見出し画像

防衛費(軍事費:国防予算)が「人を殺す予算」でないなどと戯けた屁理屈

 ※-1「気違いに刃物」ではないが,現実の政治のなかではそれ同然の精神で国家の運営をする国家指導者はいくらでも存在する

 本記述は2016年6月29日に公表されていた中身であるが,問題が問題だけにそれから7年以上の時間が経過したけれども,全然,陳腐化していない。それどころか,本日現在になってみれば,

 2022年2月24日に「ロシアのプーチン」(この人物は旧KGB的に凶悪な精神病理の持主)がはじめたウクライナ侵略戦争の過程では,嫌というほど平然と,つまりアコギにも民間人を殺しまくるこの男の「冷酷無比なる無神経」がみせつけられている。
 付記)冒頭にかかげた画像は,「【ニコニコ超会議2】安倍首相が自衛隊と在日米軍ブースを視察,10式戦車に搭乗 5枚目の写真・画像」『INSIDE』2013.4.27 Sat 21:32,4.27 Sat 17:26,https://www.youtube.com/watch?v=4eiw5NJT4po

 「プーチンのロシア」は,スラブ系の白人はなるべくその侵略戦争には送らないように工夫・措置する反面,少数民族系の男子を優先(?)的に,それも最近は「ステルス的に徴兵する」というあくどい兵士要員化まで実行している。

 プーチンは,隣国の人びとが民間人であっても平然と標的にしてきたし,自国を構成する人びともまるで消耗品同然に戦場に投入し,そのさい,督戦隊まで後陣には配置させて逃亡や降伏を許さず,死ぬことを強いるための戦争を遂行している。

 また,2024年10月7日,パレスチナのイスラム組織ハマスが,前例のない規模の攻撃をイスラエルに対して開始し,何百人もの戦闘員が,パレスチナ自治区ガザに近いイスラエル領内に侵入した。

 10月18日に報道された情報によれば,イスラエル政府は,これまでに少なくとも1300人の死亡,200人近い兵士や民間人(女性や子供を含む)が拉致され、人質にされてガザ地区へ連行されたという。

 この攻撃を受けてイスラエル軍はガザ空爆を開始し,パレスチナの保健当局は17日,これまでに約3000人が死亡したと発表した。イスラエルはガザ地区を完全封鎖し,食料や水やエネルギーなど生活必需品の供給を遮断した。

 註記)「【解説】イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる」『BBCNEWS JAPAN』2023年10月18日,https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67123651

ハマスがイスラエルに攻撃

 以上の話題(出来事・事件,紛争・戦争)に照らしていえば,国家予算のうち「防衛費」(軍事費:国防予算)が「人を殺す〔ための〕予算」でないなどと,まともな理屈で説明できる者はどこにもいない。

 ところが,この日本の政界のなかで,まるでそうではありえないかのように「奇妙奇天烈なやりとり」がなされてきた。この奇怪さというか面妖さは,おとぎ話ではない実際に語られてきた「日本国風の軍事費をめぐる観念形成」であるから,これを従前に置していたら,実に稚拙で愚昧なる軍事費の理解をそのまま許すことになる。

 民主党政権の時期(2009年8月30日~2012年12月25日),内閣官房長官など多くの役職を務めた仙谷由人が「軍隊は暴力装置」だと,国会のなかのやりとりで口にしたさい,これには猛烈な反撥が湧き上がっていた。だが,これほど軍隊の本質をしらないで「不要・無用の反撃」を繰り出した日本の国会模様は,政治的次元の認識水準として,きわめて幼稚かつ未開の人びとが蝟集する空間であったと形容される。

 暴力装置とは,国家権力によって組織化され制度化された〈暴力の様態〉を意味する社会学用語であり, 主に軍隊や警察などを指し,広義には政府、国家など強制力をもつ公権力全般を含むゆえ,仙谷由人は当たりまえに,常識的な政治概念のひとつを口にしたに過ぎなかった。

