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元号考:その3


 本稿「元号考:その3」は,日本の元号問題の本質論的な考察をおこなう第3回目の寄稿である。今回も長文であるので,その点,承知して読んでもらえることを期待したい。

 「本稿・その1」は2024年2月12日,「本稿・その2」は2月13日に公表してある。興味ある人は面倒でも,この前編を構成する2稿をさきに読んでもらうことが,順序としては内容的にも流れを追っていけることになる。

 ◆「本稿・その2」の住所はこれ( ↓ )。
  ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/nad95ea729300

 問題の要点1 天皇治世を正統化・当然視する元号問題(とくにその「一世一元」制)は,明治維新から帝国臣民への贈りもの

 問題の要点2 世界に冠たる天皇制のいまどき〈特異性を誇る奇妙さ・珍種ぶり〉に気づきたくない元号問題の,旧大日本帝国の遺風たる奇怪性

 

 ※-1 元号問題再考-明治の創作由来- 

 1) 鈴木武樹編『元号を考える』1977年
 ここでは,1970年代後半に公刊された元号に関する著作をとりあげ議論したい。

 最初にとりあげるのは,鈴木武樹編『元号を考える』現代評論社,1977年である。本書は,日本だけに残る元号制は一見進歩的にみえても,本質的にはきわめて保守的な日本人の性格を顕著に示すと断定している。

 年を数えるのに2通りの方法は必要なく,実用的な面からはただ混乱を招くだけである。世界の一員として日本が活躍するためには,元号制の廃止を実行すべきである。

 元号制の採用・不採用は,天皇制の問題とはまったく別のことがらである。現に女王の君臨する英国において,元号制のようなものはない。

 註記)鈴木武樹編『元号を考える』現代評論社,1977年,28-29頁。

鈴木武樹


 この鈴木武樹の見解・批判はもっともである。しかし,元号にこだわる側にすなおに受けいられる批判ではない。英国はキリスト教国であるからもともと西暦で済むのであって,日本は別だという反鈴木武樹への反論〔というか単なる反撥)もただちに出てくる。とはいっても,西暦と元号を二重に使用する不便は,いうまでもなく,誰もが感じている。

鈴木武樹の本
 

 にもかかわらず,いまでは日本政府は元号法を,罰則はないが法律で制定している国家である。日本以外に元号を法律で定め使用している国家は,先進国にはない。もとよりそのような暦制度じたいが存在しない国家が,圧倒的に多数である。元号にこだわる国家意識じたいからして,もともと先進的とは思えない。

 補注)最近の日本は「衰退途上国」だと自嘲的にも自称するほかない「政治3流・経済2流」の国家体制に地盤沈下を体験してきたなかで,自国の時間を刻む「年単位」として元号,それも「一世一元制」を恥ずかしげもなく法律でも決めているのだから,まともな先進国とはいうのは苦しい。

補注

 さらに,鈴木武樹編『元号を考える』に説明させる。明治天皇が,孝明天皇の死(慶応3年12月25日)のあと翌年の1月9日に践祚したが,すぐに改元がおこなわれず,9月8日に「明治」に年号があらたまった。このとき同時に「一世一元」,天皇1代に1年号に定められ,「本稿(その2)」にも説明されたごとき,祥瑞・災異や「革命」などによって年号を替えることがなくなり,従来の年号と考え方が大きくかわった。

 要するに,明治の時代になってから急に「天皇の治世」と年号との関係が強くなり,天皇の在位を示す符牒(シンボル)という性格に変化したのである。このために以後は,年号(元号)が「天皇生きた時代」の名称に転用されることになった。

 註記)鈴木武樹編『元号を考える』106-107頁。

 2) 天皇の治世と改元の関係

 天皇の治世と改元の関係でみると,昔は天皇の践祚とともに改元された例はほとんどなく,即位後2~3年経ったあと,大嘗会のさいなどに改元された例が多い。また,天皇の治世がかわったにもかかわらず,相当期間にわたって改元されなかった例も,数例ある(天平宝字,応永,天正など)。

 これに対して結果的に一世一元になっていた例もある。元明天皇「和銅」,光仁天皇「宝亀」,平城天皇「大同」,嵯峨天皇「弘仁」,淳和天皇「天長」,清和天皇「貞観」などがその実例であった。

 ともかく,一世一元が制度として明治期に始まった。中国に目を向けると,唐朝の初めの高祖の武徳,太宗の貞観など個々的に一世一元的な結果になったものもあるが,王朝全体としてみて一世一元の扱いが確立していたのは,明と清の2朝だけであった。
 註記)鈴木編『元号を考える』129-130頁。

 3) 中国由来の元号(元号制)

 そもそも「元号の推進者たちが「日本固有の伝統」と主張していた元号の出典が,中国の古典である『四書五経』だという」史実は,みのがしてはなるまい。それにくわえていえば,「その中国ですら廃止となった元号をなぜ制定するのか,まったく理解できない」ことであった。

 要は,この元号制の法制化が問題にされたのは,当時の自民党「保守政権にとっては『象徴天皇制』が,その基盤を支える有力な『武器』となり,しかも,象徴天皇と国民が直接かかわりがあるのは『元号』だけという状況が『元号廃止』の動きを牽制することになった」(岩波新書編集部編『昭和の終焉』岩波書店,1990年,139頁,143頁)という利点の活用,いいかえれば,元号問題を道具として介在させる,迂回的な「天皇・天皇制の政治利用」が念頭にあったからである。

 補注)元号法は,1979年6月6日に第87回国会で成立,同月12日に公布され,即日施行。

 年号(元号)は,「日本独自」のものといわれ,ほとんどの国々では存在しない。西暦の起源がキリスト教的だとしても,これで年を数えるほうがどれほど明朗であり,国際性が豊かであることは判りやすい道理である。

