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明治以降に定立されたらしい「天皇家の万世一系」の観念,その古代・封建遺制になる疑似近代的な政治思想の異怪ぶり

 ※-1 明治以降に再定義された「天皇家一族の万世一系」の観念は,「文明開化」をめざした「近代政治思想の異怪相」を正直に表現したのみならず,半封建的な国家体制で発足したがために発生させた「畸型的な政治経済の風土」を随伴させるほかなかった。


 a) この※-1の「天皇・皇室」じたいが明治以降,天皇家の万世一系のからくりをしつらえられてからというもの,近代化路線を歩みつつも「封建遺制」の遺風因子を一掃する気のなかったこの日本(旧帝)国は,

 敗戦を経てから21世紀の現段階になっても,国民たちに対しては天皇一族がいかに尊く,貴重であるかを説きつづけなければならず,この精神基盤が自国のあり方に関して「経済2流・政治3流」だという評定を回避できなくさせてもいる。

 日本の民主主義の最近像は,自民党政権のパー券裏金問題や,都知事に3選された小池百合子の嘘八百神的な人格・人間性をもって,いまや「非民主主義」国家体制である本質を,お尻の穴まで暴露しっぱなし。

 筆者は大手一般紙として毎日新聞を購読しているが,なにかにつけては皇室や皇族たちの「ヤマト国伝統性」を,一般国民たちに対してあたかも洗脳するためであるかのように,常時,特別なそれ用の記事を定期的に掲載している。ごく常識的な意識を抱いてこれに接し,読んでみることができる人びとにあっては,基本的に違和感を抱かないほうがおかしい。

 そしてさらに断わると,以上のように指摘されるとこれにムキになって反発,批難する皇国精神の持主たちは,自分たち「古き明治時代から大正時代,昭和戦前期(敗戦時)まで」に創作・形成されてきた「独自の天皇観」を,自分の精神支柱(脳裡)からいちど引き離したうえで,客体視することができない。

 日本の政治から「世襲の要因」が分離・剔抉させえないでいる「旧態依然」のその感覚・意識面における体質・特性は,現状をみまわすかぎり,これからもいつまで経っても,なにも変わりようがないのか? 

 そうだとしたら,この国はまったくに絶望的な「21世紀におけるこれからの時代」を予見せざるをえなくさせる。

 b) いまどきになってもなお「日本,スゴイ」「世界中から好意を引き寄せている国」だとかいって,ひどく自己陶酔かつ満足気味に「お国自慢をとりあげるテレビ番組」がはやり,大いに受けている。

 だが,そのようなナルシス的な国民大衆の精神状態が醸成されつづけていくなかで,この国がかつては「ジャパン・アズ・No. 1」だったという記憶を,完全に記憶の彼方に洗い流しておきたい「自国の実態・風景」が,「未来への展望」だとか「進取の気概」そのものをそぎ落としていくほかない精神風土を,じわじわと浸透させてきた。

 日本の最近に関していえば,ツーリズムを盛んにするほかない,つまり,観光業の隆盛傾向に依存する国家経済内の比重が増加しつつあり,インバウンドの経済効果に大きく頼るような,すなわち,別の意味では後進国型の産業経済構造「部分」〔を意味するがごとき実体〕が,その比率を徐々にであったが,確実に増やしてきた。

 たとえば,そのひとつの顕著な現われは,外国人観光客たちによる,日本の高峰「富士山への特攻的な強行登山」に表出されている。彼らの無謀でいたずらに冒険的な登山敢行のため,死亡事故が起こす観光客がすでに出ていた。

 しかしながら,富士山が地理的に位置する山梨県,静岡県にしても,まだその交通整理(基本は観光事業の一環としての登山規制)が十全に整備されていない。また,政府の方針も確たるものがなく,関係当局の指導が適切になされていない。

 c) 以上の記述,冒頭における内容としては,本日の話題から外れているかもしれず,つまり,やや異質に感じられるかもしれない。だが,「日本スゴイ」論の意味関連を,雑駁になるにせよ,最広義にその含意を汲みとるならば,その上方には確かに,天皇・天皇制の日本に固有な存在形態にも通底している〈なにか〉が,しかも紆余曲折的に介在している。

 というのは,日本で一番スゴイのは多分,「天皇・天皇制という世界に冠たる王族一家(皇室)」を有しているからだと説明したがる(盲信できる)御仁が,実際に相当数存在するといった「日本事情」が,以上のように言及してみた後景には控えている。

