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映画「カラオケ行こ!」26回目①(岡聡実大生誕祭記念舞台挨拶)を見た後の私的な覚え書き。



⚠ネタバレしかない。 
⚠オタクの私的な覚え書き。 
⚠オタクの妄言多謝。 
⚠「カ!」原作は、映画前に一度読了済みだが、原作との違いをあーだこーだ言うつもりは一切なし。 
⚠「ファ!」未読。



4月1日、聡実くん、お誕生日おめでとうございます!
明日は、例外なく仕事なので、一足早く3月31日に、ストロベリーチョコパフェで、お祝い🍓
パフェなんて食べるの、オタク人生で2回目なので、10分かからずに完食してしまい、そんな自分に戸惑った…
パフェを食べるスピード、どのくらいが正解なんやろか…

「ほな、どっちも頼も」



TOHOシネマズ日比谷・東京宝塚劇場スクリーン12にて、応援上映+齋藤潤さん舞台挨拶が3月31日の日曜にあり、多分ここ3年間分くらいの幸運を消化して、チケットをもぎとったオタクです。

先日、職場近くの本屋で、雑誌『Cut』のバックナンバーを発見し、綾野剛さんと齋藤潤さんの対談を立ち読みして、確固たる個の意志として理解しましたが、私は、やっぱり、本当に映画版の岡聡実くんと成田狂児の2人が好きなので、お2人の対談が掲載されている雑誌を買おうとはなりませんでした。
オタクには、ビジュアル、大事。

自分が、まぁまぁブラック?グレーな企業で、あくせく働いて稼いだ金銭を、自分が納得できないモノには支払いたくはないので、私は、あまり、映画を観に行くこともないし、美術館とか、人気の飲食店とかにも行きませんが、その代わり、自分が興味・関心があれば、新幹線に乗って、伝統工芸作家さんの作品を買いに行ったり、お店の内装が見たくて、中目黒のカフェとかに、わざわざ行ったりはします。

やはり、原動力は「好き」な気持ちだからこそ、前出している覚え書きでも書きましたが、俳優さんとして活躍している齋藤潤さんは、もう、私が好きになった中学3年生の「岡聡実くん」ではないし、成長した岡聡実くんとしての齋藤潤さんならまだしも、髭面の綾野さんは、全く狂児ではないのでね、そら、刺さらんわな、という感じです。

これは、本当に、個人的な趣味趣向だし、十人十色な嗜好があるので、それこそ、私のセンス、好みの問題だけれども、男の人の髭面は、ほぼほぼ苦手で、さらにビックシルエットなスタイリングも苦手で、もっと基本的なことを言わせてもらえば、塩顔の人、苦手やねん…(今更すぎる)

なので、この映画が、綾野剛さんの演技を見る初見ですし、人生の半分以上を腐らせてはいるけれど、田中圭の「おっさんずラブ」は見たこともない…ほんと、塩顔が無理。

ちなみに、私の中では、元SMAP・草彅剛さんは、塩顔というよりも、仏像顔なので、ジャンル違いで、好きだったりします。
(新作『碁盤切り』は、また復讐系なので、観に行くのは躊躇する…メンタル、大事に)

そんなワケなので、舞台挨拶で、齋藤潤さんが登場した時、めちゃめちゃ肌が白くて綺麗で、ほんとに顔が小さくて、一生懸命に両手を振る姿がかわいくて、深くて長いお辞儀が丁寧だし、謙虚さが滲み出てる良い男の子、役者さんだなーと、ものすごく冷静に見れました…
生粋の齋藤潤さんのファンの方々を差し置いて、ごめんなさい…よくわからん映画ファンで🥺

いや、自分でも、びっくりするくらい、冷静だった…なんやろ、もう何十回と観たからか、キャー!とかではなくて、あー、大きくなって…みたいな、見守る気持ちのほうが強くて、初々しい受け答えに「頑張って!」って感じになった…
さすが、狂児と同年代オタク、いつの間にか、親心、芽生えとるわ(照)

そして、髪の長さは違うけど、まさかの髭剃り顔で、何故か、狂児として「岡聡実くん」に対して、ビデオメッセージを撮ってらした綾野剛さん…
その設定、なんなん?
司会のかたが「あれ、台本なしで、ご自分で考えて喋ってらっしゃるんですよね…なんか、すごかったですね」みたいに、お話ししていたので、思わず「…こわっ」って、声が出てしまった…
さすが、主演…
オタク心をよくわかってらっしゃる…

おそらく、DVDにボーナストラック的な扱いで、映像がはいるとは思いますが、最後のメッセージの「この後空いてる?終わったらLINEして〜」「聡実くん、ファミレス行こ?」で、本日一番の客席からの抑えきれない「Fuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuー!!」という歓声を持っていかれましたよ、綾野剛…
いい仕事するよな、マジで。

もれなく、オタクも、心の底から言いましたよね…「Fuuuuuuuuuー!」
多分、もう一生、あんなに、身体の奥底から、湧き出る歓喜的なモノを、ストレートに口から吐き出すことはないと思うくらい、自然に、口から出たわ…

