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【note創作大賞2024応募作品】Monument(第11話)

第三章(4/4)

眞琴

 通り雨が過ぎるのを待って、あたしは啓太郎と昇降口を出た。

「うわあーっ! 虹だ。眞琴っちゃん。ほら、ほら!」
「うん、そうだね。急ぐよ、啓太郎」
 黒雲をバックに、二重に架かっていた。

 けれど、あたしはそんなことより、昇降口の時計の方が気になった。針はもう、二時を少し過ぎている。

 森ノ宮さんのバースデーパーティーは、二時半からだ。

 今日がはじめての訪問だから、彼女の家まで、どれくらいかかるのか見当がつかない。間に合わせるには、ひたすら先を急いで、遅れてしまうよりは早く着くよう心がけるしかなかった。

 あと少しで駆け足になってしまいそうなほど、せわしなく足を動かすあたしに、ここ数ヶ月ですっかり背を伸ばした啓太郎は、余裕のある足取りでついてくる。
 そんな、つまらないことまでが癪に障った。


 あたしの歯車は、今朝から上手くかみ合っていない。

 今日はお呼ばれだったから、とっておきの夏のスカートと決めていた。
 なのに肝心のスカートが、タンスの中に見当たらない。
 朝の忙しい時間だ。母に頼るのは諦めて、自分で探すことにした。
 押し入れから衣装ケースを掘り出すと、スカートはあっさり見つかった。

 ここからが、いけない。

 着替えを済ませ、ケースを押し入れに戻そうとしたら、スカートの裾飾りが撚れてしまった。
 ケースのひびに、飾り糸を引っ掛けてしまっていたらしい。
 直そうと苦闘する間にも、容赦なく登校時間は迫ってくる。
 不承不承、あたしはジーンズに履き替えた。プラネタリウムの時と、同じやつだ。

 そのジーンズにも、絵の具のシミをつけてしまった。生乾きの応援ボードでバランスを崩し、うっかりひざを着いたのだ。

 なんとかしようと、ティッシュを濡らして拭いたのが、なおよくなかった。
 啓太郎がハンダをやり直し、理科準備室から戻ってもまだ、あたしは諦めきれずに時間を浪費し続けていた。

 焦って取りかかった電気ホタルの包装が上手くいってくれるはずもなく、角の折り返しを一度で決められずに、やり直した跡が見えていた。
 リボンがきれいに掛かってくれたのが、せめてもの救いだ。

 言われなくたって、わかってる。
 全部、あたしのせいだ。

 スカートで行くのなら、前の晩のうちに用意しておくべきだった。
 作業には熱中してしまうから、体操着なんか、着たまま乾かしてしまえばよかった。
 むきになって「応援ボードを仕上げる」なんて言い出さなければ、みんなそろって森ノ宮さんの家へ向かえた。


 雨上がりの水たまりで、これ以上シミを増やさないよう気をつけながら、先を急ぐ。額に浮く汗を、ハンカチで拭いながら。

 ――そうだ。さっきの通り雨。
 毬野と森ノ宮さんは、どうしただろう?

 あんなに急な降り方をされたら、雨具を身につけるどころか、傘をさす間にずぶ濡れだ。

 あたしは、あたしのヘマに腹を立てるのに夢中になって、今の今まで二人がどうやって、あの土砂降りをやり過ごしたのか、思いやることすらできていなかった。


 踏切を前に、無情にも警報は鳴り始め、遮断機が下りてくる。

 急いでいるときに限って。
 あたしは、心の中で毒づいた。

「ねえ、眞琴っちゃんはさあ」
 電車が来る方を眺めながら、啓太郎がのんびりした口調で続けた。
「どう思ってんの? 香澄ちゃんのこと」
「どう、って……」
 探すまでもないはずの言葉を、見つけ出すのに手間取った。
「友達に決まってるじゃない」
「ふーん。ホントにホント?」
「あたりまえでしょう」


