博士号の学的水準(前編)
※-0 日本の大学院はなぜ冴えない状況に置かれてきたのか?
いまから16年も前になるが,私学高等教育研究所客員研究員 山本眞一(広島大学高等教育センター長)「大学院問題を考える 知識基盤社会に向けた改革プランを」『アルカディア学報』No.346,2338号,2008年11月12日,https://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/346.html が,こう語っていた。
※-1 大学院重点化の展開
1) 狭義の説明(以下,太字の強調は引用者)
a) 1990年代に一部の国立大学に対しておこなわれた大学院重点整備政策,およびこれに対応する当該国立大学の行動を指すが,公立・私立大学を含め,その後さらに多くの大学において広まった大学院教育重視の行動および政策も含めて指すことが多い。
日本の大学院制度は,明治期の帝国大学設置のさい,分科大学とともに大学を構成する組織として発足したが,実際には研究者を志す少数の者のための仮の宿り場としての性格が強かった。
つまり,制度としてはアメリカ流の大学院を取り入れたものの,運用上はドイツの大学のように徒弟訓練的研究の場として使われていたに過ぎなかった。
補注)「分科大学」とは現在でいう学部のこと。
第2次世界大戦後の教育改革のなかで,日本の大学にはアメリカ流の高等教育制度がそれまで以上に多く取り入れられ,なかでも大学院は修士課程と博士課程からなる「課程制大学院(日本)」として位置づけられ,一定の手順を踏んだ教育訓練を経て,修士や博士の学位授与に至るというシステムが構築された。
ただし実際には,戦前からの徒弟訓練的運用から容易に脱却することができず,とくにそれは文系の大学院に顕著であった。
また文部省は,国立大学については当初大学院の設置を厳しく抑制し,当初から博士課程の設置がセットされていた医学・歯学分野を除けば,旧制の帝国大学および官立大学の流れを汲む大学・学部についてのみ大学院研究科の設置を認めていた。
その後,社会的ニーズの高まりや大学関係者の熱心な努力によって,修士課程が各地の国立大学に設置されるようになり,さらにこれが博士課程の設置にまで広がるようになった。なお,この時期の大学院は一部の独立研究科やいわゆる連合大学院を除けば,学部と一体として運用されており,大学院は専用の人員や施設・設備をもたず,学部の付属物に過ぎないと批判する声も多かった。
大学院の設置は,私立大学や公立大学においても,当該大学の学術研究レベルの高さを示すものとして重視されていたが,とりわけ国立大学においては,大学の運営費(校費)や大学院を担当する教員の給与上の格差となって現れるため,大学院を持たない,あるいは修士課程のみを設置する大学や学部,さらには大学院を担当しない教員にとって,大学院や博士課程の設置・拡充はいわば悲願であった。
1991年に大学審議会が大学院入学者の倍増を提言した背景には,そのような事情もあったと考えられるが,ただし,修了者の需給関係を十分に考慮しない拡充は,その後深刻な就職問題を引き起こし,現在に至っていることに留意する必要がある。
b) 同じく1991年,東京大学法学部において,これまでの枠組みを崩すような制度的・財政的枠組みがつくられた。
従前は学部を本務とする教員が大学院研究科の教員を兼任するという制度であったものを,本務を研究科担当教員とし,その傍ら学部教育を兼務するという形につくりかえることによって,法学部における大学院部局化を成しとげ,同時に校費の25%増を実現したものであった。
その後,この枠組みは東京大学のほかの部局および旧制帝国大学の流れを汲む北海道大学,東北大学,名古屋大学,京都大学,大阪大学,九州大学にも広がり,また一橋大学や東京工業大学にも拡大した。
大学院部局化は,その後各地の主要な国立大学にも拡大したが,積算校費の制度変更等によって,大学院部局化に伴う大幅予算増のメリットは失われ,さらに2004年の国立大学の法人化によって,狭義の大学院重点化は終わりを迎えることになった。
しかし,その後も大学院を重視するという広義の大学院重点化が終わったわけではない。予算増を伴わない大学院改組・拡充は,国立大学のみならず公立・私立においても盛んに行われるようになり,いまや「大学院教授(日本)」なる教員の肩書きが普及するなど,その影響は各般に及んでいる。
2) 広義の説明
