ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(10)
※-1 21世紀日本における有事体制問題と経営学者の立場
1) 公害問題と研究者の姿勢
公害問題に関連して環境問題の研究者が2004年12月,その時点から30年以上もさかのぼる,こういう話を報告していた。
1971年,当時大阪市立大大学院理学研究科でいっしょに公害問題にとりくんでいた応用化学専攻のある大学院生が,博士論文に科学者の責任を吐露した付記を書き,不合格になったことがある。大学内外で抗議の声が起こり,翌年,教授会が非を認めて論文は合格したが,彼は心労のためみずからの命を断った。註記1)
この例は,産業界と大学との関連で生じた学問抑圧の問題ではなく,市立大学大学院の教授会がみずから大学院生の研究成果に圧力をくわえ,「人:研究者を殺す」ことになった事件である。これが産業界と学界との関連になると,もっとすさまじい学問への抑圧が惹起する。
水俣病公害事件に関連しては,こういう出来事もあった。西村 肇・岡本達明『水俣病の科学』(日本評論社,2001年)は,西村 肇(東京大学名誉教授)が,以下のようなあまりにも「遅すぎた事後報告」をしていた。
叙述中に出ていた「皆さん」とは,日本資本主義支配体制の中核の一部,具体的にいえば,産業界〔特定の化学工業大会社群〕のことである。西村 肇が先輩教員の忠告に耳を貸さなければ,もしかしたら,「関西の小さな大学に移すことで〔の〕話」さえまとまらなかった可能性があったかもしれない。つまり,西村をほかの困難な状況にさらに追いこむ事態が用意されたかもしれない。
小松 裕『田中正造-二一世紀への思想人-』(筑摩書房,1995年)は,日本の公害闘争史に登場した偉人である田中正造が,「人間が,人間であるために,人間としてこだわりつづけなければならない価値とは何かを明瞭に指し示している」と位置づけ,さらにこう述べていた。
過去に目をつぶり,歴史から何も学びとろうとしない姿勢。それは何も戦争のことにかぎらない。水俣病をはじめとする公害問題も同様であった。こだわりつづけ,語りつごうと努めてきた人々は,あくまで少数派であり,ときには「異端」ですらあった。それが正の遺産であれ,負の遺産であれ,民族として語りつぐべき歴史をもたないことは不幸である。註記3)
産業企業がもたらす公害・環境破壊によって,甚大な被害をうけてきた地域住民のために必死に闘争した田中正造が真正面より激突したのは,まさしく,国家そのもの:資本主義支配体制の全体であり,その頂点:中枢であった。
しかも,その公害を生んだ会社が,明治以降帝国主義路線を推進してきた日本が戦争をするうえで必須の重要物資「銅」を精錬する鉱山を経営していたことは,日本経済が資本主義体制化を急速に推進してきたがゆえに発生させた公害史を,端的に象徴する事実であった。
戦争の時代になるや,その目的達成のためには手段を選ばないかたちで,学問や思想に抑圧・弾圧をくわえる国家体制は,強制的指導による政権運営を実行することになった。
いうまでもなくそれは,いくつもの産業界をたばねる財界〔経済団体〕組織をさらに包摂したものうえに屹立する,「政治的な権力集団:国家体制そのもの」が担当・執行するものであった。戦前-戦中の日本の学問・思想に対しては日常的に,国家体制による絶大な規制,徹底的な弾圧がくわえられてきた。
前述のように自然科学の研究でも,経済社会を中枢で制御・支配する組織体制を具体的に批判し,糾弾する者が登場することになれば,彼の息の根を止めるほど圧力がくわえられることは,よく起きることである。ましてや,社会科学的研究に従事する人間に対する支配体制がわの警戒心は,「自由な研究」など頭から認めようとすらしない精神病理を正直に反映する。
最近は,会社の姿勢を法-倫理的に方向づけるために,企業統治(コーポレートガバナンス)や法令順守(コンプライアンス),内部告発の奨励などが重要な関心事になっているが,一朝一夕にあらたまるような問題ではない。しかも,ここで論じている課題は,数百年の各国資本主義の歴史を回顧してみれば,またその経済体制的な本性を把握すればわかるように,はやり・すたりのごとき論点でもない。
