見出し画像

事実は小説よりも奇なり-7  サーキットの狼

 思いついたのは9月23日、彼岸の中日だ。彼方の世界に住んでいる人に思いをよせる、先ずは両親、次いで本年7月に逝った愛猫の「小春」。
本日(09.24)「note」に上掲した記述の中にある「風戸裕」は筆者より1ヶ月若い同級生、これも何かの縁として記述することとした。

 1949年3月13日生まれの風戸は「いいとこのボンボン」、父親は電子顕微鏡製作会社を立ち上げた立志伝中の人物。その息子だから金はある、ボンボンの多い成蹊高校在学中の16歳で軽免許を取り、マツダキャロルを運転してジムカーナにも参戦していたらしい。18歳で普通免許取得し、ホンダS800を購入した1ヶ月後にはA級ライセンスを取得したと言うから、根っからのレース好き。その年に開催された第4回の日本グランプリを観戦し生沢徹と高橋国光のバトルを目にした様だ。その11日後には船橋サーキットで初レース参戦し2位入賞と、当時の若者を羨ましがらせる。
 1968年から本格化したレース活動(筆者は浪人生活中)、68年の日本グランプリでは前座レースに出場しGTクラス4位となった。

 1969年5月のJAF GPではブラバムBT16で総合7位(1000ccクラス2位)となり、その年タキレーシングに所属。Porsche 910を駆って、富士300km、JAF GP等JAF公認の8レースに参戦。その年の日本GPには同車で出場、長谷川弘と組んで、総合8位・クラス優勝を遂げた。

画像1

1/43 EBBRO製 風戸裕はタキレーシングに所属していたが、この車のカラーはタキレーシングの車でない可能性を示している、TAC 910の意味不明

 1970年、タキレーシングが活動中止したので風戸レーシングリミテッド設立、Porsche 910を駆って種々のレースで優勝を飾る。


 1971年、10.10の富士グラチャン(富士GC)にPorsche 908/02で参戦し生沢徹の917Kを下してGC初優勝。合間をぬってLola T222でCan Am参戦(10.10は8戦と9戦の間、両レースには彼の名前が記載されている)、この年、日本では05.03の日本GPと10.10の富士GCの2戦のみ。

 
 ところで、Porsche 908/02はどこが違うのだろう(917に勝ってしまうなんて)。1969年に施行された規則変更により、最低重量やラゲッジスペース・スペアタイヤ・ウインドスクリーンの最小寸法などが廃止もしくは緩和され、グループ6でも屋根無しボディが認められ、Porsche908は軽量なスパイダーに改良された。それにより車重が30kg程軽くなり、リアオーバーハングが短くなり、屋根が無くなったことによる空気抵抗増加でも機動性が増し中速サーキットでは無敵となった。それでも富士の高速コースで917に勝利するとは。

画像2

1/43 BEST製 箱書きにはPorsche 908/2  Flunder  Fuji 1971となっている、Flunderとは平目のこと、それ以前と比べ、上面が平になったのでそう言われた

 Porsche908/02の次、Can Amで駆ったT222について。1970年を走っていたLola T220はPeter Revsonが駆って優勝こそなかったが、第8戦のDonnybrookeでは2台のMcLarenを押し退けpole positionを得て、71年は期待ができると思われていた。しかし71年になってみると、ワークスはまるっきり変わった形の車とドライバーがJ. Stewartで参戦、エントリーはワークスのCarl A. Haas Racingで車体番号はNo.1であった。風戸裕はメカニック1人とカメラマン1人と共にセミワークスとしてCarl A. Haas Automobile ImportsからエントリーのNo.88で年間を通して参戦した。

画像3

1/43 Spark製、左1970年のワークス仕様車、右風戸裕の愛車

画像4

ウイングは最初銀色だっがが、途中で赤に塗られ白字の名前が入れられた

 第1戦のMosport、J. Stewartは予選でpole positionを獲得したが、決勝では3位であった。風戸は予選・決勝とも9位であった。
 第2戦のSt.Jovite、風戸は予選14位であったが、決勝は6位入賞を果たした。なおこのレースでJ. Stewartは予選2位で決勝1位は彼のCan Am初優勝であった。
 第3戦のRoad Atlantaは予選8位、決勝では暑さによる熱性疲労でDNF。
 第4戦のWatkins Glenは予選16位、決勝10位。
 第5戦のMid-Ohioは予選8位、決勝はエンジンブローでDNF。
 第6戦のElkhart Lakeは予選7位、決勝5位入賞。
 第7戦のDonnybrookeは予選12位、決勝9位。
 第8戦のEdmontonは予選10位、決勝ギアボックストラブルでDNF.
 第9戦のLaguna Secaは予選12位、決勝サスペンショントラブルでDNF.
 最終戦のRiversideは予選11位、決勝オーバーヒートでDNFを喫しシーズンを終了した。
 総得点19得点でシリーズ10位であったが、彼より上位は皆其々のワークスであり、彼はプライベートのトップになって、Can Am挑戦は終了した。

画像5

JEOLとは彼の父親の会社名

 1972年、MarchとヨーロッパF-2シートの交渉を行ったが、Niki Laudaに持っていかれ、Marchのセミワークスで参戦、8月には5位入賞を果たしたが、年間ランキングは24位であった。
 1973年、成蹊大学卒業(2年留年はCan AmとヨーロッパF2参戦が原因だろう)。
 山梨信輔と新たな体制のノバエンジニアリングを立上げ。富士GCではChevlon B23・BMWで第4戦優勝。ヨーロッパF-2はGRD FordやSchnitzer BMWで参戦。

 1974年、Chevlon F-2でワークス加入。同年6月2日、富士GC第2戦、Chevlon B26・BMWで参戦、2ヒート目のスタート直後、2番手争いの北野元と黒沢元春が接触、その事故に巻き込まれ、鈴木誠一と共に他界した。享年25歳、当時日本人で最初のF-1ドライバー候補であったが、残念な結果であった。

風戸 Chevron B26 Long tail Fuji GC 1974のコピー

1/43 EBBRO製 このモデルが好きだという人が多いのも頷ける

 1975年、スーパーカーブームを巻き起こした「サーキットの狼」の作者である池沢さとし氏が、主人公の名を風吹裕矢としたのは風戸裕の姓名から付けたと言われている。

参考文献
Pete Lyons CAN-AM Motorbooks International 1995
ジョー・ホンダ スポーツカー・スペクタクルズ No.12 カンナム1971 No.12 株式会社モデルファクトリーヒロ 2015.11.21

22.09.25 彼岸花のコピー

お彼岸に因んで、09.25 鶴見川の岸辺に咲いていた彼岸花

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?