敗戦後史としての在日「隠れんぼ史」から観た現代日本史は「在日に支配されている」といった狂想的な盲信を突沸させてきた,20世紀後半からのある種の「愉快かつ不快なる」実・虚像物語的な自爆史を誘発させてきた「お国柄の裏面史」を意味したのか?
※-0 本日の話題は,意図的に隠されてきた日韓・韓日の古代からあった交流史のその後,そのホンの一部分に関した現代的な「記事」を,そのまま引用し紹介することで,そのなにかが分かるかもしれないという点に向けられる
a) なんといっても,この「美しい国」であったはずのニッポンを,あの安倍晋三君が,実際のまつりごとにおいては,例の「アホノミクスとアベノポリティックス」によって,森嶋道夫『なぜ日本は没落するのか』(岩波書店,1999年)が指摘した(予測とか見込とかではなくその)事実が,現時点においてもなお,そのとおりに進行中である。
その安倍晋三君も登場する「本日の話題である」が,以下の記述のなかでは,東日本方面では格別に芸能人タレントとして人気があるわけではなく,知名度もほとんどなかった人物 “やしき・たかじん” が,アベ君とはけっこう仲がよかったという事実に言及する段落も現われる。
ということで,本日のこの記述は,やしき・たかじんを主軸にした筋書きで構成しており,換言するに,このたかじんが「在日問題に関する考察」に深くかかわる人物〔の1人〕としてあつかわれる。
b) ところで数日前,本ブログ筆者が東京に出かけたとき都心で乗ったJR東日本山手線電車内には,つぎのような車内広告が,扉の両側であったと記憶するが,医療機関から出稿として出されていた。美容整形の「これ」であった。
こうした宣伝ポスターを観たことも思いだしながらの話となる。本日の,この「在日論的な話題」に関する議論にとって有意義な記事2点などを,そっくりそのまま,いつものように本ブログ筆者の長ったらしい寸評はなるべく,その本文の引用中には挟みこまない記述・構成にする努力をしながら,この記述なりに全体として訴求したい論点を,より分かりやすく浮上させてみたい。
c) 昨日 2024年12月6日『日本経済新聞』朝刊1面冒頭記事を,ついでに紹介しておく。これは b) 整形医療と深く関連する日本の医療体制上の一問題を指摘した報道であった。
ところで,政府は美容医療の問題が頻発している事実を踏まえて,このような注意を喚起させる努力をしていた。
医療整形にも危険(リスク⇒美を追求するさいに覚悟すべきそれ)は,いってみれば,確率論的に絶対に皆無(ゼロ)ではありえず,いわば「美への挑戦」にさいしては,それなりに事前の心構えが必要である。
d) 美容整形に関して注意を呼びかける本としてたとえば,この本を挙げておきたい。次段のように説明している。
医療コラムとして『危ない! 美容整形』に注意したいのは,このような事情がからんでいたからである。
以上,例によって話題が脱線気味になったところで,舵をとりなおすことにし,「在日論的な話題」に関する議論にとって有意義な記事2点からは,※-1以下でまずは,できるかぎりそのままに引照することにしたい。
※-1「たかじん『在日』ルーツ迫る評伝 やしきたかじんが口を閉ざしていた『在日』のルーツに迫る評伝が出版」『リテラ』2014年9月15日 03:00,https://lite-ra.com/2014/09/post-464.html
やしきたかじんが亡くなって8ヶ月。大阪を中心に多くの人々から愛され,この数年は橋下徹大阪市長,安倍晋三首相などの政治家たちにも恩人と慕われていたたかじんだが,しかし一方で彼の死後,その周辺でトラブルも巻き起こっている。
食道がんが発覚する直前に入籍した3番目の妻と,たかじんの事務所関係者や長女など親族との確執だ。妻はたかじんの死を実母や兄弟にも知らせず,葬儀にも出席させなかったという。また,偲ぶ会にも実娘や長年支えてきたマネージャーを招いていなかった。
こうしたことから,たかじんの親族がその怒りを週刊誌に告発。事務所や名前の使用権をめぐり,妻と関係者の間で骨肉の争いになっているのだ。
そんななか,たかじんの評伝が出版された。『ゆめいらんかね やしきたかじん伝』(角岡伸彦/小学館)だ。著者の角岡は自身が被差別部落出身であることを公表したジャーナリストで,同作は9月に小学館ノンフィクション優秀賞を受賞した。