西村 肇らは宇井 純の氏名を挙げていたが,奥村 宏『会社はなぜ事件を繰り返すのか-検証・戦後会社史-』(NTT出版,2004年)も,公害問題にとりくんだ批判精神ある学者として宇井 純や原田正純の氏名を挙げ,「これはごく少数で,多くは御用学者か,あるいは無用学者である」と喝破した。この奥村の意見を,少し聞いておく。
21世紀になっているいまどきは,経済学者・経営学者で会社を批判する者はほとんどいない。東大教授や京大教授などの肩書をもつ経済学者の多くは,政府の審議会の委員や顧問になっており,財界とも親しい関係にあり,そこから研究資金や諸手当(ときに献金ないしは裏金も)を受けているから,政府や大企業を批判することなどしない(できるわけがない)。
そればかりか,市民派とか左翼と目されている学者や評論家でも大企業の紐つきになっている人がいる。そして,その大企業に都合のよいことを,さも理論的であるかのように説く。
このかつての公害問題の主相が,いまでは原発「公害」の問題に移行している。こちらの世界(原子力村)からする「反抗者への懐柔・抑圧」は,資金面の豊富さを駆使した手法の悪用によってだが,その最高に醜悪な次元において実行されてきた
補注)なお原田正純はとくに,つぎのように経歴関係を追記しておきたい。
原田正純(1934年-2012年)は,1972年に熊本大学体質医学研究所気質学講座助教授のまま,定年を迎えていた。1999年,熊本学園大学教授(社会福祉学部福祉環境学科)となるまで,助教授の職位に留め置かれてきた。
2005年から熊本学園大学水俣学研究センター設立センター長を務め,2010年に退職してからは,熊本学園大学水俣学研究センター顧問。
原田正純が水俣病と闘いつづけてきた記録は,つぎのような書物が説明している。けっこう多い数の本になるが,あえて挙げておく。原田正純は水俣病との闘いでは,世間の公衆の視線を集めていた大学教員であっただけに,政府・財界側は原田を「定年まで万年助教授に押しとどめる」程度にしか「抑圧(直裁にいえば弾圧)」ができていなかった。
原発問題関連では「反原発の立場」をとった,いわゆる「熊取六人衆」(京都大学の旧・原子炉実験所に在籍させられていた原子核工学の専攻者たち)からは,最高位の職位に付けた者でも助教授であって,なかには万年助手(いまでいう助教)の地位でそこでの職歴を終えた小出裕章のような,「3・11」を契機にたいそう有名人になった人物もいた。
さて,以下に挙げる10冊の主に原田正純自身が書いた本を中心に,補注のなかとはいえ,このように多めに参考文献として挙げてみた。原田個人の本が大部分ではあるが,原田に関して他者が書いた本も含ませてあるので,できれば他者が展開した議論を比較する材料として生かすためにも,なるべく何冊かを選んで読んでほしいところである。
これらは,関連した文献すべてを一覧するものではなく,本ブログ筆者が任意に挙げたものである。ふだんであれば文末に列記する【参考文献の紹介:アマゾン通販】から選んでみた本である。興味もたれる人は面倒でもクリックのうえ,参照を願いたい。(なお文末にも,いつもどおり参考文献は別途に挙げてある)
なお発行年は上から順にそれぞれ,1972年,1985年,1989年,1992年,1995年,2007年,2009年,2013年,2013年,2016年の発行である。
さて,以上に触れてみた国家体制側に付いた学会(学界)勢力に対して,各様な抵抗を記録してきた者たち(学究)の立場は,なにも敗戦後の日本の経済社会のなかで政治的な抑圧だけを受けてきただけではなく,振りかえってみるに,戦前・戦中体制のなかであれば,国家体制全体から繰り出される弾圧そのものの「学問への圧政」を受けていた。
それは,いうまでもなく「治安維持法」下の現実であったがため,あまりに過酷であり絶対的ともみなせる程度にまで,圧倒的に過重な精神的・肉体的な負担を強いられる状況を意味した。