 ところが,形式的な容貌としては「平和憲法」を戴きながら,実質的なありようとしては「在日米軍」の管制下にあるごとき「防衛省自衛隊3軍」がその第9条などそっちのけにしていながら,「暴力装置」として存在している。

 もしも日本というこの国に害敵が侵略行為をしかけてきたときは,この自衛隊は「暴力装置」としての役目・機能を発動させ,この自国を防衛しなければならない。その点をとらえて「暴力装置」ではないなどと,それこそ〈極楽トンボ〉の感覚でモノをいうのは,子どもの感覚から放たれた発想であった。

 

 ※-2 戦争での殺人行為は違法ではなく,軍事費は「人を殺すために準備される国家予算」である

 1)「戦争と平和の問題」を考えるにあたっては,「目的と手段の関係においても,厳密な議論を要する問題」を,感情論の世界からで裁くとなれば,そこには稚拙な理解と粗雑な主張しか提示できない。

 本稿の記述は当初,安倍晋三君がまだ顕在であり,現役の日本国総理大臣であった時期,2016年6月29日に書かれていたが,議論の内容がいまだにまともに,つまりありのままに冷静に合理に即して理解されていない点が,いまもなお気になっている。

 しかし,その間を過ぎて現在となってこの日本国の軍事費(防衛予算)は,アメリカ側のいいなりに2023年度から5年間をかけて,これまでのGDP比率で1%に据えてきたその防衛予算を2倍にまで増やし,その比率を2%にまで上げるとという,「現状においてはすっかり貧国になりはてている」この国にとっては,まさに軍事国家体制を高度化するだけの姿勢が強調されている。

 かといって,社会保障制度は以前からその貧国ぶりをさらけ出しているこの国となっているが,現在の首相である「世襲3代目の政治屋」の岸田文雄は,安倍晋三が筋道を付けてしまったその防衛費倍増路線を,自分なりの考えはなにもなくただ宗主国のいいなりに,つまり盲目的にかつ従順に突っ走ることしか頭中にはない。

 話題は,軍隊組織は暴力装置だという論点に戻して議論していこう。

 2)軍事費は「人を殺すことを前提に入れた予算」である事実は,この事実じたいとして,なにもおかしいこはいっていない。つぎのごとき話題からとりあげ議論しよう。

 ◆「『人を殺す予算』共産議員が発言 防衛費めぐり,後に撤回」『朝日新聞』2016年6月27日朝刊3面

 共産党衆院議員の藤野保史(やすふみ)政策委員長は〔2016年〕6月26日,NHKの討論番組で,防衛予算について「人を殺すための予算藤野保史画像」と語った。藤野氏は同日夕,党広報部を通じて文書で「不適切であり,とり消す」と発言を撤回した。

 番組には各党の政策責任者が出演した。藤野氏は防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘したさい,「人を殺すための予算ではなく,人を支え,育てる予算を優先していく」と述べた。その場で公明党議員らが発言の撤回を求めたが,藤野氏は応じなかった。

 番組終了後の同日夕,藤野氏は文書で「海外派兵用の武器・装備が拡大していることを念頭においたものだったが,発言はそうした限定をつけずに述べており不適切」などと釈明した。

 補注)だが,この釈明は意味不詳である。ここでいわれる〈限定をつけず……〉という表現そのものは,まったく不要の限定であった。藤野が発言を撤回したのは,参議院選挙を目前に控えて野党への票を逃がすとまずい,という判断があったようである。国民たちの「戦争と平和の問題」に関した認識のありようが,同時に問われていた1件だといえよう。

 ◆「共産政策委員長,辞任『人殺す予算』発言」『朝日新聞』2016年6月29日朝刊4面

 共産党の藤野保史(やすふみ)政策委員長(46歳)は〔2016年〕6月28日,防衛予算について「人を殺すための予算」と発言した責任を取り,政策委員長を辞任した。

 藤野氏は会見で「党の方針と異なる誤った発言で,結果として自衛隊のみなさんを傷つけたことを深く反省し,国民のみなさんに心からおわび申し上げる」と述べた。同委員長は当面,小池晃書記局長が兼任する。

