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佐藤勝巳が書き残した在日批判論の偏屈ぶりに垣間見えた旧・大日本帝国的な意識の残滓(1)

 佐藤勝巳という朝鮮問題の専門家とおぼしき人物譚,秘話を語るというよりは,ただ独話していたかのような,それも「反面教師」的書物の転倒的な語り口を,いまさらのようにあらためて吟味してみたい。

 この記述が念頭に置く佐藤勝巳の書物として,『「秘話」で綴る私と朝鮮』晩聲社,2014年がある。この本は以下の記述のなかで登場させるが,自伝としての特徴がよく表出されていた。
 付記)冒頭の画像はこの佐藤勝巳著の表紙カバーの一部(上半分)から借りた。


 ※-1 まず,ウィキペディアに書いてある佐藤勝巳「概説」を参照する

 佐藤勝巳(さとう・かつみ,1929年3月5日-2013年12月2日)は,日本の評論家・雑誌編集者・人権活動家であり,とくに「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」初代会長を務め,現代コリア研究所所長でもあった経歴が,本記述においては関心を向ける履歴となる。

 佐藤は新潟県出身,元日本共産党員であった。旧制中学を卒業後,新潟県立巻高等学校を中退し,川崎汽船に勤務するが,1950年,労働組合専従だったためにレッドパージを受け失職する。

 事後,在日朝鮮人の帰還事業に参加し,北朝鮮から2度(1962年11月10日,1964年9月23日)にわたり勲章(「朝鮮民主主義人民共和国赤十字栄誉徽章」)を授与される。在日韓国・朝鮮人差別反対運動にもかかわった。

 しかし,北朝鮮の実態に失望し,日本共産党を脱党,反北朝鮮的立場へと転向した。北朝鮮に拉致された日本人の救出運動に乗り出したが,一方でみずからが北朝鮮へ送り出した人びとの支援救出運動にはかかわらなかった。

 佐藤がかかわってきた主な活動は,以下のとおりである。

▲ 佐藤勝巳・活動歴 ▲

1957年 新潟市で民主商工会活動に参加
1958年 在日朝鮮人の祖国帰国実現運動に1984年まで参加
1960年 日朝協会新潟支部専従事務局長,帰国運動と日韓会談反対運動に
    参加

1961年 『朝鮮研究』創刊(11月)
1964年 上京,日本朝鮮研究所所員,翌年から事務局長
1968年 金 嬉老事件裁判で特別弁護人を務める

1969年 出入国管理令改正反対運動に参加
1970年 日立就職差別事件裁判にて原告補佐人 
    以後,個人に対する多くの反民族差別運動に関与,この後,反
    北朝鮮的立場へ転向,「研究所」も編集方針を転換した

1984年 現代コリア研究所(日本朝鮮研究所を改称)所長
    『朝鮮研究』 も『現代コリア』に改題
1996年 北朝鮮情勢について新潟市で講演,横田めぐみの拉致事案を地元
     関係者から聞き取り,水面下で情報を提供し始める

1998年 「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会
    (救う会)」会長
2007年 『現代コリア』廃刊(11月),インターネット・ウェブ上に活動を
    移す

2008年 「救う会」会長辞任(名誉会長就任要請を拒否)
2013年12月2日 肺炎のため逝去,84歳没

佐藤勝巳・経歴

 ★ 佐藤勝巳をめぐる争論 ★

 2004年6月23日に兵本達吉が,会への寄付金1000万円を着服した疑いがあるとして,佐藤と(横領行為の証拠を隠滅したとして)西岡 力副会長(現:会長代行)を刑事告発した。

 兵本は『週刊新潮』」(2004年7月29日号記事「灰色決着した救う会『1000万円』使途問題」)で,つぎのように述べている。

 「私が監査人から聞いた話では,情報提供者とは韓国に亡命した北朝鮮の元工作員です。970万円は,500万円,170万円,300万円の3回に分けて支払われたそうです。しかし,1人の元工作員にそんな大金が渡っているとは信じられません」

 「500万円の一部は,元工作員がソウルに所有しているマンションのローンの返済に充てられたそうです。生活費も出していたとのことですが,いくら何でもやりすぎ。やっぱり,佐藤氏らが辻褄あわせをしたのではないか」

 同記事によれば,肝心の佐藤は「取材は受けられない」と逃げるばかりだった。佐藤は西岡 力,島田洋一,増元照明らがカンパ費で飲食しており,「救う会」「家族会(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)」で問題になっていると批判した。

 佐藤によれば,西岡 力(現「救う会」会長)は平田隆太郎事務局長とともに,横田 滋・元「家族会」代表,増元照明事務局長に身を寄せ,組織内部で佐藤の意見を抑えてきた。