敗戦後もだいぶ時間が経過した時点での話題としていえば,経済学者・経営学者の「御用学者」化の傾向は,1990年代なかばから目立ちはじめていたが,いまでは,日本の経済学者・経営学者は「御用学者」になるか,それとも「無用学者」でなんの役にも立たないか,どちらかであるといってもいいすぎではなかった。
公認会計士や会計学者も,会社の問題へのかかわりからみてその責任は大きい。法律学者は,経済学者・経営学者・会計学者以上に保守的である。なかでも会計学者のうちからようやく,「原発会計」のうちでもこれまで,故意に盲点化されていた論点である「廃炉会計」を研究する学究が出てきたが,近いうちにこの研究の方途からは,原発というものの「電源としてのダメさかげん」を,根源から剔抉する成果が登場するもと予測してよい。
日本においてはとりわけ,社会科学者にくわえて,マスコミ・評論家などが批判しないところから,「株式会社天国」になった。チェックがなければ暴走する。その暴走の結果が1990年代のバブル以後に現われた。批判がなされないことが,株式会社の矛盾を極限まで深めたといえる。この段落は,註記4)
戦時体制期の日本帝国にまだ戻っていえば,国家社会主義イデオロギー,具体的にいうなら「日本神州」論・皇国史観,「惟神」論・大和魂が,猛威を振るっていた。本稿でとりあげた経営学の研究分野でいうとしたら,
イ) 「満洲国」建国大学教員だった山本が「公社企業」論を昂揚し,
ロ) 神戸商業大学教授だった平井泰太郎が「経営国家学」を提唱し,
ハ) 大阪商科大学教授だった村本福松が「翼賛経営」論を推進した。
この経営学者3名にかぎらず,大東亜「戦争事態を合理化する理論」構想は,「国家主体の立場」による産業経済・企業経営の戦時的統制に率先協力する経営学「論」を提唱した学究は,いくらでも居た。
当時を生きた社会科学者の大多数は,帝国日本に対する尽忠報国の熱誠を発揮し,皇国臣民の基本姿勢たる「職域奉公」の実際的精神に徹していた。それは当時に生きていた経営学者にとってみて,当然の要請となり義務でもあったかのように応答する学問を営むことになった。
要は上記3名以外にもさらに多くの経営学者が,戦時体制への熱心な協力者として,それぞれが個性ある学問成果を挙げてきた。
戦争中は,それ以前においてはマルクス主義の立場・思想で経営学を展開してきた学者でさえ,「国家全体主義を支持するゴットル経済科学論」に賛成する立場を明確にしただけでなく,ほかの経営学者たちに対してもその摂取のしかたが足りない,と忠告・催促する者さえ登場した。
そのなかでごく少数であったが,入獄させられ生命の危機に瀕した経営学者もいなかったわけではないが,彼らはごく例外的な存在であった。
たとえば,沖縄出身の学者大田昌秀(おおた・まさひで,1925-2017年,沖縄の政治家・社会学者で,沖縄県知事2期,元社会民主党参議院議員1期を務めた琉球大学名誉教授,特定非営利活動法人沖縄国際平和研究所理事長)がいうことには,戦前・戦中期における日本人・民族の生きる道は,つぎのように指示されていたと語っていた。
2) 有事体制と経営学者
さてこの(「本稿(10)」)のなかでは初めて登場する氏名となるが,小笠原英司がつぎのように主張したところに触れてとなるが,本稿全体の筋書きに戻る議論としたい。
小笠原は,「人間性(主体性)という人間存在の根源的要因を実現するような〈生の活動〉にほかならない」「人間生活こそ,われわれのいう『経営』の原型なのである」と主張した。というのは,「経営は生活と同型であり,人間生活の基本原理-人間性と社会性-の実現をもって経営性の本質とみる」からであった。註記6)
「経営性の本質:人間生活」の問題をこのように把握した小笠原は,その主観的な意向いかんにかかわらず,戦時体制期において先達たちのはまりこんだ迷路に,再び近づきつつあるかのように映った。筆者がここで言及する論点を,小笠原は恐らく,自説が言及しうる守備範囲を,はるかに越境した「途方もない言説」と受けとめた節があった。
かつて筆者が,山本安次郎の「経営行為的主体存在論」に対して,戦責問題に関連する議論を対抗させたとき,山本がみせた反発の強さを思いおこせばよい。
