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【連載小説】黒い慟哭  最終話「嘆き」

「うぅ〜さみ〜」ポケットに手を突っ込んで名森がある一軒家の前で立ち止まり、2階を見上げた。
「高橋さんはひでーよな! ここを見て来いって酷過ぎないか?」
「しかし、見れば見るほど不気味だな……これがゴキブリの家かよ!」
門扉を開けると甲高い音が響いた。
「錆まくってんじゃん!」名森が門扉を越えた、その瞬間! 『ドン!』家の中から物音が聞こえた!
名森は急いで中に入り門扉を開けたまま、玄関までが遠く感じるのは刑事で幾度となく経験していた。恐怖を感じているせいだろうか? だとしたら、刑事失格だと呟いた名森がドアノブを引いた。鍵が開いていた。
鍵がすでに開いているパターンは要注意だ!
湿気を帯びた暗闇が廊下まで伸びていた。冬だというのに妙な暑さを感じた。
ライトを照らすとほこりが舞っているのが、光の反射でわかった。廊下の突き当りにドアがあった。リビングに続くドアだろうか? ひとまずそこまで行くことにした。
 あれから物音はしなくなったが、廊下を歩くたびに軋む音がやたらと響いていた。額には大量の汗をかいている。厭な予感がした。
ドアが少しだけ開いていたので、その隙間からライトを照らすとソファが見えた。そこに人影らしき後ろ姿が確認できた。
 一気に鼓動が速度を上げる。汗が床にしたたり落ちる音が聞こえる。実際こんなリアルな現場に直面したのは初めてだった。名森は自分の若さを呪った。親のコネでなんの苦労もなく順調に縦社会を登り着いた先にあったのは自分がエリートであるいう仮の自分だけだった。それが、今……身に沁みて分かった。結局、高橋さんがいなければ何もできないではないか!(何がエリートだ)静かな廊下に舌打ちが響いた。
 ライトの先端で扉を押し開けると人影の反応は無い。(おかしい!)そう思った矢先だった! リビングの角から何が光るものを見逃さなかった。とっさに身を引くとハサミが空を切った!
 名森が内ポケットからスマホを取り出そうとした時、いきなり亜美が姿を見せた! 一瞬ひるんだ名森だったが、すかさずスマホをマイクに切り替えると見開かれた眼が血走っていた。亜美がハサミを振り上げながら廊下まで歩いてくる。
(まずい! 狭い廊下は不利だ。相手はハサミを持っている。殺傷能力はそれほど高くないが武器としては、小回りが効いて優秀だ!)
 少し距離をとり相手の出方をうかがった。
血の付いた衣服から想像できる程の大音量の奇声を発しながら走ってくる。名森はハサミを持っている右手を制しようと両手で手首を掴むとすぐさま亜美を壁に押しつけ動きを封じた。右手からハサミが落ちた。亜美の体勢がガクリと下がった瞬間、太ももに激痛が走った!
 わざと落としたハサミを左手でキャッチしていた。
名森は痛みに耐えながら今度は亜美の左手を封じようとしたが、視界の悪さで左手を見失った。第2の攻撃に備えてスマホのライトを彼女の顔に当てた。目くらましだ! 効果があったのかハサミを持った左手で自身の顔を隠してリビングまで後ずさったタイミングが合図だった。
 名森がライトを照らしながら一気に距離を詰めると彼女の腹部に強烈な蹴打の一撃を入れた。
その衝撃で亜美は後方に吹き飛んだ。
右脚を下ろすと「犯人と遭遇しました!」と叫んだあと、すぐに高橋がすぐに行くと声がした。さきほどスピーカーに切り替えた時にすでに通話中だったのを高橋さんは待ってくれていた。
 名森はスマホを内ポケットに入れると、しばらく亜美のほうを見ていたが、ソファに座っている頭がゆっくりとこちらに向いているのを目の端で捉えた。
 ロングヘアの女性だった。
その女性がゆっくりと立ち上がると名森は身構えた。いくら女性2人と言っても普通じゃないから分が悪いと思った名森は高橋が来るまでの間、時間稼ぎをしようと決めたがその女性の背後で倒れている亜美がゆっくりと上体を起こした。まるでゾンビ映画を観ているような感覚だった。
 背中に厭な汗が流れた。後ろからハサミを振り上げた亜美が接近してきた!
黒髪の女性の口が動いた。
「に……げ……」その口ぱくに名森は彼女の手を引こうとした時、背中にハサミが深く付きたてられた。父を刺したあの時の映像がフラッシュバックした。
 名森の手からこぼれ落ち膝をつく黒髪の女性の体はあちこちに擦過傷のような傷があった。
亜美も顔にあざを付けて衣服が埃まみれだったことで二人はここでしばらく格闘をしていた事になる。床にライトを当てると潰れた黒い物体にゴキブリがたかっていた。
 少し目を離した瞬間に左肩に痛みが走り体制を崩してしまった。 十分に距離を取っていたつもりが取れていなかった。暗がりもあるせいか距離感を見誤ってしまった。刑事としての実戦経験が皆無に近い名森にとっては致命的だった!
 体勢を崩した名森の顔面に仕返しといわんばかりにヒールが飛んできた。
そのまま強く床に後頭部を強打すると馬乗りになった亜美が口角を曲げて「ゴキブリがたかっている物体って何かわかる?」
と不敵な笑みを浮かべたが、名森は「知るか!」と言葉を尖らせた。
「ふふっ、教えてあげる」
「あれはムカデの死骸よ。彼氏の百丸よ!」
亜美の瞳から色が消え漆黒の双眸が睨んだ先は名森の両目だった。
「あの女に殺されたのよ!」
「三代目の百丸は、うぅぅ……」
ムカデが彼氏? この女は何を言っているんだ? 
「だから、私も負けじとゴキブリを何匹も踏み潰したわ!」
『気持ち悪い話はやめろ!』名森は語尾を荒げた。
すると、亜美は無言でハサミの切っ先を鼻に当てると何の迷いもなく二枚の刃が弾力ある鼻腔を切断していく。
 ジョキ、ジョキと革を切るように刃を進めると鼻頭で止まった。
今度は逆の穴に刃を入れ同じように切断していく。静かな廊下に名森の悲鳴が響いた。