大学院重点化が,現在に至るまで続いている理由の第1は,知識基盤社会やグローバル化の進展のなか,高度な知識・技術をもった研究者や技術者,さらには社会の各般で活躍する人材が求められているからである。
その理由の第2は,大学院における活発な研究活動をおこなうには,研究を支えるマンパワーが必要だからである。とくに実験を伴う学問分野においては多くの人手を要し,また組織的活動によって研究成果を生み出すという研究スタイルをとっていることから,マンパワー供給源としての学生確保は当該研究室にとって必須の要件である。
その理由の第3は,とにかく大学教員にとって大学院を担当し,そこでの研究活動を通じて研究業績を上げていくことは,もっとも理想的な姿であると考えられていることが挙げられる。供給側には大学院拡充の圧力がつねにある。
このようななかで,1991年の大学審議会答申が打ち出した大学院学生倍増の提言は1990年代末には実現をみていたが,今後はこの大きくなった大学院教育を社会のニーズにどのように繫げていくかが,大学にとっても,また政策当局にとっても大きな課題として,残されていた。
註記)参考文献,江原武一・馬越徹編著『大学院の改革』東信堂,2004年。出典,平凡社『大学事典』2018年 参照。
以上のごときに概説される大学院「問題」は,日本の高等教育機関なりに,質的・量的に拡充させる計画の実行となって,20世紀も最後の10年期から21世紀にかけて,大学そのもののあり方,制度面での変化・移転をもたらしものの,実際におけるその効果は「大学院教育のバーゲンセール」を結果させるという,実にみっともない状況を結果させた。
そのもっとも典型的な実例が,専門職大学院として各種の修士課程に相当する高等教育機関として,2004年度からその制度が発足した法科大学院の経過から “ころぼれ落ちる” ように,現象していた。
ところで,法科大学院を修了した院生が「取得できる学位」の名称は「法務博士(専門職)」と定められたのだから,通常の博士号と紛らわしい点は一目瞭然であった。
博士課程は修士課程2年制と博士課程3年制からなり,この博士前期課程と博士後期課程の学制は,前段のごとき法務博士なる学位がけっして偽称でもなんでもなかったものの,当初から混同させうる意図が絶対になかった,皆無だったとはいいきれなかった。
だが,博士前期課程の学位は修士号(英語でいう ”Master's Degree” )と呼ばれるのが,ふつうというか,当然であったと思われるところにくわえてわざわざ「法務博士」(は法科大学院修了者の修士号である)を称させて使わせたところが,なんというか,わざわざそのように名乗らせるところに関していえば,安っぽくも意味深長であった。
ところがどうであったか? その法科大学院は創設・設置されてきた74校のうち,2021年9月9日現在ですでに,学生の募集停止を表明している法科大学院は39校にも達していた。しかもそのなかには,地方の国立大学や大都市圏内に立地した伝統ある私大も,相当数含まれていた。
専門職大学院としては経営大学院,会計大学院のなかにも,法科大学院ほどひどくはなくても,酷似した「制度的な崩壊現象」を来していた。
それでは専門職大学院以外の大学院への進学率がどうなっているかとみれば,最近になると「先進国だとひとまず認定されていたこの日本」における大学院の制度が,さっぱり冴えない停滞的な実情に置かれたままである。
3) ここでは関連する統計図表を借りてその経緯を多少なりにでもしっておきたい。まず挙げるのはつい1年半の雑誌記事にかかげられていたこの「大学院進学率」関係の統計資料をみたい。
前項で話題にした法科大学院に少しこだわってだが,つぎの図解としての地図を参照したい。これは法科大学院が存続していける地域,いいかえれば,法科大学院を設置しておくのがふさわしい地域ごとの配置を示している。
本ブログ筆者は “以前のブログサイト” における記述のなかで,このような法科大学院に対する適切な国家政策的な方策,つまり旧帝大系大学が立地していた地方ごとにそれを配置させればよかったのではないかと,後知恵的に意見を申してみたことがあった。
しかし,なぜその程度にしごく簡単な発想が,この法科大学院の制度を発足させる企画の段階からしてできなかったかと回顧してみるに,要は「費用をかけないで私大にも広く開設させる」という,いわば手っ取り早いだけの拙速を選んだからであった。