しかしながら,旧日本帝国主義の国家目的:東アジア諸国侵略・支配に役立つ理論的な立場を採った「社会科学としての経営学」が,20世紀の歴史を矮小に把持しただけでなく,当時の経済・政治・社会の真理や事実をとらえてだが,さらにその深部を描写する作業に関していえば,これが隔靴掻痒の分析・説明・批判に留まっていたことは,
敗戦前に公刊された多くの論著のなかにもいろいろとあれこれが書かれており,いまでもとくに戦前から存在する大学の付属図書館,あるいは国会図書館にいって検索すれば,関連する文献はそれこそ「吐いて捨てる」ほど保有されている。
1980年代後半,日本経営学会理事長を務めていた海道 進は,過去を振りかえり,こう警鐘を鳴らした。
それまで「60年の歴史を回顧いたしますと,一つの歴史的教訓が与えられます。それは,若い世代の人々が,戦時中の多くの経営学者が犯した戦争協力への誤りを再び犯さないことであります」。註記7)
しかも,当時の「経営学者の99%がこの誤った道を歩いたという苦い歴史的経験があります」。註記8)
ここで,21世紀になってからの話となる。2003年6月に成立した「有事法制」〔有事関連3法:「武力攻撃事態法」(包括法案),「自衛隊法」,「安全保障会議設置法」(個別法案)〕を,平和で自由たるべき日本を不自由で劣悪な国にし,日本国民を不幸な民にするから許せないという憲法学者小林直樹は,その理由を5項目挙げていた。
ここに引用した内容のうちとくに ホ) は,小笠原「経営哲学理論」も基本よりその解決・解消に賛同する立論だと思う。この5項目を引照した著書はその「あとがき」で,憲法の基本的諸価値を根底から脅かす政治の進行とそれに対する不信・不安について,こう説明していた。小笠原の経営哲学も,こうした諸問題の防止・解決を意識する理論活動に努力しているとうけとって,けっして過大評価にならない。
それは,
イ)「戦争をしない国」から「戦争をする国」へのなしくずし的で本格的な転換の動き,
ロ) 社会国家〔福祉国家〕にもかかわらず社会的弱者のいじめの政治の進行,
ハ) 文化国家の理念のもとにおける研究・教育などの冷遇,
ニ) 自治体を破壊しかねない地方自治の軽視,
ホ)「全国民の代表」「全体の奉仕者」であることを忘れた政治家と官僚による構造的汚職の進行などに対する不信と不安,などである。
これらが要因となって,
ヘ) 経済と財政の破綻状況も強化されている。註記10)
ところで,雑誌『論座』2005年2月号が「溶解する日本1995-2005」という簡潔な年表をかかげ,「この10年の主な出来事」を列記していた。この年表から本稿に関連の深い出来事のみ拾いあげておく。
戦争の時代の「少国民の研究」で有名な山中 恒は,「戦争の時代の事実がまるで伝わらなくなっている現実に怯える」と書いた著作,『戦争のための愛国心』(勁草書房,2004年12月)で,21世紀初頭にある日本社会の現状をこう論じていた。
戦時下の日本では,天皇への絶対的な忠誠心をささえる根底に,狂信的で過激な国体原理主義があった。日本の民衆が奴隷同然であることに,逆に喜びや誇りを感じさせるようなしかけもあった。教育勅語は国体原理主義を謳い,国内に君主と奴隷の関係を強制し,外国に向かっても「八紘一宇」を旗印に,君主と奴隷の関係を強要する歴史的有機体みたいなものをしめしていた。註記12)
明治政府は,天皇の神秘性を核心として西欧に似た近代国家・擬似近代国家を創りあげようとした。保護と忠誠の集団階層ピラミッドの頂点に神秘的な天皇が座ったことが,日本型擬似近代国家の最大の特徴である。
しかし,その擬似近代国家は思想上の深刻な矛盾を惹きおこさざるをえなかった。その矛盾のはけ口は,天皇の御稜威のもと「近代国家」の軍事力により,朝鮮と清国を侵略して国威を揚げ,天皇中心の国民の「団結」イデオロギーを煽りたてる方向に向けられた。天皇制は日本軍国主義と一体のものとなった。註記13)
小泉純一郎〔当時〕現首相の「靖国神社参拝違憲九州・山口訴訟団団長」の郡島恒昭は,国家が神道を利用し,神道が国家を利用することについて反対し,そして,「国家神道(天皇教)」の構造を,以下のように解説していた。註記14)
