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フロムゲー初心者のSEKIRO感想記④『「しんどいけど楽しい」について』

※この感想記はこちらの記事の続きです↓

前回の記事で「SEKIROのしんどいけど楽しい所について語る!」と奮起しておきながら、思いっきり語るのを忘れていました。
今回はその部分について語っていこうと思います。
補足回みたいなものなので、少しあっさりしています。ご容赦を。


しんどいからこそ、遊びやすく

前回までの感想記を読んでいただいた方なら、SEKIROを知らない方であってもSEKIROのしんどさについて、ある程度わかっていただけたかなと思います。

ざっくりと前回までに語った、SEKIROのしんどい部分をまとめると……

・敵の攻撃が素早い
・被ダメージが大きい、主人公の初期体力が低い
・初見殺しがめっちゃある

こんな感じです。
これだけ聞くと、SEKIRO難しそうだな…と、誰もが思うかもしれません。
クリアした私も実際、SEKIROは難しいと思います。
私自身、遊びながら何度も何度も「か、勝てない…!」「難しい!!」「うわあああああああ」「あぎゃあああああ」と、悲鳴の嵐でした。
(ここで書いている悲鳴はマイルドな部類のものなので、実際のプレイ中は罵詈雑言も普通に吐いてます)

しかし何度、悲鳴をあげても、悪態をついても、このゲームに戻ってきてしまうのです。
「もう1回だけチャレンジするか…」と。
ひらたく言ってしまうといわゆるSEKIRO中毒の状態なわけですが。
なぜ、何度失敗しても遊びたいと思えるのか?
後から考えてみて、こういうことなんじゃないかな?と思うようになりました。

「SEKIROはしんどいからこそ、遊びやすいように作られているんだ」

何度も言いますが、私は打たれ弱いのでただのマゾゲー、死にゲー、難ゲーだったらここまで遊べません。
本当に途中で投げ出していると思います。洒落抜きで。
ではSEKIROはいかにして、「難しいけど遊んでしまう」「難しいけど楽しい」を確立させているのか。
その「楽しい難しさへのこだわり」について、自分の感じたことを語っていきます。

再チャレンジしやすく、テンポよく

まず何よりもこれが最大の遊びやすさの要因です。
SEKIROは、とにかく再チャレンジが物凄くやりやすいんです。

本作はオートセーブではなく、メニューからセーブを選んで終了する形式です。(一応やむをえずゲーム機本体を終了させても、データはセーブされています)
じゃあプレイ中に死んだときにはどこから復活するのか?というと、こちらです。

全てのSEKIROプレイヤーの心の拠り所

でました、みんな大好き鬼仏くんです。
各ステージに点在しているこの『鬼仏』で休息したら、そこが死亡後に復活するポイントになります。
本作ではこの鬼仏が、ほぼ全てのボス、中ボス戦の直前に設置されています。
なのでボス戦でやられても、リトライがすぐにできるように作られているのです。

多少離れた所にある鬼仏もいくつかありますが、鬼仏自体が結構な数で設置されていますので、少し走ればすぐに復帰したい場所に戻ってこれますし、同様の理由でステージの途中で死んでも、殆どの場合は元の地点まで容易に戻れます。

先に述べた通り、SEKIROは数あるフロムゲーの例に漏れず「死にゲー」というジャンルです。
手強い敵に、何度も何度も挑み、失敗する…。いわばゲームオーバーが前提のゲーム。
もしゲームオーバーになって、復活地点の鬼仏がボスより離れた所にあるものが多かったら、単純にやり直しが面倒になってきます。
「またあそこまで行かなきゃいけないのか…」と。
最初は苦ではないでしょうが、やはり回数を重ねると小さな負担も積み重なって大きくなるもの。
でも再チャレンジ地点がボス直前であれば、その負担も最小限になります。

なにより、このリトライが素早く済むという仕様のおかげで遊ぶときのテンポが崩れないのです。
前の記事でもちらっと触れましたが、SEKIROはスピード感重視の戦闘システムになっています。
日本刀を中心とした斬り結び、避け、弾き、防ぐ…攻防一体となった素早いやりとり。
敵の攻撃も、自分の攻撃も素早いので、とにかく戦闘のテンポが早めです。