 年号はそもそも,日本が独自に創出したものではなく「中国を模倣して」始めていた。これを使用しなくとも,どのような害も生じない。明治に入って創られ,使いはじめられた「一世一号」の年号であるから,慶応以前の前近代にあっては,「もう年号だけでは,歴史的世界を追うことは困難」である。

 西暦による年の表記はキリスト教とは離れている。他の宗教を国教とする国々でも,そして,社会主義国家でも使用されており,すでに人類共通の暦になっている。

 日本では江戸時代の思想家たちが,年号制を天皇信仰と切りはなして,一般民衆の立場から生活の便宜のために組みなおすことが,自然に進行していたかもしれなかった。しかし,明治期の天皇制成立がそれを逆行させ,年号(元号)に神秘的な力が強める結果を産んでいた
 註記)鈴木武樹編『元号を考える』121-122頁,143頁,149頁。

 4) 明治維新国家体制のための元号制と教育勅語

 明治政府が富国強兵・殖産興業をめざして近代化路線を歩んでいくに当たっては,国家全体主義イデオロギーの活用が必要とされた。その一環が,元号(年号)による天皇制度の政治観念的な補強であり,その国家政策的な工夫であった。

 したがって,論者によっては「普通に考えれば,建国紀元のほうが,国家統一,ナショナリズムの機運が進んでくるときには,年号よりも自然なはずで」あって,「明治に入って一世一元にしてしまうより」「神武紀元に統一したほうがむしろ筋が通ったのではないか」という指摘が,それも「イスラム教徒のように」という付言もわざわざ添えて,なされてもいた。
 
 註記)鈴木編『元号を考える』156頁。

 その指摘は,明治憲法の基本精神のなかに,大昔の神武天皇の神格性が注入されたのであれば,これをついでに元号制に対しても応用しておけばよかったのではないかという,「目のつけどころ」が面白い〈異見〉である。

 日本の天皇制にあってとくに明治以来,「万世一系の天皇制」が日本国家の基礎をなしているのだと,臣民たちには教えこんできた。「一世一元」の元号が決められたとき同時に,帝国臣民に提示されたのが『教育勅語』1890〔明治23〕年10月30日であった。

 この勅語は冒頭に,「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」と述べ,まずなによりも『天皇・天皇制あっての大日本帝国』であるとい『国家意識』を,帝国臣民に教えこんでいた。

「いいこと」も書いてあるという「滅私奉公」精神の強調
天皇のためにはいっさい疑問など抱かず「死ぬのだ」といいたかった文章

この中身にいいことも書いてあるという御仁もたくさんいるけれども
たいていは自分を除外してまま

他者に向かいそれも若い者たちにこの勅語のスバラシサを説くのだから
その発想・価値観は眉ツバものであった

 そのあとにつづけて,ようやく「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ……」という文句を登場させていた。天皇あっての大日本帝国であり,大日本帝国のという存在は,天皇によってこそありうるのだという〈国家思想〉が,教育勅語の要諦であった。

 教育勅語は,抽象的な徳目の列記に終始し,抽象的道徳の視覚からのみ政治にふれる。ただし,その抽象的道徳は,君臣の分を守るという枠のなかに閉じこめられているという点で,根本のところで政治的制約をうけている。君臣の分をこえて君を批判する普遍的な規準というものは,ないのだ。

 註記)思想の科学研究会編『共同研究 / 明治維新』徳間書店,昭和42年,648頁。

勅語批判


 すなわち明治期の指導者たちは,格調高き漢語調の教育勅語において,皇室中心主義のうちに国家と民族と公共倫理のすべてが無理矢理に押しこめていたのである。これが無理矢理な作為であったというのは,当の起草者たち自身が自覚していたことである。

 彼らは,欧米のキリスト教に当たるものが近代国民国家には必要だと認識し,それに当たるものとして,仏教・老荘・儒教などを消去法で考えていって,結局,皇室中心主義に舞い戻ったのであった。

 以後,1945年まで半世紀にわたって教育勅語が全国民に暗唱させられていったが,その最後の “聖戦” の時期において,いわゆる戦中派に特有の濃厚なコンプレックスが形成されたわけである。

 そこで,倫理といえば「国家-民族-皇室」に直結し,皇室といえば「倫理-国家-民族」に直結するというように,それぞれの項目のどれをとっても,他のすべてが同一物として反射的に連想させられるようになったわけである。このような条件反射は,絶対に不可避的な呪縛であったに相違ない。

 しかし,それは近代世界史のなかで,日本‐アジア型の近代国民国家によって刻印された〈特異なトラウマ〉であることを意識化し,寛解してゆくこともそろそろ必要ではないか。

 註記)新田 滋『超資本主義の現在-極端な資本主義と脱・資本主義との交錯として-』御茶の水書房,2001年,212-213頁参照。

 5) 敗戦後における元号制

 敗戦後に再発足させられた天皇の地位(象徴天皇)は,当初においてはいちおう政治的でありながらも,中立化されたかのような制度として存続させられていた。しかし,「昭和」という年号の形式はそのまま継承されていたから,敗戦にもかかわらず,「万世一系的なイメージ」(註記)が国民の心のなかから消滅することはなかった。

 註記)鈴木編『年号を考える』165頁。

 元号制の制定は,あたかも〈神話の世界〉における昔話を大まじめに信じてこれを根拠にして,1979〔昭和54〕年に成立させられていた。この元号法が,「元号は,皇位の継承があった場合に限り改める」と規定していたので,天皇明仁のための元号は〈平成〉に決められることになった。

 結局,元号にこめられている独占的な意味あいがなにかと問われれば,それは,天皇家の家長が日本国の支配者となり,この「君主が時間を支配するという思想が強固」なことである。