 ほんとは、とっくに気づいていた。

 あたしと、彼女との間にある溝。そのあまりにも深く遠い隔たりに。

 あたしが居たはずの場所に、森ノ宮さんは居た。

 啓太郎の隣に。
 毬野と並んで。
 当然のように。
 ずっと以前から、そうだったみたいに。

 森ノ宮さんのせいに、するつもりはない。
 啓太郎のせいでもなければ、もちろん毬野のせいでもない。
 ただの自然な成り行きだ。

 誰も、悪くない。誰も、責めることはできない。

 どれほど、そう自分に言って聞かせたことか。
 なのにあたしは、崩れていくあたし自身を取り繕えなくなっていた。

 どこにも、やり場のない気持ち。
 それは、心の奥底に、ひっそり層を成していく。
 汚れた筆洗いの水みたいに、上っ面だけ澄ましていても、ひとたびかき混ぜられたなら。
 灰色く濁った、醜いおりが浮いてくる。


 先週の家庭科。調理実習がそうだった。

 メニューは、カレーとポテトサラダ。
 じゃんけんに勝った啓太郎はニンジンを選び、負けた毬野はタマネギを押しつけられて、あたしは森ノ宮さんとジャガイモをむく手はずになった。

 あたしたちは迷わず包丁を手にした。
 共働きの両親の家事を手伝って、それが当たり前だったから。
 あたしたちに倣って、森ノ宮さんも包丁を構えた。

 一目でわかる。刃物なんか、一度も扱ったことのない手つきだ。

 どうしよう?
 ピーラーはある。
 一緒にそれを使おうか。

 迷っている間に、家庭科室のなまくら包丁はジャガイモの上で滑ってしまい、刃が森ノ宮さんの左手に触れた。

「見せて」

 包丁は親指の付け根を、浅い角度で削いでいた。血は皮膚を持ち上げて、みるみるうちに湧き出してくる。

 ちょっとした意地悪のつもりだったのか、面白半分だったのか。
 それはあたしにもわからない。
 確実なのは、ただひとつ。
 見て見ぬふりなんかしなければ、させなくてもいいケガだった。

 保健室へ付き添う廊下を、あたしはずっと俯いたまま歩いた。

 お詫びの言葉が、ようやく整う。
 それを口しようとした瞬間、彼女の表情を目の当たりにして、あたしは総毛立った。

 森ノ宮さんは、笑っていた。
 泣くでもなく、痛がるでもなく、涙ひとつこぼすでもなく。
 傷口を押さえた真新しい布巾を、滴る朱の色に染めながら。


 遮断機が、上がった。

「眞琴っちゃんさあ。友達んちに遊びに行く、なあんて顔してないよ」

 両手で頬に触れてみた。
 冷たく、かちかちで、ごわごわだ。

 ここまでの道のりを、どんな顔をして歩いて来たのか。

「そんな難しい顔したまんまじゃあ、香澄ちゃんもお母さんも、びっくりしちゃうんじゃあないかなあ」
 いつの間にか前を行く啓太郎が、背中越しにつづけた。
「無理してまで友達のふりなんか、することないんじゃあないの?」
「――そんなこと。そんな風にみえるの? 啓太郎」
「うん。まあね」
「……そう」
「まっ、もうここまで来ちゃったんだしさ。今日のところは覚悟を決めたら?」

 ため息がもれた。

「啓太郎はどうなの? 森ノ宮さんと」
「おれ? おれはほら、この通り。たぶんもう、友達にはなれたかな」
「そうなんだ。でも、どうして?」
「二人っきりの秘密があるから」
「秘密? なにそれ」
「秘密は秘密。って、あそこじゃないかな。香澄ちゃんち」

