松本健一の心情的な昭和天皇論が,著書『畏るべき昭和天皇』2007年に告白されていた話題(1)
2007年12月に発行されていたが,昭和天皇の威霊のもとで「万歳」したがごとき執筆姿勢をうかがせた松本健一の著作,『畏るべき昭和天皇』が毎日新聞社から公刊されていた。松本の本書は,裕仁を「偶像的に神聖化」しただけでなく,さらにはその「架空的な虚像」まで創造しえたかのように,つまり,学究としてはすっかり神がかったかに映る脱線ぶりを記録していた。
※-1 松本健一「畏るべき昭和天皇」論-内なる天皇問題の陥穽-
松本健一『畏るべき昭和天皇』毎日新聞社,2007年は,作家・評論家を称する大学教員の著者が,文学史的な観点から「裕仁天皇」を究明した著作であった。松本の研究は,昭和の天皇を「裕仁〈個人の次元〉」に密着するかたちで分析をくわえ,興味深い論究を与えていた。
しかし,著作に付けた題名からもわかるように松本は,1945〔昭和20〕年の敗戦をまたいで「日本帝国:明治憲法」から「日本国憲法」の時代を生き延びてきた昭和天皇の,どこまでも「その畏るべき決断・畏るべき人生」に注目し,その足跡をたどりながら,文学史的な雰囲気をかもす論調を維持するなかで解明していた。
明治以来の天皇制のありかたを,いちばん特長的に政治表現してきた昭和天皇は,政治学者などの研究にも明らかなごとく実は,日本国憲法「第1条」「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」との規定に反する行為を犯してきた。
要は,天皇裕仁は,憲法違反をものともせず「天皇の立場:個人的な利害」から手前勝手に,敗戦後における日本の政治過程に介入してきた。すなわち,昭和天皇は敗戦後においても,裏舞台で密かに,立憲的ではない〈君主的な政治力〉を発揮し,堅固な意志を抱きつつ自身の人生目的を実現させてきた側面史を有する。
そうした問題の核心はたとえば,沖縄県にいまだに多勢が居すわる「在日米軍」という存在において,いまもなお,端的に〈象徴〉されている。敗戦後史のなかで,昭和天皇の政治的な言動にかかわっては「内奏」という「君臣」間に固有の用語もまた,指摘されておくべき必要があった。
アメリカ軍(アメリカインド太平洋軍)は,オキナワに広大な基地を構えている。アメリカ海軍は横須賀に原子力空母の母港まで配置させている。この「米・日間が主従関係において構成されている軍事的様相」は,第2次大戦終了直後に形成された東西対立の冷戦政治構造,社会主義諸国「共産主義思想・イデオロギー」に対して,それも強度の恐怖心を抱いた裕仁天皇の「始源的な国家思想」抜きに語ったら,いささかならず均衡性を欠く説明じしかなりえない。
敗戦後史も80年近くの時が経った現在,そうしたアメリカに対して日本が「服属・隷属・追随」するがごとき国際政治の間柄は,1945年「以後」昭和天皇がたどってきた「歴史的な記録」の上に構築されたといっても過言ではない。
【参考記事】-アメリカ本国では絶対に許されない軍用機が,日本の東京都の上空でのこのような運用の仕方を,平然とまかり通させている-
敗戦後においても自分なりに政治(軍事)感覚を抱いてきた「昭和の天皇」は,1970年代前半に,公害に反対し防止する姿勢を構え,市民福祉向上の政策,日本国憲法の擁護などを訴えながら続々と登場した地方自治体「革新系の首長」誕生をみて,
「これによって〈政変が起きるのか?〉」と心配する「下問」を侍従に投じていた。これは,彼のおおまじめな反応ではあったものの,時代の状況がいまひとつ読み切れなかった彼の見地から,自然に生じた疑念・不安・憂慮であった。
なぜなら,昭和天皇は戦後の政治過程にうまく適応できていたものの,「敗戦時までの歴史感覚:大日本帝国の君主」たる自己意識から一歩も脱却できていなかったのである。