 佐藤によればまた,横田はNGOレインボーブリッヂの小坂浩彰としばしば飲食をし,運動の内部情報を小坂を通じて北に流している。佐藤は激怒し,横田を家族会代表から更迭すべきと主張したが,西岡と平田は「そんなことはできない」と頑強に反対した。佐藤は西岡と平田が横田を辞めさせられないから,北に甘く見られるのは当然だと述べている。


 ※-2 佐藤勝巳『「秘話」で綴る私と朝鮮』晩聲社,2014年は,「秘話」の暗域を「秘匿」した自叙伝みたいな回想録

 この本,佐藤勝巳『「秘話」で綴る私と朝鮮』晩聲社,2014年4月25日は,出版されてから10年近くが経っている。アマゾンのブックレビューには正直な感想が寄せられているが,4点の投稿がなされているだけで,いま〔2023年6月16日〕となってその程度の関心しかもたれなかったのか,という印象がある。

 その4点のアマゾン流「書評」から満点(5点)を付けていたレビューを紹介してみたい。2014年5月2日に投稿されていた。

 a) 筆者は「閑居人 殿堂入り」で,「5つ星のうち 5.0」の評価,題名は「佐藤勝巳が見た『在日』『韓国・北朝鮮』と研究者・活動家たち」であったから,この本が新刊として発売された時点ですぐに入手し,読了ののちすぐに,この書評を書いていたと思われる。

 以下,その本文を引用しつつ記述するが,「北朝鮮による日本人の拉致問題」をめぐり,この国際問題に関心をもって群がってきた,そのもっとも代表的・典型的な人物:佐藤勝巳の「本性の一端」が理解できそうな本であった。

 ーー〔本書佐藤勝巳『「秘話」で綴る私と朝鮮』晩聲社,2014年は〕昨〔2013〕年12月に亡くなられた佐藤勝巳氏の「遺稿集」である。

 「在日」の多くの問題,「金嬉老事件」「日立就職差別事件」「北朝鮮の実態の暴露と朝鮮総連との戦い」「拉致問題と『救う会』」・・・佐藤勝巳氏の生涯は,日本社会の一部に深くかかわって,さまざまな事件と人びととの関係を切りむすんできた。

 佐藤勝巳氏を嫌いな人は多い。佐藤勝巳氏を「許せない」と語る人もいる。

佐藤勝巳・画像

 「佐藤が批判する日本共産党や朝鮮総連の権威主義,ダブルスタンダート,独裁的で独善的な決定方法と実行・・・それらは,すべて,佐藤勝巳本人に対していえることだ」という批判がある。

 b) そういったことは承知のうえで,本書は,やはり読むだけの価値があると思うのである。

 1950年代~1970年代にかけては,まだ,多くの人びとが社会主義の未来に希望をもっていた。その時代の,寺尾五郎や玉城 素,山辺健太郎といった大学に属さない研究者・活動家の群像が甦ってくる。

 寺尾は,「38度線の北」というルポ作品と190センチ近い長身のため人中でも目立ち,また話が抜群に面白かったため,「北朝鮮幻想」と「帰国事業」の責任を問われることが多い。そういった人びとが佐藤からどうみえたのか,佐藤が書くことがどこまで正しいかはともかく,佐藤なりに正直に書いたものだろう。

 補注)この手になる本の読み方や評価については,「書くことがどこまで正しいか」という点そのものよりも,「必らずしも書いていない自分の過去もあったはずだ」という関心を向けて,あえて深読みする接し方も必要である。
 
 c) 評者が,佐藤の存在を無視できなかったのは,1980年代に『現代コーリア』〔という雑誌〕があったからである。韓国人や在日の知人・友人が周辺にいた関係で,評者は彼〔ら〕に対して無関心でいることはできなかった。

 補注)『現代コリア』は,任意団体であった現代コリア研究所が発行していた朝鮮半島情勢等に関する月刊誌(年10回発行)で,1961年11月に創刊され,2007年11月に休刊となった。 なお,前段では『現代コリア』の誌名を誤記していた。以下にも同じ誤記がつづく。

 この問題にもっとも誠実に取り組んでいるのは『現代コーリア』と思えた。実は,評者は,この研究所を一度訪ねようとして,当時,何度か電話したことがあった。しかし,応答はなかった。そのため,とうとう訪れることもなく終わった。

 d)「拉致問題」とのかかわりは,とくに佐藤の「毀誉褒貶」にかかわるものである。ここでも,活動家としての存在に対して痛烈な佐藤勝巳批判は多い。それに対して,本書は「佐藤から見た弁明の書」という位置付けになるだろう。

 補注)この「痛烈な佐藤勝巳批判」「対して」「佐藤〔自身の立場』から見た弁明の書」という位置づけは,かなり不可解である。このあたりに関した疑問点は,本記述の後段で言及・説明するところとなる。