 そこでいわれる「世界に冠たる × × 」というモノの中身には,はたして普遍的な意味があったのかどうか,疑問ありであった。戦争中の日本で「この国の世界史的使命」という標語が好まれたが,しょせん自国内での自慰的な宣言としての夜郎自大,傍若無人の文言でしかありえなかった。

 しかし,21世紀の現段階になっても,あの「世襲3代目の政治屋」だった,しかも「完全に▲つけ者」であった安倍晋三が「戦後レジームからの脱却」を叫んだところで,本当のところは「対米服属政治路線」の轡(くつわ)を,そのアメリカに噛まされている現状にある事実は,否定しようにも否定できなかった。

 そうした米日国際政治の未熟な状況に,無理やり留めおかれてきたこの国であった。安倍晋三のように,そうした脱却への進路を声高に提唱したところで,せいぜい「オオカミの遠吠え」に終わっていたことは,いまさら強調して述べるべき点ではない。

 「安倍晋三,死んでなにを残せしたか」とみれば,この国を「衰退途上国」にまで引き下げた実績でみいだせた。現状,経済は本当のところ3流になりつつあって,政治はもともと4流であったから,彼が生きていたときに首相であった時期になしえた結末は,一言でいうと「日本破壊」であった。

 なんどでも言及するが,森嶋道夫『日本は没落する』岩波書店,1999年が宣告していた「日本事情の本質的な変質」は,それから四半世紀が経過したこの2024年になったところで,もはや明々白々の事実になった。

 あとはトヨタ(自動車)が企業経営としてコケることにでもなったら,日本は本物の非一流国確定となる。だからこそ,もしかしたら「この国には皇室・皇族がある」などというなかれ。天皇家の存在がこの国の隆盛に関してカギを握るというのであれば,いまの落ちぼれ方は尋常ではない。

  d) ここで戦前の話となる。当時起きた世界大恐慌のまっただなかで大きく浮上したのが「欠食児童の社会問題化」であり,「困窮家庭児童の欠食と未就学」であった。

 貧困家庭児童の就学環境が,大きな社会問題としてとりあげられるようになったのは,1930(昭和5)年に『東京朝日新聞』が欠食児童救済のキャンペーンをおこなってからであった。

 ところで,昨今の日本では児童のうち6人に1人が欠食状態に置かれている。ただし,ふだん,というのは学校の授業ある期間内のことだが,学校で昼食が提供されているので,欠食に苦しんでいる児童たちはまだ食事の回数が絶対的に足りないものの,その補填を学校給食でえることができている。

 2024年7月7日に実施された東京都知事選挙では,あの嘘つきオンパレード女であった小池百合子が,有権者の目線から逃避ばかりしたかった選挙活動をしたすえ,それでも3選を果たしていた。

 ところが,この財政が都道府県のなかでも突出して豊かな東京都が,都民たちの平均的な生活境遇をのぞいてみると,そういう深刻な底面が明るみに出ていた。

「都道府県別の経済的豊かさと通勤時間の機会費用(月単位)について」という報告があり,これが第1位にあげたのは三重県の 23万9996円,そしてなんと,最下位(47位)に東京都 13万5201円という始末になっていた。

 註記)「都道府県別の経済的豊かさ(可処分所得と基礎支出)」『国土交通省』https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001389727.pdf 参照。

 小池百合子が「単なる悪の権化的にきわめて醜悪な嘘つき政治屋」であった事実を踏まえたうえで指摘すべきは,財政が非常に豊かである東京都にあっては,欠食児童の問題だけでなく,成人層でも収入が皆無に近い人びとが大勢おり,都庁下でときおり実施される弁当配給の群がる集団が,最近まで徐々に増えてきた。ボランティア組織側が準備した弁当は,いつも早々となくなっている。

 戦前の1930年代における「往事の風景」と戦後の2020年代における「最近の風景」が重なって映る現実は,この国の「経済の底の浅さ」を如実に物語るだけでなく,なによりも「政治の貧困」そのものをありのままに反映させている。

 要は,アベノミクスの犯罪的ともみなせた悪政・失政・愚政の「大きなツケ」が,思う存分,国民・市民・庶民の側にツケ回しされてきた。しかも,そうした日本の政治経済の現況のなかでも,「皇室は安泰である」といったたぐいの「関連する報道(解説記事)」が頻繁に組まれる実情は,特定の疑念を抱かせるに十分な材料であった。