そうすると「畜生やられた!再チャレンジだ!」となった時、いち早くリトライできるおかげで、常に自分のテンションを維持したまま何度もチャレンジができます。
これが実は、遊んでいて地味に心地いい部分なんです。
リトライする時に、いちいち雑魚敵や他の敵の処理にかまけていては、その都度、集中したい思考に余計なものが入ってきます。
なんなら、多少苛立つ要素にもなりかねません。
SEKIROはゲームオーバーが前提のゲームだからこそ、ゲーム的にも、心理的にも、リトライする上で邪魔となる要素を極力排除することで、プレイヤーを極限の集中へ誘う仕組みを作っているのです。
(とはいえ、なかにはちょっと雑魚処理が鬱陶しい中ボスがいたりしますが…ご愛嬌ということで)

できないから、できた時が嬉しい。
フロムの「失敗の作り方」について

ゲームはなんでこんなに楽しいんだろう、と。よく考えます。
もちろん、そこは人それぞれ。楽しさを見出す要因は沢山あるでしょう。
ストーリーが面白い、キャラクターが好き、グラフィックが美しい。
理由は数あるでしょうが、私は「できなかったことができるようになるから、楽しい」と思います。
最初は勝てない強敵でも、レベルを上げたり装備を整えて倒せるようになって嬉しい。
難しかったパズルを、時間をかけて解けた時が気持ち良い。
何十時間も遊んで、最後のボスをクリアできるところまで辿りつけたから楽しい。
ゲームはこの「大なり小なり、できなかったことができるようになるという喜びの積み重ね」だと常々思っています。

その考えでいくと、SEKIROの凄さに驚かされることばかりです。

「SEKIROって、なんて失敗の作り方がうまいんだろう……」

これが私がSEKIROを遊んでいる時に強く感じたことです。
SEKIRO、とにかく「失敗の作り方」がうまい。あまりにうますぎて惚れ惚れするレベルです。

というのも、やられた時に「何故やられたのか」「敵がどんな動きをしていたか」がわかりやすいんです。
それは例えば「上からきた斬撃にやられた」とか「攻めすぎて無茶したからやられた」とか。
もうなんなら「油断したからやられた」とか、いっそ武士の感想だろそれみたいな感覚的なものもあるんですが。
この「何故やられたか?」が感覚レベルでも割とわかるので、
「とりあえず近づきすぎないように、攻撃したらすぐ離れよう」とか
「あいつがあの動きをしたらこういう攻撃がくるから、ガードしとこう」とか、ザックリでも対処方法を考えることができます。
「できないこと」「やれなかったこと」がわかりやすいからこそ、「どうすればできるようになるか」を考えることができる。

そして同時にこれらの要素は「できそうだけど、いけなかった」というもどかしさを作ることもできます。
いわゆる「頭ではわかってたのに操作が追いつかなかった」というものですね。
個人差はあれど、やっぱり人間は頭でわかっても、それを動作として完璧にこなせるようになるまでは時間がかかります。
「ああ!今の攻撃わかってたのに…!」
「この敵の動作、知ってたのに…!」
わかってるのに、できなかった…畜生…!
それは絵を描いたり、スポーツに勤しむこととも一緒です。
何事も練習や経験が必要で、それを数として積み重ねていくことで少しずつ自分のなかで噛み砕いて、消化されて初めて、反射的に体が動かせるほど、一個の動作として完成する。
また、あえてもどかしさを覚えることで、失敗したけど、失敗したことでまた覚えたから。次はいけるぞ!となります。

人間、まるっきりダメだとちょっと落ち込むものですが、少しでも自分がいけそうだと感じたら、失敗してもへこたれない。むしろやる気へ繋がるものなんです。

今いけそうだったから。
あとちょっとだから。
ダメだったけど、何かわかりそうだったから。
この「失敗を積み重ねるプロセスの設計」がSEKIROの素晴らしいところです。

いわゆる「フロムゲーあるある」の初見殺しだって、この設計に一役買っています。
即死トラップも、一度見てわかっていれば避けられるし対策もできる。
でも、それだって忘れちゃったらまた即死ですから、油断が命取りです。
油断しちゃダメだぞ、と思うと、どんどんゲームにのめりこんで集中する。
そうしてクリアできた時にどっと肩の力が抜けて、なんともいえぬ充足感と疲労が織り交ざった、それこそスポーツを終えた時のような気分になる。

あえてプレイヤーに失敗を経験させる。

けど、それは訳のわからない失敗ではない。どんな小さなことでもいい、何がダメだったのわかるようにできている。
SEKIRO、ひいてはフロムゲーの魅力は「失敗の作り方の上手さ」なのではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーではでは、今回はこの辺で。次回へ続きます。
次回更新は4月29日(金)20時の予定です。次回からようやくストーリー、世界観について語っていきます。
よろしければ、また読んでいただけますと嬉しいです。

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