この日本国家の与党は現在,特定の宗教団体の支持をうけた公明党と組んでいるのだが,最近の日本国首相小泉純一郎による靖国参拝問題もさることながら,天皇制「民主主義」という「根源的に矛盾をはらむ」戦後政治体制を超克できていない。
それどころか,かつてとはまたちがった現代的な再編成をこの国にほどこすかたちで,「往時の体制への退歩」:「戦前回帰への夢想」を画策する国粋・保守勢力が台頭してきた。
あの暗愚の首相の典型例であった安倍晋三は,第2次政権を7年と8カ月もつづけてきたあいだに,この日本を対米服属国家体制にまでさらに貶めるという役割を果たした。
ほんの一部分だがその潮流を,2005年1月に報道され出来事3件にかいまみることにしよう。
★-1「富士ゼロックス会長宅に火炎瓶-右翼団体か」
…富士ゼロックスの小林陽太郎会長の東京都目黒区にある自宅前で2005年1月9日,火炎瓶2本が燃えた跡がみつかり,警視庁は11日までに,火炎瓶処罰法違反の疑いで捜査をはじめた。小林会長は海外に出張中で,家族にもけがはなかった。
警視庁公安部は,右翼団体メンバーによる犯行の可能性があるとみている。小林会長は日中の有識者でつくる「新日中友好21世紀委員会」の座長で,2004年9月に小泉純一郎首相の靖国神社参拝を批判,自宅が右翼団体の街宣活動をうけていた(共同通信,2005年1月11日報道)。
★-2「NHK番組に中川昭一・安倍晋三氏『内容偏り』-幹部呼び指摘」
2001年1月,旧日本軍慰安婦制度の責任者を裁く民衆法廷をあつかったNHKの特集番組で,中川昭一現経済産業大臣,安倍晋三現自民党幹事長代理が放送前日にNHK幹部を呼んで「偏った内容だ」などと指摘していたことがわかった。NHKはその後,番組内容をかえて放送していた。
番組制作に当たった現場責任者が2004年末,NHKの内部告発窓口である「コンプライアンス(法令順守)推進委員会」に「政治介入を許した」と訴え,調査を求めている。今回の事態は,番組編集についての外部からの干渉を排した放送法上,問題となる可能性がある(朝日新聞,2005年1月12日朝刊報道。この報道についてはその後紆余曲折があったが,ここでは触れない)。
★-3「〈住居侵入〉マンションでビラ配布,男性起訴-東京地検」
2005年1月11日東京地検は,東京都葛飾区内のマンションにビラを配布するため侵入したとして,男性の僧侶を住居侵入罪で起訴した。起訴状などによると,僧侶は2004年12月23日午後2時20分ごろ,同区内の7階建ての分譲マンションに入り,共産党の「都議会報告」などのビラを各戸に配布した。僧侶は同日に逮捕されて以来,20日間にわたり身柄を拘束されている。同党葛飾地区委員会によると,僧侶は党員ではないが,同党の協力者という。
同地検は「マンション住民はセキュリティーを買っているという感覚がある。私的な領域をしられたくないという国民が増えており,そういう感情を重視した」と,起訴した理由を説明した。僧侶の弁護団は会見し「各戸への配布行為は新聞配達などで日常的におこなわれている。住居侵入罪は成立しないし,あえて起訴したのはビラの配布行為を抹殺しようとするもので許されない」と批判した。
ビラ配りをめぐっては,自衛隊イラク派遣反対のビラを配るため立川市の防衛庁官舎に入り住居侵入罪に問われた3人に東京地裁八王子支部が2004年12月16日,無罪判決を出し,東京地検八王子支部が控訴している(『毎日新聞』2005年1月12日朝刊報道)。
現代日本の国家体制は,戦前・戦中の戦争遂行的な国家体制とは根本的に異なっている。しかしながら,最近におけるこの国の世間は,言論・発表や思想・信条の自由を圧殺するような怪しい雲行きである。
補注)2024年8月下旬時点でこの記述を改訂しているところであったが,その後における日本の軍事体制は,2015年度に安倍晋三の第2次政権が成立・公布・施行させた安保関連法によって,完全にアメリカ合州国の属国化を99.99%達成させえたことになっていた。