 高橋が応援のパトカーを数台引き連れて玄関に入った瞬間、異様な光景が廊下で繰り広げられていた。
仰向けで倒れ背広姿の男性の上に女が跨っている。ニタニタと笑いながら、何度もハサミで男性の顔面を突き刺していた。右耳の穴にハサミを突き刺しグリグリとねじ込んでいく。それを引き抜き反対側の耳に突き刺そうとした時、人の気配に気づいた亜美がゆっくりと頭をもたげた「知り合いですか?」とヘラヘラしていた。
 顔面の損傷が酷かったが正真正銘、名森であった。遅かったのだ! あと五分早ければ高橋は後悔した。
亜美はすぐさま数人の警察官に取り押さえられた。
家に着いた友香が赤色灯を見て血相を変えて家の中に入ってきた。
高橋の制止を振り切りリビングに着いたとき、すでに複数の警察官に押さえられていた。肩で息をする友香が悲鳴を漏らした。
「姉です! ここで倒れているのは私の姉の綾香です」電話で呼ばれて来た旨を伝えた。
(えっ! 3年前のゴキブリ事件の犯人なのか?)戸惑った様子の高橋に友香が「私達は双子です!」ときっぱりそう告げた。一卵双生児であると言うのだ!
確かに顔はそっくりだが……
「この家の事はご存知ですよね?」と高橋の問に「はい」とだけ答えた。
その後に「署までご同行願えますか?」その言葉に友香は警察官に連れられて赤いサイレンが外壁を照らし外へと向かった。高橋は名森に近づき自身のハンカチを顔に掛けて手を合わせていた。