 

 ※-2 明治以降の皇室史・雑考

 ※-1の以上のごとき「最近の話題にこじつけた」記述をおこなったあとに,以下ではつぎのような要点に表わせる問題を議論していきたい。   

  要点:1 皇室における〈落胤の系譜〉に潜む秘密

  要点:2 三種の神器が皇位の証しになると信じるほかなかった天皇裕仁の気持

  要点:3 三笠宮,敗戦事情に対する暗躍の跡

以下の記述「要点」

 1)  皇室の秘めごと:歴史の闇に関する序章
 
 日本のいちばん長い日「1945年8月15日」は醜い日であった

 「天皇・天皇制」となれば,その対極というか,そのお膝もとにひかえつづけてきた「被差別部落問題」があった。「天皇・天皇制と部落問題」と題目はかかげて議論する問題意識は,この21世紀であっても日本という国家体制の根幹を探るうえで,非常に有効な基盤を提供できる。

 つぎのような意見から紹介する。

 部落解放運動が明治維新となったのである。あの〔明治〕天皇も重臣の多くも部落出身者であった。彼らは自分たちを権威づけるために「三種の神器」という伝説を創造したのである。ヒロヒトがこの「三種の神器」にこだわる理由がそこにある。

 註記)コンノ ケンイチ『天孫降臨 日本古代史の闇-神武の驚くべき正体-』徳間書店,2008年,272頁参照。鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』成甲書房,2007年,553頁。

天皇問題の核心部分

 それでも,部落差別問題がいまだに日本社会のなかにおいて続いているのは,天皇の地位=天皇制という政治制度が廃絶されないで存続しているせいである。

 しかし,こうした日本国内の社会問題といえる被差別部落の存在が,どうして明治「維新」以後すでに146〔152〕年も経った現在においても,一掃できないでいるのか。

 鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』成甲書房,2007年は,この論点に対しても一定限度答えてくれる著作である。

 鬼塚の,その本の『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』という書名は,半藤一利『日本のいちばん長い日-運命の八月十五日-』をもじっていた

 補注)ただし,半藤一利の本書の筆者名は当初,大宅壮一の氏名を借りて発行していた。発行所は文藝春秋新社,1965年〔1995年版より半藤一利となる〕。英語版:講談社インタ-ナショナル,1980年。決定版:文藝春秋,2006年。すなわち,いささか,パロディー的な書名であった。

 2) 半藤一利・保阪正康・秦 郁彦など,真実の底部に触れない実録作家たちが存在する意味

 鬼塚英昭も本ブログの筆者と同じに,批判的に触れていた問題点がある。半藤一利や保阪正康などは日本の近現代史の有名実録(ノン・フィクション)作家として大活躍している人士である。

 筆者が,別途言及したことがある秦 郁彦は,その筆頭に位置づけられる研究者であったけれども,日本の歴史を真実:その核心に迫る追究になるといきなり,いわば「寸止め状態」を感じさせる執筆姿勢を,しばしばみせてきた。

 なんといってもとくに,天皇・天皇制〔皇室〕問題になるとそうした姿勢の変化は,前段に触れた諸氏にかぎらず,誰であってもみせはじめるものであった。

 すなわち彼らは,日本近現代史の研究者として「鋭い分析のメス」を入れるべき,「ノン・フィクション領域に特有の暗闇」に光を当てるどころか,そこにさらにくわえて「フィクション的に真っ暗にする闇」の領域を暗黙裏に創りあげたかのような「反・創作性」を,ときおり正直にかつ誠実に発揮させることがあった。

 半藤一利の場合におけるその種の姿勢については,鬼塚『日本のいちばん醜い日』が執拗に批判していた。ここではとくに,保阪正康に関する「本ブログの筆者」自身によるその指摘となるが,ひとまずつぎのように説明しておく。

 保阪の書物は,天皇・天皇制の問題に真正面よりとりくむ姿勢を保持しつつ,皇室内部の問題に迫る著述をしていた。しかし,つまるところは「皇室そのものの深部」に溜めこまれてきた,門外不出としておきたい,

 いいかえれば,一般国民にはしられたくない諸問題=秘部(「密教」的な核心)には,けっして手を着けることなく放置してきた。それだけでなく,あえてそれらをあいまい化させたり,故意にはぐらかしたりするための記述もおこなってきた。