山口二郎(北海道大学法学部教授)は,「ビラ配布」事件などについて,「警察や検察がこうした政治的弾圧を行なうだけではなく,裁判所も立憲主義を守る役割を放棄している。……裁判所は検察に言われるままに逮捕状を出し,長期の勾留を認めた。また,……検察の拡大解釈を追認して,有罪判決を出した。これが,司法の役割の放棄以外のなんであろうか」と 註記15),裁判所〔司法〕機能の溶解現象を指摘していた。
だから,前出の山中 恒はくわえて,こうもいっていた。昨今,教育勅語のような方途を,学校教育の現場においてまず復活させようとする政治家や学者が登場している。保守派は,この事態が時代錯誤を突きぬけて奇怪でさえあることを考えてもおらず,そこに国体原理主義者たちの執念深さがみてとれる。註記16)。
戦前の靖国神社は本質的に軍事施設であり,軍が管理する宗教施設であった。2002年4月21日,日本国総理大臣小泉純一郎は靖国神社を参拝した。この宗教行為は,明治維新以来の天皇のために戦死した者への〈追悼〉である。もはや戦後を引きずる時代ではない,戦争総決算のときであるという,日本国首相の時代認識が明瞭に示された。
そうなると「大東亜戦争」どころではない。明治維新以来の日本の天皇の命令によっておこなわれた戦争全体が「正しかった」と,小泉純一郎は行動で示したのである。この延長線上に想定される「戦争」にこそ,有事関連法制の意味がある。註記17)
つまり,近代民主主義の原理に照らしてみれば,アメリカ軍を中心とする連合国最高司令官総司令部(GHQ)が,敗戦後の日本に残してくれた,まことに奇妙なる天皇制「民主主義」体制の,さらなる反動的・反民主的な再統合が,最近は企図され,実現している。
昭和10年代の戦時日本は,中国との泥沼の戦争から足を抜けないまま,アメリカやイギリスとの全面戦争に突入した。ところが,この国はいまや,かつて鬼畜米英と憎悪したその敵国アメリカの「現代風の帝国主義」に付和雷同,ひたすら追随する属国になった。この日米政治関係体制のもとでという関係になったが,前述のごとき「戦前回帰的な反動現象」が現実に惹起している。
経営学者の海道 進は,過去の戦時体制期において,日本の経営学者のばあい99%が戦争に反対せず,協力してきたと指摘した。それまで,敗戦後における日本の経営学界の理論活動は,戦前・戦中期に生起した「関係する事象」を,まっとうに回顧も評価もしてこなかった。
「戦時体制期の経営学」の問題に気づき,これを真正面よりとりあげ,分析をくわえ,経営思想史観点から批判してきたのは,いままでのところ,筆者だけだったことになる。筆者がその理論分析作業の必要を感得したのは1970年代後半であったが,具体的にその作業を進捗させその成果をまとめて公表したのは1980年代前半になった。
過去に遺された膨大な分量の「戦時体制期の研究の軌跡:業績成果」に接することは,経営学を専攻する研究者であれば,それほどむずかしい作業にはならない。
とはいえ,この方面の論題を実際に追究することになれば,同学の士からも反発や邪視をうけやすい。ときには,その研究に対して迫害や圧迫にひとしい非難・反撃がくわえられることもある。
とはいえ,過去の手痛い教訓に学ばず,斯学界の周辺でも再び現実化している「今日的な学問危機の状況」に対処できるのか。
21世紀になってそれも2020年代に自民党首相となって登場した菅 義偉が,学術会議の会員半数が交代する時期を狙って,その新会員候補のうち6名を拒否(排除)した事実は,その種の危機感を具体的に表現するものになった。
以前から存在した現実の話としてはたとえば,教育学界の戦争責任を追究した長浜 功が体験した出来事に言及してみたい。長浜は日本の教育学界を,「真理と真実より周囲と恩師への気がねが優先されている土壌にわたしの入る余地はないようであった」と観察した。註記18)
筆者の場合だと幸いなことに,研究者としてそこまでひどい環境におかれたことはない。
前出の海道 進は,筆者に対して支持・応援のことばを送ってくれていた。しかし,みずからの尊厳と品位を欠くような態度で,筆者に接する経営学者がいなかったわけではない。事実,ずいぶん嫌な思いをさせられた経験もしてきた。いまではそれもひとまずだが,完全に過去の話となった。
憲法再生フォーラム編『有事法制批判』(岩波書店,2003年)は,工業企業による公害問題〔水俣病など〕や薬害被害にも触れて,こう述べている。
