向けた。
両腕を通す。
それはさっきより、心持ち重みを増したようで、ずっしりと肩に載っかった。
啓太郎が手を貸して、毬野を水路から引き上げる。
二人がグレーチングを元に戻した。
ランタンが、毬野から啓太郎に、啓太郎からわたしに手渡される。
ここからは、わたしが先頭だ。
ランタンのスイッチを押す。
思わぬ明るさに、慌てて灯りを調節した。
バラ園へと連なる、水路のコンクリート。
その上が丸く、赤色に照らしだされた。
「行くよ」
無言のまま点頭する二人を背に、水路の蓋の上を歩き出す。
周囲を圧する闇の中、ちいさな赤い灯火だけが、わたしたちの行く手を照らしていた。
馨
一列に水路の上を往き、駐車場から県道へと連なる、アスファルトの道を踏む。
途中、左へ折れて木立の間――獣道を抜けて、木製の土留階段を上り、バラ園の石階段の上にでた。
眞琴の手招きに従い、階段の隅に身を寄せる。
かつて遊園地へと繋がっていた橋は、ここで断ち切られ、転落防止の簡易フェンス越しに、今さっき歩いてきたアスファルトの道が見通せた。
光が漏れてしまわぬように、手で覆って腕時計の発光ボタンを押す。ここまでは順調だ。
「啓太郎は、ここで道路の見張り。いい?」
「うん。わかった」
「警備が来るとしたら、必ずこの道を登ってくる。頼んだぞ、麦」
「毬野は、わたしと一緒に」
「ああ――行って来る」
「作業が済んだら、すぐ戻ってくるから。ここ、お願いね。啓太郎」
眞琴に続いて石階段を降りた。
管理棟の前を通り抜け、雑木林に沿って小道を往く。
温室を過ぎたところで眞琴と別れ、道具小屋へ向かった。
足元の土は、雨に濡れて柔らかい。
足跡は残ってしまうだろうが、僕らが履いている長靴は、ボランティアで使っているものと同じだ。
誰も、侵入者が付けたものとは思うまい。
小屋に鍵は、掛かっていない。
道具は目立たぬよう片隅にまとめて、ベニヤ板の切れ端で隠しておいた。
スコップと、バケツに入れた移植ゴテに、ガーデンレーキ。
まず、入り用なのは、こいつらだ。
左手にスコップ、右手にバケツをつかんで、眞琴の元へ向かう。
現地に着くと、もうクチナシの開梱は済んでいた。
眞琴と場所を確かめ合って、スコップの先端を土に当てがい、じわりっ、と足を載せて踏み込む。
思っていたより、感触が固い。
一回、二回、三回。
繰り返すうち、それでも穴は広がっていく。
十回ほど土を掘り返したところで、眞琴が苗木をあてがった。
微調整は、移植ゴテの方が早そうだ。
「後はわたしが。毬野、水、お願い」
スコップ片手に道具小屋へ取って返し、今度はポリタンクを持ち出すと水場へ向かう。
水を溜める間にスコップを洗って、小屋へ戻した。
腕時計を確かめる。
計画は、十分弱ほど遅れていたが、想定の範囲内だ。
「大丈夫。順調だ」
自分に、そう言い聞かせながら、僕は水場へと引き返した。
眞琴
毬野が運んできてくれた水をかけると、根の周囲に丸く窪みができた。
土は入念に詰めておいたはず、なのに。
毬野に苗木を支えてもらい、土を両手でかき集め、もう一度、しっかり詰め直す。
バラの苗木の移植だったら、ボラで手伝ったことがある。
なのに、暗いところでは、やはり勝手が違うらしい。
同じことを三度繰り返して、ようやく土がしっかりと苗木を支えた。
残土を、移植ゴテでバケツに集める。
それを毬野が、雑木林に撒いてくる間に、わたしはガーデンレーキで辺りを均した。
なるべく、自然に。痕跡は、残したくない。
が、ランタンの低い明かりのせいもあってか、なんどレーキで掻いてみても、土跡の凹凸が不自然に残った。
手箒で丹念に残土を集め、クチナシの根元に押し込める。