その結果がどうなったかについては,法科大学院を廃校にした大学の一覧をつぎに列記しておく。
4) 2021年9月9日現在で,学生の募集停止を表明していた法科大学院は,以下の39校〔40校〕である(ウィキペディア〔など〕参照)。
大学入試においては人気の高い大学私立大学,国公立大学の法科大学院であっても募集停止しているケースも複数みられたのは,そもそも「法科大学院の運営が容易でないことが分かる」からだという説明がなされていたが,この指摘は一知半解であった。
日弁連の法科大学院に関する,最新になる関連の統計をつぎに紹介しておく。これは,司法試験制度における法科大学院関係者に対して,その後において講じられた変更を,いくらかは正直に反映した動向が表現されている。
5) ニッポンはアメリカ合州国の忠実な家来
つぎの年表による説明を参照しておくのもよい。これは,つぎの記事から引用している。
「『植民地ニッポン』」の作り方。米国と自民売国政府は “よく働きよく従う” 優良属国をどう実現したか?」(by 『神樹兵輔の衰退ニッポンの暗黒地図-政治・経済・社会・マネー・投資の闇をえぐる!』)『MAG2NEWS』2024年1月30日,https://www.mag2.com/p/news/591823/6 は,
「ニッポンを『自己責任社会』『市場原理主義化』『弱肉強食化』へと向かわせた米国からの命令『年次改革要望書』の中身!」だとして,その中身をさらにつぎのように説明していた。
以上のごときに,「アメリカ様のため」に日本が押しつけられてきたの「年次ごとの出来事:一覧」を引用させてもらった執筆者が,さらにいうことには,
イ)「……とまあ,ちょっと並べただけでも,自民党政権の政策の中心を成すものばかりで,すべてが米国政府の国益にかなうものにほかならないのです」。
ロ)「日本国民にとってのメリットよりもデメリットのほうが先行して目立ちます。これが 『内政干渉』 でなくて,なんなのでしょうか。どんどん日本が「弱肉強食化社会」になってきた経緯が見て取れます」。
ハ)「『自己責任』『市場原理主義』のミルトン・フリードマン流儀の横行でしょう。これらの要求に対して,もっとも貢献したのが小泉純一郎政権だったのは,ご覧いただいたとおりなのです」。
ロ)「なんたって日本の『郵政民営化』という米国のカネ目当ての解体政策を取り仕切ったほか,なんでもかんでも米国のいいなりになったので 「米国の忠犬ポチ」 として,米国からは猛烈に賞賛されたわけです。とんでもない売国・サイコパス政権でした」。
ニ)「とまれ,昔からあっぱれな売国・反日・世襲・カネまみれ政党・自民党の正体みたり――の状況だったわけです。怖ろしいことに,この『年次改革要望書」の米国からの命令はいまも脈々と続けられているのです」。
以上長々と,アメリカによる実質,対日命令となっていた『年次改革要望書』を,『神樹兵輔の衰退ニッポンの暗黒地図-政治・経済・社会・マネー・投資の闇をえぐる!』の説明にしたがい紹介してみた。
法科大学院の,まことにみっともなかった崩壊現象のなかで部分的に顕著であった出来事は,そのアメリカ側の要望ならぬ強制的な要求が,実際には日本の教育制度のなかに無理やり押しこもうとして,完全に失敗でなかったにせよ,その不全(不善)の経緯を招来させた事実を示唆する。
その法科大学院の栄枯盛衰ぶりは,20年間にも満たない歳月のなかで,その設置校が2分の1にまで激減したという「結果的にみせつけられたなりゆき」は,本当にみっともない「大学院重点化」の計画につらなる日本の高等教育問題の実相を,典型的に現わしたことになる。
もちろん,以上に触れた要因以外にも,法科大学院の発走をしくじらせた原因はいろいろあった。前段のごとき,事前から存在していた外圧的な問題側面はさておいても,この大学院を受験しようと決める人びとのなかには,自分の人生を冒険にかけるような覚悟で挑まねばならない選択肢を迫られていた人たちも大勢含まれていたごとき要因は,この法科大学院構想の実際を徐々にしぼませていく原因のひとつであった。
また,法科大学院の設置・発足にチカラを貸した日本側の大学関係者をはじめ多くの識者たちは,その後においてこの専門職大学院(会計大学院も問題になっていたが)の華々しい散り方に関して,それぞれが自分なりに責任を取ったという話は聞かない。
