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1994年生まれの三宅香帆さんと友だちになりたい。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
 飛ぶ鳥を落とす勢いで売れているこちら、読んだ方も多いのではないだろうか。
 元々読書の習慣があった、けれど働きだして忙しくて読めなくなった。
 私もそうだし、多くの人がきっと同じ気持ちだからこそ手に取ってしまう。『忙しい。でも読みたい、けど読む時間や気力が無い』そんな気持ちがまん延する世の中だから、この本は今売れに売れているのだと思う。
 そういう訳で、私もこの本を手に取った。広告や帯にも書いてあるので、これを詐欺だと言うのはちょっと違うとは思うが、確かに、恐らく、手に取った読者が求めていた内容とはずいぶん違った。労働史、読書史を紐解きながら、労働者がどんな読書の変遷を経ているのかを考察することで、翻って今我々が何故読めないのかを論じるというあらましだ。オマケが本編だが、これまた求めていた解答では無い内容だった。とはいえ、元々この手の話が好きな私としては、大いに楽しく拝読させて頂いた。 
 Amazonなどのレビューは『思ってたんと違う』というレビューも多いけれど、それこそ本書で言うところの、情報からノイズを排除したがる現代人の姿勢そのもの。これは私自身にも言えることだが、それこそ著者に見透かされた現代人の有り様だなと思った。
 さて、内容以上に私が気になったのは、この爆売れしている本書を書いた著者本人だ。
 三宅香帆さん。
 オタクな私は直ぐにググる。

 1994年生まれ。高知県出身。京都大学文学部、大学院を卒業され、学生の頃に書かれた書評がヒット。会社勤めを経つつ、現在書評家として大活躍中。

 ま、眩しい。
 眩しすぎる。
 学年は三宅さんが一つ上になるが、私も1994年生まれだ。地方出身なのも一緒。
 もう、それだけで親近感が湧く。
 けれど、文学部を選び、好きなことで生きている。その在り方はまるで違う。
 
 自分語りになるが、私も本当は文学部に行きたかった口だ。それも京都大学文学部に。でも、そうしなかった。
 高校1年生の時。
 文学部に行きたい気持ちはあったけれど、その先がまるで見えないことに強烈な不安を覚えた。文学部を馬鹿にしている訳ではなく、自分が文学部を経て、どんな未来を選んでいるのか、ビジョンが全く見えなかったのだ。先の見えないことほど不安なものは無い。博打が打てるほど、私は自分に自身がない。だから、幼いなりに考えて、2つのことを意識して、進路を選んだ。
 ・国家資格が手堅い。
 ・好きを仕事にすると、辛くなったときに逃げ場がなくなる。
 そんなこんなで私は今、地元で医師をしている。手堅く稼げるが、そこそこに多忙だ。やりがいはあるが『好き』な仕事ではない。
 
 つまり何が言いたいかと言うと、三宅さんが眩しいのだ。羨ましいというのとはまた違う。眩しいという感覚。
 次に読んだ三宅さんの著作『それを読むたび思い出す』でいうところの『オルタナティブ私』を見ているようだからだろう。三宅さんを『私』の『オルタナティブ私』と呼ぶには、三宅さんが立派すぎるのでちょっと恥ずかしいけれど。
 眩しい三宅さんだが、著作を色々読んでいて、選んでいるテーマがことごとく自分に刺さる。推し活の趣味は違うけれど、論じる内容はどれも、好きなテーマばかりだ。
 だから私は三宅さんと友達になりたい。語り合える友人であったら、絶対に楽しそうだからだ。

 ありきたりな結論だが、実はこの「友達になりたい」という願望はすでに叶っている。「本」という媒体を通して、筆者と読者は対話する。対話できるということが、友人に求める必須条件ならば、私はもう三宅さんとイマジナリーなフレンドなのだ。

 いや、ちょっと気持ち悪いとか言わないで。
 
 ファンというよりイマジナリーなフレンド的感覚で三宅さんのTwitterを閲覧していると、本屋で爆買いする動画が上がっていた。

 分かりすぎる。
 三宅さんと一緒にキャアキャア騒ぎながら(もちろん小声で)本屋さんを歩きたい。
 
 こんな風に思わせてくれる三宅さんの人となりも好きだ。少なくとも、出演しているPodcastやこういった動画の振る舞いがとても好感が持てる。
 

 そんな三宅さんの眩しさが、書かれた著作の数々が、私の背中をちょっとだけ押してくれる。
 少しずつまた本を読み始め、noteを書いたり二次創作の為にパソコンを開き始めたりする私は、三宅さんに感謝しっぱなしなのである。
 これからも、勝手に(気持ち悪いかもしれませんが)イマジナリーなフレンドでいさせてください。

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