 警察が亜美の部屋を家宅捜索した際に三和土に置いてあるシューズボックスの扉が少し開いているのを不審に思い中を確認した捜査官が嘔吐した! 両眼を潰された生首が靴を押しのけて詰め込まれていた。冷蔵庫いっぱいに切断された体のパーツが数十袋のジップロックに詰められた状態で発見された。抜き取られた骨はあちらこちらに転がっていた。寝室のブルーシートは血と糞尿にまみれていた。
 その後、眼窩からはみ出した頭部が洗濯機の中で発見されトイレを捜索した刑事が便座が浮いている事に違和感を感じて確認すると便器の中に抜き取られた2人分の臓器が投げ込まれていた。それらは、赤黒く焼肉のレバーを彷彿とさせた。人間性を疑うこの凄惨な事件の犯人は現在も逃走しているのだ。
早く捕まえなければ大惨事につながる。
 冬のこの時期という事もあり異臭が抑えられた事が発見を遅らせる理由でもあった。

2人を殺害後、家を捨ててある場所へ。黒いケースを膝の上で抱えた女性がバスの座席に座って余韻に浸っていた。百丸《ひゃくまる》がケースの底で這い回る振動が手のひらに伝わり心地よかった。
(私とあなたはこれからも一緒よ)
ケースを少し揺らした。百丸が驚いてカサカサと動いて反応を示した。
まるで、好きな人と駆け落ちするような感覚を覚えた。
 バスの行き先はあのゴキブリの家だった事、着くとすでに別の女性が2階にいた事。それで女同士の殴り合いになった事。自身が殺して床下に置いた男性の遺体が気になりゴキブリの家に様子を見にいった事を取り調べ室で最初にそう告げると自身のスマホを高橋に見せた。
 画面には、下着姿で嫌がる顔をした写真をラインで送り付けられたと供述した。警察にチクったらこれをバラまくぞと脅されたとも語った。それをネタに凌辱されても迷惑だったので殺したとサラリと言ってみせた。その言葉になんの信憑性もないことは高橋にもわかっていた。
 さらに森田亜美の凶行の原因は自身の生い立ちから語られた。
話す前に無言で立ち上がり上着を脱ぎ胸を隠すこともなく背中をみせた。
すると高橋は目を瞠った! 背中に刻まれたムカデの刺青が今にも蠢動するかのように生々しかった。
「刑事さん……私の背中をよく見て」
その問いに高橋は机から身を乗り出して目を凝らした。間近で見たら、肩から骨盤にかけて斜めに深い傷が微かに見えた。それを隠すかのように黒光りしたムカデが彫られていた。
「私の背中の傷が全ての元凶よ!」上着を着ながら、そう語る亜美の口元から淡々と続けられた。
 きっかけは10歳の夏だったかな?
真夏の一番暑い時期、うーん。たしか、8月だったような、曖昧な記憶を辿る亜美に高橋は苛々していた。
机を叩いて続きを促す!
 首をもたげてギロリと上目で一瞥したあと静かに口を開いた。
あの日は、学校の帰りでたまたま1人でクリーク沿いを歩いて帰っていたんだけど、蛙が私の足元に飛んできたの、するとゲロゲロと鳴くものだから気持ちが悪くなってランドセルから割り箸を取り出して蛙を摘もうとしたけどピョンピョン跳ねるものだから、なかなか捕まえられなくて素手で掴むと近くのマンホールの上に置いたわ。
 炎天下のマンホールは鉄板が灼けて熱かったから蛙がもがいて逃げようとするのを割り箸で押さえていたら、動かなくなったの、割り箸で摘もうとしたら、マンホールにへばり付いて取れなくなっていた。そのまま放置して帰ったら、次の日見に行ったらぺったんこになって干からびていた。それを見て笑っていた自分の心がすさんでいくのがわかった。
 それ以外にもバッタの後ろ脚を引き千切ったり、丸まっているダンゴムシを無理矢理こじあけて真っ二つに引きちぎったりして、よく遊んでいたわ。今の男子でもそんな事しないであろう事を私はしていたのよ。
 亜美が高橋の顔を見て口角を曲げた。
一番仲のよかった紗絵《さえ》ちゃんに『蛙の鉄板焼き』を見られてしまったのよ、その紗絵ちゃんは口元にホクロがあって、かなりマセていたからそのグループの中心的存在だったわ。それから、気持ち悪がられてあっという間に独りぼっちになったわ。子供の陰口って広まるのが早いから。