しかし,そこに描かれるたかじんの実像は,テレビごしにみていた姿とは少し違ったものだった。著者はたかじんと古いつきあいがあった人物を中心に,多くの関係者から話を聞き,丹念にその人生を追うのだが,そこから浮かび上がってくるのは,無頼,剛胆,面倒見の良さや包容力といった一般的な評価とはまったくちがう一面だった。ナイーブで小心,そして抱えつづけたコンプレックス……。
たとえば,2番目の妻で9年間たかじんと身近に接していた智子氏はこう語っている。
「神経が細い人だったので,コンサートが近付いてくると,下痢でおなかをくだして,朝からトイレに何回も入ってましたね。精神的に追いこまれているのがわかりました」
また,弟子で付き人だった小丸は,普段,情に厚く優しい人柄だったたかじんが周囲に人がいるとなったとたん,自分を誇示するかのように威張り,豹変したと証言する。車を運転しているさいも,ひとりのときはそんなことはないのに,同乗者がいると難癖をつけられ,自分の力を誇示するかのように後部座席から殴打される。
「酔っ払っているときは恐怖でしたね,人が怒られるのをみるのもつらかったですね。あまりに理不尽な怒り方をしはるんで。うわー,つぎは自分にくるんちゃうかって恐怖がありました」
これまで語られることのなかった,たかじんのもうひとつの顔。その背景にあったものはなにか。本書ではもうひとつ,たかじんが,けっして語ろうとしなかった顔に切りこんでいる。それはたかじんのルーツ,父親が在日韓国人だったという事実だ。
「父親は1926年に朝鮮半島で生まれ,14歳で弟とともに大阪に渡ってきた」
その後,日本でたかじんの母親と出会い,男ばかり4人の子どもをもうける。たかじんはその2番目の子どもだ。父親は水石鹸を作る工場を起こすなど事業を成功させたが,一方で何度か破産もしているという。
芸能界に入る前,たかじんは友人であり,後に彼の詞を書くことになる荒木十章に泣きながら「実は親父は韓国やねん」と語ったことがあった。荒木は本書のなかでこんな推察をしている。
「親父が在日韓国人というのはコンプレックスになってたんでしょうね。当時のことやから,就職のことなんかを考えると,しんどいなというのはあったと思うんです」
しかも,当時の時代背景もあったのだろう,父親は息子たちの将来を案じ,日本人の母親とは籍をいれなかったのだという。
「つまりたかじんは,母親の私生児であり,日韓のハーフである」
本書が書いたこのことは彼の生まれ育った大阪西成の在日社会ではよくしられていたらしい。しかし,たかじんは芸能界に入ってから,そのことを周囲にもいっさい語ることはなかった。
それどころか「たかじんにとってはもっとも触れられたくない事柄」であり,それはたかじんに大きな影を落としたことさえうかがえる。
生前,本人がけっして明かそうとしなかった “出自” に踏みこんだことについて,著者の角岡氏は,小学館ノンフィション優秀賞の贈呈式でこう述べている。
「たかじんさんが隠していたことを書くということは,すごいプレッシャーでした。僕自身は部落出身ですが,人のルーツを書く時はナーバスにならざるをえない」
だが,角岡はそこにあえて踏みこんだ。おそらく,それこそが最近の政治へのコミットも含めたたかじんという男の生き方を解き明かす鍵だと考えたからだろう。
本書でも指摘されているように,包茎手術の経験までテレビで語るなど私生活を全部さらし,『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)というタブーなき番組の司会者もつとめて,過激な発言を連発していたたたかじんが,出自というタブーを抱えこんだままだったというのはあまりに意外に映る。
たかじんが亡くなってしまったいま,その理由を明確に答えることができる人はいない。しかし『そこまで言って委員会』の常連出演者であり在日三世の朴一は角岡の取材に対し,「一緒だった」と推測している。
「朝鮮半島出身の元力士でプロレスラーの力道山は,力士時代に出世の障害になるからという親方の判断で,通名を与えられ,出自も長崎出身に書き換えられた。プロレスラーとして成功しても,その嘘を貫き通そうとした。同胞には『隠していかないと生きていけなかったんだ。わしが朝鮮人だといってみろ,ファンがどれだけ落胆するか』」