 書かれていることの中身については,対立する当事者からみれば,たがいに反論すべき部分が大半だろうから,一方的にあげつらうことはできない。また,晩年の佐藤はしばしば「推測」「憶測」の虜になって歪んだ見方をしているという指摘もあった。

 一つの時代を生きた「佐藤勝巳から見た現実」をまったく無視することもできないが,「家族会」について,名誉に関わるこのような書き方をする晩年の佐藤は,なにに,突き動かされていたのだろうか。

 e)「追記」 この書物〔『「秘話」で綴る私と朝鮮』の〕なかで最大のスキャンダルは,佐藤が北海道のパチンコ業者から提供された自身の一千万円の使途不明金にはいっさい触れず,逆に,横田 滋さんが小坂某なる詐欺師に騙されて家族会の資金の使途不明金を出したと書いていることだ。

 このことについて,「救う会」「家族会」「特定失踪者調査会」の幹部はいずれも激怒している。佐藤が書くような事実がなかったからである。

 これまですでに,「横田めぐみさんの子どもが金 正雲〔正しくは金 正恩〕である」といった本も出版されている。

 補注)「横田めぐみさんの子どもが金 正恩」なる説を訴えていたのは,飯山一郎『横田めぐみさんと金正恩』三五館,2012年。この点については,つぎの※-3で関説する。

 今回も,「韓流」で儲けた韓国系のこの出版社に対して「出版差し止め訴訟」も検討されたが,「美味しんぼ」のような騒ぎが出版社を儲けさせるその二の舞を避けるために無視することにした経緯がある。

 こうした情報操作の背景に朝鮮総連の影があることは間違いない。(引用終わり)


 ※-3「えっ,ホント?『金正恩の母が横田めぐみさん』というトンデモ説」『日刊ゲンダイ』2012年9月4日(これは配信記事の日付で,発行日は9月1日)

 〔当時の話題であったが〕4年ぶりに日本と北朝鮮の政府間協議がおこなわれ,拉致問題の解決に期待が集まっている。そんな折,ネット上で話題になり,あらためて注目されている本がある。今〔2012〕年1月に出版された『横田めぐみさんと金正恩』(三五館)だ。1977年に拉致された横田めぐみさんが,実は金正恩の母親だというショッキングな内容なのである。

『日刊ゲンダイ』2012年9月1日

 著者の飯山一郎氏は汚泥処理機を開発・販売する会社を経営するかたわら,古代史研究や株取引アドバイザーなどの仕事もしている。これまでの報道や独自取材によって,故金 正日総書記がめぐみさんを計画的に誘拐したと結論づけている。

 飯山氏がいう。

 「金 正日がめぐみさんに狙いを定めたのはお母さんの横田早紀江さんが高貴な家柄の出身で,その血筋を求めたと考えられます。めぐみさんは平壌に60カ所ほど残る昔の王宮を提供されて不自由のない生活をし,金 正日が組織したスパイ養成機関で日本語を教えていた。

 金 正日に大切にされ,いつも平壌のデパートで日本の三越や伊勢丹から取り寄せたブランド品を買っていました。残された写真のめぐみさんがオシャレなコートを着ているのはそのせいです。19歳になる9カ月前の1983年1月に金正恩を産んだと思われます」

飯山一郎『横田めぐみさんと金正恩』

 日本人が後継者候補を生んだことがしられると不都合なため,金 正日は正恩の母を高 英姫ということにした。北朝鮮の首脳はめぐみさんを国家元首を生んだ “国母” として敬っているという。

 補注)この「高 英姫」という氏名の女性は在日出身の朝鮮人で,「北朝鮮への帰国事業(韓国側にいわせると「北送」)によって北朝鮮に渡った女性。関係する記述がすぐあとに出てくる。

 では,めぐみさんが帰国する日は来るのか。

 「めぐみさんは大韓航空機爆破事件の真相をしっているので,北朝鮮は正式に返さないのではないか。その代わり,すでにお忍びで帰国して京都のホテルでご両親に会ったという説もある。めぐみさんと正恩が親子であることは元料理人の藤本健二氏や拉致被害者の蓮池薫夫妻もご存じだと思いますが」

 にわかには信じられないトンデモ説だが,めぐみさんと正恩の顔をよくみみると似ているようでもある。もしかして……。(引用終わり)

【参考画像資料】-北朝鮮王朝の関連-

李垠と方子
 
横田めぐみ関連の情報について


 ※-4 北朝鮮拉致問題に群がった日本の有象無象的な人士たちの代表格が佐藤勝巳

 この佐藤勝巳については,在日韓国人のある識者がつぎのように「根本から批判を徹底的にくわえていた」が,佐藤側からは「これにいっさい反応すること」はなかった。佐藤勝巳が他界するまでその間,10年間以上は別所に掲示されていた文章であった。

