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小説

 彼女が、もう別れようと言ったのは夕食を食べている最中だった。
 僕はテレビのバラエティ番組を見ながら、なるほどねと応えた。言葉の変なキャッチボールだ。
 彼女「別れよう」→ 僕「なるほどね」
 僕は、なんとなくわかっていた。一番最初に口に運んだミネストローネスープ(彼女が作ったものだ)が、なんだか少し薄い味付けになっているのをあえて無視したが思えばこれがサインだったのだと思う。
 何か大きなことを言うときは、必ず小さいところに綻びが出る。彼女がしてきた数えきれないほどの決心が、今日のミネストローネスープに出たというわけだ。「なるほどね」
 テレビの中でひな壇の芸人が騒いでいた。ベテランの司会者が自分のつまらなさを隠すように大きな笑い声を響かせていた。
「ねぇ、なんで僕と別れようと思ったか聞いていい?」
「荷物も纏めたよ」
 またしても会話のキャッチボールができない。
 僕「聞いていい?」→ 彼女「荷物も纏めたよ」
 彼女の視線は僕の後ろを見ていた。振り向いて確認すると、ニトリで買ったオーブンレンジを積んだ棚の元に黒色の大きなボストンバッグが膨らんでそこにあった。僕等が旅行で行くときに彼女がいつも愛用していたバッグだ。どうやら出発準備は完了というわけだった。
「会話をしよう」
「上手くいかないよ」
「そんなことない」
「今まで上手くいった試しがないわ」
「そんなことないって」
「今だって、できていない」
 彼女はミネストローネスープを口に運んだ。彼女の銀の大口スプーンに僕の顔がちらりと映った。
 僕は、ミネストローネスープを見ていた。「ねえ、今あなたは何を見ているの?」
 正直に言って、と彼女が言った。君を見ているよ、と僕が言うと、彼女は疲れたように首を振った。
 番組はCMに入っていた。10代の若手女優が飲料水を飲みながら、その喉元が画面一杯に映された後、女優は屈託のない笑顔で額の汗を手の甲で拭いた。
 ペットボトル飲料水のCMだった。僕は、ペットボトル飲料水をめったに買うことはなかったが、それは彼女が作ってくれる自家製のお茶を水筒で持ち運んでいるからだ、とふと気付いた。
 綺麗な女優が飲んでいるそれを見ていたらどうも同じものを買って飲んでみたくなる。僕は我慢しているんだと思っていたけれど、どうも間違っていたのだろう、と思った。
 僕は正直に言った。彼女よりもミネストローネスープの味が気になっていた。
「ねぇ、このミネストローネスープの味薄くない?」
「正直ね」
「……今からでもやり直せるかな?」
「ツーアウトだから、もう多分厳しいわ」
「はは。君、野球なんて詳しくなかったじゃんか」
「あなたと一緒に沢山野球場に行ったじゃない。嫌でもルールぐらい理解するよ」
 確かに、と僕は頷いた。彼女は、さてと言って立ち上がった。食卓には、まだミネストローネスープもご飯もガーリックチキンも残っていた。
 ボストンバッグを肩にかけて、じゃあねと彼女は言った。まだツーアウトだけど、と僕が言うと、野球のルールは詳しくないの、と彼女はあっさりと言った。
 矛盾している。さっき彼女はルールを覚えたと言ったはずだった。それなのにどうだろう。今は知らないと言う。
「忘れるのは早い方がいいわ」
 彼女は玄関口で靴のつま先をとんとんと揃えてそう言った。それから、今までありがとうと言って出ていった。
 一人になった部屋で彼女が残したミネストローネスープを見ていた。
 
 彼女「嫌でもルールぐらい理解するよ」→
 僕「まだツーアウトだけど」→
 彼女「野球のルールは詳しくないの」→ 
 彼女 「忘れるのは早い方がいいわ」
 
 僕は呟いた。「なるほどね」 僕等が初めて上手くできた会話のキャッチボールだった。
 上空に昇って消えるミネストローネスープの湯気を見ていた。味は薄かったが、確かにおいしいミネストローネスープだった、と思った。
 
 

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