「たかじんは力道山と同じように視聴者の反応を気にしていたのではないか」。だが,これもまた,完全な答えにはなっていないような気がする。そして答えをみつけようとしても,たかじんは,みずからのタブーを最後まで隠したまま逝ってしまった。
「在日」という言葉がとても簡単に,しかも戦時中の「非国民」と同じような意味で使われるようになってしまったこの時代,その言葉がいかにひとりの人間に深く重いものを与えているか,そのことを改めて認識させてくれる一冊だ。
以上で(一場 等)の(引用終わり)
いまどき(この『リテラ』の記事は,10年以上前の2014年9月15日付),このように「在日」=「非国民」という関係づけは,かなり単純化が酷すぎて理解しにくい点を残した。
しかし,そのように無理やりにであってでも,イコールでむすびつけたかたちで表現できたつもりになれたのか,「日本国籍をもたない彼らの場合」までも,つまり,広義の在日「外国人」までも,「非国民」そのもののなかに広く含みえたかのように述べたのは,論理的にはどうしても無理強いが目立った。
しかしまた,そのような発言様式そのものが,基本から外国(籍)人を異端視したいと画策したい内国人(特定の意識の持ち主である日本人)たちの「お尻の穴の小ささ」を,端的に象徴していたと観るほかなかった。
日本国内には昔からの差別問題の4類型として,北方からアイヌ(ウタリ)差別,部落差別,沖縄差別と,南方へ移動したかたちでその3類型が実在してきたところに,さらに在日韓国・朝鮮人の問題がくわわっていた。
21世紀の現在ともなれば新来者(ニューカマー)としての外国人がすでに絶対数でも多数派になっているからには,外国人差別をおこないたい者たちにとってみれば,いってみれば相手にことかかない日本社会の状況が生まれていたわけである。
もっとも,安倍晋三君といえども,自身がこの国の総理大臣職に就いていた時期は,つぎのように批評されていた。以下の記述は,図解・図表を使った説明となる。いくつかの参考資料ももちだすことで,断定できたアベノミクスの結論は,「失政であり悪政であり拙政であった」という事実経過そのものに求められる。
さて,こうした安倍晋三が「世襲3代目の政治屋」として,その辣腕ならぬ「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」のまさに暴政を敷いてきたために,この国はいよいよ先進国などとは,とうていいえない「準・先進国」=「準後進国」にまでなり下がった。最近においてこの国は「衰退途上国」にあいなっている。
※-2「たかじんのもうひとつの謎! 反骨の芸人がなぜ安倍首相に擦り寄ったのか」『リテラ』2014年9月20日 10:5,https://lite-ra.com/2014/09/post-477.html
先日,本サイトで『ゆめいらんかね やしきたかじん伝』(角岡伸彦/小学館)を紹介し,たかじんの小心な一面とコンプレックス,そして彼が「在日」というルーツをひた隠しにしていたこと取り上げた。
だが,たかじんについては,どうしてももうひとつ触れておかなければならないことがある。それは安倍晋三総理をはじめとする政治家との関係だ。
すでにに報道されているように,安倍首相は今年3月3日におこなわれた「たかじんを忍ぶ会」の筆頭発起人をつとめるなど,生前からたかじんと親しい関係にあった。
安倍首相は『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)に計10回も出演し,自民党総裁選への再出馬のさいも,たかじんの励ましがあったことを認めている。
かつては,反骨の人というイメージの強かったたかじんがどうして,最高権力者である政治家とここまでべったりになってしまったのか。
本書でもまた,たかじんと安倍の関係について言及している。2人の出会いは2004年『委員会』の特番で当時,自民党幹事長だった安倍を訪ねたことであった。
2011年には,野党に転落して失意の安倍を訪ね,地元山口県の俵山温泉で,男2人仲良く温泉につかりながら親しげに政治談義を繰り広げた。
たかじんの死後も,この温泉談義シーンは繰り返し放送されているが,この特番は明らかに当時,政治生命の危機にあった安倍の再生,イメージアップのために仕かけたものだった。