 なお,以下に紹介するもとの文章全体は長文であるゆえ,以下に引用する部分はその一部分でしかない。その全文をただちにここで紹介できないゆえ,また機会をあためてにしたい。32年も前に書かれていた一文であった。

 本日の「本稿(1)」だけのその文章を収めたら,あまりに長文になるので,ここでは分割したかたちにしておき,明日以降に残りの段落を,続編「本稿(2)」にゆずることにした。

 ◆「問われる在日韓国・朝鮮人-佐藤勝巳『在日韓国・朝鮮人
      に問う』亜紀書房,1991年の「奇妙な批判」に論駁する ◆

 1) 冒頭

 1991年の梅雨が明けたある蒸し暑い日,私は1冊の本を一気に読んだ。その本の題名は『在日韓国・朝鮮人に問う』,著者は「在日」韓国・朝鮮人問題の研究家,佐藤勝巳である。佐藤は,日本人と在日韓国・朝鮮人〔在日とよぶ〕の相互理解と友好増進を願って,同書を刊行したという。

 佐藤勝巳は,在日の「一部」法的地位は日本人・本国韓国人よりも優位となり,いわば特権的地位を手にし,さらに多くの「特権」を要求している。これでは,日本社会と在日とのあいだに「新しい」亀裂が生じるほかない。限度をこえた在日の要求は日本社会との「共存・共生」をむずかしくするという。

 また彼は,「在日」韓国・朝鮮人問題にながくとりくんできた専門〔活動〕家であるけれども,その発言には傾聴すべき意見が多くあったなかで,しかし,その主張にはみのがしえない重大な誤謬や要らぬ脱線もあった。

 2)在日韓国・朝鮮人気質

 佐藤勝巳は,1964年から日本朝鮮研究所に関係しはじめ,翌年に同事務局長となる。

 まず,金 嬉老事件(1963年春)で本人に会い,彼の人格に「原コリアン」の姿をみいだした。それは,正直に自分の感情を表明するが,自分の振りは認めず,相手の非は過大にいう人間類型だという。この「原コリアン」は,佐藤の在日「人」の原像となった。

 佐藤は,1970年から朴 鐘碩の日立就職差別裁判にかかわる。そこで日本企業への就職は在日の同化になるという「在日」の考えかたに触れる。つぎに1970年代前半の出入国管理法案反対運動にかかわる。そこで同案の反対者がその内容をしらずに騒ぐのをしる。

 佐藤勝巳は入管問題に関係するうち,在日のもつ価値観は「法律は破るもの」という考えかたに接し,日韓両民族の法観念にある落差を感じる。「在日」⇔国会議員⇔上級官僚の関係に馴れあいが生じたら,日本国家はこまる。「入管ブローカー」の存在や賄賂の金の動きも察知できた。もっとも佐藤は,その金の貰い手側の実態に言及しない。

 佐藤勝巳は,最近の日本に入国が増加している外国人〔労働者〕(とくに長期滞在・永住希望者)と,1920年代に日本にわたってきた在日1世とをだぶらせると,現在の在日の行動様式が現実味を帯びてわかる気がするといっていた。とはいえ,佐藤は両者の,単純には比較できない歴史的事情を先刻承知のことと思うが,こちらへの配慮がまったくといいほどない。

 3) ここで,ここに紹介している文章から導出できる【仮説】を設定しておく。

 韓国・朝鮮人も日本人も文化が異なるものに拒絶反応をしめす民族であり,「在日」が差別といってきた部分の多くは,そのちがい・差異に由来する。佐藤勝巳は,両者間に介在するという,相互のちがい・差異に対する「拒絶反応」を重大視している。

 4)「在日韓国・朝鮮人」像と母国語問題

 在日の民族差別をともに闘ってきた佐藤勝巳は,反省を要するのは民族団体の幹部だという。内部での足の引っぱりあい。北朝鮮系「総聯」は,日本企業への就職や社会保障の適用が在日の同化になるとして,これに強く反対した。

 また佐藤は,流言蜚語は在日の多くに共通するものであり,政治的立場からちがうと事実の確認もせずに推測で相手を誹謗中傷する習性があると指摘する。

 日立就職差別裁判の朴 鐘碩には朝鮮語もしらないとの非難があり,本人はだいぶ動揺した。しかし在日1世が2世に母国語を教えたかどうかは,両親の自由意志による。日本にはそれを制限する法律も社会的圧力もない。1世たちはなぜ日本語を子どもたちに教えたのか。これは在日として,生きることを選択したことになる,という。