 それは、中学、高校、大学と周りの環境に馴染めずにずっと独りぼっちだったわ。
みんなが離れて行くのよ。いじめにもあったわ。誰一人私に近づこうとしなくなった。学校生活はどん底よ! 家が裕福だったのが、唯一の救いだったけど、お金があるだけで、家に帰っても独りぼっちだった。
 1人でご飯を食べて1人でお風呂に入る。私が寝た頃に両親は帰宅、朝起きると、また独りぼっちそんな生活が続いたある日の夜、シャワーを浴びている時だった、足の甲に何かが這ったわ。びっくりした私は慌てて顔を洗い流して足元を見たわ。
すると1匹のムカデがお湯に怯えながら私の足の上に乗っていたわ。
私は内心『この子も助けを求めている』
 独りぼっちの私にくっついてきた友達。
「排水溝から来たの?」と喋りかけて遊んだわ。親にバレないようにこっそり部屋でムカデをペットとして飼い始めたわ。
 それから、ムカデに『百丸』と名前を付けたわ。学校から帰ってきたら、すぐに自室に籠もり百丸とお話を楽しんだわ。それが楽しみで仕方がなかったのよ。
 そんな、私でも大学を卒業してすぐに親の反対を押し切りできちゃった結婚で家を飛び出したわ。
 もちろん銀行行員も決まっていたから、私にもようやく春が来た。桜が咲いた。そう思って赤ちゃんを出産したわ。
でも、半年もしないうちに旦那と揉めたわ。
 旦那はいいわよね! 何もしなくて、ただ、働いてパチンコに行って私達をほったらかしにして、友達と飲みに行って1人だけ楽しそうで、おまけに給料は手取り12万よ。涙が出たわ。
 生活も困窮していたわ。家を飛び出してきたから、実家にも頼れないし、旦那とは、毎日喧嘩ばかり、いいかげんウンザリして嫌気が差した頃、私が生活や育児の事を旦那に強く言った時があったわ。
旦那は正論な意見に対して返す言葉に詰まったのか衝動的に私を叩いてきたわ。
 旦那の怒声で子供の泣き声にカッとなって私も反撃したわ。すると、包丁を持ち出して私の背中を切り裂いた挙げ句、赤ちゃんの命も奪って逃走したわ。
孤独と絶望、見えるもの全てが深淵だった。
 旦那はもちろん捕まったけど、私も出血がひどくて瀕死の重症だった、あと数分遅れていたら……と医師に言われたのは記憶に残っていた。
旦那の名前は忘れたけど、赤ちゃんの名前は『百合子《ゆりこ》』それだけは、はっきり憶えているわ。
 この刺青は3年前に入れたのよ。
百合子は背中で生きているわ。あれから……6年。目を閉じた。
「ムカデの百丸を娘さんと重ねていたのか?」刑事がタバコに火をつけた。
調書を取っていた警察官が怪訝そうに、こちらを視線を移した。
「忘れよう、あの子を忘れようとしたけど、無理だった。私はまた、独りぼっちになり3年前にまた、あの子が好きになった」涙を浮かべながら、でも、もう、あの子はいない! 髪を掻き毟りながら、何度も机に額をぶつけながら、あの子の最期が忘れられないわ。
 あの日、旦那から害虫のような目で見られた私達、百合子の泣き声、それに潰された百丸の断末魔。それからムカデを飼う度に名前を『百丸』にしたわ。
その場で思い出したかのように激しい悲しみがこみ上げ嘆くように黒い涙を流しながら慟哭した。
 化粧が崩れマスカラが流れ落ちた顔がムクリと頭をもたげて刑事達にこう叫んだ!
「どうせ、私は害虫よ!」
「男の自分勝手さは死んでも治らないわ!」殺害動機が判明した。
「男はいつもそうよ! 自分だけがやれたらそれでいいと思ってるのよ。一体どっちが害虫かわかったもんじゃないわ!だから私が別の意味でやったのよ!」「殺した人数は全部で4人よ!」 それだけ言い放つとその後は電池が切れたように一言も喋らなくなった。
 しばらく質問を続けたが話が進まないことに苛立った高橋が舌打ちをしてタバコを灰皿に押しつけると立ち上がり取調室をあとにした。
 髭の男とデブ男の容疑が晴れ無事に開放されたが、去り際にデブ男が「警察なんかくたばれ!」と吐き捨てた事に高橋は内心『警察は疑うのも仕事のうちだ!』と去りゆくデブ男の背中を睨みつけた。名森の死は自分の判断ミスだ。高橋は自責の念に苛まれていた。