本ブログ筆者は,そうした関係者であったある人物とは,ある仕事の関係でときおり顔を会わせる機会があった。その人物は最近死去したので,もはやその責任がどうだこうだともいえない幽明異境の〈間柄〉。彼以外にもその責任ウンヌンをしたらまだ健在で居る当事者が何人もいるはずだが……(いまはオボロ!)。
※-2 大学院の〈質的〉という意味での理論問題-博士号の学的水準-
本ブログ筆者は以前,それも早,一昔も時が経過してきたが,もっとも本ブログのなかで復活,再掲させてあるつぎの2点の記述で,本日のこの内容に深く関連する議論をおこなっていた。
◆-1「日本における学問の衰退と下流化,マックス・ウェーバー研究,羽入辰郎と折原 浩など」2023年7月31日 09:32,
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n6ac9bf21e0d5
◆-2「 羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』論は,でっち上げの粗想だと批判する議論」2023年8月9日 10:17,
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/na00d92d7c58a
関連して触れると,養老孟司という東京大学医学部出身の有名人が,この羽入辰郎の著作に対してであったが,PHP研究所が「山本七平賞」を本書に与えたさい,その審査員代表にこの養老孟司がなって,つぎのように論評した事実が記録されている。
養老は,選考の言葉として「この論文が正しいかどうか検証している時間はない。だが非常に論文らしい論文で,また女房のエピソードなど読んでも大変面白い」と絶賛したが,「この無責任さと非学問性こそ,本書の評価におけるひとつの特徴的な現象であった」と批難される始末であった。
註記)「羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』徹底批判」 『尚智庵』006年8月6日 決定稿,https://www.shochian.com/hanyu_hihan00.htm
この羽入辰郎という人物が描いたマックス・ヴェーバー論は,本当の専門家,社会科学論の立場からでないと議論すらくわわることができない「高い水準」での分析や考察を要していただけに,養老孟司が絶賛していたといっても,どうやら「女房のエピソードなど読んでも大変面白い」面しか,きちんと読みこめなていかったとすれば,この評言はある意味,無価値に等しいどころか,ある種の「バカの壁」になっていたことになる。
要は,養老孟司は羽入辰郎の著作全冊を読了したうえで(そうだったとしてもその全部が理解できるはずもないが),前段のような〈感想〉を述べていたのかについてすら,いまだに疑念を残す。
以上のごとき前口上を披露してから本ブログの実は「本論部分」を構成していたつぎの話題に移ることになった。その論点は「大学院の〈質的〉という意味での理論問題-博士号の学的水準-」という標題をもって表現されていた。
以下に論述する内容はいまから10年前になる「2014年6月24日」に,いったん公表されていたが,筆者がブログサイトを移動した関係で,倉庫に入れてあった。今日のこの記述をもって復活,再掲する運びとなった。
※-3 経営学の分野にみる一事例-比較対照するための素材として-
1)前書き
前項※-2で触れたように,本(旧・々)ブログは2014年6月23日に,「羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』論は,でっち上げの粗想-」,2014年6月17日に,「日本における学問の衰退と下流化,マックス・ウェーバー研究,羽入辰郎と折原 浩,など」を記述した。前段にそのリンク先住所は明示してあった。
これらの記述は,日本の社会科学論において非常に重大な関心論題でありつづけている「マックス・ヴェーバー」論に関して生じていた,羽入辰郎の非科学的な所作,反学問的な立場をめぐる論点をとりあげていた。
当初,羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房,2002年)という著作に関しては,折原 浩(1935年9月6日生まれ,89歳,東京大学名誉教授)が,羽入が「学位」(東京大学博士)を授与された段階にまでさかのぼって再考を要する「教育社会的な問題」があったことをめぐり,きびしい批判を提示していた。