つまり,新憲法の位置づけにおいて根本的に変質した「みずからの地位」をあえて無視した彼の政治行動は直接,日本とアメリカとの外交・防衛関係に口出しすることもしばしばあった。つまり「しらぬが仏」はなにもオキナワ県人の立場だけとは限らなかった。
※-2 歴史をあつかう者の歴史しらず
松本憲一『畏るべき昭和天皇』2007年の議論は,政治・法律史的ではない視座に立ち議論をしていたためとはいえ,昭和天皇のそうした逸脱の行動を社会思想史的な観点でもいいのだが,批判的には究明できていなかった。
むしろ,日本の社会の頂点に位置するこの人物が,20世紀前半の時代をいかにたくましく生きぬいてきたか「だけ」を究明している。いわば〈裕仁だけの個人的な葛藤史〉に対する,それも称賛論に終始していた。
松本『畏るべき昭和天皇』に巻かれた〈帯〉の謳い文句によれば本書は,裕仁天皇の「その知られざる側面を照射する画期的な論考」だという。しかも,こうした松本流の分析は,昭和天皇が「賢明で意志の堅固」な人物だったという側面に,主要な関心を向けて論及していた。
そのためにたとえば,大田昌秀『沖縄差別と平和憲法-日本国憲法が死ねば「戦後日本」も死ぬ-』BOC出版,2004年や,鄭 鎭星,鄭 大成・岩方久彦訳『日本軍の性奴隷制-日本軍慰安婦問題の実像とその解決のための運動-』論創社,2008年という著作などが照射する,東アジア全体にまtがる「政治・社会思想史」的な問題領域まで,松本の視野は広がっていなかった。
本ブログ筆者はここで,松本があえて意図しなかった研究対象・領域を,故意に想定・強調してあげつらおうとするのではない。しかし,天皇制そのものの全体主義的な国家意志を反映させていた「日本社会底辺での思想諸問題」を,完全に無視したような問題構成の方法意識がめだつのであれば,これをみのがすわけにはいかない。
松本『畏るべき昭和天皇』の「あとがき」は,こう記述していた。
松本の研究内容は「政治・法律史ではなく文学・文化史の立場」に立っている。それゆえ,「社会・政治思想史」などの立場や観点は軽視される。 つまり,「日本人は島国にあって,天皇とともに“米つくり”をする民でいい。
そのように日本人の心を収斂させる,つまり民族的なアイデンティティを確認させる意味」を,「この天皇の問い」に求めた松本は,「日本民族にとって政治とはついに何であるかを如実に示した」昭和天皇を,「なんとおそろしき天皇であるか」「その大なる愛はテロリストさえも包容する」ものだと,感嘆するばかりであった。
註記)松本『畏るべき昭和天皇』307頁,306頁,304頁。
松本の論及をさらに聞くに,つぎのような分析も提示していた。
「原理的にいえば,民主主義と皇室とはそもそも背反する性格のものである。民主主義の原義の1つに,特権階級を廃す,という意味があり,そうだとしたら国民の誰も天皇になることができない天皇制システムは,明らかに民主主義に反している」
そもそも「世襲というのは,生物学的原理での継承を意味している」から,「『国民の総意に基く』も『基かぬ』もない」
「つまり,憲法第1条の民主主義的原理とはまったく別の生物学的原理で,皇位継承をはじめとする天皇制システムは成り立っているのだ」
「そうであるにもかかわらず,昭和天皇はいわゆる『人間宣言』をはじめとする占領軍の民主主義を受け入れ」「アメリカからキリスト教徒(クエーカー)の女性の家庭教師を招き,皇太子が『ジミー』とよばれることも甘受した。皇居で聖書の講義がおこなわれることも黙認した。それは,皇室が占領軍のもとで生き残ってゆく窮余の策だったのである」
註記)前掲書,284頁,285頁。
1952年4月28日〔裕仁天皇誕生日の前日〕,アメリカの対日講和条約が発効し,日本国が連合軍の占領を解かれるや,皇太子の家庭教師エリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人の役目は4年間で終わりを告げ,皇居内での聖書講義などの活動も中止される。