 註記)鈴木編,前掲書,207頁。

 日本国憲法が天皇に関する「第1条から第8条まで」を抱えこんでいるかぎり,「民主主義のための新憲法だ」といわれてきた法律であったとはいっても,「主権在民を否定」する基本的性格が,その第1条から第8条に厳然と控えつづけている事実に関しては,「昔も今も」なにもかわっていない。筆者はその意味では,日本国憲法は〈改正〉を要求されているとする考えに逢着するほかない。

 

 ※-2 日本国憲法と元号制


 1) 永原慶二・松島栄一編『元号問題の本質』1979年
 つぎにとりあげる文献は,永原慶二・松島栄一編『元号問題の本質』白石書店,1979年である。本書は,元号法の制定以前に元号問題を批判的に追究した書物であるが,いまでも充分に通用する議論を展開していた。本書に聞く意見は,つぎのものである。

 元号,それも「一世一元」の使用は,ちょうど明治の時代から始まった。明治は倒幕後の新政府として発足し,この明治が大正になったとたん〈大正政変〉に遭遇した。そして,この大正が昭和になったとたん〈金融恐慌〉が起きた。

 このような時代ごとの大変動に接した人びとがさらに,「敗戦:大日本帝国の崩壊」や,これに連続して起きた歴史的な出来事である「日本国憲法施行」「サンフランシスコ講和条約発効」の時点などを契機に受けとめ,元号が廃止されたり改元されたりしていたとするならば,元号というもののもつ歴史的な意義,そしてその一定の便利さを,よく自覚できたのではなかったか。

 註記)永原慶二・松島栄一編『元号問題の本質』白石書店,1979年,174頁。

 この指摘は,日本の近現代史において大きな区切りとなった出来事に注目し,明治以来の元号制に古代史的な視座をすきこんだ意見を示している。つまり,明治と大正の時代が,それなりにまとまって観察できるかのような様相=時代の区切りをみせたのとは百八十度異なったのが,昭和の時代,その足かけ64年であった。それは「敗戦を体験した:させられた昭和の時代」であった。敗戦後は,占領から独立への道程も経てきた。

 しかし,「一世一元」という元号制に関して創られていた「明治以来の新伝統」があったせいか,この法律がなくなっていたはずの敗戦後史においてでも,昭和の「改元は実施されることがなかった」

 昭和の時代においては,改元するとしたらこれに値する大事件がいくども発生していた。大東亜戦争・太平洋戦争での「敗戦」という歴史の出来事が,まさにそれであったはずである。ところが,改元はなされなかった(⇒しかも天皇裕仁は戦争敗北の責任をなにもとらなかった)。

 「一世一元」によった元号運営の決まりが明治時代に創られており,ともかくこれが「敗戦後においても」そのまま準用されたわけである。元号というものの大昔からの性格とは似ても似つかない要素が,「明治以来の昭和の敗戦」に遭遇して明確に露呈させられていた。

 2)「敗戦体験」の無意味さ

 ともかく明治憲法のもと,改元は天皇の治世1代ごとにするものだと決めておいた。ところが,天皇の威光によってこそ存立しえていたはずの「大日本帝国」が『敗北した』という重大事態の発生があったにもかかわらず,なんとか「日本国」へと生き延びていった。天皇制そのものも,なんとか延命できていた。

 その点でいえば,あのダグラス・マッカーサー元帥は偉大であったかもしれず,天皇裕仁の敗戦後史においては間違いなく,たいそうな恩人であったはずである。

 しかし,この米軍の陸軍元帥よりも自分が旧日帝の陸海軍を統べる大元帥であったという意識を,政治精神面では秘めていないわけではなかった事情もあって,マックが日本を去ったあと,裕仁氏はもともと「思い出したくなかった当該の過去史」を,つまりはその「敗戦後史に記録された〈重大な一幕〉」を,ひとまずは皇居の敷地のなかからはきれいさっぱりに掃き出すことができ,かつまた,ついでに忘却することもできる気分になれていた。

敗戦後史におけるマックと裕仁の間柄

 1945年8月15日に--正式には9月2日。この日に日本政府は,ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した--敗戦した旧大日本帝国は,そのさいに改元をほどこすことはなかった。元号古来の性格に照らして判断すれば,時代の推移:激変にそぐわないまま,それも無理やりといういうまでもなく,ただなんとはなしに,天皇裕仁のための「昭和という元号」が「敗戦という恥辱」にもめげずに継続されることになっていた。

 敗戦後における元号法の制定は,そうした大日本帝国から日本国への移行のなかで,元号であった「〈昭和〉という名称の価値」が完全に破壊されつくしていたにもかかわらず,これを敗戦後も使用していかざるをえなかった事態を糊塗するためになされた,と観察されてもよいのである。つまり,こういう憲法上における「連続性有無の問題」として観察することもできる。

 天皇の地位が,国民がみずから統合したことの消極的反映であれば,国民みずから統合した日こそ時代区分の画期であって,戦前戦後を通じて昭和という同じ元号が続いて良い筈はない。それと反対に,天皇地位が国民に対する形式的統合力をもつならば,天皇の死は時代区分の一つの画期として,まんざら無根拠でもない。

永原・松島編『元号問題の本質』109頁

 ところが,明治以降における日本帝国主義は,初めから「天皇による一世一元」を志向していたために,敗戦という一大失地にこの帝国あいまみえたときでも,昭和天皇が自身の地位に執着する経緯も重ねられた事情も絡んでいて,元号制そのものを廃止するどころか,昭和という験の悪い元号をそのまま使いつづけることになっていた。あるいは,元号そのものを廃絶するうえで,絶好の機会に恵まれた歴史の場面に邂逅していながら,元号制を捨てることができなかった。

 参考にまでいえば,天皇・天皇制を捨てることを「許さず」(?),これを大いに利用しつつ,敗戦国日本を占領・支配・統治することにしたアメリカの立場は,日本国が元号を使おうが捨てようがそこまでは関心がなく,そのどちらでもかまわなかった。こうして,きわめて『縁起の悪い元号「昭和」』が,敗戦を経て存在する法的根拠がなくなったのちも,つづけて使われることになっていた。