その問題点は,1990年代以降,日本の大学院における博士号授与のあり方において,顕著な容易化現象(学問の衰退と下流化)が発生させてきた事実を物語っていた。あえて極論するが,最近における日本の大学院の学位授与は「理論水準・独創性・内容充実性」に関して,なにやら各種各様の衰退現象がめだっていた。
以上の説明についてのくわしい記述は,前段に指示した羽入辰郎に関連した,本ブログ「2日分の論及」をあらためて読んでもらうほかないが,本日は,以上に関連する「実例」とみなした別領域の学位論文をさらにとりあげ,考えてみる。
なお,この記述のさらにその大本は,本(旧々・々)ブログの 2010年8月28日「日本の大学院が授与する学位(博士号)の実価」「経営学の分野にみるその一事例に関する批判」として公表されていたものである。本ブログ内で,羽入辰郎の類似問題を2日にかけて記述したおり,この旧ブログの記述があったのを思いだし,以下に再録するしだいとなった。
そして,その記述もしばらく隠居状態にされていたが,それから14年も経ったいま,復活・再掲することになった。もっとも,今回,本記述を再生させるに当たってはむろん,補正や改訂の作業もくわえてある。
2) 消化不良の未熟な博士論文が横行する経営学界での理論水準
? 粗製濫造の博士号授与を奨励する文部科学省 ?
文部科学省のホームページをのぞくと,「新時代の大学院教育の展開方策」という項目のなかに「円滑な博士の学位授与の促進」という細目があった。その日付は 2005年9月時点になっていた。
まず「課程制大学院制度の趣旨の徹底を図るとともに,博士の学位の質を確保しつつ,標準修業年限内の学位授与を促進する」と謳い,その具体的取組を,以下のように説明していた。
「各大学院における円滑な学位授与を促進するための改善策等の実施(学位授与に関する教員の意識改革の促進,学生を学位授与へと導く教育のプロセスを明確化する仕組みの整備とそれを踏まえた適切な教育・研究指導の実践など」。
「各大学院における学位の水準の確保等に関する取組の実施(学位論文等の積極的な公表,論文審査方法の改善など」。
「国による各大学院の学位授与に関する取組の把握・公表の実施」。
そして「現行のいわゆる『論文博士』については,企業,公的研究機関の研究所等での研究成果を基に博士の学位を取得したいと希望する者もいまだ多いことなども踏まえつつ,学位に関する国際的な考えかたや課程制大学院制度の趣旨などを念頭にそのありかたを検討し,それら学位の取得を希望する者が大学院における研究指導の機会がえられやすくなるような仕組を検討していくことが適当である」とも,断わっている。
注記)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/009.htm このリンク先住所は現在も閲覧可能。
21世紀になって顕著な傾向は,日本の大学院が博士号,それも課程修了にともなって提出させ授与する「学位としての博士」号が積極的に発行されてきた事実である。
ところが,本ブログ筆者の専門領域である経営学分野だけでの話ではないが,最近授与された博士号所持者の該当「博士論文」を実際に読んでみるに,あくまで筆者の読解できる能力での判断で指摘する問題性だが,いまひとつパッとしない,つまり理論水準的にも内容展開面でもまったく冴えない業績・成果が多いことが気になった。
3) 論文博士の質的問題
本ブログの筆者は,大学における採用人事関係や研究の必要上,大学院で学んで課程博士として学位を取得した研究者の該当論文(経営学関係)をいくつも読んできた。率直にその感想を述べれば,はたして「これで博士号に質的に値するのか」という疑念を生じさせる論文が多数あった。
ということであって,どうやら,しりあいの大学教員たちの話も聞いて総合すると,大学院博士〔後期〕課程があるので「博士号をともかく出すために学位の博士をただ漫然と授与している」という〈時代の流れ〉が感得できた。
すなわち,文部科学省の行政指導もあってか,いままでは博士号を出すことにおいて「あまり積極的でなかった日本の大学」の,それも文系の大学院がすすんで学位を授与するようになっていた。
また関連する背景には,大学院の新増設や大学院大学の新設の急増にみあった,いいかえれば,大学院における研究水準を維持・向上させるうえで最低限必要となるはずの「大学院への進学者」が,必らずしも比例的に増員してきてはいない事情も控えていた。
