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不格好な餃子が許せなくなったら

お疲れ様です。

2歳のあっくん(息子)と9歳のねね(娘)を一緒の空間で遊ばせるために、娘の年齢を2つサバよんで遊び場に放り込んでしまった、たまにズルいバラさんです。ごめんなさい。

今回は子育て色強めですが、ビジネスマンにも参考にはなると思うので最後までお付き合いください。


普段子供と接していると、当然のように育児だとか教育だとかの目線が強くなってしまうので、子供の行動の一挙手一投足に目を凝らして、失敗しないか、怪我しないか、横着しないか、そんなことばかりを考えてしまいます。

外に出て恥ずかしくないように、とか、周りの人に迷惑をかけないように、とか、どこまでが子供のためでどこまでは親のメンツのためのエゴなのか、冷静に考えれば考えるほど怪しくなっていくので、だいたいは「いや、子供のためだ」と決めつけて思考停止させてしまいます。

それが自分の中の正義として根付いているので、ひどい時には他所の子供の振る舞いにまで「あー、あれはいかん」とか「親のしつけがあまい」みたいなことを思ったり口走ったりします。

でもこの「自分の中の教育論」が、時に自分を締め付けて苦しめるんですよね。

適当が許せない

僕は家でたまに料理をします。もちろん奥さんも普段からしていて、9歳ともなる娘はなにかの拍子に「手伝いたい」と言ってきます。子供と料理するってなったときに、まぁこれならやらせてもいいかなって思える代表格は「手作り餃子」だと思います。

あいつは食べても優秀なくせに、ひき肉をこねるだけなら2歳のあっくんでもできちゃうお手軽さと、図画工作に触れ始める5歳くらいから「包む」工程にまで参加させてあげれる包容力を兼ね備えています。餃子だけに、包容力があるんですね。餃子、だけにね。

しかしここは奥さんも料理を何年も主婦業としてやってきてるし、僕も元コックです。(イタリアンだけど)
餃子がどういうものかという”正解”の形を心得ているわけです。適切な量のタネに、きれいに包んだ皮、3、4枚のひだがついたら完成で、それが「美味しい餃子」のあるべき姿だと思い込んでます。

にもかかわらず、娘に手伝ってもらうと、皮の包みに隙間があいていて水は入るし、タネの量も多すぎて爆発するし、ひだのないワンタンみたいなルックスしてるし、さすがの「子供クオリティ」といったところです。

すると僕も奥さんもまるで餃子警察かのように、「あーこれはダメ、ちゃんとやらんと」「ほら、こここも」と、”正解”に届かなかった餃子を摘発しては修正するという作業を繰り返してしまいます。

こうなってくると娘ももう楽しくはありません。
次からは「手伝いたい」とか言わなくなって、ただ親が作った”普通の餃子”を黙々と食べるだけの冷めた食卓になってしまします。

日常に潜むあらゆる”適当”

この”子供クオリティ”との気持ちの格差は餃子に限った話ではないですね。
ペンの持ち方が変だとか、TVを見て座る姿勢がだらしないとか、歯磨きしながらフラフラしないとか、家の中でボールを投げたらいけないとか。

もちろん全ての項目にたいして、親なりの理由と正解があります。危ないし、行儀が悪いし、怪我をするかもしれないし。
「ちゃんとしなきゃ将来困るのはあなただよ」なんてそれっぽい正論をなげかけながら、まだ訪れてもいない失敗”らしきもの”を子供の目の前のぶらさげたりして注意を促します。

でも、この過干渉とも言える僕たち親の”正解”がもたらすものって、決して「ちゃんとした子供」ばかりではないんですよね。

親に恥をかかせない、怪我をしないように慎重になって、他人の目を気にする、自己肯定感もチャレンジ精神も自信もない、「なにもできない子」にどんどん近づいていってるんです。

昨日、クリスマスにサンタさんからもらった「ポケモン」を久しぶりにやっている娘を見ました。
えらく最初のほうでつまづいたまま、「やり方がわからなくてつまらない」と言ってました。

もちろん本人にとって難易度が高くて面白さがなくなったかもしれませんが、そもそもゲームって困難を乗り越えることを楽しむものがほとんどなはず。最初は弱くて勝てないけど、レベル上げたら勝てるようになった→ヤッター、楽しい!
これが、少なくとも僕らが経験して見てきたゲームの醍醐味です。でも、娘は、向上心や成長よくとは程遠い「できないことはやらない」というマインドになってしまっていたんです。

これは親として、非常に大きな反省点です。

呪いを解け

ツイッターをみていると、子供と楽しそうに遊んでる投稿が見れます。その中の一つに、先ほど書いたような「餃子を作った」というものがありました。

そこの画像のなかに並んでいた餃子は、僕や奥さんが毛嫌いしていた、長方形だったりタネがはみ出していたり、形も不揃いの、見た目でいえばくちゃくちゃの「餃子っぽいなにか」です。

それでも、その親子はとても楽しそうで、きっとその子供は「またやりたい」っていうでしょう。そしてどこかのタイミングで、「もっと上手に、きれいに作りたい」っていう欲がでてきて、その時初めて、三日月型のきれいな餃子を覚えていくんだと思います。

まだ僕のなかではっきりとした答えは出ていませんが、もしかすると、子供と接する時に大事なのは、結果よりも過程の方なのかもしれないですね。
形の歪んだ餃子もいいし、BBQで焦げたお肉でもいいし、今日は階段で座って歯磨きしてもいいし、ボールだって激しく蹴らなければいいかもしれない。

親としての、自分のなかでの「ちゃんとしなきゃ」という呪いを解いていくことで、子供の行動の幅を広げて、それが逆に、失敗と、成功と、挑戦と、向上心を生む大きなきっかけになるかもしれない。

僕ら家族にとって、本当に大事なものは、他所様に笑われないためのメンツなのか、それとも成長の機会なのか。怪我をしない安全なのか、立ち直る力と向上心なのか。

決してトレードオフなものばかりではないと思いますが、何を重要とするのかを、改めて考えていく時期なのかもしれません。

仕事においてもこの「ちゃんとせな」っていう”必要以上な真面目”のせいで、チームや自分自信を苦しめている可能性があるので、見つめ直してみようと思います。

ではまた!

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