 たとえば,保阪正康『明仁天皇と裕仁天皇』講談社,2009年は,裕仁「天皇の『戦争責任』論(実は,この語「戦争責任」はきわめて曖昧(あいまい)だが)」という言及の仕方をしていた(同書,228頁)。

 天皇の戦責問題に関してならば,大量・膨大な研究文献が所与であり,これをまさか精査したことがないのか,ましてや,まさか保阪がこの領域での関連業績を少しもしらない識者だとは思えない。

 保阪はそれなのに,戦争責任という「この語はきわめて曖昧だ」と,故意に韜晦した(ことばを濁す)かのような,それも放言的にも聞こえる叙述を残していた。なにか底意でも秘めているつもりか。

 結語的に述べておくが,昭和天皇に対する配慮,いまふうにいえば「忖度」が,それほど露骨ではないものの,かなり巧妙に裕仁をかばうための言辞として工夫されていた。


 ※-3 鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』2007年が語る皇室の秘部あるいは恥部

 鬼塚の本書は,つぎのように解説〔宣伝〕されている。

 1945〔昭和20〕年8月14日から15日の2日間に発生した「8・15宮城事件」,世にいう「日本のいちばん長い日」=「徹底抗戦を叫ぶ陸軍少壮将校たちが昭和天皇の玉音盤の奪取を謀って皇居を占拠したとされるクーデター」で,森 赳近衛師団長が惨殺される。

 この惨殺はなぜ決行されたのか? いつ,どこで殺害されたのか? 遺体はどう処理されたのか? 膨大な史料と格闘しながら真相を追っていくうちに著者は,この事件が巧妙なシナリオにのっとった偽装クーデターであることを発見した。この日本という国に,依然として残る巨大な「タブー」に敢然として挑戦する。

 章の構成は「悲の章」「惨の章」「空の章」「玉の章」「秘の章」「醜の章」からなっている。

 --昭和20年8月15日,陸軍による玉音盤奪取クーデター,いわゆる宮城事件は,昭和天皇,秩父宮を首謀とする偽造クーデターだった!

 この衝撃の事実を膨大な例証によって明らかにし,さらには,「昭和天皇は広島の原爆投下日時を事前に知っていた」「皇族・政界トップの秘められた血脈」など,通史通説をくつがえした昭和史ノンフィクションである。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ の該当個所を参照

 なお,鬼塚英昭の本書『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』2007年については,読後感を記したインターネット上の諸記述が,その内容をあれこれ紹介もしているので,浩瀚な〔分厚い〕この作品を読むいとまのない人には,こちらをいくつか参照することを薦めたい。これらを3~4点のぞいて読めば,鬼塚の主唱はおおそ把握できると思う。


 ※-4「秘の章」(鬼塚『日本のいちばん醜い日』379-487頁)における記述:その1 -万世一系どころか一世一系でつぎつぎと無理やりつなげてきた皇統譜-

 1) 皇族たちの父親はそれぞれ誰か?

 鬼塚は,ある筋=「元皇族で翻訳業」の人物に聞いた話として,こう語る。

  a) 昭和天皇裕仁(1901年生まれ)の種は,明治天皇すなわち「大室寅之祐」〔孝明天皇の子:睦仁とは別人,すり替わった南朝系の被差別部落に貶められていた長州出身者〕である。

本当のお父さん:その1

  b) 秩父宮(1902年生まれ)の種は,東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ),高松宮(1905年生まれ)も同じである確率が高い。三笠宮(1915年生まれ)の種もこの東久邇宮稔彦王である確率がもっと高い(鬼塚『日本のいちばん醜い日』381頁)。

本当のお父さん:その2

  c) a) について鬼塚は,裕仁の種は西園寺八郎とする説であるが,あとのこれらの内容は正しいと思う,と語っている(同書,382頁)。

 昭和天皇は明治天皇を深く尊敬していたといわれる。日本の近現代史のなかでは特別の理由も示されないまま,この裕仁に限らず天皇家関係者すべてが,そして歴史家たちもごく当たりまえに「大正天皇を軽視し,ときには無視していた」かのような位置づけで,とりあつかってきている。

 大正天皇は4人の男子を生んだことになっていたが本当は「種なし」であったために,前段のように,東久邇宮稔彦のような--皇族の立場にある女性になぞらえていえば「〈天皇の配偶者:皇后〉を出せる資格がある」とされた皇族と同等の立場にあった--男性が主に,万世一系の維持のために性的に協力したという話になる。