「これは,天皇の断固たる意思にもとづいての決定,つまりキリスト教への押し返しであった」
息子:明仁の配偶者となった正田美智子があるとき,キリスト教に好意的な関心を抱いていた義弟=常陸宮義弟と楽しく会話した事実をしった昭和天皇は,この息子の嫁を呼びだし,〔美智子が〕「精神のバランスをくずし一時期,失語症」に追いこむほど,激越に叱責した。その理由は「天皇家は神道を守っていかねばならぬ立場である」のに,「それが,キリスト教にかぶれるとは何事か」というものであった。
註記)前掲書,286-287頁。
ここでは併せて,こういう事実も指摘しておく。
1946年1月1日に「人間宣言」していた昭和天皇は,2月11日に皇太子の明仁を登場させる。この2月11日,宮中の行事は従前であって「紀元節祭」がとりおこないながらも,この日の話題として各新聞紙面を大きく飾ったのは「新聞を読んでいる天皇の肩ごしにのぞきこんでいる皇太子」という〈父子の写真〉である。
【参考画像】-これは( ↓ )1952年に撮影された同じ構図の写真-
そこで天皇裕仁が読んでいる新聞は,アメリカ軍の準機関紙『星条旗紙 “STARS AND STRIPES” 』であった。つい半年まえまでは,鬼畜米英の標語のもとに英語を使うことさえ憚る雰囲気であったのに,いまや天皇みずから英字新聞を読み,その内容を息子に説明するやさしい父親となっていた。
しかも,この事実を報じた当時の新聞は,そのように「天皇と皇太子が占領軍機関紙を読む図像」が与える「読者への衝撃を恐れ,故意に曖昧な説明をつけた」のである。
補注)有山輝雄『戦後史のなかの憲法とジャーナリズム』柏書房,1998年,100-101頁。
昭和天皇は,連合軍占領下の敗戦後約7年間ほど,日本国「象徴」に変質させられた〈自分の立場〉をより確固たらしめるための「政治心理的な意思転換」を,相当の困難に当面しつつも「皇室一族としての対応」として,生活戦略的に貫徹してきた。そのためには,すすんでキリスト教に大いなる関心を示し,積極的に学習する姿勢を示すこともいとわずに生きてきた。
アメリカ軍を中心とする連合国占領軍の日本施政方針に順応し,能動的に迎合するかのごとき『皇室挙げての恭順ぶり〔=本当は擬態:みせかけ〕』は,いまから回顧してみるに,天皇一族が敗戦後を生き延びていくために仕立てた,東洋の「日の本」国における田舎芝居であったといえなくはない。しかしその田舎芝居は当然,講和条約発効後は弊履同然,まったく無用になり,さっさと中座させられた。
裕仁天皇はだからこそ,その後において〈日本国の象徴〉によりよく変身させられ,「神道一家としての立場」についても,それ相応に安定した皇室生活を保障され維持していった。
そしてそのなかで,息子の嫁が義理の弟との会話で「キリスト教談義を楽しんだ」といわしめた事実をしり,激怒・叱責したりもしたのである。なにがそのように,裕仁天皇を怒らせたかは明白である。
敗戦後の約7年間は,敗戦国となった日本の天皇家にとっては「雌伏の時期」あるいは「臥薪嘗胆」と形容してもよい期間であった。昭和「天皇はマッカーサーGHQから神道を捨てキリスト教に改宗するように迫られていた」のである。
註記)上の段落,高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社,2008年,310頁。
裕仁一家の立場にとってみれば,その時代(敗戦後史の記憶)は思いだしたくもない,できれば忘却の彼方に追いやりたい,かつての占領軍「キリスト教への屈従」であった,それも「偽りの態度」を作りながら「生活していた日々」であった。