 この事件から半年後
「いらっしゃいませ~ご要件をお伺い致します」張りのある声が聞こえた。
隣りにいた富山《とやま》が囁いた。
「今日はいつにもなく声が通りますね」と言った富山に「何よ! いつも声を出しているわよ! 失礼な人!」
「いよいよ今日が最後ですね。黒川さ……いや、た・か・ま・つ・さん」リズムよくそう言われたら何も言い返せない。今日で寿退社になる。悠介と結婚してお腹には我が子がいる。嬉しくなりお腹を撫でた。
「お子さんの名前はもう決めてるんですか?」と聞いてきた富山に「女の子なら玲香《れいか》」「男の子なら……ってその場合は主人に任せてるんだっけ?」と舌を出してとぼけてみせた。
「もうすぐ時間ですね」と急かすように聞こえた時、富山が急に席を外した。
しばらくしてガサガサとラップのような音を立てながら肩を叩かれ振り向くと大きなピンクとオレンジのバラの花を持った富山を先頭に社員全員が一斉に「お仕事お疲れ様でした」と声を揃えた。
「あり……が……」声がでないほど涙が流れた。涙を拭って次はしっかりと聞こえるように「ありがとうございます!」花を抱えて一礼した。その時、バラのいい香りがした。
 退社のお礼の一言は堅苦しくなったが最後の任務を終えた開放感からか腰が抜けて椅子にへたり込んだ。
始めはみんなきょとんしていたが、時間差で
どっと笑いが溢れた。
「ハッハッハ〜 何だ高松ぅ〜 緊張していたのか!」
「緊張なんて友香にしてはめずらしい〜」色々な声に恥ずかしくなり友香は舌をペロッと出して照れ隠しをした。
「よーし! 今日は高松の寿退社祝だ みんなで飲みにいくぞー」課長が張り切った声で吠えた。その咆哮が号令となり皆が友香を中心に祝福した。
色々と大変だったが最終的に無事に終えることができてホッとした気持ちで、みんなに背中を押され会社をあとにした。