 その意味では,元号の使用に関する歴史的な論点は,アメリカ側における「消極的なあつかい」と日本側の「逃げの姿勢」とが重合・増幅された関係をもちながら,敗戦後における日本社会の表層をひたすら漂流してきたことにもなる。

 3) 現代天皇制における元号制

 だが,昭和天皇が亡くなったあと平成天皇に代替わりすると,いまここでとりあげている文献,永原・松島編『元号問題の本質』1979年は当然,適切に対応できない時代的な変質が生起していた事実に言及していた。

 たしかに,年号(元号)は,「天皇の国家支配の呪術的シムボルであり,絶対者としての天皇の権威を神秘化して人民に浸透させる政治的道具であった」。それによって「天皇の地位の正統性を認め,それの権威に服することを意味していた」

 註記)永原・松島編『元号問題の本質』32頁。

 むろん,この基本点に大きな変質はないものの,しかし,「天皇が政治反動の武器として利用されているなかでは,元号法制化は,いやおうなく,天皇に対する崇拝を,国民に法律で強制する意味をもつことになり」,「これが右翼やファシストによる再版『昭和維新』運動,政府による再版『国体明徴』運動に途を開く契機になる」(註記)と批判されていた論点については,くわえて,こういっておかねばならない。

 註記)永原・松島編,前掲書,189頁。

 昭和天皇裕仁の世代が終わって,その息子明仁の天皇世代になった。この時期においては,「昭和」維新に相当するような時代の変遷は起こりようもない時代に移行したと判断してよい。このことは,現在の天皇明仁の抱くと思われる〈天皇意識〉にかかわる論点を意味する。
 
 明仁天皇は,戦前版=裕仁風の天皇像は極力回避しながら,妻の美智子とも手を組んで,天皇家のよりよき「生き残り戦略」を模索し,実践してきている。「21世紀における天皇・天皇制」としては,彼らの歩んできた足跡に即して,未来予測的に考えねばならない課題が与えられている。


 ※-3 元号の不便さと非合理性

 1) 不便な元号の特徴

 以上のように歴史学的に議論されるからといって,元号問題の本質そのものは,それほどむずかしく考える必要がない。たしかに「日本が民族特有の年代表現をとるということじたいの問題はさらに考えてゆくべきであ」る。

 しかし,「それを天皇の在位で区切り,一世一号が変えられていくということが,いかに不合理なものであり,時代認識や適切な歴史感覚の形成をむしろ妨げているかというころ」を,まず最初にしかと把握しておかねばならない。

 註記)永原・松島編『元号問題の本質』18頁。

 「不合理」だといえば,21世紀になってもたとえば,下2桁だけを用いて,年を表現する出版物もごくたまであるがみられる。少し以前の話となるが,時代:年の表記でたとえば「55年」と書かれていたとき,これが1955年なのか昭和55年なのか迷うといったふうに,ただちには判別しにくい場合が生じることもあった。

 その時代はまだ20世紀における年の指摘に関した例であったが,さらに,2013年を13年と略記することもある。こちらは平成13年なのかなどと,つい思いこんだりしてしまうことがある。2000年が平成12年であり,1900年が明治33年であり,1926年が大正15年であるが,これらのうち,後者の年号(元号表記)のあいだにあっては,連続させうる手がかりがなにもない。

 だが,元号制に固執する立場の人びとにとってすれば,天皇制に対する深い思い入れが,そのような混乱を「止むをえない現象」とみなさせるのかもしれない。とはいえ,この種の不必要な混乱を招来するだけの「元号使用における不合理性」は,せいぜい「無用の付用」「無理の冗理」以外のなにものでもない。

 2) 国家意識イデオロギーとしての元号問題

 いまだに「元号法制化の真の狙いが,天皇中心主義による『国民意識の統合』,すなわち天皇の元首化,新しい『天皇制』を確立しようとすることにあることは明らかである」こと,「そしてそのために『元号慣習論』が巧みに利用されている」ことが指摘されてきた。

 註記)永原・松島編『元号問題の本質』67頁。

 その点についていえば,21世紀の今日になっても,前世紀から不変であるように映るのが「右翼・保守・国粋・反動勢力側の欲望的な事情」である。

 しかし,それら諸集団側における「時代に対する頭の切りかえの方法=改元」は,時代の流れ:変化にほとんど着いていけず,完全にとり残されている様子がうかがえる。

 最近は,右翼陣営でも21世紀の現在になってからもあらためて,「新右翼」という用語を使っている集団・人物がいるが,この名称は,旧来型の右翼運動の時代遅れ性(戦前型・旧套へのガンコな執着性)を意識する立場を反映している。

 仮にでも,天皇中心主義による日本政治が確立したところで,はたして,これが日本における民主主義の発展とどのように関連するのか,まったく見通しがつかないでいる。というかそれは,無理難題というそのまた以前の「珍問答世界」のほうへ飛翔しかねない。

 そもそも明治「維新」が展開・進展していくうちに,いうなれば『「錦の御旗」の本家本元』を近代政治の世界に直接もちこんだところからして,ボタンのかけ違いがあった。

 たとえ,それが「コロンブスの卵」だったとしても「一度かぎりの使い勝手」の良さであったに過ぎないモノを,そもそも「明治の維新」の総決算としての「坂の上の雲」が,1945年夏になると暗雲となってこの国の神聖性を雷撃・破砕した事実など,きれいさっぱりと忘却できたつもりなか,

 しかもこんどは中身の腐ってしまったその卵をなおももちだしたあげく,ささに使いまわそうとしたごとき意図は,どうみても完全にみえすいた時代錯誤であって,つまりは,前近代的・半封建的な「古代遺制の再生利用」にしかつながっていなかった。