 藤野氏は6月26日のNHKの討論番組で,防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘したさい,「人を殺すための予算ではなく,人を支え,育てる予算を優先していく」と発言。同日夕には党広報部を通じて「不適切でありとり消す」との文書を出し,発言を撤回したが,自民,公明両党の批判の的となった。安倍晋三首相は26日,甲府市での演説で「自衛隊に対する最大の侮辱だ」と指摘した。

 補注)この発言は「★軍事費」と「☆そのほかの予算」の項目を並べて表現しただけのものであり,なんら問題はない。「殺す」ということばを使ったからいけないというのは,単なる「素朴も素朴な,あるいはそれ以前の感情論」である。

 つぎの画像を参照しても考えてみたいところである。これは2015年度予算案であり,5兆円に達していないときの内訳である。

2015年度からは米日安保関連法を成立・公布・施行
2015年度軍事費予算

 これが,2023年度以降になると,国家予算のなかで占める軍事費(防衛費)はまるで鎌首をもたげるかのように,異様なまでの増え方となった。

国民生活はそっちのけで軍事費増やす
自民党政権は肝心な民生など
そっちのけ

 藤野氏は衆院当選1回。今〔2016〕年4月,政策委員長に抜擢(ばってき)されたばかりだった。


 ※-3 防衛費(軍事費:国防予算)は戦争をするとき「人を殺すための予算」であるといって,なにもおかしくはないし,もちろん間違いでもない

 本ブログ筆者は,※-2で◆印を振っておいた報道記事(2つ)に接して仰天した。

 そのまた前段のほうで触れてみたのが,以前,民主党の幹部議員が軍隊(自衛隊)は「暴力装置」だといったときも,たいそうな非難(批判)が巻き起こり,社会的にも関心を惹いた1件であった。

 そんなふうに世間を騒がす事態になっていた「軍隊は暴力装置」であるという発言が,日本社会のなかで異様な反応を惹起させる現象じたい,実は,この国の軍事方面における常識的な理解が,相当にボケけていたわけである。

 しかし,軍隊(日本の自衛隊という軍事組織)が暴力装置であることは,事実として自明過ぎるほどに自明であり,わざわざいうまでもない正真正銘の事実そのものである。

 暴力装置性を欠いたら軍隊になりえず,武器や兵器,そして訓練された兵士もいてこその軍隊である。日本の警察官は通常,拳銃以外の小銃(ライフル銃)で武装していないが,外国によっては警察官が小銃を武器として使用することはいくらでもある。

 軍隊の場合は,戦争に従事する国家組織ゆえ,暴力装置でもより強力な武器や兵器なしに成立しえない。しかも,暴力装置というのは確かに,もっぱら「人を殺したり」「相手の武器・兵器を破壊し無力化したり」するための道具や手段を意味している。

 そうしたたぐいの軍隊装備の問題は,憲法第9条などの問題をいかに議論するかといった論点とはまた別に,ひとまず無関係に成立する話題である。

 1)カール・フォン・クラウゼヴィッツに聞くまでもないが……

 クラウゼヴィッツの『戦争論』(原著1832年。日本語訳は,徳間書店,1965年。岩波書店,1979年。芙蓉書房出版,2001年。PHP研究所,2011年)は,「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と定義,説明した。

馬込健之輔訳で,岩波書店 1933年の旧訳本

 a) つまり,政治(国際政治)というものは,いつでも戦争になりうるし,いいかえれば,その情勢しだいで戦争事態に移行することも,しばしば起きてきた。

 すなわち,この戦争は「敵国の破壊」,より集約的には「敵国の軍隊を破る」こと,くわしくいえば「敵国の兵員を殺し,兵器を破砕することを手段にして,その国家そのものの〈暴力装置〉を無力化させ,武力でもって抵抗できなくさせる」ことが目的となる。そうやって,相手国=敵国を屈服させることが,戦争という行為じたいに課せられた政治的な任務となる。