批判や意見の表明が自由にでき,それによって社会が改善されていくのが民主主義社会ですが,有事となると,さまざまの考えを持つことは許されなくなります。国民が打って一丸となって,国を愛していなければ,非国民として罰せられ排除される社会になるのです。国や軍隊の命令が絶対になり,個人の意見や人権は下位におかれます。権力を握るものにとって,愛国心と,非国民という言葉ほど便利な言葉はないのではないでしょうか。註記19)
大田昌克『盟約の闇-「核の傘」と日米同盟-』(日本評論社,2004年8月)は,21世紀最初の10年期における日本の政治情勢をこう語っていた。
かつては日本周辺の極東地域だけで論じられてきた「日本の安全保障」が質的に変貌し,面的にも大きな広がりをみている。それなのに,国民的な議論がその潮流を咀嚼しきれず,民意不在のままで死活的国益にかかわる重要な争点について,名ばかりの「主体的な判断」が繰りかえされている。この実態に,いまの日本の政治状況がかかえる深刻な問題の根源がある。註記20)
現在日本で施行されている「有事法制」は,戦前の「国家総動員法」を下敷きにしてもいる。日本軍事史に聞くまでもなく,過去の日本軍国体制の知識・情報・技術が,現代的に再利用されている。だから,軍事問題を専攻する研究者は,つぎの警告を発していた。
以下は,纐纈 厚『有事体制論-派兵国家を超えて-』(インパクト出版会,2004年6月)に聞く。
a)「進行する戦争構造の日常化」
21世紀を迎えたいま,たいへんな不景気な時代,多くの人々の心にとりついた閉塞感,先行きへの不安感,拉致事件や大量破壊兵器の保有問題などによる対外脅威感の植えつけなど,1920年代後半の時代状況にきわめて類似した時代環境のなかに,私たちはおかれている。
現時点では1931年9月の満州事変や,1932年の5・15事件,1936年の2・26事件のように,自衛隊〔=軍隊〕によるクーデターが起こる可能性は小さいかもしれない。
しかし,そのような劇的な手法によらない別種の手法によって,私たちが充分に知覚できないうちに,いつのまにか日本は「準戦時体制」に入っているのではないか。その指標はなにかといえば,その最大のものは有事法の登場である。
このばあい,有事法というのは有事法制関連3法だけにとどまらない。1999年8月の周辺事態法,2001年10月のテロ対策特別措置法,そして,市民法を顔をしつつ,実際的には有事法ととらえてよい2004年6月のこの「有事法」など,この国はすでに数多くかかえこんでいる。
補注)この2004年6月の時点から現在に至る途中には,2015年度に「安全保障関連法」が公布・施行されていた。この安全保障関連法とは, 2015年9月に成立していた,「集団的自衛権の行使を可能にすることなどが盛りこまれており,戦後日本の安全保障政策が大きく転換させる」法制度の施行に至っていた。
つまり,日本国憲法はそのまま存在させたかたちでだが,この国は実質にはアメリカインド太平洋軍の麾下とされたごとき軍隊集団となった。つまり「自国の防衛省自衛隊3軍」を,在日米軍を居城としてもいるアメリカインド太平洋軍に下属的に仲間入り「させられたも同然に」,事後(それからの未来)は,存在するほかなくなった軍隊編制を採っている。
いまの自衛隊は暴力装置としては観方にもよるが,在日米軍とともに自国民に対して治安維持的な出動をする可能性を,当然に有した軍隊そしきになっている。
たとえば,大規模地震対策特別措置法は,地震予知を口実に一定の地域内が災害出動する自衛隊によって「制圧」されしまう,いわば地域戒厳令の一種としての性格を多分に秘めている。そこには,市民の人権を保護しつつ,災害の危機から救出するという市民法的発想が完全に抜けおちている。
簡潔にいてみればたとえば,安全確保のためにはすべてが優先される,といったきわめて乱暴かつ粗雑な議論で,人権など一蹴されかねない。この国の人びとは権力者の指示に対してとなると,必要以上に変に順応的に反応する性癖があった。
