ロシア・ウクライナ戦争のウクライナ側当事者とは?ウクライナ市民の「気持ち」とは?

 元安倍内閣首相補佐官兼秘書官のインタビュー記事です。
 ウクライナ侵攻1年:インタビュー完全版「岸田政権は停戦仲介に動け、資源国と水素外交にシフトせよ」今井尚哉・元安倍内閣首相補佐官 | 週刊エコノミスト Online (mainichi.jp)(2/20)
 停戦の必要性、そして岸田内閣は停戦仲介に動くべき、とはっきり主張しています。途中までで、故安倍氏称賛の部分はともかく、全体として共感できる内容です。
今井氏の発言の抜粋です。
1「まずは停戦だ。どうして岸田政権は停戦に向け仲介に動かないのか、僕は怒りすら感じている。これが一番だ。青い議論かもしれないが、太平洋戦争の教訓として、①絶対戦争はだめ、いかなる理由でも止めなければならない②経済はブロック化してはいけない――と学んだ。僕らは戦争の話を聞かされて育ち、戦艦大和が沈んでいくときの兵士の話を聞いてきた。そして、とにかく戦争しないと決めた。なのになぜ、停戦を考えないのか。」
2「ロシアが一方的に併合を宣言したウクライナ東部4州を力で押し戻すのは極めて厳しい。しかし、国際社会は絶対にロシア領とは認めない。だから、いつか、どのようにしてか、再びウクライナが実効支配できるよう、何年かけて戻すか、という話だ。武力では無理だ。レオパルド2など最新の戦車を300台供与しようと、ロシア軍を分断は出来ても、押し戻せない。今度は、空中戦になる。大切な命がもっと失われる。」

3「昨年3月29日のトルコのエルドアン大統領による調停は、いいところまでいっていた。本当に。プーチン氏は(調停案を)飲んでいた。あそこで止めておけば、ここまでなっていなかった。」

4「マスコミだってこのところ、軍事的、戦術的な解説ばかりだ。なぜ「停戦への道」を議論しないのか。「どうやって戦争を停戦にもっていくか、政権は考えろ」などといった声がなぜ出ないのか。」(以上、今井氏インタビューから直接引用、番号は筆者)

 右派の安倍政権を支えた人物からもこうした声が出ています。3での発言のように昨年3月末のウクライナ側提案の和平案(調停案)をプーチン氏が飲んでいた、という指摘もなされています。そこで停戦・和平合意が成立しなかったのはなぜか、この点は後日述べていきたいと思います。