 冒頭で触れてみた今日的な戦争〔や紛争〕の問題は,「プーチンのロシア」によるウクライナ侵略戦争,そしてハマスによるイスラエル奇襲攻撃からもすばやく理解できるとおりである。その戦争をしかけた相手国側に対しては「暴力装置」を行使し,自国側の抱く特定の意思:戦略目的を,それこそ一気に実現させようと試みる。

 そうした戦争事態=有事体験は,1945年8月(9月)までの日本も,長期間にわたり数多く体験してきた。日本の場合も,軍人だけが戦争の犠牲者ではなかった。日本の本土に対する空襲もあり原爆もあり,であった。つまり,政治のなかにはその延長線上において,戦争=人(兵隊にかぎらず)を殺す行為が,当然のように含意・予定されている。これは想像の話ではなく,現実に歴史のなかでなんどでも反復されてきた事実である。

 b) たとえば,アメリカによる湾岸戦争(1990年8月),イラク戦争(2003年3月開始)を思いだしてみればよい,すぐに理解できるなにかがあるはずである。ただし,アメリカがもくろんだどおりに,政治の領域における目的を達成できたかといえば,必らずしもそのとおりにはいかなかった要素が,数多く残されてきた。IS〔イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」〕は,その後遺症的な悪影響から生まれたテロ・ゲリラ国である。テロの問題は最後に触れる。

 2) 「戦争論」は現代に応用できるのか?

 クラウゼヴィッツの理論は,現代にも応用できるのかという議論は,学者の間でも意見が分かれるところである。たとえば,クラウゼヴィッツは「攻撃に対する防御の優位性」を説いている。だが,核兵器の出現で,攻撃側の破壊力を防御することができなくなった(この関連には北朝鮮の問題もあり,これもあとで言及する)。

 冷戦中の核兵器軍拡競争でできあがった相互確証破壊(MAD,mutually assured destruction),最近まで続いていたABM条約〔Anti-Ballistic Missile Treaty,弾道弾迎撃ミサイル制限条約〕は,核兵器からおたがいを防御しないことで平和を保とうとするような,クラウゼヴィッツの時代には考えられない安全保障のあり方を生みだした。

 今後も軍事革命(RMA,Revolution in Military Affairs)によって,伝統的な戦争とはまったく違ったタイプの戦争が生まれること(たとえば人間自身は戦わない,マシンのみによる戦争など)も考えられる。また,現代のように,NGO・宗教・テロリストなどが,非国家主体が国際社会において重要な行動主体となることは,クラウゼヴィッツの想像だにしなかったところである。

 一方で,戦争の形態がどんなに変わっても,クラウゼヴィッツが分析したとおり,戦争にかかわって起こる現象の数々はかわらない,ともいえる。たとえば,どんなに高度な技術を開発しても,予期しない出来事「摩擦」を防ぐことは大変困難なことであるし,さらには「政治の継続としての戦争」という基本命題は,いまでも多くの場合適用することができる。

 註記)この 2) は,http://www.securitygirl.net/clausewitz.html 参照したが,現在は削除。

 3) 日本国防衛省自衛隊3軍

 防衛予算(軍事費:国防予算)で維持・運営されている防衛省自衛隊3軍が,いざ戦争になったとき,いまでは米日安保関連法が施行されてもいるのだから,アメリカ軍のうしろについてまわる〔か,あるいは最前線に駆り出される〕軍隊となって,この日本の自衛隊もいよいよ,軍隊・軍人らしく「人を殺す」任務をけっして回避できない軍事環境を,みずから好んで整備した。