手のひらで地面を撫でて適当に乱し、ランタンの明かりでもう一度、周囲を確かめた。
土跡は一応、落ちついて見える。
わたしの目の前に、苗木は真っ直ぐ、しっかりと天を向いて立っていた。
終わった。
――終わったんだ。
こんなにも、あっけなく。
わたしはクチナシを前に、両ひざをついた。
大きく膨らんだつぼみが一つ、夜風に吹かれて揺れている。
土で汚れた軍手を外し、両手を合わせて目を瞑った。
あと数日で、白く儚い花が綻ぶ。
そして優雅に甘く、優しい香りを辺りに漂わせることだろう。
盛りをすぎたバラ園の隅で、ひっそりと。誰ひとりとして、知る人なく。
振り仰いだ空には、無数の星が瞬いていた。
こんなにも星の美しい晩があったのか。この町にも。
星が、潤んだ。
首筋を、熱いものが伝った。
ずっと、わたしの心を占めていたもの。
それが夜空に、解き放たれた。
馨
土を捨てて戻ると、眞琴は天を仰いで、クチナシを前に跪いていた。
その瞳に星影が宿ると、ゆっくりと膨らみ、そして流れた。
ひめやかな嗚咽。
溢れ出したそれは、やがて号泣へと変わった。
僕にできそうなことは、もう、なにもない。
バケツの中に道具を集め、ランタンで地面を確かめる。
痕跡は、丁寧に消してあった。
道具から土を洗い落として道具小屋に戻し、石階段を登り切ったところで、耳をすませた。
物音は、ない。
「麦、待たせたな。様子はどうだ?」
「ん。異常なし。早かったね」
律儀に道路を向いたまま、麦が続けた。
「眞琴っちゃんは?」
「うん。しばらく、一人にしてやろう、と思って」
「――そっか」
予定外の行動だったが、麦には一言、それだけで通じた。
なんの物音も聞こえない。
虫の音も。
鳥の声も。
街のざわめきさえも。
「毬ちゃん」
「ん?」
かすかな光が瞬いた。
まただ――もう一度。
「毬ちゃん、これって」
「――ホタル、か?」
ホタルの発光のピークは、一晩に三度ある。
その最後の時間帯に、さしかかろうとしているらしい。
それにしても、こんなところに、なぜ?
いや。人間が放棄した遊園地の中。だからこそ、というべきか。
光は明滅しながら同調し、その数を増していく。
しばし、時を忘れて見入ってしまった。
だからこそ、気がついた。
「麦?!」
「なんだろう。あれ?」
動いている。
ホタルの光が。
細波を描いて。
あちらでも、こちらでも。
打ち寄せて来る。僕らのいる、丘に向かって。
眞琴
夜風に頬を撫でられて、わたしは我に返った。
ちょっぴり腫れぼったい、まぶたを開く。
涙が渇くと、満天の星空は、変わることなく頭上にあった。
目の前の、クチナシの樹に向き直る。
もう一度、合わせた両手に、つぼみが揺れてうなずき返した。
ひざについた土をはたいて、辺りを見回す。
道具はすべて片付いていて、残っているのは、わたしとクチナシ、それとランタンだけだった。
「気を遣わせちゃったかな」
それにしても、なんて星のいい晩だろう。
シルエットになった梢の上で、煌々と輝く赤い星がアンタレスだと判るまで、わたしは、しばし時間を要した。
と、その真下。石階段に灯影が走る。
転がるように駆けて来たのは、毬野と啓太郎。
「バカ! 僕らじゃなかったらどうするんだ?! 物音がしたら隠れろって言ってあっただろ?」
反駁する間もなく、啓太郎が耳元に口を寄せてくる。
「なんだか妙なんだ。さっさと引き上げよう」
毬野が辺りを見回した。
「行くぞ。忘れ物はないな?」
「うん」
「そっちの灯かりは消せ。僕が先頭をいく。麦、しんがりを頼む」
訳もわからぬまま、毬野の背中を追いかける。
「ねえ、なにかあったの?」
「何か居るんだ。園内に」
何か?