 停戦を訴える動きは「今こそ停戦」として現在具体化しています。賛同の程どうぞよろしくお願いいたします。署名は下記のサイトから可能です。
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 今井氏などのように右派層とおもわれる層からも停戦を訴える声が上がる一方、護憲リベラルと考えられていた層から批判的意見がでています。
例えば清末愛砂氏(室蘭工大教授)のツイートです。
Aisa KiyosueさんはTwitterを使っています: 「G7サミット首脳に停戦仲介を求める記者会見を聞き率直に感じたのは、停戦が極めて重要なのはいうまでもないが、当事者を超えたところでの呼びかけの非現実性と、下記の批判と連動するが、当事者性を軽視するコロニアル視点に陥ってしまっているように見える怖さだった。無意識と善意のコロニアル性。」 / Twitter
 停戦を主張すると必ず出る批判は、「当事者のゼレンスキー政権・ウクライナ市民を無視するな」といった趣旨の批判です。しかしロシア・ウクライナ戦争のウクライナ側当事者とはゼレンスキー政権・ウクライナ市民だけでしょうか?ウクライナの戦いはかってないほどの「米欧日の軍事支援武器供与とセットになっている」「ウクライナの戦いの在り方は米欧日に求められる軍事支援武器供与の質量と直結している」という構造にあります。
 伊勢崎先生の論考です。
武器を支援することは、武力紛争の当事者とみなされるのか。|Kenji Isezaki|note(1/27)
 ここで指摘されているように、武器供与国は武力紛争の当事者とみなされる、とのことです。日本が現時点でウクライナに供与しているものも武器ですから、日本もこの武力紛争の当事者です。さらにここで伊勢崎先生が提起している「供与された武器でウクライナがロシア領を攻撃してしまった場合、ロシアにはその武器供与国に自衛権を行使できるか(ロシア政権はウクライナは侵略しているが、現時点では米欧日の武器供与国どの国にも軍事攻撃は行っていない)」、はきわめて重要な問題ですが、別のところで伊勢崎先生は「その場合ロシアは自衛権を行使できると解釈できるともいえる」といった趣旨の指摘も行っています。ウクライナ側当事者とはゼレンスキー政権・ウクライナ市民だけでなく、ウクライナの戦いが米欧日の軍事支援武器供与とセットになっている以上、私たちも含め米欧日市民もウクライナ側当事者ではないでしょうか(なお私は侵略したプーチン政権だけでなく、マイダン政変・ゼレンスキー政権はこの戦争以前からその政策対応ゆえに絶対支持できない立場なので、軍事的ウクライナ側に立たされることは苦痛に感じています、日本としては軍事的に中立であってほしかった)。さらに何度も指摘していますがウクライナへの軍事支援を口実に日本の軍事政策の大幅な転換がなされようとしています。
殺傷力ある武器輸出容認 自民・小野寺氏「考える局面」 - 日本経済新聞 (nikkei.com)(4/5)
「自民党の小野寺五典元防衛相は5日、ロシアの侵攻を受けるウクライナに殺傷能力のある武器の輸出を認めるべきだと主張した。5月に広島市で開く主要7カ国首脳会議(G7サミット)でウクライナ支援を議論すると指摘し「実はもう考える局面だ」と述べた。」(上記記事より直接引用)
  おそらく「選挙後検討(そもそも選挙後に検討とする自体姑息、「実はもう考える時期」といいながらなぜ選挙後なのか?)→サミットで殺傷能力ある武器のウクライナへの提供表明」、というシナリオでしょう。殺傷能力のある武器の供与はこれまでの日本の軍事政策の大転換です。それがウクライナへの軍事支援によってなされようとしています。さらに殺傷能力のある武器をウクライナに供与し、戦況によりそれがウクライナによるロシア領内への攻撃に使われたらどうなるか、それらを考えれば私たちは「当事者を超えたところ」にいるのではなく、「当事者」なのではないでしょうか?
  「当事者はゼレンスキー政権・ウクライナ市民」とするのは、「ウクライナの戦いが米欧日の軍事支援・武器供与とセットなっており、武器供与国は紛争当事国、ウクライナの戦い方戦況により私たちに求められる軍事支援の質量も変わってくる」「状況によっては戦闘に巻き込まれる恐れもある」といった点を無視した議論ではないでしょうか。
 また停戦論に対しては「ウクライナ市民の気持ちを考えるべき、それを無視している」という批判がしばしばなされます。しかし「ウクライナ市民の気持ち」とはどういうものでしょうか?
ロシアが起こした戦争、徴集逃れ国境越えるウクライナ人たち : 日本•国際 : hankyoreh japan (hani.co.kr)(22年4/12)
ウクライナで徴兵逃れ横行 「富裕層にあっせん」(共同通信) - Yahoo!ニュース(22年12/9)
「徴兵を逃れるため…」父の決断でウクライナの少年は国境を渡った:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)(1/25)
  これらの記事にあるように ウクライナ市民の中にはさまざまな理由で「戦いたくない」という人たちも少なくありません。ちなみにこれらの記事を読めばわかるように徴兵を逃れるためにはまとまった金額が必要です。「戦いたくないが金銭的に徴兵を逃れる対応はできない」として戦地にいかざるをえなかった層もいないとはいえません(富裕層だと戦地にいかなくてもすむ道がある、というのも戦争の現実でそれはまた重大な問題です)。「ロシアの侵略は許せない、ロシア軍を撤兵させたい」という気持ちはウクライナ市民のほぼすべてがもっていると思います。しかしだからといって「そのために自分や家族の命をかけてもいい」という思いに直結するとはかぎりません。ひとつしかない命ですからそう簡単に割り切れないし、そこにはさまざまな葛藤があると思います。ただその葛藤は安易に表明することなどできないのではないでしょうか。「ウクライナ市民の気持ち」といっても「戦いたくない、戦場に行きたくない」という気持ちを持つ人たちもまた少なくない、みなが「ロシア軍を撤兵させるため、喜んで戦場に行き命をかける」ではないと思います。逆にいかに侵略に直面しているとはいえ、みながみな本心からそう思ってしまう国は逆に恐ろしいのではないでしょうか。

 なお「今こそ停戦を」の記者会見の際、伊勢崎先生が「たかが領土」と述べたことに対しても強い批判がなされています。
例えば清末氏のツイートです。
Aisa KiyosueさんはTwitterを使っています: 「いのちは何よりも大切。しかし、それを前提にしても、たかが領土とはならない。そこで生活を育み、その営みを通していのちが〈生きる〉ものとなってきた。ひとの生活に密接にかかわるものを主体以外がたかが領土と言ってしまうのは、驕りであると同時に愚弄。本当にこんな表現はやめた方がいい。」 / Twitter
 私はそこまで強く批判されることなのか、と逆に疑問に思います。その理由として3点があげられます。
1、領土は一度奪われてもその後の政治力学さまざまな状況で取り戻せる可能性は0ではない、しかし命は一度失ったら取り戻せる可能性は0、0か0でないかの差は極めて大きい。
2、最初に示した今井氏の2のように、ロシアに併合された土地を武力で、すなわち命をかけて取り戻せることは厳しいのが実情。しかしそのためにゼレンスキー政権はウクライナ市民の命を捨てさせようとしている、という現実を考えたら、伊勢崎先生の言葉はそれほど批判されるべきなのだろうか?
3、そもそも現時点でゼレンスキー政権はクラスター弾・劣化ウラン弾を領土奪還のために使用しようとしているが、どこで使われるかといえばウクライナ領とされる場所、その場所を本当に大切と思っていたらいかにロシア軍から取り戻すためとはいえ、そうした武器は使わないだろう、それらの武器を使ってとりもどしてもそこに人は住めるのか、その土地は使えるのか、そうした武器を使おうとしていることから私にはゼレンスキー政権側自体が「たかが領土」とみているのではないか、と思う。
 さまざまな状況を考慮すれば伊勢崎先生の「たかが領土」発言は批判されるべきことではない、と考えます。「領土よりまず命」はつい1年半くらい前までは常識だったのが、なぜ変わってしまったのでしょうか。最初で示した1、4のような考え方は1年半くらい前まではごく普通に受け止められたのが、この間そうした発言をするとさまざまな批判がなされるようになりました。これでいいのでしょうか?

白井邦彦
青山学院大学教授
 
 


 



 





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