 それはむろん,安倍晋三君の功績であった(ただし,単にマイナスのそれであった)。だから,防衛予算を「人を殺す」ための予算といって,なにもおかしいことはない。ましてや間違いでもなんでもなく,その本質面に控えている「実際的に予測しうる諸事象」は,より正確に抽出したうえで,ことばを用いて具体的に表現したに過ぎない。

 ただし,その表現方法があまりにも直截的で聞きづらいのだという向きには(「人を殺す」というからといって……),こう考えてもらえばよい。

 警察組織に属する公的人間は,「正当防衛」的であれば「人を殺す」こともありうるということは,簡単に理解してもらえるはずである。刃向かってきた犯人の足を狙い射撃したところ,この犯人が大腿部の動脈に命中した弾丸のせいで出血多量で死ぬごとき事例は,現実に発生している。

 警察官も「人を殺す」ための武器(小火器中でも一番小さい拳銃だが)をいつも携行して仕事をしている。それで,相手の心臓を狙って撃てば相手は即死する。

日本の警察官が仕様する拳銃

 註記)上の画像は,日本の警察官などが携行しているニューナンブM60。1960年から生産をはじめ,1990年に製造中止になっているが,いまも多く使用されている(ウィキペディア参照)。

 しかし,自衛隊は軍隊であるから,必要・場合に応じては「人を殺す」任務を積極的に果たさねばならない場面に遭遇する。自衛隊員は「人を殺す」ことを完全に回避できる職種ではなく,真正面からそれも向き合う状況に立たされて,不思議ではない。

 当然である。国際法上,戦争ははじめから「人を殺す」事態を想定しつつ,これを絶対に回避できない任務に従事する軍隊・軍人を前提している。それは「軍隊である自衛隊」の役目・仕事でもあり,ときに目前で果たすべき直接の,不可避の目的ともなる。

 補注)自衛隊の『武器使用規定』の詳細については,つぎの説明を参照されたい。

 以上のごとき基本的な関連事項に目をつむり,「人を殺す」ための予算が防衛費だといって,非難される筋合いはなにもない。おかしいことなどはなく,おかしいというほうが,もとからおかしい。

 「人を殺さない」「敵を撃滅しない」と戦争に勝てない。敵方が戦場において戦闘状態が不利になったときに降伏するのは,「殺されるのが怖い」し,なんといっても「殺されたくない」からである。

 殺しあいは戦争の本質から生まれている現象であり,その行為のために必要だとして調達されるのが防衛費(軍事費:国防予算)である。キレイごとで戦争経費の問題を語るわけにはいくまい。

 こういうことである。敵国の戦闘機同士が本当に格闘(空中戦を)すると,どちらかが撃墜される。そのとき,乗員はうまく脱出しないと死ぬ,すなわち殺される(その前に機関砲やミサイルが自機に命中し,直接殺されるかもしれない)。

 仮に,某国と戦争状態に入っていたとする。そのなかで,日本の軍艦(海上自衛隊のたとえば護衛艦)が某国の艦艇からいきなり攻撃を受けたさいは,集団的自衛権行使以前の問題として,個別的自衛権の行使でもって反撃できる。

 だがそのさい,自衛隊の軍艦がさきに攻撃を受けてしまい,艦橋に敵艦が発射したミサイルが命中し,艦長以下,そこに居た将官などが全員が死んだとする。その事態は,敵の攻撃によって「わが国の海上自衛隊員が殺された」のであり,その敵艦の立場からすれば「敵兵の人員を殺した」ことになる。

 こうして敵と味方が「殺し・殺される」事態は,戦争事態を常時想定して存在している軍隊組織にとってみれば,しごく当たりまえに覚悟を要する犠牲(損耗)である。戦争事態になれば,その当事国である敵国同士はたがいの戦闘行為のなかで,とくに兵員が死亡する(殺される)現象は,当然のように事前に覚悟しておくべき戦力の消耗率に関した問題となる。