惜しむらくは、映画撮影時からの時間経過があるので、綾野さんの関西弁が、ちょっと不自然だったことと、ビデオメッセージ撮影の背景やらなんやらが、狂児的ではなかったので、やっぱり、どうしても、狂児として見るには、ちょっと違和感が…
いや、髭を剃っての、聡実くんへのメッセージは、めちゃめちゃ良かったです、ほんま、ビジュアルは大事。

そして、会場いち、サプライズの綾野剛さんのビデオメッセージに、齋藤潤さんがヤラれていて、座りこんじゃって「すごかった、すごい…」を繰り返していたので、本当に、綾野さんが好きなんだなーと、微笑ましかったです。
中学生の齋藤さんに寄り添って、撮影中、ずっと支えていたのが、綾野さんなら、そら、それだけ、慕われるわなと、納得。

初めて経験する、映画主演俳優さんの舞台挨拶が齋藤潤さんだったこと、きっと、私の人生の良い思い出になることでしょう。


最後に少しだけ、以下、個人的な思考の覚え書き。
なんで、こんなに「狂児という人」が苦手なんやろかと考えて、個人的には、前出したように綾野剛という役者さんが以前から、ずっと苦手なのと、同年代だからかと思っていたけれど、どうやら、この映画版を通して見たときに、私の感覚、触感として、狂児という人間って、全てが、嘘くさいからだなと、ようやく腑に落ちた。
私が、この映画のなかで「狂児という人」を本気で感じるところは、893大集合カラオケ教室の帰りのセンチュリーの車内で、怯えきった聡実くんに、謝る「ごめんな…」という言葉の、そこに、きちんと、狂児の心が伴った言葉に、誠実さを感じるのと、聡実くんが狂児のために♪紅を歌ってくれたあと、泣いちゃった聡実くんに対しての「ごめんなぁ」という、人間味が感じられるところ。
聡実くんが映画を見る部で、栗山くんに言う「ほんまにヤクザなんやろか」という感覚と似て、私の感覚的にも、全編通して、狂児って、全てが嘘くさくて、胡散臭く感じるから、こんなに、苦手なんだろうな。
空っぽというか、全てが上辺だけで、20%くらいの気力で生きている男…
絶対に、お近づきにはなりたくない案件である。


☆聡実くん手書きセトリ「かわいいなぁ」から、聡実くんブチ切れイベントまでの時間軸の隙間に、邪な妄想を一発。

「聡実くんの行きたいとこ、行こ?」
「スタバ、行きたい」
中学生のお小遣いだと、スタバは、かなり痛い出費になりそうなので。
スタバ行って、オーダーを聡実くんに丸投げして、狂児は聡実くんの後ろで、財布スタンバイしていてほしい。
スタバのスタッフのお姉さんに、完璧な笑顔で、内心「…この2人、なに?関係性の謎が深すぎる」とか接客中、思われてほしい。
狂児的に、舎弟に教えてもらった、すんごい甘いカスタムオーダー、ひとつだけを覚えて、繰り返してても、笑える。
で、結局は、オーダー方法を聡実くんに教えてもらうっていうオチで。
支払いは、もちろん、狂児だから、オーダー中も、ずっと、聡実くんのすぐ後ろにいて、ずっと、聡実くんの顔を覗き込みながら「すごいなー、なんや、呪文みたいやな。こんなとこ、ひとりじゃ、よう来られへんわ。聡実くん、ドーナツはいらんの?なんとかフラペチーノって、どれ?飲んだことある?こっちのケーキも頼む?」とか、ずっとウザく喋っていてほしい。
めちゃめちゃ、平和な893と、しっかり者な中学生が見たい、切に。



●以下、漫画SNSサイト「コミチ」での漫画時評連載を集めた山本隆博『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社)の一部より抜粋。

自分が好きなものを他人におすすめするのは、案外に難しいと思いませんか。
ひとくちに「推し」と言っても、セルフで推すのと第三者へ推すのとでは行為のベクトルが異なる。 
自分の中だけで好んだり応援したりはのびのびできるけど、自分の好きを他人へ布教するとなると、ぴたりと足が止まる人は多いと思う。 
上ずった声音と早口で自分の得意分野をまくしたてるオタクの姿がステレオタイプ化したせいか、なにかを濃く好きな人は饒舌だと思われがちだ。 
だが実際はそうではない。
腕のいい職人が寡黙なように、自分の好きを内燃機関として求道的に推しを極める人に、みんな心当たりがあるにちがいない。 
そうでなくとも、自分の好きを語るのは難しいのだ。
自分の好きを語るには自分を覗き込む必要がある。 
自分を覗き込み、自分の感情の出処を探り、場合によっては自分の奥深くで厳重にしまいこんだ記憶すら引っぱり出さなければいけない。
それは人によっては、そうとうつらい時間になりかねないだろう。 
しかも好きを語るには、それだけでは終わらない。
自分を覗き込み、すくい上げてきたものを手のひらに乗せて、ためつすがめつ眺めなければいけない。 
主観を手にした後、一度客観の側に回り込んで自分を眺める。
それこそが自分の気持ちを言語化する一歩目となる。
そうやって時間をかけ、推すという行為がようやく完成に向かうのだ。