 坂道の先に、目印だと伝えられた、茶色い大きな屋根が見えた。森ノ宮さんのお母さんの、赤い車も停まっている。

「ほら、笑お。今日のところは造ってでもいいからさ。ねっ」
「わかった。ごめんね、啓太郎。ありがと」
 両手で頬を揉みほぐす。
 たぶん笑えた――だろうと思う。
「うん。じゃ、これ。お願いね」
 ずっと抱えてきてくれた紙袋――電気ホタルを胸元に押しつけるなり、啓太郎は背中に回り込むと、あたしの両肩に手を添えた。

 啓太郎に押されて歩く。
 肩から伝わる温もりが、毛羽立つ気持ちを、ほんのちょっぴりなだめてくれた。

 それは、広い家だった。敷地はたぶん、父の工場と、ほとんど変わりがないだろう。

 道路から引っ込んだ門の左には、路面から少し高くなった小さな花壇。
 右側の門柱にはインターホンがあったけど、押したボタンに応答はなく、かわりに玄関からお母さんが飛び出してきて、森ノ宮とぼくを迎えてくれた。

 門から玄関まではスロープで、ドアは電動で開閉できた。

 戸はすべて、縦に長い把手の付いた引き戸で、鴨居から吊り下げられている。  
 床にはレールも敷居もない。

 小さなエレベーターまであったけど、「今日は調子がいいから」と、森ノ宮は、とんとんと階段を上がっていってしまった。

 通された応接間の、校長室みたいなソファの上で、ぼくはひとり、さっきの出来事を反芻していた。

「馨さんっ!」
 と、森ノ宮はぼくを、そう呼んだ。
 ぼくも、自然に応えていた。
「香澄っ!」
 任せたぞ……って。

 耳がカッと熱を持った。
 気をそらそうと部屋を見回す。

 いかにも新築らしい、木の香りがした。

 壁際には明るい茶色のオルガンがあって、シャンデリアが映り込んでいる。
 広い庭に面して掃き出し窓が続き、芝生はきれいに刈り込まれていた。
 斜面に擁壁を構えた土地らしく、隣家は見えない。
 ひらけた空には、灰色の雲が足早に流れていた。

 掛時計は、二時過ぎだ。
 眞琴と麦は、学校で雨を避けたろう。到着は二時半、ギリギリになる。


 飲み物を運んできてくれたお母さんが、ぼくの斜向かいに座った。

「学校では香澄、どんなふうですか。あの子、家ではなにも話してくれなくて」

 褒めちぎるのは簡単だった。
 でも、お母さんが知りたいのは、たぶん素顔の森ノ宮だろう。けれど森ノ宮にだってきっと、お母さんには知られたくないことがある。

 ぼくは思案を巡らせて、写生会で助けてもらったときのことから話し始めた。

 絵が上手で、しかも速いこと。
 体育を見学する間にも、クロッキーを欠かさないこと。
 運動会の、応援ボードのデザインを、眞琴と一緒に考案したこと。

 ただひとつ、苦手は調理実習で……でも、包丁で手を切った時も、落ち着いていたこと。

「あの左手の傷、包丁だったのね。あの子ったらなんにも言ってくれなくて……。うーん。でも、料理が苦手って、どうなのかしら。家の中のことなんか、させたことなかったし、特訓しなきゃあダメかなあ」