 敵を効率的にやっつけるためには,敵軍の兵器(戦闘機だ軍艦だ戦車だといったもの)と兵員(将校と下士官と兵卒)などを,ともかく先に作戦上うまく撃滅しておく必要がある。

 要は,戦争は〔だから〕どうみても〈殺し合い〉である。

 つまり,相手国の兵器と兵員をなるべく多く破壊し,死滅させておかねば戦争には勝てない。日本国防衛省の自衛隊だけがそうした戦争の行為と無縁であるわけがない。いまでは,米日安保関連法が施行されているゆえ,日本の自衛隊は,戦争:戦闘のしかたとはちがい,戦争行為全般を「ふつうの国」ふうに実戦できる国家体制を構えたことになっている。

 いいかえれば,「人を殺す」ことに関して以前のように,警察官の職務執行に似せたような武器の使用法にこだわっていた制限が,完全にとっぱらわれた軍隊に,日本の自衛隊は「なれた」といってよい。それでもまだ,米日安保関連法で許されるのは,正当防衛論の範囲内だと詭弁する者もいる。

 だが,そこまでいうのであれば「攻撃は最大の防御」という理屈や,ともかく「国防軍が隣国を侵略してきた歴史」の事実を,もっと正視した議論が要求される。「自衛のための戦争」という理屈,少しズラしていえば,先制攻撃が正論あつかいもされてきたのである。

 4)  核兵器

 戦争が「政治の目的」のために「手段として使われる外交の方法」だと説明されたところで,結局は,「人を殺す」ための戦争となる事実を,あえて合理化しようとするのが「政治の機能」である。

 要は,政治が戦争に仕える関係もいちじるしく前面に突出する場合もある。戦争それじたいが初めから目的そのものであったかのようにして,いわば,そのそのぎりぎりの線にまで突きすすむことなれば,政治の機能がその目的を制御できなくなる。

 原水爆を想起してみればよいのである。戦争に勝つためであれば,この核兵器を最大限に生かしたいと欲望する「各国の政治家」は,いくらでも実在している。

 北朝鮮が核兵器を手離さないのは,その典型的事例である。北朝鮮の政治目的のための核兵器やこれを運ぶためのミサイル開発に必死であるのは,換言すれば「人を殺す」ための兵器造りに熱心なのは,そうしなければ,北朝鮮というちっぽけな国家は,アメリカが本気で総攻撃したらひとたまりもない自国だと事前に認識されているからである。

 そこで,北朝鮮人民の大部分は飢えて困っても,そのような国情などさておいて,ともかく核兵器開発1点ばりである。核兵器は人殺しためであれば,最高の能率を誇れる兵器である。政治=軍事のためには,非常に有効性の高い兵器である。第2次大戦の末期にアメリカが核兵器を製造できたとき,そこに披瀝された自信のほどを思いだしてみるがいい。

 むろん「政治⇒軍事」からだけでしか戦争の関連性を観察しないとしたら,国際政治に対する短絡した観点になってしまう。外交としての国際政治の役割・余地が大いに存在しているからである。しかし,この外交のあり方そのものがくせものである。軍事問題といつも絡めて利用(悪用)されたり,あるいは外交の駆け引きそのものが軍事的な次元に引きずりこまれたりもする。

 5) 戦争の意味そのものは「人を殺さねば」うまく発動しきない

 ヒトラーがオーストリアなどを併合したとき,外交交渉でそれを実現していたが,両国間にある圧倒的な軍事力の格差が背景にあった。いうことを聞かねば戦争が起こり,オマエの国の人間がたくさん死ぬぞと脅迫した。いいかえれば「戦争で貴国の多くの〈人を殺す〉ぞ」という脅しをもっての,戦争なしでの侵略行為が,そのときには実現させられていた。

 軍隊の任務(仕事)は有事のさい効率的に敵軍を破砕し,敵国の兵器もできるだけ多く破壊することであるゆえ,そのさい,敵の軍人を殺すことは当たりまえも当たりまえであって,いかに多くの敵兵を死滅させ敗退させるかが重要となる。