 その意味でも,日本国憲法の第1章「天皇」が,第1条で「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と断わりながらも,同時に第2章で,「皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する」といってのけているのは,

 明治憲法(日本帝国憲法)の改定によって発生した,いいかえれば,敗戦後アメリカに押しつけられた日本国憲法に固有の痼疾だった大矛盾を,現在も平然とかかえこんでいる事実を,いつまで経っても正直に認めつつも,平然と語りつづけてきたことになる。

 アメリカから押しつけられた「日本国」憲法なのだといっては,大いに不満を口にし,文句を付けていながらも,とりわけ,その天皇制に関する条項や,さらには憲法に違反する問題だとして半世紀以上も議論されつづけている自衛隊3軍の存在に限ってみれば,保守・右翼・国粋・反動陣営は,とくに天皇関連の諸条項については,これまでも,いっさいなんら批判も反論もすることもなく黙って「甘受」してきた。

 しかも,そのうえで実際においては,それらの状況をあたかも喜んで利用しつづけてもきた。自衛隊などはいまでは,米軍のお手伝いがりっぱにできるほどにまで強力な暴力装置,正式な軍隊編制にまで成長しえているし,すでに実際にそのような「米軍の2軍」としてならば,立派なアメリカのための予備軍化している。
 
 在日米軍の須要な基地である橫田基地が実は,日本国防衛省自衛隊3軍の総司令部が設置されている場所だという「政治・軍事」論的な観察は,伊達や酔狂で指摘されてきた「日本軍事史上のひとつの重大な事実」ではない。

 そうした事実に比べれば元号制の問題は,この日本国憲法の花園に咲いた一輪の醜い徒花といえなくもない。天皇・天皇制がなくなれば,元号制も要らなくなる。自明の理である。

 元号問題などに関心を向けていて,天皇・天皇制の問題にかまけているかぎり,アメリカ国務省と国防総省のほうから観た日本という国とこの日本人たちは,どこまでもお人好しの無知人たちが構成するめでたい花園だとみなしている。

 ここで,だから(?)話は,一気に飛躍する。天皇たちは,できれば京都御所に還ってもらい,人間集団としての天皇家と皇族たちが存続していく生活の範囲内で,元号の継続・保存もなされればよいのである。それを,古代妄想的に現代の日本社会に向けてまで,法律で罰則なしでも実質で強要したところからしてどだい無理があった。

 せいぜい,古代史からの伝統を尊重した「改元の方法」,この原点に舞いもどってもらう必要があるかもしれない。文化や伝統としての元号としてあつかえばいいものを,じかに政治の世界にもちこむものだから,要らぬ摩擦や不便を生起させるだけであった。

 ひるがえって考えるに,在日米軍基地の問題および自衛隊3軍の実在は憲法第9条にぶつかる問題であり,これに対してそれもその前項に置かれた条項として,第1条から第8条に「天皇」関係の憲法規定が堂々と並んでいる。第9条の変質は第1条から第8条の座りを大きく揺るがせている。この現実的な問題に本気で真剣に取り組みながら生きてきたのが,平成天皇であった。

 3) 平成天皇の立場

 平成天皇は天皇の地位に就いたとき,自分は日本国憲法を守ると,あらためて公言していた。永原・松島編『元号問題の本質』1979年は,「元号法制化の真のねらいが,天皇元首化のための礎石をすえること,それへ向けての国民思想の統制にあることは,明らかである」(同書,75頁)と危惧していた。この危惧に対して一定の歯止めは,平成天皇自身の口から発せられていた。

 1990〔平成2〕年12月20日,「天皇陛下お誕生日に際し」て,赤坂御所でおこなわれた「天皇皇后両陛下の記者会見(即位の礼・大嘗祭を終えられ)」のなかで,彼はこう発言していた。

 「今の気持ち」(これは記者側の表現である)は,「憲法を守るということ,これにつきるわけでその憲法のいろいろな条項がありますけれど,それに沿っていくということになると思います」。

平成2年=1990年
この前年1989年にもたれた行事のひとつが
つぎの画像資料
平成天皇となった明仁の表情は喜色満面
その表情は左右の画像ともによく出ている

 しかし,平成天皇が皇位に就いたばかりころ,1990年の時点において,自分の「いまの気持ち」として表明していた憲法順守の基本精神とはかけ離れた地平において,日本国「天皇元首化のための礎石をすえること」や,「それへ向けての国民思想の統制」といった国家主体側の企図は,支配体制側における国民統治の意図・観点から絶えず渦巻いていた。この動静に対して,象徴天皇側がどのように対応してきたのかは,まだ分かりにくいことが多い。

 天皇明仁の思う方向とおりにはいかせようとしない宮内庁じたいの態度や政府側の思惑や期待が,天皇家の諸行為に対する介入や圧力となって複雑に混じりあう力学を構成していた。こちら側における事実は,21世紀に入った今日においても基本的に継続されつづけており,ある種の「国家側の露骨なひとつの意思」としても明確に混成的にも表現されている。まず,1990年以前に登場していた関連の法律を挙げておく。

 4) 平成時代における反動形成-21世紀のこの時代にあの19世紀に戻りたい人びとが実在する-

  イ)「建国記念の日」が制定されていた。 ……1966年〔昭和41〕年祝日法改正にもとづき「国民の祝日」にくわえられ,翌1967〔昭和42〕年2月11日適用,その趣旨は「建国をしのび,国を愛する心を養う」とされていた。人びとに対して国を自然に愛しうる国にするのが,政治家の役目であるはずのところが,逆転の発想によってなのか,「愛国心」を強要するためのる「国民の祝日」を置いている。