「『委員会』では,日本共産党を含め,あらゆる政党関係者が出演している。しかし安倍を特番で登場させ,持論に同調し,ありがたがるたかじんと制作者側には,疑問を感じずにはいられなかった」
「政治家との仲良しぶりをみせるたかじんには,反骨精神のかけらもなかった」
現大阪市長・橋下 徹との関係も同様だ。
たかじんは政治的野心をもちはじめた橋下を全面的にバックアップし,そして当選させた張本人でもあった。橋下はかつて『委員会』の常連コメンテーターだったが,2008年の大阪府知事選に出馬し,圧倒的な強さで当選している。
この時,橋下はたかじんの番組のおかげで当選したようなもの,とたかじんに対する謝辞さえ送っている。本書がいうように「たかじんはこのとき,いわば関西政界のフィクサー的な役割を果たしていた」。
しかし,たかじんはもともと政治家嫌いだったという。西川きよしが参議院選挙でトップ当選したさいも,「そもそも庶民の “笑い” とは,ある意味権力と対峙したところにあるのではないだろうか?」と批判していたほどだ。
だが,たかじんは明らかに変節していった。「庶民の代弁者は,いつの間にか権力者のそれに代わっていた」のである。
たかじんの政治への接近に『たかじんのそこまで言って委員会』が大きな役割を果たしたことはたしかだ。本書も「『委員会』以降,たかじんは番組を通して,好むと好まざるとにかかわらず,政治に関与するようになった」と書いている。そして,保守派,右派的な主張を強めていく,
たかじんは2909年10月号の『クイックジャパン』(太田出版)でこんなことを語っていたという。
「僕自身は右寄りとは意識していないですよ。ただ気がつくとね,正論が右に寄っとんねん」
“権力者” に喜んですり寄り,彼らの主張に同調するようなナショナリスティックな発言を繰り返すようになったたかじん。こうしたたかじんの “変節” の理由はつまびらかにはされていないが,しかし,これもたかじんの強烈なコンプレックスのひとつの現われだったのかもしれない。
本書が指摘していたように,たかじんは「在日」というルーツに強いコンプレックスをもっていた。だからこそ,その裏返しとして「日本」という国家を強固にする思想,それを主張する権力者に傾倒していったのではないだろうか。
「日本人より日本人らしく」ありたい,そういう思いの表われだったのではないのか。そんな気がしてならないのだ。だが,こうした分析とは異なるもうひとつのエピソードが本書には紹介されている。それはビートたけしとの関係だ。
かつて,たかじんは東京の大物芸人であるたけしに批判的だった。1992年8月7日号の『フライデー』(講談社)でたかじんは,たけしにこう毒づいている。
「たけしも明らかに疲れとる。ところが漫才をせえへん彼のフィールドはテレビにしかないから,走りつづけなあかんワケや。映画や本をやるのは『オレはもうあかん』というエクスキューズにすぎんのやな。その一方でオレがやっているから大丈夫みたいな甘えもある」
しかしその1年後,『たかじん no ばぁ〜』(読売テレビ)へのたけしの出演が実現する。番組内で「映画などは適当にやっても,お笑いだけは絶対に手を抜かない」などと話すたけしに,たかじんはそれまでのたけし批判などなかったかのように,称賛を繰り返した。
そして,出演料はいらないというたけしに,番組収録後は北新地で接待し,ポケットマネーで付き人に200万円を渡し,同番組の最終回ゲストに再びたけしを招くという最大限の待遇をしたのだ。
「ビートたけしに対する批判も,的を射ているからこそ関西人は拍手喝采を送ってきたはずである。ところが批判していた東京の大物タレントが自分の番組に来てくれただけで,手のひらを返したかのようにありがたがっている。その変わり身の早さは,御都合主義,権威主義にみえなくはない」
気に入らないものに対しては,容赦ない毒舌を浴びせかけたたかじんであったが, “権力者” に直接会ってしまうと,態度を豹変させ,まるで揉み手をするようにすり寄ってしまう。そんなところがあったのだ。もしかしたら,政治家へのすり寄りも,単純にそういう性格が出たというだけなのかもしれない。
しかしいずれにしても,無頼で豪快,毒舌と反骨というイメージとはまったく別の側面を,たかじんがもっていたことは間違いない。著者は多くの関係者を取材してこんなことを思ったという。