 --さて,このへんまで話が進んだところで,早くも,佐藤勝巳の発言がその道の専門家らしくない筆致をみせはじめていた。在日1世が2世に母国語を教えようとしなかった〔それも自由意志! それをじゃまする法律もなかった!! 〕という発想は,「在日」問題の専門家のものとは思えないほど粗雑に過ぎた意見であった。

 日本人の海外居住者は60万人をこえる(注記,本稿執筆時点1991年での話)。国外で日本人子弟(小中学生4万9千人)の日本語教育にその両親たちがどのくらい苦労しているかについては,ここで触れないが,周知のことがらである。

 戦前の事情はともかく,敗戦から今日まで,日本社会が在日の母国語習得に支障を与えなかったという事実認識は,完全に間違いである。この事実は戦後史が事実そのものとして記録されてきた。在日は,幼少のころから自国の言語-伝統-歴史-文化に誇りをもてなくなるような社会的圧迫感を,この国から受けつづけてきた。これは在日問題の専門家であれば,ただちに同意する認識であった。

 1世が2世に韓国・朝鮮語を教えず,なぜ「日本語」を教えてきたかなどと問いつめられると,正直いって当事者たちは絶句するほかあるまい。その土地に生まれた人間は,ふつうその土地のことばをしゃべるようになる。

 「教えなかった」ことが,ただちに「教える気もなかった」ことまでを意味しない。北朝鮮系の民族学校では強制的に,母国語を完全に習得させている。もっとも,こちらの学校で教える朝鮮語はあまり美しいことば遣いになっておらず,在日流の独特のクセがある。

 4) 現行の外国人登録法は(これはここでも1991年当時までにおける発言である),在日の韓国・朝鮮語の使用に無言の圧力となっている〔外国語「韓国・朝鮮語」を街中で話す人間は,「在日」→外国人登録法の規制対象→外国人登録証明書の常時携帯義務あり→違反には罰則! であった〕。

 佐藤勝巳は,1世が2世に母国語を教えなかったことを,1世が日本に「在日」として生きることを選択したというふうに解釈するが,これは短絡もいいところであった。1世は教えたくても教えられず〔生活が精一杯でそんな余裕などまったくなかった〕,2世は習いたくても習えない環境〔民族学校があっても潰された・習いたくても近くに教育してくれる場所がない・公的扶助もない〕にあった。

 佐藤勝巳は,人間が「どこに住むようになったかの問題」と「言語習得の問題」を,なんら識別もせずに,意図せずしてかつ意図的でもあったが,混同した議論を,しかもごり押ししていた。

 日本社会は在日系民族学校に反感・反発をもち,「官-民」一体となってその存立を否定的にみてきた。大昔,京都韓国学校の移転改築問題は,解決までなんと20年を費やした。アメリカン・スクールならどうだったか,おフランス系の学校だら,どうであったか。後者の実例が東京都では記録されているが,大歓迎……。こちらは小池百合子都知事の治政下の話題であった。

 5) 指紋押捺問題

 佐藤勝巳は,1955年に導入された外国人登録法の指紋押捺制度に,当時在日は反対せず,1984年~1985年に反対運動をはじめたのはおかしいという。

 しかし,それは歴史の流れを否定的にしかみない解釈で,佐藤のいいぶんのほうが,はるかにおかしい。在日は指紋押捺制度を甘受していなかった。当初から拒否者はいたし,反対の動きもあった。ただし,その拒否者は重罰をうけている。

 1985年に急激に巻きおこった「指紋押捺撤廃運動」は,過去に蓄積されてきた在日の怨念〔韓国語でいう恨:ハン〕の,また反対意思の爆発であったに過ぎない。

 佐藤勝巳は,出入国管理法案や外国人登録法の問題で在日たちに,彼らの法的地位や処遇に関して多くの講演をしてきたが,彼らはほとんど関心をしめさず,たまにあっても「自分たちは外国人だからしたがわざるをえない」という反応だった。

 ところが彼は,指紋押捺撤廃運動がはじまってからは,それらの法には「屈辱で体が震える」というのはおかしい,と非難したのだから,在日問題の専門家がこの程度の認識か,という基本的な疑念が湧いてきた。

 時代の流れの変化が,国際情勢の体制が,そして戦後日本の民主主義教育をうけた在日2世・3世たちの意識の変革が,かつては仕方なく我慢をしてきた「不愉快」を,時代の流れのなかで徐々に「屈辱」そのものに感じていったのであり,かつての「したがわざるをえない」を「体が震える」怒りにかえさせたのである。

 そうした在日側の意識の変化を,ごく表面的にしか理解しようとしない佐藤勝巳の前段のごときに示された,それもひたすら一方的な在日非難は,その道においては専門家であったはずの自身の立場が,いかに便宜的な手段である意味しかもちえていなかったかを,逆説的にであっても明確に教えていた。