 ロ)「元号」が法制化されていた。 ……1979〔昭和54〕年6月6日「元号法」成立,同月12日公布・施行。この元号(年号)の制度については,神話によって「自国の誕生日」を定めるという「古代史的な幻想ないしは妄想」が,精神的な根拠に動員されて法律が定めるものとなっていた。神武天皇には父や母がいたのではないか。なぜ,神武がヤマト:日本国の創業人物に決めうるのかという疑問は,不問に付されてきた。

 そして,1990年以後になると,つぎの関連する法律が出てきた。

 ハ)「国旗国歌法」が制定された(1999〔平成11〕年8月13日に公布・施行)。当初は強制しないのがこの法律だと,当時の小渕恵三首相みずからが説明(弁明)していたが,すぐに強制するための法律に化けていた。事実においては罰則規定などないにもかかわらず,国民側に対して容赦なく強制される「法律」になっている。

 「本稿その2」でも触れた話題であるが,再論しておく。

 平成天皇が,のちの2004年10月28日のことであったが,赤坂御苑で開かれた秋の園遊会の場でこういう応答をする一幕があった。

 あるプロの将棋打ち出身の教育委員会関係者(米長邦雄)が,お調子に乗って「自分たちが国民に国旗を掲揚(強制)させる役目を果たしている」などと自慢げに天皇に語りかけた。

 ところが,これに対して明仁は即座に「やはり,強制になるということではないことが望ましくない」と返していたが,これは小渕の説明をただ反復したに過ぎない。天皇には,それ以上の口出しはできない問題であったゆえ,明仁はその応答においてはそれなりに緊張感をもって接していた。 

 ニ)「特定秘密保護法案」も国会を通った(2013年12月13日公布,2014年12月10日施行)。これはアメリカの軍事的属国としての日本国の地位を,より本格的に固定化するための法律である。戦前・戦時体制に向いたい帰巣本能が呼びもどされた感があった。

 しかし,21世紀においてこの法律が成立した意味は,米日軍事同盟関係のなかで発揮されるべき1点に集中されているところが,従前とはまったく異なっている。

 ホ) さらには,以下の政治情勢の進展があった。

  a) 国家安全保障会議の設定。

  b) 集団的自衛権行使容認(2014年7月1日)。「安保関連(戦争)法案」は2015年9月に成立,2016年3月に施行。この法律によって日本は,アメリカに対する属国的な位置づけを,より明解に定義し,かつより完全に実現させた。

 安倍晋三は2015年4月下旬に首相として訪米したおり,米上下両院合同会議で許された演説のなかで,日本の国会でまだ決まっていないその安保関連(戦争)法案を「成立させます」と,先走って報告していた。

 安倍晋三というこの首相は,トンデモない売国的言動をしてきた「日本国の最高責任者であった」。そうだと非難されてもなにひとつ反論すらできない,いわば国辱・国恥の路線を忠実に披露した「世襲3代目の政治屋」であった。

  c) 武器輸出禁止3原則の緩和(骨抜き)。最近(2024年になるいまごろ)になてみると,日本はこの禁止3原則をほぼ完全にナマコ状態にまで変質させている。

 

 ※-4 天皇明仁の苦悩-民主主義と天皇制の根本矛盾のなかで-

 1)「平成における天皇の立場」

 平成天皇は,憲法において規定されている「自分の立場」がどのような形式ならびに実質になっていて,また,その実際上の運用が憲法第7条に定められた「天皇の国事行為」からどれほど逸脱し,かつ違反していようと,彼自身がこれらじたいについて進んで詮議するごとき発言は,非常に用心深くしており,けっして漏らすようなことをしていなかった。

 補注)ただし,自分が退位した問題については,厳密にいえば憲法を完全に軽視した「根回し的な言動」を画策したうえで,それを実現させていた。当人が死亡しなければ天皇の代替わりはありえない現憲法のありように,一穴を確保したことになる。

補注

 天皇家の人びとは,自分たちがかかわっているいわゆる「(ご)公務」のなかには,形式面でも実質面でも憲法の規定に収まりきらない,しかももりだくさんの中身をかかえた〈仕事〉に従事してもいる。こうした皇室に発する諸風景を,われわれはよくみすえて,天皇・天皇制問題を観察し議論していく必要があった。

 ともかく平成天皇は明確に「憲法を守る」と発言してきた。だが,この真意が奈辺にあるかは,今後も慎重に吟味していくべき論点である。これは,本書全体を通して究明すべき研究課題である。

 補注)ここ数日前のニュースを紹介しておく。これは2015年中の報道であったが……。


          ☆ 皇太子ご一家,那須で静養 ☆
        =『朝日新聞』2015年8月25日朝刊=

 皇太子ご夫妻と長女愛子さまは8月25日,静養のため,栃木県那須町の那須御用邸付属邸に入った。JR那須塩原駅から車に乗りこむさい,薄緑色のワンピース姿の愛子さまは,にこやかな表情で,集まった人たちに手をふってこたえていた。約10日間滞在する。

「いつもにこやか」という動作はけっこう疲れるはず

 宮内庁東宮職によると,学習院女子中等科2年生の愛子さまは8月初旬,静岡・沼津での臨海学校に参加。約3キロの遠泳を泳ぎ切った。学習院女子大学で開催された英語教室に参加するなど,充実した夏休みを過ごしているという。

 さて,この種類の皇室関連の報道(皇族たちの日常生活の動向に関するもろもろのニュース)は,逐一「事実報道」されねばならない重要・必須・不可欠な情報であるかのようにとりあつかわれている。

 率直にいってまるで,一時期に(2024年からだとかなり昔の話となるが)マスコミ界を騒がせていた「パンダ情報」や「コウノトリ情報」並みの報道が,こちら皇族たちについては休みなく,いつもなされている。