「おいおい〜 悠介大丈夫なのかぁ? 俺なんかと会って」煙を吹かしながら缶コーヒーを悠介に放り投げた。
「大丈夫に決まってるだろ! サンキュー」と高松悠介は木口賢治と3ヶ月前の話をしていた。
「この場所懐かしいなぁ」フェンスに肘を預けコーヒーを啜りながら悠介が呟いた。
「あぁ ムラサキ公園だな」と賢治が険しい顔をして短くなったタバコを地面に落とした。
「今頃さぁ 勝《まさる》が生きていたら何しってかなぁ?」
「ほんとそれな!」とコーヒーを一気に飲み干した賢治が続けて言った。
あのときの勝は変だったもんな!「家の2階の窓から誰かが見ていた……なんてよ」
「そのあとまさか1人であの家に行ってるなんてよ! 勝とはそれっきりだったもんな」
「なぁ? 賢治? 俺さあのあと病院にずっといたんだけどよ? 退院までに高橋って刑事が来てさ 勝の死因は刃物による出血死だったと言っていたよ」
「赤い柄のハサミか」と新しいタバコに火を点けた。
「あぁそうだ! そのあと捕まった犯人の供述の内容らしいと……」缶コーヒーを口に付けながら、さらに付け加えた。
「犯人の亜美って女。友香の銀行で一緒に働いていた、嫌な女だったと本人から聞いた」
賢治! 今からの話は心して聞いてくれ。
 あのゴキブリの家で亡くなった女性がいたんだけどよ……
「なんだよ! 早く話せよ!」先を促した賢治に「ほら、あれだよ! 例のゴキブリ事件の本人の名前……綾香って云うんだけど、友香の双子のお姉さんらしい」
「なっ!」
「まさか! 俺が電車で見た黒いコートの女性、ほんまもんやったんか!」
「おそらくな」短く言葉を切った。少し間が空いたが勝の葬式に参列したときに友香から聞いたよ。
「葬式中に?」
「あぁ、仕方ないだろ!」
「実は、あの日の家でもう一人犠牲者がいたんだけどよ」賢治が暗くなった空を見上げて口を開いた。
「名森刑事があの女に殺されたんだ」とつばを吐いた。
「しかもよ! あの女の証言らしいけど、彼氏だったムカデを殺された恨みのついでだとか、死んだ愛娘に重ねていたんだろってそんな話もしていた」と高橋の言葉をそのまま悠介に伝えると「まじかよ! その女、頭イカれてんな!」そう言いながら頭を掻いた。
「ただ……あの日、あの家にパジャマ姿の友香が2階に居たんだよな。それで、俺は2階の階段から転げ落ちたんだよな。あれって実はお姉さんの方だったのかな?」
 しばらく沈黙が続いたムラサキ公園に冷たい風が吹いた。

 
「ちょっと! 玲香《れいか》! 早く準備してよ! 間に合わないよ!」朝から友香の怒声が響いた。
高松玲香は悠介と友香の娘である。
 あの事件から10年が経ち玲香も小学四年生となりすっかりと口答えをするようになったが、やはり娘は娘である。その反抗が可愛かった。
 勢いよく玄関が開き「いってきまーす」と見送り手を振ると部屋は静かになった。
嵐が去ったのを確認すると家事に取り掛かった。
悠介はすでに朝早くに仕事に行っているので友香1人になった。
 

 その日の夜……
外は雨が降り続き雷が鳴り響いた深夜2時。家族が寝静まった頃。
いつかのアクリルケースを大事に戸棚にしまっていた。ケースの3匹の蜘蛛は固くなって動かなくなっていた。
蜘蛛を手に取り口の中に放り込むと薬を飲むように水で優しく喉奥に流した。