 明治以降の天皇家の種が断絶していてはまずい。それゆえ,皇室の藩屏たるそれも「皇族のなからその種」を提供し,万世一系の系譜を創作しつづけてきたわけである。

 補注)以上に説明された明治物語の続きは,たとえばつぎの記事を参照されたい。


 明治天皇自身が何人もの側室(典侍および権典侍といったが,要するに正妻以外の2号以下の妾)をもち,5人の側室に女10人:男5人を産ませた。だが,男子のうち成人したのは大正天皇だけであった。この大正天皇が〈種なし〉であったために,明治天皇があえて裕仁天皇の種つけをしたという話もある。

 大正天皇は実際には正妻:貞明〔皇后〕とのあいだで子どもができていなかった。そこで,貞明に子どもを産ませて天皇「後継者:男子」をえようと,東久邇宮稔彦などが代わりにその「人間再生産」の製作作業〔大正天皇も嫌々ながら認めていた自分の配偶者の他者との性交渉〕に参与したという筋書なのである。

〔鬼塚英昭に戻る→〕 貞明は,最初に押しつけられた男〔明治天皇(=舅!)か?〕を嫌がっていた。それで,裕仁に拒否反応をもっていた(この段落までは,鬼塚,前掲書,408頁,〔 〕内のみ 422頁)。

 それにしても,裕仁と秩父宮・高松宮・三笠宮の全員が顔つきが違う。秩父宮の父〔東久邇宮稔彦?〕が貞明の心を射止めていたので,貞明は秩父宮を溺愛した。

 貞明はそのせいで,裕仁を皇位継承から外し,秩父宮を天皇の座に送りたかった。これを画策したのが山県有朋であった。これはさらにまた,昭和天皇の妃が薩摩藩の血を引く良子に決定されたさい〈色盲〉問題が提起されたひとつの背景である。

 秩父宮は,そうした皇室内部の血統的な事情に自負を抱いており,兄貴の裕仁よりも自分が皇位を継承すべきと考え,陸軍のなかに入っていった。2・26事件の首謀者の1人安藤輝三大尉は秩父宮から非常なる恩顧を受けていた(同書,408-409頁)。

 同事件が起きるやただちに,秩父宮が所属の弘前連隊から上京し,宮城に入った事実は有名である。このときの秩父宮の不審な動きについては,すでに多くの関連文献が指摘してきた論点である。

 2) 皇統の連綿性のウソっぽさ-どこに万世一系があるのか?-

 前段, 1) の a) に関連して鬼塚は,こう記述している。

 昭和天皇も今上〔平成〕天皇も,その他皇族たちも,自分たちが孝明天皇の子の睦仁の血統につながらない,山口県熊毛郡田布施村麻郷での特殊部落出身者・大室寅之祐の一族であることをはっきりと認識している・・・。もし,孝明天皇の子孫と認識するのなら,明治天皇の生母の中山慶子の墓を粗末にすることはない(鬼塚,前掲書,402頁)。

 ここまで鬼塚の論及を聞けば,明治天皇→大正天皇→昭和天皇の血統は,いったい本当につながっているのかどうかさえ,なにやらあやしくなってくる。それどころか,誰の発言を聞いて判断したらいいのかという点からして,そもそもなにも信用できない気分になる。迷わざるをえない。

 まず江戸時代から明治時代にかけて皇統は断絶,つぎに明治時代から大正時代はつながっているようであったが,実際には大正時代から昭和時代になると,大正天皇の妻が近親相姦〔舅と嫁の子=裕仁〕によってか,あるいはそれ以外の男〔皇族?〕との性関係によって「裕仁天皇が製作されていた」ことにもなる。

 皇統を断絶させないためには「男系」天皇の再生産作業が不可欠の条件とされた明治以来の皇室であった。ところが,その内奥にあってはきわめて世俗的なやりかたで,皇統譜の維持に努力していた事実が示唆されている。

 ここまでしていたその努力ぶり:苦心惨憺のほどをしらされると,最近の「お世継ぎ」問題として,なにかと世間を騒がせてきた現在〔以前〕の皇太子〔徳仁〕夫妻などの「子作り」問題においても,なにかしくまれていたのではないかと,勘繰られてもしかたあるまい。