「『ややこしい人やなあ』という印象である。繊細かつ純粋で,思ったことをすぐに行動に移す一本気な人物である一方,内気で見栄っ張りで打たれ弱く,だからこそ大きくみせようとするところがあった」
そして,そんな人物が安倍晋三の再登板を後押しし,橋下 徹という政治家を生み出した。ある意味では,彼の存在が日本の政治の方向性を大きく変えたといってもいいかもしれない。
それがこの国にとって幸福だったのか不幸だったのか。できることならば,天国のやしきたかじんに,いつか改めて聞いてみたいところではあるが……。(一場 等)からの(引用終わり)
ネット上,ユーチューブ動画サイトのなかには,在日が日本のどこかしことなく潜伏していて,このヤマト国を実質支配・統制しているみたいに,専門家でもないのに,しかも,いっぱしにモノが完全に分かったかのごとく語りたがる人たちが大勢いる。
要するに,安倍晋三第2次政権の「悪しき逸政」が記録された事実の裏舞台には,在日の影が濃く映っているといいたいかのような〈理屈の運び〉にならざるをえなくなっていただが,
それはほとんど,誇大妄想かないしは被害妄想による精神病理的になんらかの重篤な症状になっていた,しかも,そのマダラ・突発的的な発症だったと観察するほかない。
安倍晋三が親しく付きあっていた人間が,どのくらいの数いて,それぞれとの付合いがどれほどに緊密であったのかなど,できればこと細かく入念に詮議したうえでないと,そのとくに総合的分析な判断など,できるわけがなかった。
やしき・たかじん1人だけに影響された安倍晋三だったとしたら,これほど凡人以下の「世襲3代目の政治屋」はいなかったことになる。だいたいにおいて世襲政治屋たちの立場だと,ごくふつうには世間の実態にはうとく,つまり,単なる世間しらずであった。
一方のやしき・たかじんは,そもそも在日人として生まれてきてから,日本社会のなかであれこれ深刻な悩みを自分なりに抱えて,しかも1人では解決しえない難題として心中の奥底にかかえながら生きてきた。
ところで,やしき・たかじん(本名 家鋪隆仁:やしき たかじん,1949年10月5日-2014年1月3日)は,日本のシンガーソングライター,タレント,司会を生業にしてきた人物であったが,なぜか「隠れ在日」として,安倍晋三にまで通じる人生経路を歩んでもきた。
しかし,いまの時代における寿命としては64歳で他界していたということで,短命の人生に終わっていた。1949年の生まれという在日韓国人2世であったためか,この世代だと特有に背負わされた「日本社会側からの差別と偏見」の重荷に対しては,彼なりに感じる辛い人生になっていたと推察できる。
本ブログはすでに,やしき・たかじんよりも半月ばかり早く1949年9月14日に日本で生まれていた韓国人2世のロック歌手,矢沢永吉をとりあげ論じたことがある。こちらは広島県出身の人物であった。
本ブログ『note』内では,創設してからすぐにこの矢沢永吉を題材に挙げて議論したせいもあってか,いままで一番多くの読者がいる。
矢沢永吉の場合は,その幼少期における実体験もあってなのか,自身が韓国人2世である事実はいっさい明かさない人生を過ごしてきたように受けとれる。だが,自分自身が韓国人(朝鮮人)であるといった事実そのものについては,帰化をした時期との関係もあってか,その自分の系譜はほとんど無化しえたつもりでいるとしか推理のしようがない。
なお,「在日」関連の人士たちの存在を暴くのだというユーチューブ動画サイトも散見されるので,興味ある人は検索用語をなににするせよ,ごく簡単にそれらの動画をみつられるゆえ,ひとつぐらいは視聴してみることを勧めたい。
※-3 朴 一(大阪市立大学教授)「松田優作,力道山… 日本の芸能・スポーツ界を支える『在日』が出自を隠す理由と苦悩-知られざる在日コリアンの実像-」『現代ビジネス』講談社,2016年5月3日(『週刊現代』2016年5月7日・14日合併号より)https://gendai.media/articles/-/48555
「日本のプロ野球の一線で活躍するほとんどが韓国人って話もある」—元阪神の桧山選手はさらりという。在日3世の識者が,戦後日本を熱くしたコリアンスターたちのしられざる実像を語り尽くす。
