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「お前は小説家になれない」

今、宮本輝のエッセイ「二十歳の火影」を読んでいる。

こどもたちが休校のさなか、私は「よし、本を10冊読もう」と決め、とりあえず近くの本屋で目についた本10冊を大人買いしてきた。そのうちの一冊が「二十歳の火影」である。

なぜこれを選んだかというと、ぱらぱらとめくったときに「私と富山」という章が目に入ったからだ。

幼少期、宮本輝氏が富山に住んでいたことは何となく知っていたが、彼の目から見て富山はどう映り、どう書かれるかに興味がわいた。富山県出身者としては見逃せない。

筆者は小四のとき、父親の仕事で大阪から引っ越すことになったようだが、その汽車の中での様子を以下のように書いている。

「……富山て、雪の多いとこらしいわ」
と母がぽつんとつぶやいた。
私はガラス窓に額を押しつけて、吹きすさぶ灰色の雪をいつまでも見ていた。
それは母の沈んだ音調と重なって、これからの富山での生活が決して明るいものではないことを子供心にも感じさせてきたのであった。

ーー「二十歳の火影」私と富山 より

やはり、描写されるのは「灰色の冬」であるなぁと思った。

富山は雪国だ。それだけでなく、春も夏も秋も曇り空が多く、見上げれば灰色であることが多い。私が大学入試の合格発表で京都を訪れた際、降りしきる雪の富山から来てみれば、快晴の青さに目をむいた記憶がある。

まして冬ともなれば、モノクロームの世界だ。黒の濃淡で、雪に包まれた家や車や屋敷林を表す。

しかし、私が筆者の筆致でもっと驚いたのは、その流れで紹介されていた、富山を舞台とした小説「螢川」の冒頭部分だった。

一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。
土が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の余韻だった。
春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、あの裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。

ーー「螢川」より

冬の胞子。冬こそすべて……。

いやもう、本当にそうだと、富山で生まれ育った私は深く頷く。

春も夏も秋も、いつかは冬がくるからという事実を胸に、桜を愛でて海を眺め、枯れ葉を踏みしめている気がする。
この景色も、いつかは雪に包まれるのだと。

なんて鋭く、深く表現するのだろうと感嘆しつつ、このエッセイを読み進めていった。

読むにつれて、これらのエッセイを書いた当時の作者は30歳過ぎであったことを知る。つまり今の私と同じか、それより若い。
そして筆者が小説家になるまで経験した、激動の幼少期や艱難辛苦を知り、私の経験した30年ちょっとなんて平々凡々としてるなぁと振り返る。

そして私はじわじわと、過去、知人に言われた言葉を思い出すのだった。


「お前は、小説家になれない。」


その知人は私以上に読書家であるのだが、ずいぶん親しくなってから、知人は真っ正面から言うのだった。

小説家になりたいと思っていた私は、相当な衝撃を持ってその言葉を受け止めた。

ぐらぐらする頭で、ただ、どうして、と尋ねるとこう言うのだ。


「葛藤がなさすぎる。小説は、心理的な葛藤を書くものだし、小説家も葛藤を抱えた先に、やむにやまれず生み出されるものだから」


葛藤。挫折。困難。
確かに、私の人生にはそういう起伏は少ないかもしれない。

実際、宮本輝氏と比較すれば、私は幼い頃のほほんと富山で暮らしていたし、飲んだくれる父も失踪する母もおらず、借金取りに追われて転々としたこともない。
大きな挫折を味わって死にたくなったことも、競馬につぎ込んですってんてんになったこともない。

葛藤もなく、困難もなく、幸せに暮らしてきたら、「小説」というものを書いて暮らしていくことは出来ないのだろうか・・・?


宮本輝氏のエッセイが面白ければ面白いほど、私自身の人生の浅さが浮かび上がってくる。
そして、私が趣味で書く小説なんて、内容的にも表現的にも浅くて稚拙に思われてくる。

私は、小説家になれない・・・。

・・・。


・・・私の悪いクセで、一旦どん底に沈んだら、あとは自分の良いように事態を解釈する節がある。

何も、小説家になることだけが人生ではないのだ。

小説家になれないって?それがどうした。

「何がなんでも小説で食べて行かねばならぬ」という背水の陣ではないからこそ、好きなものを好きなだけ書きちらすことが出来るのではないだろうか。


そのうち、宮本輝氏のエッセイの中に、このような話が出てきた。

その人の質問に答えているうちに、「物語」そのものに対するお互いの考え方を語り合うに至った。彼は最後に、何となく遠慮気味にこう訊いた。
「文学にとって、最も重要なテーマとは何でしょうか?」
そのとき、会場全体がいやにしんとしてしまったような気がして、私はいささかうろたえながら答えた。
「人間にとって、しあわせとは何か、ということではないでしょうか。」

ーー「二十歳の火影」文学のテーマとは、と問われて より

しあわせとは何か。
私にとっての、しあわせとは何か。

心理的の葛藤が少なく、紆余曲折の経験に乏しかったとしても、「何がしあわせか」と感じる心は私の中に山のようにあった気がする。

きっと「山のように幸せを感じる」というのは、闇夜を照らす一筋の光明とは正反対の、眩しい太陽やのどかな春みたいなことを言うだろう。
苦しさの中に見いだす貴重な幸せをはっきりと描写するのに比べたら、陰影に乏しく、生ぬるい感性に見えるかもしれない。

けれど、だからといって「しあわせ」が薄いかと言えば、私はそうでもないと思っている。

しあわせは、やはり、しあわせなのだ。

朝の光も、潤う雨も、降り積もる雪も、雪解けの春も。

生きているだけで、世界はしあわせに満ちているし、感謝にあふれている。

・・・行きすぎると若干、宗教とか説教くさくなるかなと最近思うのだけれど、でも心底そう思うのだ。

そう考えると、私なりの「しあわせ」というものを、好きなように書けば、それでいいのかもしれないと思えてくる。


小説は、その人の人生観によって、如何様にも読むことができる。
つらい気持ちを救ってくれたり、共感したり、自分と違っていいなぁと思ったり。

私が私なりにいいと思う小説を世に出すことができたら、そりゃあ共感しない人も浅いと思う人もいるだろうけれど、中には少しぐらい認めてくれる人も出てくるかもしれない。
まぁ、たとえ全然いなかったとしても、世に「私が思うしあわせとはこれだ」と宣言するひとつの手段として小説があるならば、私はそれにチャレンジしてみたい。

最近、あんまり小説を書くということをしてこなかったけれど、やっぱり書こう。書かなければ始まらない。


そして同時に、知人が私に、半ば呆れながら言っていた言葉を思い出す。


「小説家になれなくても、それでもお前は書くんだろ。」


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