 在日の若者がとくに少年時代に強いられる「指紋押捺」の体験は,当時,あの暗いやりとり〔役所の一角で,曇りガラスで仕切られた場所で担当公務員を相手におこなわれるもの〕は,表現しようのないほど陰鬱であり,屈辱的でもあった。警察署で指紋を採取されるあれとまったく同じであったと,その感想が述べられていた。

 佐藤勝巳は,外国人登録制度をアウシュビッツになぞらえるのは,限度をしらない比喩だという。たしかにそれはいいすぎであろう。しかし,旧日本帝国支配下の朝鮮半島は実質アウシュビッツのようだった。その国家管理を担当する立場にあった国家官僚群が,敗戦後の日本においても「在日韓国・朝鮮人」を抑圧的に管理・支配する役目を果たしてきた。

 敗戦まで,朝鮮-日本本土,そのほかの外地でどのくらいの数の朝鮮人が殺され,奴隷のように酷使されていたかは,証拠隠滅もあって定かではないが,その被害者=死者の数だけでも,数十万の単位に達するはずである。

 6) 本名と通名

 佐藤勝巳は,在日の日本名使用問題は,これを日本社会の民族差別のみで説明するには無理があるという。4世の代まで半世紀以上も日本に住むのだから,日本と異質な風俗-習慣-価値観などもって生きていくことは,現実的に無理なことだといい,だから日本名の使用は当然だという。

 しかし,氏のこの主張は視野のとりかたがせまい。海外に移民した日本人は,いまも日本の名字をつかいつづけている。海外の移民日本人も3・4世〔からさらにその以降〕の世代になっている。最近では,日本人たちの姓名であっても,日本的・日本流ではない日本人としての名字と名前をもつ人がいくらでもいる。

 日本の姓では昔からある「金(こん)」〔「今」「昆」「近」も同源,もとは朝鮮系〕があるが,「李」や「朴」「崔」「鄭」などの姓がこの国にあって悪い理由はない。その使用に差別や偏見の視線をむける社会のほうが問題ではないだろうか。

 孫 正義は日本国籍を取得するさい,自分の配偶者であった日本人女性にまずその姓を「孫」に改名させておき,日本人の名字に「孫」があるから自分の「孫」という姓は変えないで国籍をとると主張し,これが通っていた。しかし,この話はもう昔の出来事である。

 21世紀になってから日本では夫婦別姓の話題がとくに盛んになっているが,いまだに別姓を認めない『後進国:日本』を誇る民事体制に留め置いている自民党政権の半封建制的な政治体質は,郷土博物館行きを待たれているはずであった。

 ところが,そうした連中がいまだに大きな顔をして日本の国会のなかを闊歩していながら,わけの分からぬ「家族の絆」の堅持のためには「夫婦同姓」が必要不可欠だとわめく分からず屋が大勢いる。

 だいたい,離婚する夫婦が3組に1組はいる現状において,その絆なんぞ,犬も食わず・猫は跨ぐ程度の無価値の,すなわち時代錯誤の,明治以来のデッチ挙げられた「家・家族観」であった。

 アメリカ合衆国の場合,原則的には人の姓をみれば,その出身地(出身国)がわかるものが多い。日本はその対極に位置する国である。

 ただの日本国籍人をとらえて,あいつは元在日だ,つまり帰化した(日本国籍を取った)芸能人・ミュージシャンだという密告みたいな,それでいて当てずっぽうの噂話が,最近でも盛んであるが,いったいなにをいいたいのか?

 もしかすると,そういう発言をする当人たちさえ,なにがなんだか,もう分からなくなっているのではないか?

 筆者がある人から直接聞けた話として,こういうものがあった。自家の久礼(くれ)という姓はもとは朝鮮姓の「呉」であったが,明治以降この社会のなかでは「呉」がつかえなくなり,久礼にかえざるをえなかったという。

 佐藤勝巳は,本名使用の在日は民族差別に負けない人で,通名はそれに負けた人という二分法はおかしいという。だが,こんなふうに問題がとりざたされる日本社会になっていた事実そのものにこそ,もとからのそうした病理の根源があったことをよく認識すべきであった。佐藤がいうべき発言ではないはずであったからである。

 フランスに住むのだから〔フランスでもその出身がわかる姓をもつ人間も多い〕フランス風の姓を付けましょうというのと,在日の「通名」問題とは,そもそも「歴史の背景」がどのように異なっていた経緯から生まれていたのか,このあたり論理的に整理したうえで的確に位置づけてからでないと,まともな議論は始められない。

 日本社会は,韓国・朝鮮人の姓も,この地に住む同じ人間の「名字」として,そのまま受容する気持があるのか。自国人は外国に移住しても日本姓を使うのはあたりまえだが〔ところが,この事実には触れないまま〕,日本で在日が韓国・朝鮮の姓をつかうのはまずいというのは,まさに勝手なりくつであり,前後一貫しない。それは,大日本帝国時代の植民地意識がまったく払拭できていない感覚を意味する。