 防衛予算(軍事費:国防予算)を「人を殺す」ための予算だといっていけない理由は,なにもない。直接的にそう正直にいったら問題であって,間接的にほかの表現でいえばいいというような「性質の論点」でもなかった。

 自衛隊員も常時,戦闘行為(殺人をいかに効率的に遂行するかという課題)のための訓練をしている。小銃を撃つとき「いったいなにを狙って撃鉄を打つ」のか? 敵兵である。チョウチョウや雀を撃つなら空気銃で十分であるし,場合によってはパチンコで足りる。
 
 北朝鮮がデポドンなどを日本を横断する経路で発射させようとするとき,日本側は自衛隊に迎撃用の地対空ミサイルを運用させているが,これはいったいなんのためにおこなっているのか? 日本国民を「殺させない」ためである。もちろん,その前に国家の枢要施設が破壊されるような事態を事前に回避するためである。

 具体的にいま,日本の自衛隊が北朝鮮からのミサイルを迎撃できるのは,以下の兵器であるが,しかし,その軍事的な有効性に関しては疑問が大きい。
 
 ▲-1「実際に配備されている」のが,つぎの兵器。

  海上自衛隊のイージス艦からの「SM-3」での迎撃
  航空自衛隊のパトリオットから発射する「PAC-3」での迎撃

例のJアラートの関係は?

 ▲-2「日本にはまだ配備されていない」のが,つぎの兵器である。アメリカにはPAC-3より高々度で迎撃できる「THAAD」も配備されているが,日本には導入されていない。

 以上のうち▲-1は実際に発射されたことはない,▲-2はミサイルに対してはたして,有効性ある迎撃をできるかどうか疑問が大きい。北朝鮮がミサイルを発射することが事前が分かったときは,必らずこのペトリオットが引き出されてあちこちに配置されているが,何カ所かに置いたところでほとんど意味のない兵器である。

 6) 特攻隊(特攻攻撃)

 特攻隊とは,「人を殺す」ための軍隊が,自軍の兵員を兵器と一緒に殺してしまう方法で,敵国の兵器を破壊し,兵員を殺すための戦法である。だが,自国兵員はなるべく「戦争で殺さない」ようにし,「敵国兵員をできるかぎり多く殺す」という戦争の基本原則からは,大きく外れる戦法がこの特攻隊の特攻攻撃〔とこれに充てられた兵器の使用法〕である。

 そもそも,負け戦である結果が判明していたからこそ,その特攻隊は案出された戦法であったが,ここまでに戦争が至ると,クラウゼヴィッツの戦争論の範囲からは,類推が非常に困難というか,予知不能の戦争事態が生まれていたことになる。

 7) テロという戦争形態

 2016年6月29日日本時間の時点で報道されていたが,トルコで発生したある自爆テロの事件は,つぎのように伝えられていた。

   ☆ トルコ主要空港の自爆攻撃で36人死亡,首相「IS関与か」☆
      =[イスタンブール 6月28日 ロイター]
     http://jp.reuters.com/article/turkey-blast-idJPKCN0ZE2SJ=

 トルコのアタテュルク国際空港で6月28日に起きた自爆攻撃について,ユルドゥルム首相は,現場の状況などから過激派組織「イスラム国(IS)」の犯行である可能性があると述べた。

 首相は現場で記者団に対し「これまでに36人が死亡し,負傷者は多数出ている」と説明。重傷者もいると明らかにした。当局によると,負傷者は150人近くに上っている。

 ある当局者は死亡者について。大半がトルコ人だが外国人も含まれていると述べた。ただ,死傷者の国籍など詳しいことは分かっていない,としている。NTVは,当局は3回の爆発があったとしており,3人が自爆したとみていると伝えた。