 平成天皇の息子2名もそういえば,生物学的・遺伝学的にまったく姿容が似ていない。なにかを疑ってみたくなるほど資質的な差異をみてとるほかない。この兄弟(浩宮と秋篠宮の)間においては身長だけでなく,肉体的な特徴面での顕著な相違はヤケに目立っている。なにかを感じとらないほうが不自然である。 

 また,徳仁とこの弟(秋篠宮)と妹〔黒田清子,東京都職員黒田慶樹の妻〕の3人を並べてみると,どうみたらこの3人が両親を共通にしているのか首を捻りたくもなる。

 大胆にいってのければそれほど,この3人の兄弟・妹は,資質的に比較して異なる要素をもつようにも映る(そういう場合もありえようが)。「他人の空似」という表現があるが,片親が同じであることはたしかとみておけばいいのか,それとも……。

 3) 話題をもとに戻そう。

 結局,昭和天皇が敗戦を迎えるとき正直に告白してもいたように,「三種の神器」を手元に置いている者,これを所持している天皇が「本物の皇位を占めている」のだ,といったような「奇妙な正統性の物神的な証明」がなされるほかなくなる。

 なにせ,皇室一族の血統だとか親子関係などには,いろいろな人間が入りこんで混ざってもおり,なにがなんだか,誰が誰なのか相当にこみいっていて,たいそう判りにくい。万世一系の血筋は相当に不純かつ混濁し,かつわけの分からぬ系路をもって形成されてきた,としかうけとれない。

 そのうえにしかも,天皇の地位を証明できるとされる「三種の神器」が保持されていても,これまた「本物であるのかどうか」〔いまさら本物もニセモノもあるまい,本物だとしてもどうやって証明できるのか?〕という問題さえ登場しているから,話はとてもややこしくもなる。

 補注)瀧川政次郎などは,「天皇が誰であるか」は「三種の神器」の「持ち主が天皇だ」というふうに,単純明快に説明している。関連する議論は『日本歴史解禁』創元社,1950年を参照されたい。


 ※-5「昭和天皇の父は西園寺八郎である」と主張する鬼塚英昭の「世界政治経済に拡大していく議論」

 1) 世界政治経済のなかの日本の天皇家

 本日のここから残る記述は,鬼塚『日本のいちばん醜い日』全巻を読んでもらったことを前提に,ややはっしょった書きかたとなることを断わっておきたい。以下では鬼塚からさらに引用する。

 なお,最初の記述はけっして「世界ユダヤ陰謀説」ではなく,「資本の論理」に忠実に世界政治・経済の舵とりをしようする,陰の世界から主導権を握る勢力の存在を示唆しているに過ぎない。このことに留意して読んでほしい。

 --ユダヤを中心とする国際金融財閥は,情報を利用して国家を動かしてきた。ヨーロッパで起こったことが日本で起ったとしても不思議でもなんでもない。彼らユダヤ財閥は多くは右翼や左翼にたえず秘密資金をわたし,日本の秘密情報を入手していた(鬼塚,前掲書,420頁)。

 西園寺八郎の長男の公一(きんかず)に注目したい。……公一はゾルゲ事件で調査を受けていた。……もし,西園寺八郎が昭和天皇の実父だとすれば(私は確信しているが),ゾルゲ事件で政府の秘密事項を盗みだし,尾崎秀実(おざき・ほつみ)に渡していた公一と昭和天皇の父親は同じ,すなわち,秩父宮,高松宮,三笠宮よりは皇統に近い兄弟となる〔後者の3宮は実は東久邇宮稔彦ということであったから〕(同書,423頁。〔 〕内補足は筆者)。

 さて,明治時代からの元老西園寺公望は,最初の妻となった新橋芸者玉八(本名小林菊子)とのあいだに娘:新を儲けた。この新は,旧長州藩主毛利元徳公爵の八男・八郎を婿養子にとり〔西園寺八郎〕,西園寺公一など3男3女を産んでいた。

 この西園寺八郎が〈昭和天皇の種〉であった関係で〔この説によれば〕,いわばその〈昭和天皇の本当の祖父〉に当たる西園寺公望が深く憂慮していた心配事があった。それは,裕仁天皇と3人に弟宮たちとの葛藤のなかから,日本が太平洋戦争の深みにはまっていく事態であった(この前後は,同書,439-440頁。〔 〕内補足は筆者)。