 内閣や宮内庁は「天皇の行為の範囲」を,実質においては非常な広範囲にまで拡延している事実:現状を,絶対に撤回も修正もしようとはしない。その関係でいえば「天皇の政治利用」は,憲法からの逸脱や違反だという解釈・批判など,実際的にはものともしていない。そのどころか,機会をみてはより積極的にその領域を,可及的に最大限にまで拡大・深化させてきている。

 たとえば,皇太子の妻:雅子に対する〔ここでは2015年を起点にした〕過去10年以上にもわたる「ご療養生活」,いいかえれば「公務不熱心」「宮中祭祀忌避」の態度に対する世間の非難は,いったい,どのような憲法上にある規定ないしは根拠にかかわり発生しているのか。この点を一度でも意識的に考えてみればよいのである。

 2) 皇室という制度的存在

 日本の皇室の存在じたいに満載されている不当性・不法性・違反性は,「菊のタブー」に護られてこそ,穏便に済まされている。こうした論点はここでは詳論しないが,天皇の「内奏」問題に至っては,憲法を厳守すべきだという観点に限っていっても,「昭和天皇の〈治世〉」のときには,あまりにも露骨に政治介入し過ぎていた。

 この「昭和天皇に関する歴史の記録」を想起するだけでも,天皇の行為のなかには,「国事行為」からかけ離れた政治干与が盛りだくさん記録されていたことに気づくはずである。この歴史の事実については,豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』岩波書店,2015年が,歴史本質的な分析と批判をおこなっている。

 その歴史的な関連で観れば,「名目だけの天皇主権性で,実見を藩閥や政党や軍部に奪われ,苦渋を飲まされつづけてきた裕仁天皇にとって,象徴天皇制を厭う理由はなかった」とも観察できる。

 註記) 秦 郁彦『昭和天皇五つの決断』文藝春秋〔文庫版〕,1994年,250頁。

 ただし,この秦 郁彦の見解は天皇・天皇制擁護の論者である観点からのものであり,注意して聞いておく必要がある。

 前段にも触れたように,昭和天皇裕仁が実質的には戦前・戦中に比べたらはるかに自由に,あたかも「絶対君主に近い振るまい」を恣意的にできていた。それゆえ,父のその履歴を目の当たりにしてきたその息子の平成天皇明仁が,戦後の「日本国憲法を守る」ことを言明するに至る事情が生じるのは,これまた当然の経緯であったともいえ,それなりに彼なりの深慮遠謀もあった。

 3)  宮内庁監修『昭和天皇実録』全19冊,東京書籍,2015年

 本節の最後では,2014年1月1日に報道された『読売新聞』のつぎのニュース,「黒塗りせず『昭和天皇実録』公刊へ……宮内庁方針」を紹介しておく。

 宮内庁が24年がかりで編修作業を進めている昭和天皇の生涯の動静を記録した「昭和天皇実録」が今春にも完成し,新年度から順次,公刊される見通しとなった。戦前から戦中,戦後の激動期を含めた昭和天皇の初の包括的公式記録で,一部を消す「黒塗り」はしない。新資料も含まれ,昭和史研究の基礎資料として専門家が注目するだけでなく一般にも高い関心を呼びそうだ。

 天皇実録は元々,完成時の天皇に献上するために作られており,ほぼ同時期の公刊はされてこなかった。明治天皇紀は1933年(昭和8年)に完成したが,刊行は35年後の〔19〕68年から。大正天皇実録は,情報公開請求により,完成から約65年後の2002年から〔20〕11年まで,4回に分けてようやく公開された。

 当初宮内庁は,昭和天皇実録の早期公開に消極的だったが,「国民の財産でもあり,昭和天皇の事績を広く知ってもらうべきだ」として方針転換。公刊に伴う費用として2014年度予算に600万円を盛りこんだ。

 註記)『読売新聞』2014年1月1日,http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140101-OYT1T00225.htm

『昭和天皇実録』公刊

 そもそも「天皇(家)のための実録なのか」,それとも「国民のための実録なのか」という見地から提示する問題意識そのものが,どだい,当初より倒錯の歴史観になるほかなかった。

 なかでもとくに,もともと「国民の財産」だという表現が解しづらい。なにをもって「国民の財産」に「天皇実録」がなりうるのか,感性的・情緒的ではない理性的・学問的な説明=理屈づけができる「関係者:歴史研究者」はいないのか? 

 前出,豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』岩波書店,2015年7月は,『昭和天皇実録』公刊を契機にあらためて,「昭和天皇史」を検討・吟味している。

 同書は,なかでも昭和天皇裕仁が記録してきた,とくに敗戦後における「象徴天皇の立場」を,みずから完全に無視して政治的な行為に走っていた場面を,真っ向から批判的に分析していた。

 なお昭和天皇実録は,誕生(1901年)から,87歳での崩御(〔19〕89年),大喪儀の終了(〔19〕90年)までを記録の対象とし,昭和天皇の活動や言動を,月日を追って(編年体)記録したもの。

 参考にされたのは,侍従の日誌や,侍医の拝診録,歴代首相の日記,当時の報道のほか,宮内庁が約50人の側近から聞きとった内容や公になっていない側近の日誌など多岐にわたる。

 註記)以上,前記『読売新聞』2014年1月1日より。

 「日本国・民統合の象徴」である「人間天皇」に関して,この宮内庁の編集作業を経て制作された『公式伝記』の公表が,はたして,どのような意味において「国民の財産」たりうるのかについては,もっと慎重な議論を要する。

 また,『昭和天皇実録』に記録されたとする《事実》のみが,「天皇に関する歴史を完全・包括・網羅に物語るもの」たりえないことも,これまたたしかな「歴史の事実に関する当然の理解」である。

 要は『明治天皇紀』『大正天皇実録』と同様に,日本天皇史に関する一資料である『昭和天皇実録』の過大評価は禁物であり,特別視などまでを,うかつにもしてしまったぶんには,「日本史=天皇史=正史」などと,それも嬉々と錯覚しかねない「粗忽な歴史好事家」を輩出(排出)しかねない。