 再びしゃがみ込むと観察ケースを開き『バリバリパリパリ……プチュ』と不気味な音を立てていた。
悠介が微かに聞こえるキッチンからの異様な音に目が覚めた。
その日は仕事のことが気がかりで眠りが浅くなっていた。
異様な音に混ざり時折、シャカシャカと袋がこすれるような音がした。
友香も眠れずにキッチンの掃除でもしてくれているのか? そう思いながらスマホのライトを頼りに階段を降りた。
 リビングは真っ暗なままであった。悠介は怪訝そうに中の様子を窺った。
……何も見えなかった……
『ガサガサ、パキパキ』木の枝を折るような音に加え袋に何かを入れるような仕草がよけいに恐怖を煽った。
(ひょっとして泥棒か?)
恐る恐るリビングに足を入れた。
 ダイニングテーブルを通り過ぎるとキッチンが見えた。しゃがんでいる人影が見えたが向こうはまだ、こちらに気付いていないようだ! (おかしい! 何かがおかしい!)意を決して声を掛けた!
 次の瞬間! 血の気が引いた。
しゃがんで無我夢中でスナック菓子を食べていた友香がピクリと動きを止めた。
煌々と照らされたシルエットがゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
 目はどこを見ていいのかわからず焦点が合っていない。手元をよく見るとスナック菓子ではなく大量のゴキブリの死骸がリビング中に散乱していた。
「うわぁぁぁぁぁー!」そこには見てはいけない物が映った!
こちらを見つめながら左手で鷲掴みゴキブリの死骸を口の中に頬張った。友香の目はもはや正気を失っていた。震える唇で何度も彼女の名前を叫んだ!
「ワタシハ、クモオンナ、ゴキブリヲ、クジョスル」抑揚のない声で呟いた。
「友香! どうしたんだ? よく聞こえないぞ」と近づいたその時! 友香が立ち上がり俺の胸部に友香の肩が当たった! その瞬間、激しい痛みが腹部を襲った! 友香の右手をよく見ると包丁が力強く握りしめられていた。
 左手にはスーパーの袋をぶら下げていた。
激痛で意識が朦朧とする中、ぼんやりと友香の顔が映った。何か出ている。よく見ると痙攣した細い脚が口からはみ出していた。舌で脚をすくい口元に納めた時『パリパリ』と不快な音を立てた。
 いきなり悠介の視界が遮られた。
生きているもの、死んでいるもの、目の前で飛ぶもの、鼻の近くで興味津々に触覚を動かすもの、無心で死んだ仲間を食べるもの、限られた空間で各々がやりたいようにやっている。
 悠介は呼吸も出来ずに鼻息を荒げた。(呼吸をしたら……)そう思うと余計に苦しくなった。
じっと座っている見守っているのか相変わらず不快な音を立てている。
だんだん薄くなっていく空気。薄くなるにつれて暴れまわるゴキブリ共が出口を求めて口元に集まってきた!
(こいつ等わかってんのか? それともたまたまか?)口を尖らせて自身の口元を確認するとゴキブリは反応を示した。
そして、苦しくなりついに地獄の口が開かれた。
 我先にと一斉にゴキブリの群れが出口を求めてなだれ込んできたのである。
そのまま食道を突き進まれむせ返る程の嘔吐感が悠介を襲った! 苦しさのあまり目から涙が流れ咳き込む度に逆流したゴキブリが口の中に戻るを繰り返した。
 口を閉じる際にゴキブリを噛んでしまい真っ2つに割れた中から苦味を含んだ体液が舌に残った。
手足が激しく痙攣し薄れゆく意識の中で悠介はふと思った。
(なんで、おれがこんな目にあわないといけないんだ?)どんなに言葉を荒げても思いだけでは相手に伝わらなかった。やがて痙攣が止まり何事もなかったかのように朝がきた。

 【森田亜美は懲役15年の求刑が下った。森口亜美は殺人罪で今も服役中である】
手前の独房に一人の女性が連れられてきた。亜美は鋭い眼光で睨みつけるとそこには虚ろな目をした高松友香だった。
 森口亜美は声を掛けた。
「あら、ずいぶんと久しぶりね」私の事、覚えている? しばらく無反応だった友香の反応が欲しくて「あなたのお姉さんを殺した張本人よ!」と挑発するようにアピールすると格子を激しく揺すり、よだれを撒き散らしながら奇声を上げた。
 高笑いする亜美の姿を見て「ただで済むと思うなよ!」と低い声で唸った。
友香は獄中ずっと亜美を睨んでいた。

「ねぇ? ヤバくないこの話!」
「へぇ〜 こわ〜い」
「エモ〜い」
「実話なの?」
「ノンフィクションってやつ!」これが3年前の話だという中学生の会話である。
「玲香《れいか》ってほんとそういう話好きよね」
ゴキブリってどんな味なんだろう?
ゴキブリで窒素死とか草。
 色々な言葉が飛び交う中、玲香が口を開いた。
「実はこの話さぁ、私の両親の話なのよね〜」と口角を曲げる玲香に一同は血相を変え戦慄を覚えた。
「きっと育児や家事のストレスが溜まっていたんだろうね?」とカラカラと笑い出した。
すると、玲香と目が合うと一目散にファミレスなら逃げていった。
 一人逃げ遅れた子がいた。
「安代《やすよ》ちゃんはどう思う?」玲香の問いに安代が親指を立てて「グッジョブ」その一言に玲香はニッコリと手を差し出した。恐る恐る手を握ると玲香の顔を見た安代が笑ったが、玲香は笑っていなかった。

                  完    

【引き続き真・黒い慟哭をお楽しみ下さい】

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