補注)この「ほとんどが韓国人って話」は根拠がない。大勢いるという表現は可能であるが,その大勢とて「プロ野球の一線で活躍する」選手全員のうちで何%占めるのか(何十何%ではないその比率)を,実際に調査して報告した識者はいない。
「大勢いる」ことは事実であるが,桧山のように「ほとんどが韓国人って話もある」というだけでは,俗説以前の発言でしかありえず,その確かな証拠すらない「そういう感じ」的な話法に過ぎなかった。
★「タブーなき芸人」のタブー ★
歯に衣着せぬ発言で関西を中心にカリスマ的な人気を誇った故・やしきたかじんと私は,10年来の友人でした。しかし私は,彼のルーツが私同様朝鮮半島にあるのをしりながら,生前,直接彼に生い立ちについて尋ねることは,ついにできませんでした。
「怖いもの知らずのはちゃめちゃ芸人」として,天皇制や部落問題,暴力団や右翼などのタブーに果敢に取り組んだ彼でさえ,みずからが「在日コリアン」とカミングアウトすることはなかったのです。ところが死後,彼の出自や生い立ちに触れた本が立てつづけに刊行され,世の人びとのしるところとなりました。
素顔の彼はきわめて繊細で,ナイーブな性格でした。「やしきたかじん」というタレントのイメージを大切にしていたのです。そんな彼がみずからの出自をしられるのを恐れたことは,私には痛いほど分かります。
いまでこそ本名を名乗る在日コリアンを採用する日本企業が増えてきました。芸能界やスポーツ界でも,堂々と民族名(コリアンネーム)を名乗る人が増えています。
サッカー日本代表で活躍した李 忠成,タレントのソニン,料理評論家のコウケンテツ,モデルのアンミカら,現在30代くらいの在日3世,4世たち。NHKの朝ドラ『マッサン』でおなじみの玉山鉄二も,清々しくカミングアウトしています。
しかしその一方で,在特会によるヘイトスピーチにも表われるように,日本社会における在日コリアンへの「まなざし」は,まだまだ温かいとはいい切れません。
私〔朴 一〕が『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(講談社+ α 文庫)を著わしたのは,日本社会における,私たち在日コリアンへの「まなざし」の変化の可能性を探ることで,本当の意味で在日の人たちが,日本を韓国とともに祖国として受け止めることができる時代が来ることを,切に願うからにほかなりません。
私はいまから三十数年前に京都の同志社大学を卒業しましたが,同じサークルにいた数十人の在日コリアンのなかで,日本企業に就職できたのは2人だけでした。高度成長期の当時,私たち在日2世,3世が日本企業に就職するのは,けっして簡単ではなかったのです。
そんななか,容貌が優れていたり,実力さえあればのし上がれる芸能界やスポーツ界は,在日コリアンにとって打ってつけの就職先だったのです。
そうはいっても,やはり「人気に影響するから」との理由から,所属するプロダクションは在日という出自をタブー視する傾向があり,それは実はいまも続いています。
♥ 隠さなければならない理由 ♥
私が大学生のころ,夢中になった女優が松坂慶子でした。同世代で,妖艶なバニー姿の『愛の水中花』に魅了された男は,あまりにも多いことでしょう。その当時,居酒屋で飲んでいると,たまたま『愛の水中花』が流れてきたのですが,同席していた友人が,こんなことを口走ったのです。
「松坂慶子,たまらんなあ。在日ちゃうんかな,あの顔はもろ在日やで」
私はこの友人のヨタ話のような酔言を「ほんまかいな」と聞きつつ,少なからず動揺してしまいました。憧れのあの松坂慶子が自分と同じ在日(?)そうであってほしいという気持ちと,そんなはずはないという気持ちが,入り混じっていたのです。
ところがのちに,この友人のヨタ話が事実であることが判明しました。松坂慶子の両親が著書『娘松坂慶子への「遺言」』(光文社)を刊行し,父が戦前,15歳のときに釜山から渡ってきた在日コリアンであったことを明らかにしたのです。
父の本名は韓 英明といい,長崎の高島炭鉱,福岡の筑豊炭鉱で働きました。筑豊炭鉱は,松坂慶子が体当たりの演技を見せた『青春の門』の舞台です。その後,紆余曲折のあとに日本人の妻と出会い,娘を非嫡出子として妻の戸籍に入れて,松坂慶子は日本籍となって,女優としての才能を開花させていったのです。
スポーツ界に目を向けてみれば,誰もがその名をしるのは,力道山でしょう。