鬼塚英昭『天皇のロザリオ〔上・下〕-日本キリスト教国化の策謀-』成甲書房,2006年は,関連する重要な事情にこう論及する。
GHQが公開した天皇家の膨大な財産(当時の金額で15億9千万余円,「まえがき」参照)に衝撃を受けた渡辺 清の著作『砕かれた神-ある復員兵の手記-』朝日新聞社,1983年は,こう記述している。渡辺が1946年2月22日に聞いた話である。
全国を巡行していた昭和天皇が,サイパンの生き残り復員兵と「戦争が激しかったかね」「ハイ,激しくありました」,「本当にしっかりやってくれてご苦労だったね」「今後もしっかりやってくれよ。人間としてりっぱな道にすすむのだね」という会話をしたと聞かされた渡辺は,絶望に苛まれたというのである。
昭和天皇は,まともな人間なら誰でももっている責任感をもちあわせていない。少なくとも「私のためにご苦労をかけて済まなかった」といえなかったのかと,渡辺は批判していた。
註記)渡辺 清『砕かれた神-ある復員兵の手記-』朝日新聞社,1983年,195頁。引用は,ジョン・ダワー,三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳『敗北を抱きしめて 下-第二次大戦後の日本人-』岩波書店,2001年,104-105頁。
「松本〔健一〕は右翼思想や草莽の思想の掘り起こし作業を精力的におこなってきたこともあって,あるときは,右翼のレッテルを貼られ,あるときは,逆に一部右翼によって脅迫まがいの糾弾も受けた」
註記)竹内 洋『学問の下流化』中央公論新社,2008年,69頁。〔 〕内補足は引用者。
ということであったが,この研究者に対してそのように生じた諸種の反応は,戦後における日本の左右両陣営側,いずれもの不勉強を如実に反映していた。
しかし,筆者にいわしめれば松本の研究志向は,文学史あるいは文化史的な観点からする「天皇および天皇制の研究」であるせいか,そこから出でてさらに関心を拡げ,関連させて考究すべき「政治経済史的な問題領域」まで到達していない。
それゆえ,そうした「文学史あるいは文化史」的な研究の方途は,天皇の戦争責任を根本よりあらためて,前もって客体的に「問うとか問わないとか」いう次元まで至ってはいなかった。
だいぶ昔の本になるが,和歌森太郎『天皇制の歴史心理』弘文堂,昭和46年が,敗戦後GHQに付与された新しい日本国憲法を,こう評していた。
和歌森太郎は,日本国憲法が21世紀になっても,依然かかえている「天皇制」の根源的な矛盾を指摘していた。松本もとらえていたと受けとめてみたいその矛盾は,「民主主義と皇室とはそもそも背反する性格」を有し,「特権階級」の「天皇制システム」が「明らかに民主主義に反している」という,どう考えても解決不可能の難問にぶち当たるほかなかった。
文部省が1947年8月2日に「飜訳発行」した冊子『あたらしい憲法のはなし』(実業教科書株式会社発行)は,敗戦後に新しく用意された「日本国憲法」の「国際平和主義・民主主義・主権在民主義」の基本理念を強調していた。と同時に,「日の丸の国旗」をその〈象徴の譬え〉に出して,「日本国の象徴」という位置づけをえた裕仁「天皇陛下は,けっして神様ではありません。国民と同じような人間でいらっしゃいます」と解説した。
しかし,この理解はヒトとモノ〔象徴物〕を同じ次元でとらえようとする〈実に奇妙な概念化〉を,ひとかけらの苦しみもなく手品のように披露していた。ともかくも,この『あたらしい憲法のはなし』は,基本的人権などの諸権利を保障する「新憲法の基本理念」を強調していた。
註記)文部省『あたらしい憲法のはなし』実業教科書株式会社発行,昭和22年8月〔筆者がつぎに画像で紹介したのは日本平和委員会が1972年11月3日に発行した複製版〕,5頁,14-16頁,20-24頁参照。