その結果,日本の大学院において授与される博士号の学位は,だいぶインフレ現象を来してしまい,つまり,安易に博士号を出している現状〔乱発・乱造気味〕になっていた。その必然的な流れとしてだが,執筆された論文の質的水準は,その成果をいちじるしく低劣化させてきた,と推測されざるをえなかった。
学位規則(昭和28年文部省令第9号)にもとづき授与した学位(いわゆる新制博士)の授与数は,1992年度の 10,885件 (そのうち論文博士は 6,106件,56%) から,2002年度の 16,314件 (4,962件,30%)に増加している。これから「論文博士」を除いた「課程博士」の増加数は,1992年度の 4,779件から,2002年度まで10年ほどで 11,352件と,2.38倍の伸長ぶりを示している。
注記)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-17.pdf 現在も閲覧可能。
補注)途中になるが,本日〔2014年6月24日〕として,つぎの引用(補述)をおこなっていた。
文科省『学校基本調査(高等教育機関編)』によると,2010年3月の大学院博士課程修了者は15,842人です。そのうち,単位取得退学者は4,035人です。よって,課程修了による博士号取得者数は,前者から後者を差し引いて,11,807人となります。この数は,1990年では3,790人でした。
1991年以降の大学院重点化政策の影響もあってか,この20年の間に,博士号取得者(課程修了による。以下,同じ)は,3倍に増えたわけです。様相を専攻別に観察すると,下の表のようになります。
私は教育系の博士課程を修了しましたが,当該の専攻の博士号取得者数は,この20年間で 8.1倍になっています(25人→202人)。ほか,増加倍率が大きいのは,人文科学系(6.0倍),社会科学系(8.0倍),芸術系( 18.1倍),です。複合領域の「その他」に至っては60.3倍です。
文系と理系という大雑把な括りでいうと,前者の博士号取得者数の伸びが大きいことがしられます。1990年では,博士号取得者の93.3%が理系専攻者(理学,工学,農学,保健)で占められていました。ですが,2010年では,この比率は74.9%まで減じています。
1990年から2010年までの変化の様相を,逐年で細かくみてみましょう。私は,各専攻について,1990年の博士号所得者数を100とした指数の推移をとってみました。
指数値がぶっ飛んでいる「芸術系」と「その他」は除いています。社会科学系(赤)と教育系(桃)の増加が目立っています。保健や理学といった理系の専攻は,右上がりの傾斜がなだらかです。「博士号=研究者としてのライセンス」という位置づけが,文系にも浸透してきていることがうかがわれます。
とはいえ,博士号取得者の増加が著しい人文系,社会系,教育系において,修了者の死亡・行方不明率が高い……。
註記)以上,http://tmaita77.blogspot.jp/2011/10/blog-post_28.html 参照。
なお,以上の引用は奇妙な末尾で終わっていたが,参照しているブログでは,続編でその事情がさらに説明されていた。いわゆる「ポスドク問題」の深刻さが指摘されていたのである。
とりわけ,この高等教育領域においては,高学歴をもつ人材になった人びとのその後における進路が,だいぶ以前からすでに「社会問題」化していた。以下につづく記述は,こうした事実も踏まえての議論となる。
要は,簡単にいえば,「博士論文として質的に水準に達しているのか」という〈強い疑問〉を惹起させるような学位論文が少なくなかった。
本日の記述は,この現状を端的に物語るような博士学位「論文」を,あらたに1編みつけてしまい,それもたまたま関心がある題名・内容であったがために,それを読むことになった筆者の立場からの「具体的な考察」であった。なお,学問的な議論を前提・意識しており,遠慮容赦ない批判的な吟味を実行することとなった。
しかし,本日のこの記述はすでにだいぶ長文になっているので,続きは明日以降に分割して掲載することにしたい。
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【付記】
「本稿(前編)」の続きとなる「後編」は,つぎのリンク先住所である。
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