1940年に朝鮮半島から力士となるために渡ってきたシルム(朝鮮相撲)の選手でした。民族名は金 信洛〔キム・シナクッ,김 신악〕,二所ノ関部屋から初土俵を踏み,十場所で関取まで昇格,「横綱間違いなし」とみられながら1950年に突如引退してしまいます。
この当時,朝鮮半島出身の力士は多く,力道山以後も,元横綱・玉の海(1971年没)をはじめ,多くの在日力士が活躍し,日本の大相撲の発展に寄与したのです。
力道山は1953年に日本プロレス協会を設立します。そして空手チョップでアメリカレスラーを仕留める雄姿が,普及しはじめたテレビで全国に流され,力道山は国民的英雄になったことはご承知のとおりです。
しかし,力道山は,みずからの朝鮮半島出身という出自を隠しつづけました。最初は角界での出世の妨げになるのを恐れてのことでしたが,結局は力士を引退後の1951年に,後見人を頼って日本国籍をえます。そして,レスラーとして国民の喝采を浴びるなか,自分が朝鮮半島出身であることが世に知られて「日本のヒーロー」から転落することを恐れたのです。
こうした力道山の姿勢に,同じ在日コリアンで,現在もプロ野球界のご意見番として喝を飛ばす,ハリさんこと張本 勲氏は,力道山を慕う立場から堂々と出自を公言すべきと進言したことがあります。しかし,「お前になにがわかる!」と大喝され,力道山の苦労もしらずに思慮分別に欠けたことをいった,差別の根深さを思いいったと悔恨しています。
そんな力道山でしたが,皮肉なことに,日本の国の事情のために母国の地を踏むことを余儀なくされていくのです。1960年ごろ,難航する日韓国交正常化交渉の切り札として,結婚式の仲人を務めた大野伴睦自民党副総裁,興行で世話になっていた山口組の田岡一雄三代目組長ら有力者から,極秘訪韓を強く要請されました。
1963年,ついに力道山は日本のマスコミにはまったくしらされないまま祖国の地を踏み,国賓待遇で迎えられました。韓国政府高官らと折衝を重ね,1965年の日韓国交正常化の礎を築いたのです。
二つの祖国に葛藤する在日が,その2国を結びつける役割を果たしたのです。
このとき,力道山は韓国にいた親類に再会しましたが,本当に彼が会いたかったのは,北朝鮮に住んでいた両親と兄でした。彼は板門店の38度線に立ち,やおらシャツを脱ぎ捨て,鍛え抜かれた上半身を晒しながら,
「オモニー(母さん)。ヒョンニーム(兄さん)」
と哀切に叫んだといいます。
♠ 体も負けん気も強い ♠
プロ野球界に目を転じれば,さきに挙げた張本 勲氏をはじめ,400勝の金田正一投手,ミスターロッテの有藤道世氏,広島の名捕手・達川光男氏,南海や近鉄で活躍した新井宏昌氏など,こちらも多くの在日スターがいました。
いま〔2016年〕の球界でも在日スターは多く活躍しています。今季,広島の4番に返り咲いた新井貴浩選手は,高校生のとき,韓国の全国大会で活躍しました。長らく阪神で代打の神様と崇められた桧山進次郎選手は,2004年〔在日〕韓国系の『統一日報』のインタビューに,こう答えています。
「日本のプロ野球には帰化している選手も含め韓国人は多い。一線で活躍している人のほとんどが韓国人って話もある。食生活の違いもあって,体がもともと強いって事情もあるんですかね。そのうえ負けん気も強い」
補注)太字で強調した文句は要注意である点は既述した。
在日選手がその出自で葛藤に苦しむのは,オリンピックや日本代表となったときです。2006年,第1回WBC(ワールドベースボールクラシック)の侍ジャパンメンバーには3人の在日がいました。
その1人,金城龍彦選手(昨年〔2015年〕,巨人で引退)は2000年に帰化していましたが,第1ラウンド,第2ラウンド,準決勝と,都合3回も,もう一つの祖国,韓国と対戦することになり,しかも第1,第2ラウンドでは連敗。
準決勝の前には,「韓国のスパイ」「わざと打たなかった」など,心ない誹謗・中傷がファンサイトに書きこまれてしまいました。心苦しかった胸中は察するに余りあります。
結果,準決勝ではついに日本が韓国を破り,そのまま初代優勝を手に入れるわけですが,金城選手は大会後の朝日新聞のインタビューで,
「日本代表の一人として世界の舞台で戦えることがうれしかった」と語りつつ,「血はやっぱり韓国人だから」と複雑な心中を明かしています。