しかし,『あたらしい憲法のはなし』1972年複製版に追補された「あとがき」は,日本国憲法が「当時日本を占領していたアメリカは,憲法の内容をみずからの対日支配政策のワク内におしこめようと画策し」た。
そのために「象徴天皇制など,平和的民主的条項と相反する内容を合わせてもつものとな」り,「国民主権と矛盾する象徴天皇制をそのまま肯定的に叙述する」点は,「批判すべき側面をもってい」ると,あらためて指摘していた。
註記)前掲書〔同上複製版〕,〔あとがき〕70頁。
松本『畏るべき昭和天皇』2007年は,「新憲法下・天皇制」論のこれまでにおいて,けっして解消も解決もされてこなかった「民主主義の基本理念」と「〈人間天皇〉の存在理由」との折りあいの問題を,いま一度指摘しなおしたに過ぎない。その間,同種の議論が間欠的に復唱されるだけであって,それ以上に学術的な討究を進展させえなかった「日本の知識界」なのであれば,そこには,「天皇・天皇制」にまつわる「特定の知的限界」が残されていたと批判されてよい。
※-3「本稿(1)」なりの考察
本日中のこの「本稿(1)」の記述は,まださきに「本稿(2)」の部分を予定しているので,文脈上やや不徹底の論旨の流れにならざるをえないかもしれないが,
松本健一が,2013年に公刊した次著『畏るべき昭和天皇「無私」』ビジネス社に対して,ある読者が与えたつぎのごとき論評が,あまりにも好意的に過ぎていた結果,「ひいきの引き倒し」からさらには「褒め殺し」にもなるほかなかった問題を,少し考えてみたい。
また,靖国神社に参拝できなくなった天皇裕仁の心情に対する理解の程度も,例の「富田メモ」の解釈の仕方をからめていえば,的を外しているどころが,見当違いもはなはだしい指摘になっていた。
こちらの詰問点は,以下のようにアマゾンレビューを繰り出した人士からしてどだい,素人談義の域を出ていなかった事実にも同時に差し向けられてよい。
この「解釈」というか「独自の説明」に接したとき即座に思いおこした疑問は,A級戦犯と一般兵士(の場合だとB級戦犯やC級戦犯の問題もあるけれども)とのあいだでは,形式論でいってなんら差はなかったし,また実は,A級戦犯と天皇も差がなかったという疑念すら当然浮上してくる。
天皇は旧大日本帝国陸海軍を総じて統べる最高位の立場に居たのに,GHQ(アメリカ政府)が日本を占領支配する都合上,免罪しておいた事実をまったく理解しようともしない意見は,論外。
日本帝国が敗戦を迎えるころには,敵国から聞こえてきた天皇を死刑にしろという意見が当たりまえに要求されていた。それなのに,日本国民(臣民)のほうから事後になって,前段のごとき擁護を当然とする発言をもちだしたところで,双方の主張が噛みあう余地などありえなかった。
天皇だからといって特別視(神聖視)する観方は「歴史問題としての天皇・天皇制」の姿を,斜視ないしは近視眼でしかみえなくする。要は,歴史的な事象(出来事・事件)の本質がまともに透視できずに,短見に終始するほかなくなる。天皇も人間としてはただの1人のヒトであった。この事実そのものは天皇研究の諸著書のなかに,いくらでも記述,説明,記録されている。
松本健一みたく天皇自身を神聖視して論及していたら,研究対象として客体的にとりあげることは,初めから不可能となる。天皇を相手に「畏るべき」などといった用語をもちだした手順からして,学問の世界からは遠ざかる発想になっていた。この付近の問題点は「本稿(2)」でもっと具体的に言及するつもりである。
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【断わり】 「本稿(1)」は以上で一区切りして,明日以降に公表する「本稿(2)」につづく。できしだい,ここに指摘する。
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