 なお『昭和天皇実録』に関する各種の著作がすでに公表〔および予定〕されている(ここでは2015年8月26日で区切っているので念のため)。即応的に出版されていた書物であった。

 ◆-1 半藤一利・保阪正康・御厨 貴・磯田道史『「昭和天皇実録」の謎を解く』文藝春秋,2015年3月。

 ◆-2 保阪正康『昭和天皇実録 その表と裏〈1〉太平洋戦争の時代』毎日新聞出版,2015年3月。

 ◆-3 保阪正康『昭和天皇実録 その表と裏〈2〉太平洋戦争敗戦・満州事変とファシズムの時代』毎日新聞出版,2015年7月。

 ◆-4 栗原俊雄『「昭和天皇実録」と戦争』山川出版社,2015年8月。

 ◆-5 勝岡寛次『昭和天皇の祈りと大東亜戦争-『昭和天皇実録』を読み解く』明成社,2015年9月。

 ◆-6 半藤一利・岩波ブックレット『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』岩波書店,2015年9月。

 ◆-7 原 武史『「昭和天皇実録」を読む』岩波書店,2015年9月。

 なかんずく「元号の本質」とは,いったいなんであったのか?

 

 ※-5『昭和天皇実録』に関する韓国報道機関の批判

 以下に韓国関係の記事を引用するが,他国の視点にはどのように天皇問題が映っているのかしるのも大切である。

 米国の歴史学者でニューヨーク州立大学ビンガムトン校のハーバート・ビックス名誉教授は,中日戦争と太平洋侵略戦争など昭和の激動期に,日本君主として君臨したヒロヒト(裕仁・1901~1989年)日王について操り人形ではなく黒幕(背後の操作者)と評価した。

こういった図柄は日本ではどういう印象がもたれるか?

 「ヒロヒトと現代日本の形成」(Hirohito and the Making of Modern Japan)の著者であるビックス教授は2014年9月30日(現地時間),ニューヨーク・タイムズ(NYT)寄稿文を通じて,日本宮内庁がヒロヒト日王の生涯を記録した『昭和天皇実録』を最近完成し公開したことに関連し,このように評した。

  --中略--

 教授はこの寄稿文でヒロヒト日王の実録公開は,最小2千万人のアジア人と米国,英国など聨合国国民10万人余りを死に追いやった,日本の過去の侵略戦争に対する省察を提供する機会にならなければならないが,実録は日本の過去の歴史の重大問題を回避していると指摘した。

 教授はまた,実録はヒロヒト日王について慈悲深く受動的な指導者という偽りのイメージを永久化しているが,ヒロヒト日王は1926年即位の時から祖父の明治日王から受けついだ無責任で複雑なシステム内で動いた躍動的な君主だと話した。ヒロヒト日王は総理が内閣決定に対する日王の承認を要請する前に,日王が意思決定過程に口出しできるよう作られた体制で動いたと教授は強調した。

 教授はヒロヒト日王が水面下で動く体制だったので,この体制を通じて補佐官らは日王が自分たちの助言により行動しただけと主張したが,実際はヒロヒト日王は絶対に操り人形などではなかったと説明した。

 教授はまた,ヒロヒト日王が1931年,日本軍の満州侵攻を防げなかったが1937年〔7月7日〕,中国に対する全面的な侵略を承認したのに続き,中国内での化学武器の使用をコントロールし,米国真珠湾空襲を承認し,戦後は憲法により統治権を剥奪されたのに政治に持続的に介入してきたと付けくわえた。

 教授はしかし,『実録』を読んでみた結果,編集過程で重大な脱落と恣意的な記録選択が発見されたと明らかにした。日本の月刊誌『文芸春秋』2014年10月号が保阪正康等3人の作家によって,重大な記録脱落が明らかになったと紹介した。

 さらに,実録はヒロヒト日王が敗戦不可避となった時期に降参を遅らせるよう意地を張った点を確認させてくれるといい,日本がもっと早く降参していれば,広島と長崎への原爆投下などは避けることができたと話した。

 教授は結論として,第2次大戦終戦後,約70年の歳月が流れたが,ナチの戦犯責任を認めたドイツと異なり日本は,戦時行為に対する全面的な省察に乗り出したことがないとし,日本が過去の歴史を見過ごして無視するやり方では韓国など周辺国との関係を改善できないと忠告した
  (ソウル = 聯合ニュース)リュ・チャンソク記者

 註記)『デイリー韓国』(韓国語)「ヒロヒトは操り人形でない背後操縦者」,http://daily.hankooki.com/lpage/world/201409/dh20140930182350138450.htm

 前段に挙げておいた「『昭和天皇実録』の解説書」はすべて,日本人識者の手になる著作である。だいぶ時期は遅れると思われるが,ハーバート・ビックスや以外の外国の研究者たちが,この『実録』に関連する研究をおこなうことになれば,日本人識者だとどうしてもつきまとわざるをえない制約:桎梏などない討究がなされる可能性が高くなる。これは当然のなりゆきである。

 日本人識者による研究・解説に関していえば,絶対に「生来の菊タブー的な限界・制約がいっさいない」と請け負えるはずもない。この点は,途中に出てきた文献,豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本-〈憲法・安保体制〉にいたる道-』岩波書店,2015年7月のようなすぐれた労作であっても,完全には回避できていない。ここには,天皇・天皇制を研究する日本人研究に特有の陰影が観察できる。

 前段の点は,外国人研究者であってもドナルド・キーンのような歴史学者は日本寄りに軸心を完全に移した人物は,前段の指摘から除外されえないので,ひとまずは念のため断わっておきたい。

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【付記】なお本稿の初出は,2015年8月26日であるが,本日2024年2月14日の再公開にさいしてはもちろん,補正・改訂して記述した部分がある。
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