 秩父宮と〔この父だと鬼塚が推定する〕東久邇宮稔彦は絶えず行動をともにしている。東久邇宮稔彦の一族は複雑であり,その詳細は『西園寺公と政局』(全8巻)に譲るほかないが,秩父宮はヒトラーを崇拝し,彼のもとへもいっている。親ドイツ政策を東久邇宮稔彦と推進したのである。この2人の宮の周辺には,西園寺公望が憂慮したような「変な者」がいつもうろついていた。

 裕仁天皇と3人の直宮(じきのみや)の仲は複雑であり,これを解明しようとしない日本現代史は,日本の深層に迫りえない。

 それゆえに,今日の平成の時代においても,国際金融資本家たち,いわゆる闇の世界の支配者たちに日本は脅迫されつづけている。真実はさらけだし,新しい日本の出発点とすべき時代を迎えねばならない。「私はその一念から,西園寺八郎の生涯を追求してみた」(同書,440頁)。

 そういえば,2008年秋に突発したかのように生じたリーマン・ショックからしばらく時が経ったあるとき,アメリカのロックフェラー家や欧米にまたがる金融一家のロスチャイルド家の最高責任者とおぼしき人物が日本に来ていた。

 きっと天皇にも会談する機会を秘密裏にでももっていたはずである。会談の話はおそらく「平成天皇に対する金の融通・無心である」。

 倒産した投資銀行リーマン・ブラザースは,アメリカの中央銀行に相当する,それも民間銀行である「連邦準備部制度理事会」(Federal Reserve Board, FRB)の主要株主になっている投資銀行のひとつであった。

 2) 日本の天皇家の弱み

 天皇の元老西園寺公望は,私は,国際金融家たに弱点を握られて,彼らのエージェントになったとみている。牧野伸顕は宮内大臣となり大正天皇を早死させたが,彼もエージェントであるとみている。

 この2人は,吉田 茂や樺山資輔らを使い,アメリカに極秘情報を流しつづけた “ヨハンセン・グループ” 〔これは吉田 茂反戦集団の英米側からの呼び名〕の首魁である。西園寺公一や原田熊雄は単なる配下の一員である(前段引用から,同書,446頁)。 

【参考画像資料】

明治天皇が記入されている場所に注意したい

 以上,話の筋が少し分かりにくくなってはいるが,あえて飛躍的に感じられる論旨でも結論にすすみたい。なお,さらにくわしくしりたい向きには,鬼塚『日本のいちばん醜い日』に関する読後感を記したインターネット上の諸記述がたくさんあるので,そこちらも参照を薦めたい。

 要は,われわれは日本の皇室の歴史と現状をみるためには,従来の議論の枠組から視野を大きく移動させかつ拡大させておく必要があった。世界史の視座に立ち,日本史の問題である幕末・維新史から現段階21世紀における「日本の天皇・天皇制の問題」までを観察の範囲に入れ,解明し分析する工夫と努力が要求されている。

 本日:以上の話は,いわば明治維新以降から第2次大戦にまで至る世界史的な視野のなかでの日本の皇室「問題」をめぐる,それも明治天皇→大正天皇→昭和天皇,さらには平成天皇の時代においての,いかにも俗っぽい,それもどこにでも転がっているような「色欲・金欲・権力支配欲」などにもとづく「諸利害の錯綜・対立・駆引・争闘・葛藤・軋轢」が演じられてきた姿,に関するものであった。

 世間の人間であれば表舞台で堂々と繰り広げられる「田舎芝居」が,皇室・皇族関係に属する人間たちがかたちづくる陰湿な世界のなかでは,いわば「裏舞台で」のほうで陰湿かつ巧みに繰り広げられてきている。

 鬼塚『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』2008年については,もっと詳細に論及して本ブログなりの究明をくわえていきたいところであるが,本ブログの紙面では足りず,またほかにも記述したい論題がいくつも控えているので,このくらいでひとまず禁欲する。興味のある方には鬼塚の著作を直接ひもとくことを期待しておきたい。

 

 ※-6 関連文献をかかげての結論部

 ※-5までの記述・議論に関しては,とくにつぎの4著を挙げておきたい。

 ◆-1 迫水 久常『機関銃下の首相官邸-2・26事件から終戦まで-』恒文社,1964年。

 ◆-2 津野田忠重『わが東条英機暗殺計画-元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」-』徳間書店,1985年。