 少し、調子に乗りすぎた。

 話の接ぎ穂を探そうと、アイスコーヒーのストローを咥える。

「ところで。ねえ、毬野くん。どう思う。香澄のこと?」
 さっきの指輪が頭をよぎり、コーヒーを吹き出しかけた。
「ごめんね。びっくりさせちゃった?」

「もう、お母さんっ! なに話してるの!!」

 森ノ宮は、紺色のカーディガンから、真っ白くてふわふわの服に着替えていた。胸元を飾る刺繍に、森ノ宮の黒い髪が流れる。

「まだ、支度だって、ぜんぜんじゃない。早くしないと――って、ほらあ、来ちゃったあ」

 気まずくなりかけた空気を、インターホンが助けてくれた。
 眞琴と啓太郎に違いない。

「わたしが迎えに出るから、お母さんは支度、急いでよね」


 今日のごちそうは、お母さんお得意のイタリア料理だった。

 ひとつ料理が出るたびに、
「なになには、食べられる?」
「これこれが入っているんだけれど、大丈夫?」
 なんて、二人掛かりで尋ねてくれる。

 料理はもちろん、材料もちんぷんかんぷんで、そのたびに森ノ宮とお母さんが、洋風のお好み焼きみたいなものだ、とか、シソみたいな香味のある葉だ、とか、ぼくらへの説明に苦心した。
 それがおかしくて、なにより料理がおいしくて、ぼくらは大いに食べて大いに笑った。

 デザートにだけ、ぼくにも見知ったものがでた。
 栗きんとんだ。
 お正月の食べ物かと思っていたけど、森ノ宮の好物だという。確か写生会のときにも、先生にそんなことを言っていた。

 スプーンですくい、口に含むと、甘酸っぱい。
 お節の栗きんとんとは、ぜんぜん違う。

「リンゴをすりおろしてね、レモンで味を調えたの。お口に合ってよかったわ」
 と、お母さん。
「クチナシの実で色を付けるの。知ってた?」
 そう言って、窓を開け放った森ノ宮が指さす先には、棚に鉢植えがずらりと並ぶ。
 花がたくさん、ついていた。つやのある緑の葉陰に、ひっそりと白く。

 電気ホタルで、眞琴が苦心した花と一緒だ。
 温もりのある白は、森ノ宮のふわふわの服の色と、よく似ていた。

 窓から吹き込む風が薫った。
「いい香りがするでしょう? これもクチナシのにおいなんだよ」


 その日、森ノ宮は二つの贈り物をもらった。

 ひとつは、ぼくらの造った電気ホタルで、もうひとつは最初から応接間にあった。オルガンだと思っていたのは、平べったい形のピアノだった。

「お礼に」

 森ノ宮は、美しい木目が走る蓋を開いて、鍵盤を前に姿勢を正す。
 ピアノに載せた、電気ホタルにスイッチが入った。
 淡い緑の明滅が、収束していく。

 演奏が、始まった。

 どこか遠くの街を、どこまでも歩く。
 そんな光景がまぶたに浮かんだ。
 もっと、ずっと聴いていたくなる。そんな短い曲だった。


「今日は、わたしの誕生会に来てくれて、ありがとう。お母さんも、支度、ありがとう。友達に祝っていただく誕生日なんて、今日が生まれて初めて」

 呼吸が整わないらしい胸に両手を重ね、彼女は深くお辞儀をすると、息を継いだ。

「それとね。ひとつ、内緒にしていたことあります。今日、わたしは十二歳になりました。ほんとうは、みんなよりいっこ年上なんだ。今まで黙っていて、ごめんなさい」


 六月の夕暮れは、どこか穏やかで、のんびりとしていて、西の低い空には名残の朱色が薄ぼんやりと留まっていた。

 帰り道、ぼくらは何度も森ノ宮を振り返った。
 森ノ宮とお母さんは、門の前からずっと手を振り続けてくれた。
 坂道を下るぼくたちから、二人の影はだんだんと小さくなり、やがて稜線に隠れて消えた。


 森ノ宮の家には車があって、学校までの送迎ができる。
 玄関にはスロープがあって、家のなかにはエレベーターだってある。
 広々とした間取りで、車椅子で生活しても、たぶん不自由はないだろう。

 ぼくだって将来、結婚もするだろうし、そうなれば子供だって生まれるかも知れない。

 もしも、その子に病気があったら……。

 家は? 車は? エレベーターは?
 入院や治療にかかる費用は?

 ぼくにはきっと、なにも用意できない。
 今のままの、この「ぼく」のままでは。

       ◇

 その日、胸のずっと奥底に、堅く小さい種が根付いたことを、その頃の僕はまだ、気づけずにいた。

(つづく)

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