「動物……だと思うけど、数が尋常じゃない」
石階段を駆け上り、木立を縫う。
獣道を下りた道路の手前で、わたしたちは茂みに身を潜めた。
「眞琴。ほら、あれ」
毬野に言われるまでもなく、わたしにも見えた。
「なに、これ。ホタル?」
「よく見て、眞琴っちゃん。ほら、動いた。また。あっちでも!」
「ホタルが、何者かに追われて動いてるんだ」
不用意に近づくとホタルはふわりと舞い上がり、少し先まで飛んではまた、羽を休める。
光の動きは、その様子によく似ていた。
でも。
「どうする毬ちゃん? あっちもだ」
水路への入り口がある駐車場。
その奥でも、ホタルの光は、ひたひたと揺らめいていた。
「行こう。背を低くして、ついてこい」
茂みから毬野が飛び出した。
遅れまいと、わたしも後を追う。
啓太郎が続いた。
毬野は真っ直ぐに道路を渡り、向かいの斜面を登り始める。
遊園地の中へ、逃れるつもりでいるらしい。
道路を渡りながら、わたしも左右を――県道へ続く道と、駐車場の方を見た。
そのどちらにも、ホタルは群れを成している。丘の斜面に、そして駐車場を囲う雑木林に。
……そんな、バカな。
わたしたちは、見られるはずのないものを、目にしている。
ホタルはもう、絶滅を危ぶまれていて、科学館が管理する水場で、かろうじて保護されていた。
野生の、こんなホタルの大群なんて、ここに居ていいはずがない。
少なくとも、この辺りには。
馨
何が起こっているのかは、判らない。
が、だからこそ僕は迷わず、プランBを採った。
眞琴の資料、警備計画に依るならば、園に異常が感知されると、警備は車両で駆け付けて駐車場へ乗り入れ、まずはバラ園の中を探索する。
素直に往路を戻ろうとすれば、その動線と交錯しかねない。
車両が駐車場へ入ったのを確かめてから、その裏をかいて遊園地の中へ侵入し、バラ園とは反対にボート池のほとりから水路に戻る。これがプランBだった。
が、僕らが目にしたのは警備車両のライトではなく、一面のホタルと、それを動かす何者かの影だ。
「警備員が、訓練された犬を放ったのではないか?」
というのが、麦の見解だった。
たしかに犬が通ったら、ホタルたちは、あんなふうに動くだろう。
けれど……。
走りながら、僕は考えた。
眞琴の資料に、そんな記述はなかったし、今時、犬なんて使うだろうか?
なにより、それが道路を駆けてくるのならまだしも、遊園地の法面をゆっくりと登ってくる理由がわからない。
相手が、人でないことだけは、明らかだ。
さっき見た光の中に、人の持つ灯り――懐中電灯やヘッドランプらしきものは見当たらなかった。
暗夜の中、僕らだって灯かりなしには行動できない。
たとえ訓練された警備員、だったとしても、その点に変わりはないはずだ。
暗闇で視界を保つ装置――暗視ゴーグル、なんてものがあることくらいは知っていた。
でも、仮にそんなものが使われていたなら、僕らはとっくに見つかっている。
出頭というか、投降というか。
少なくとも、なんらかの呼びかけくらいは、あったって良さそうだ。
いや、そもそも……。
あれは、ほんとうにホタル、なのか?
「集団ヒステリー」。
嫌な言葉が、頭をよぎった。
僕らは今、日常からは、かけ離れた行動をとっている。
バラ園潜入の緊張感から恐慌をきたし、自らが招いた幻影に追いまわされて、逃げ惑っているのではなかろうか。
チリチリと痛む脇腹に堪えて遊園地を突っ切り、野外ホールを抜けてボート池に至る坂の途中。
木立の合間からのぞく水面を囲んで、ここにもホタルは群れを成し、揺らめいていた。
屋外ホールまで引き返し、坂道を登りきると、出し抜けに空が開けた。
この先に、登る道は、もうない。
僕たちは、丘の頂――入口広場のはずれにいた。
ことさら姿勢を低くして、前方をうかがう。
ここにホタルの気配はない。
かわりに、身を隠してくれるものも、もう、何もなかった。
僕は、最後の手段を選んだ。
大階段を中ほどまで降りると、残土置場――かつての大プールへと至る脇道がある。
一昨日、眞琴と遊園地内を探索した。その時と同じ経路だ。
残土の陰に身を隠し、事態の推移を見極めた後、再び駐車場かボート池を目指す。
限られた時間を無にしてしまうが、これが僕らに残された、たった一つの道だった。
「行くぞ。遅れるな」
姿勢を低くして、先頭を進んだ。
背中が、冷たい汗で濡れている。
僕たちを追い立てる、光の蠢き。
その正体は、いったいなんなのか?
ホタルと小動物だったとしたら、こちらから近づけば逃げ散ってくれるのかもしれない。
けれど、どうしてか、それを選択する勇気がわかない。
「ねえ、毬ちゃん」
眞琴の後ろから、啓太郎が僕に呼びかけた。
「なんか、変だよ。こんなに夜空が暗いなんて」
啓太郎の言う通りだった。
僕らの頭上には、人里離れた山奥か高原――さもなければプラネタリウムくらいでしかお目にかかれない、そんな星空が広がっていた。
広場を横切り、大階段に至って、僕は棒立ちになった。
眞琴も、となりで立ちすくむ。
啓太郎の喉が、ゴクリっと鳴った。
「これは……」
大階段から、見下ろせるはずの街並み。
そこに灯りは、ひとつもなかった。
満天の星空が接する地平の果てまで闇に沈み、車の往来はおろか、街灯ひとつ、信号機すら見当たらない。
真の闇がぽっかりと、大地に口を開けていた。
(つづく)