 ◆-3 絵内 正久『さらば昭和の近衛兵-兵たちの見た皇居内敗戦絵巻-』光人社,1992年。

 ◆-4 別宮暖朗『終戦クーデター-近衛師団長殺害事件の謎-』並木書房,2012年。

 これらのうち,迫水久常『機関銃下の首相官邸-2・26事件から終戦まで-』から,この記述に関する個所を,次段(後段)に紹介しておく。

 また,津野田忠重『わが東条英機暗殺計画-元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」-』は,昭和19年夏に軍部内で発覚した東條英機首相暗殺計画未遂事件を,当事者自身が筆者として執筆した本である。この事件に対して特定の行動をし,間違いなく関与したはずの三笠宮が,戦後において応答した資料は,断片的にではあっても残されている。

津野田忠重

 上にかかげた画像資料は,津野田の「同書,242-243頁」である。三笠宮は自分が生きているうちに,あれこれの真相をもっと告白すべきであった(「そうすべきであった」が,2016年10月に死去)。昭和天皇はもうこの世にはいない。

 三笠宮が1945年8月15日までの数日間,特定の行動を記録していた事実については,絵内『さらば昭和の近衛兵-兵たちの見た皇居内敗戦絵巻-』が触れている。

 --日本の敗戦時,天皇が出した「終戦の詔勅」のなかには,原案の段階での話であるが「神器を奉じて」という文句があった。これに対して,当時の農商務大臣石黒忠篤がこの文句の削除が適当だと意見した。

 というのも,アメリカなどが日本の天皇に神秘力があると考えているのにそのように書いておいたら,天皇の神秘力の源泉が神器にあると思われてしまい,三種の神器について無用の詮索をすることになりかねない。それこそとんでもないことになると心配したのである。

 註記)迫水久常『機関銃下の首相官邸-2・26事件から終戦まで-』恒文社,1964年,301頁参照。

 「天皇の神秘力の源泉が神器にある」という表現は,こういいかえておく余地がある。たとえば,明治天皇の孫に当たる昭和天皇は〈三種の神器〉の神秘性を本気で信じてきた

 敗戦の時期に関していえば本土決戦までに至った場合,昭和天皇はこの三種の神器が戦場となった,この日本のなかで焼失・消滅するのではないかと非常に恐れていた。このことは,よくしられている事実である。

 三種の神器あってこその天皇位であるという,この「天皇の地位」に関する信仰心は,並々ならぬ天皇家に受けつがれた「皇室神道的な大事」であった。この三種の神器を奪いあう天皇・天皇制に関する紛争の歴史が如実に物語る事実である。日本国憲法のもとでも,天皇家の人たちはまったく同じに思考している。

 さて,宮中三殿の皇霊殿にあっては,いったいなにを祭壇に祀っているのか?

 国民のため天皇が祈る祭壇がそこにあるのではない。明治の維新に当たって,天皇のため・この一族のために祈る神殿が大々的に,東京の皇居の営造されたのである。

 明治政府が創作した大日本国憲法は,以下のように呪文を唱えていた。以下で皇祖とは天照大神のことである。ともかく,皇祖皇宗の「 “神がかり” 的におおげさな呪(まじな)い文句」のオンパレード。

 皇祖,皇祖,皇祖,皇祖,皇祖……,……なのである。

告 文  皇朕レ謹ミ畏ミ  皇祖  皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク  皇祖  皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆  皇祖  皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ  皇祖  皇宗及我カ  皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ  皇祖  皇宗及  皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ  神霊此レヲ鑒ミタマヘ

 
  憲法発布勅語  朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス  惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ 此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ  朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

皇祖,皇祖,皇祖・・・とはナンゾヤ
   

 これらの文句は,神帝としてあつかうべき天皇の,この現人神:現御神の「神格性」を託宣する〈聖文〉であった。なお,大日本帝国憲法は,1889〔明治22〕年2月11日に公布され,1890〔明治23〕年11月29日に施行されていた。

 ともかく,いまの天皇〔明仁から徳仁〕は,皇祖皇宗を祖先神に祭りあげ,これを熱心に信心している。この事実を否定できる国家神道学研究者はいない。しかも,この天皇たちが「日本国・民の統合の象徴」だということになれば,この国の冠に位置する政体からしてすでに「政教分離の原則」は一蹴されている。

 前段の話題は,明治の時代も,昭和(敗戦後)の時代も,平成の時代もまったく同じ要領で考えてよく,もって当てはめ,解釈できるものである。

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