芸能界における在日の最大のヒーローは誰でしょうか。私は1970年代,一世を風靡した松田優作を迷わず挙げます。
「太陽にほえろ!」のジーパン刑事,「探偵物語」のクールでニヒルな姿はいまも多くのファンに愛されています。優作はどこか陰のある役がよくハマる傾向がありましたが,それは彼の出自によるものだった可能性は大いにあります。
彼のルーツがはじめて公表されたのは,死から10年後,未亡人の松田美由紀がファンクラブの会報で明かしたのです。
優作は下関の遊郭で生まれ,非嫡出子であったことなどは,とくにてらいもなく明かしていました。しかし,みずからが「金 優作」であったことは死ぬまで隠し通してきたのです。
在日であることがしれたら,ファンは夢を裏切られた気持ちになる,という優作の悲痛な文章も残されています。
◆ カミングアウトする新世代 ◆
在日のスターで,はじめてカミングアウトをしたのは,演歌歌手の都はるみでしょう。1969年,人気絶頂だったはるみの半生について母が語る『週刊平凡』の特集が組まれたのです。
周囲はそのなかで触れられたはるみの出自について異様な関心を寄せるようになります。そして7年後,『北の宿から』が日本レコード大賞の候補になると,「日本人じゃないのに,なんでやるんだ」といった悪意が一部のマスコミから発せられました。
このとき「いじめられてもがんばりなさいよ」と優しい声をかけたのは,かの美空ひばりです。都はるみはこのことを,「同じような問題をかかえていたかどうかわからないが,励みになった」(『サンデー毎日』)と,意味深に語ります。
美空ひばりが在日という説もあり,先に述べた金田正一氏を「オッパ(兄という意味の韓国語)」と呼んだエピソードなどが伝えられています。
とくに韓国では常識のように報じられるのですが,日本の保守系メディアからは「ひばりが韓国人なんて大嘘」という声も,しばしば上がるのです。
ことの真偽はともかく,日本人のなかに「美空ひばりが在日であってほしくない」という感情をもつ人が少なからず存在することは確かです。そうした事実が,いまだに在日芸能人がルーツを明かせずに葛藤する背景となっているのは,間違いありません。
いま,芸能人で誰からも恐れられ,一目置かれるのが和田アキ子です。そんな彼女ですら,長らくみずからが在日であることを秘してきたのですが,2005年,『週刊文春』に対して,役所で思いもかけずみずからが「日本人ではない」としったことなどを明かしました。たかじんとは違い,彼女はカミングアウトの道を選んだのです。
いまを生きる在日の新世代は,みずからの存在にアイデンティティをもち本名や出自を明かして活躍しはじめています。そんな彼ら,そして戦後日本を支えてきた在日のヒーローたちに,日本社会があらためて温かい視線を向けていただきたいと,私は心から思うのです。
在特会を創設した桜井 誠(これは通称で本名は高田 誠)は,在日特権を許さない市民の会の代表として活動し,いわゆる「在日特権」や「反日の排除」を目的とする保守系(過激派保守主義)の市民団体を組織し,実際,反社的な活動を展開してきたものの,その後はその過激にだけ走った,しかも支離滅裂な在日差別の行動ゆえ,のちには提訴されその活動の違法性を罰せられた。最近では蠕動する機会をほとんどなくしている。
だいたい,世の中において「差別だとか偏見だとか」呼ばれる現象のなかには,合理的に説明できる中身はなかった。色が黒いといってアメリカ史のなかでは平気で黒人を殺す歴史が記録されていた。殺人という行為が白人を相手にしようが黒人にしようが,重大である事実に変わりはない。
いまの日本では,外国人だとはっきりみめ姿の分かる人たちが,警察官から異様に不必要に職務尋問の対象になっている。警察内部ではそのように職務をしっかり執行しろと指導している。職権濫用である事実そのものにおいてこそ,実は,日本社会内に根深く宿す「外国人差別の疑い深い目線」が隠されている。
その差別の源泉は,戦前・戦中の時期から日本社会において固有でありつづけた,朝鮮人や中国人に対する特有な意識に求められるが,その歴史や背景についてここでは論じられない。すでに記述量が多くなりすぎているので,関連する議論はまた別の機会に譲りたい。
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