 補注)1980年代になると,日本国内に居住する外国人を配偶者にもつ日本人や,海外で日本人として外国人と結婚している「日本国籍人」のあいだには,すでに多くのこどもたちが大勢誕生してきた。

国際結婚の年次動向

 上の統計図表は,2000年における「最初の10年代」の国際結婚率が6%台にまで上昇した事実を指している。その時期,日本国籍人が婚姻する数のうち「20人に1人が外国籍人であった」

 国際結婚の比率が増えていたから,その両親が儲けた子どもたちが,従来の日本的ではない名前をもって数多く登場するようになった。分かりやすく指摘するとしたら,芸能界がそのもっとも代表的な舞台である。

 7) 被害者意識

 佐藤勝巳いわく,在日はいつでも悪いのは他者で,自分は被害者に位置づける。社会保障面で制度的差別が全廃され,特別永住が実施されているのに,「加害者」日本の民族差別と偏見をいいつづける,というのであった。

 佐藤勝巳は,在日に日本国籍を与えて諸問題の解決をめざせとする論者であった。そもそも在日の問題の根幹は,昭和20年代に敗戦した日本政府が旧「日本国籍」保持者の在日朝鮮人から,一方的にそれを剥奪した事実にある。佐藤の国籍付与「論」はその時点に問題を,原点に引きもどす意味もある。いわば,ボタンの掛けちがいを遅まきながらも正そうということになろうか。

 だが,半世紀以上も住みつづけている人間に対して,社会保障の全面的適用だとか永住権〔生まれてからこのかたずっと永住してきている!〕の一律付与などといってきた,この国の施策じたいが摩訶不思議なのであった。国籍云々(デンデン)以前の問題があったとしかいいいようがない。

 8)異質との出会い:共生

 佐藤勝巳は,在日の一面観〔一面事実の針小棒大的な主張と強い被害者意識〕で,日本政府や日本人を非難する思考は,事実を重視し,責任回避を潔しとしない日本人の価値観とするどく対立するという。 

 その話は極端である。今日ある在日問題は,日本の植民地支配⇔戦争責任に対する責任回避,日本国民の加害者意識の稀薄さ〔被害者意識は在日に劣らずしっかり保持している〕のため,いっこうに好転の兆しがみえない状態を,永らく持続させてきた。

 前述した「指紋押捺制度」の廃止も,在日〔など〕の猛烈な撤廃運動があったから実現したのであって,なにもいわなければ恐らくいつまでも存続させていたはずである。

 佐藤勝巳は「指紋」の治安上の抑制力を信じて疑わないようであるが,スパイ活動防止問題と在日外国人の「指紋」問題を同一視した発想は,在日だけでなく日本人自身にもかかわる重大問題として,非人道的・反人権的なとらえかたになることに気づくべきである。

 補注)なんでも電子化されている時代になってだが,「指紋の問題」を以上にように議論すると,若干,違和感を感じる人が当然出てくる。当然である。だが,指紋を認証のためにしようする問題と,以上に触れた在日側が「犬の鑑札」と呼んだごとき,敗戦後における処理問題にかかわっていた以前の「外国人登録証」の問題とは,その問題の性質が根本から異なっているので,ここでは念のため一言添えておく。

 在日の「指紋押捺」は,専門研究者が明確にしているように,とっくの昔にその役割を終えている。スパイ活動防止をいうなら,日本人全員からも平等に同じに指紋を採らねば,その効果は薄い。

 警察および関係当局は,職務上大いに「内外」「国民」の指紋を採取する義務をもつ。だから,外登法で在日の指紋が利用できるならば,これにこしたことはない。日本人でもなにかにつけて警察署は,庶民から全指紋を最終することに熱心である。事件がらみで検挙・逮捕されたときは,必らず権力側から指紋の押捺も強制される。

 ともかく,氏の指紋問題の説明は,まるで当局関係者のような口調であり,受け売りそのままである。結局,ことの本質がみえていない。

 9)民族差別の解釈

 佐藤勝巳は,民族差別をなくすにはそれが再生産される過程や構造を明らかにしなければならないとする。けだし正論である。

 こういっていた。在日は日本社会との共存‐共生を要求する。とはいえ,なにが「異質」なのか,またそれが守るに値する「質」か否かに関する検討もなく,自分たちの主張利益を認めない日本社会がけしからんというのでは,対応のしようがないと。

 佐藤勝巳は結局,在日は自己の相対化,自己検証ができていない。ここに彼ら=在日の最大の問題があるという。日本人が自分たちを不幸におとしいれた「元凶」であり,これがよい方向に変化しつつあることを認めると,自分たちの「正義の立場」がうしなわれると思っている,ともいう。