ISのテロ事件か

 自爆テロは,日本帝国が編み出した戦術である特攻隊の現代版(発展形態)であるが,「人を殺す」ためであれば「自分も平気に死ぬ覚悟(殺されるつもり)」でのテロ敢行である。もちろんのこと,テロ自爆行為に走る人びとも政治目的を抱いている。そのためにテロをおこなっている。政治が人を殺すことと無関係どころかが,まったくイコールに近いところに位置している。

 

 ※-4 軍隊組織の本質をなにも判らぬ安倍晋三君が自衛隊の任務・仕事など語るなかれ

 はじめの話題に戻る。本日の記述の主題は「防衛費(軍事費:国防予算)が「人を殺す予算」でないと理屈で説明できる者はどこにもいない-奇妙奇天烈なやりとりがなされる日本の政界の奇怪さ-」と名づけていた。

 要するに,その理屈にもならないような〈いいぶん〉は,「防衛費は『人を殺す』ための予算」ではないという1点を,まっとうに説明できているのか,という問題意識から批判されていた。

 「軍事費・防衛予算」は,戦争行為(国際法上規定されている)「殺人行為・破壊行為」を合法的におこなうために,必要な人員や物的な装備を調達するための財政問題である。戦争において「人を殺す」ことは犯罪ではない。そのための防衛費でもある。軍隊としては,「人を殺す」ことを回避できない。当然の任務・仕事である。

 このことに関して,日本の自衛隊3軍を,他国の軍隊とを比較してみるに,いまでは,基本的になんら変わる点のない軍隊に変身した。この自衛隊の変身を強いたのは,ほかならぬ安倍晋三元首相であった。この点を自己認識できていないこの人であるゆえ,後段に言及するごとき,ヘンテコな自衛隊に関した感情論を吐いていた。

 いざとなれば「人を殺す」のが自衛隊の本務である。このあまりにも当然である軍事問題を,奇妙にもこねくりまわして問題にするこの国の,それも政治家たちがいる。この人たちは,政治も戦争もその本質について,その初歩からしてなにも判っていない。新聞報道も,優秀な記者たちを大勢かかえていながら,以上に述べたような論点に言及していないようである。

 さて,安倍晋三首相は〔2015年6月〕26日午後のことであったが,長野県茅野市のJR茅野駅前で演説し,共産党の藤野保史政策委員長が同日のNHK番組で防衛費に関して「人を殺すための予算」と発言したことについて,「とんでもない侮辱ではないか」と強く非難した(http://www.sankei.com/politics/news/160626/plt1606260030-n1.html) と報じられていたが,これこそ「とんでもなく〈無理解の発言〉」であった。

 国家予算の問題と自衛隊の任務・仕事の問題とは,ひとまず完全にかつ別個に配慮すべき論点を有する。自衛隊員がたとえば,戦闘行為の現場で相手を攻撃し,殺したら,そして,この事実〔戦場で敵を射殺した・人を殺したこと〕を他者が指摘したら,「侮辱したことになるのか」。

 安倍晋三のように,自衛隊員としての仕事・任務を遂行したに過ぎないことを,幼稚な子ども並みの理解力でそのように断定できたのだとしたら,その愚かさは理解しがたい。

 この人(元首相)は,いったいどのような脳内細胞の機能発揮によって,「議論にもなりえない発言」をしていたのか? 自衛隊員は軍人であるかぎり,安倍晋三君が施行してくれた安保関連法のせいで,場合によっては本格的な戦闘がおこなわれている戦場に送りこまれる可能性が出てきた。

 安保関連法のなかには「抗命罪」も設けられた。上官に反抗する,つまり命令に従わない隊員は罪に問われる法律が正式に用意された。なぜ,こういう法律が置かれるようになったかといえば,戦場・戦闘という〈実際的な想定〉を踏まえての,自軍において「人を殺す」という行為・場面に対して「規律・統制の強化」が必要になったからである。

------------------------------


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?