 そして佐藤は,日本企業に定住外国人採用を義務づけたりしたら,彼らの自己努力・自己変革を軽視する傾向をさらに強めるだけで,長い目でみるとかえって不幸にするだけだと断定する。

 ここまでの佐藤勝巳の主張は,完全に逆立ちしていた。「長い目でみるとかえって不幸にするだけだと断定」したうえで,「日本企業に定住外国人採用を義務づけたりしたら」,在日の「彼らの自己努力・自己変革を軽視する傾向をさらに強めるだけ」という決めつけ方は,かなりひどい偏見の心を充満させていた。そう断定されても仕方あるまい。

 21世紀の現段階において考えよう。日本企業が定住外国人の採用などに関して,いいのだ・いけないのだと時代遅れに「四の五の」いっていたら,そもそも,そのほかすべての外国人全般からの労働者の採用じたいが成立しない。

 そうなったら,優秀・有能な人的資源である外国人人材の獲得を,当初から逸するだけでなく,自社の経営管理体制に不備・手抜かりを生じさせる。いまどきまともな大企業で,そのような外国人人材の除外をする会社など,ほとんどありえない。

 そういった現状における「日本の経営現実」は,いうまでもなく,日本の企業にとってみれば,しごく当たりまえの経営環境になっている。いまどき佐藤勝巳のような定住外国人の採用を,前段のように「ああだ・こうだ」と詮議する時代などではない。

 アメリカでは1970年代からすでに,問題をかかえながらもあれこれ実施されてきたが,アファーマティヴ・アクション(affirmative action:積極的是正処置)は,佐藤勝巳流にいうと,日本では採用しないほうがよいという論調であった。

 だが,問題解決への試行錯誤の可能性すら否定するその立場は,不可解を通りこしており,まるで佐藤自身が問題していたはずの「日本社会の偏見と差別」を自認しかねなかった。

 佐藤勝巳はさらにこういっていた。敗戦直後,在日朝鮮人たちの社会秩序を無視した行為と,李 承晩政権の日本漁船だ捕事件がなければ,日本人の韓国・朝鮮人観は現在とは大変かわっていただろう,と述べていた。

 しかし,敗戦直後の出来事⇒「解放民族」朝鮮人の乱暴・狼藉を手を拱いて黙視し,それに毅然たる対応ができず,図に乗らせたのは日本人:日本社会であった。李ラインの問題とて,韓国漁民の貧しい立場を配慮しながら観察できた人が,いったい日本がわにいただろうか。くわえて,日本のマスコミ報道の煽動的であったことは,当時の新聞をみれば露骨すぎて,みえみえであった。

 10) 佐藤勝巳の話は戦後に限定されていた。1945年以前の対朝鮮人観は,どう関連しうるか。

 敗戦直後,日本人・日本社会の自信喪失,茫然自失は,在日朝鮮人たちの跳ねあがり行動を制御できなかった。そのときの悔しい思い出もあってか,それまで旧日帝が朝鮮でなにをしてきたのかということはすっかり忘れた気分になれたのか,戦後の闇市を一時支配し,無法をかさねてきたとする,韓国・朝鮮人に対する憎悪感情=差別意識だけは,これぞとばかり強調・増幅させてきた。

 ちなみに,戦後の闇市場はなにも「第3国人」だけのものではなく,日本人にも不可欠のものであった。そのあたりの事情については2023年の段階となってみれば,専門書と啓蒙書を問わず,佐藤勝巳のような敗戦後史理解が,在日朝鮮人問題の専門家であるはずの人士の口から吐き出されていたのは,異様な姿であったと鑑札されてよい。

 明治以来の旧日帝による朝鮮支配,そして在日問題が,戦後直後の混乱期〔一時期〕に巻きおこった朝鮮人のアナーキー的行為の犯罪性によって,相殺される筋合いはない。それとこれとはひとまず別問題である。大きな鼻糞が小さな目糞の汚さをいいつのり,大便が小便のことを臭い,不潔だといいつのるは,たまらなく聞きぐるしい。

 補注)北朝鮮による日本人拉致問題が,例の「ブルーリボンバッチ」という徽章の着用で相殺できると信じこんでいる人が,きっとたくさんいると思われる。しかし,その種の感性は基本から大間違いであった。

 日朝の国交回復・正常化にそのバッチが有用だと,まさか思っているのか? 我慢してそのバッチを外すくらいの度量が,まず最初にないようでは,国際政治の交渉のためのテーブルにたどり着くことからして,だいぶ先になりそうである。

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【断わり】「本稿(1)」はここで一端区切り,つづく「本稿(2)」は,明日以降に公表したい。
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