それゆえ,正真正銘の軍事法が登場してきたさい,自分たちの「生命・財産の安全確保」のためならば,いかような軍隊の動きであって甘受することも吝かでないといった空気が,しごく簡単醸成されがちである。
この国民たちが,有事法制や安保関連法をその本質面をよく理解することもなしに,政権側の幼稚な説明パネルをみせられただけで,ただ情動的に支持する流れを形成していた(つまり,だまされてきた)事実を忘れてはいけない。
戦後の日米安保体制史などをつぶさに検討すれば,この国においてはつねに,有事法を生みだす土壌ができあがってきた経過を確信できる。いわば,つぎつぎと有事法を制定していくなかで,いうなれば音を立てず〈法によるクーデター〉によって,この国の戦時体制化が進行している。
戦前は,轟音を立てての暴力的な軍事体制化が進行したのに対して,戦後はそのような手法が採用されていないだけである。この国の軍事体制化を図ろうとする人たちは,過去をしっかり教訓化している。そのような手法が,戦後民主主義や平和憲法のなかでも深く潜行してきた。この事実に気づくことが不十分であったことが,今日のような事態を招いてしまったといえないか。
b)「憲法原理の強化の方向」
戦後民主主義や平和憲法への過信や依存が,本物の平和構築や軍事体制化を阻む努力を殺いできた。その意味で,戦後の民主主義や平和憲法の位置づけについては,批判的な立場が必要である。
纐纈 厚はとくに,こう主張する。現行憲法はいずれ転換すべきである。第9条の恣意的な解釈づけを許さない,絶対平和や非暴力主義の理念を中核に据えた憲法原理を構想したい。そこでは「第1章 天皇」の章について,根本的なみなおしが必要となる。
軍国主義の温床となった「天皇制を残置するために,日本の徹底した非軍事化政策の実現を求めた第9条が用意された」とする有力な見解は,要するに,天皇と第9条が一組となっている憲法の実態を,いま一度根本的からとらえなおし,どのように改編していくのかという問題を提起している。
敗戦後,天皇制残置に向けられたイギリス・オランダ・中国など,アメリカといっしょに日本と戦った連合国がわからする批判,すなわち,天皇制こそが日本軍国主義を生みだす母胎とする批判を封じこめる必要があったため,日本軍国主義への歯止め策として第9条が構想され条文化されたとする歴史解釈を,いま一度とらえなおす機会とすべきである。
取引の一環として成立したそのような消極的な平和条項ではなく,第9条の存在そのものが「軍国主義の温床である天皇制じたい」を許容しないような確固たる平和条項とするために,積極的かつ普遍主義的な内容に切りかえるべきである。
第9条を護るために,天皇制をも護りつづける結果になってしまった。ただ一点に立ちどまって“神棚に据えおく”というような状態,すなわち,GHQ権力が用意した天皇残置論から実態化された「戦後天皇制の護持」にひたすら手を貸すことはできない。戦時体制化を阻むためには,戦後民主主義を再検証し,平和憲法を再定義していく作業や論理を築いていく必要がある。
c)「戦争構造の固定化」
「戦争」というのは,なにも砲弾やミサイルが飛びかう状態だけをしめすのではない。それは,軍事的なる価値観やものいい,行動に肯定的な対応をなそうとする「政府や個人の意識に内在するもの」も含む。それはまた,暴力へのかぎりない肯定感に帰結するところの「否定すべき思想であり,心情」でもある。
それは「他者〔他国家・他民族〕と暴力」を介在させて対置し,抑圧し,抹殺しようとするものであり,「差別と抑圧の感情」を絶えず生みだしていく論理を絶対化するものである。
そのような意味をも含めて,私たちの国や社会はすでに「戦争に象徴される暴力が大手を振って歩きはじめる場」になりつつある。それこそが「戦争構造の日常化」という意味ではないのか。戦争状態がすでに「構造化」してしまっている。換言すれば,戦争状態の「流動化の状態から構造化・固定化の状態に入っている」がために,これまたなかなか知覚できないという状態がつづいている。以上,註記21)
さらに,纐纈 厚『有事法の罠にだまされるな ! ! 』(凱風社,2002年)は,有事法制の意味をさらにこう解説していた。
a)「反省の欠落」 戦前の日本国家は,国家緊急権の発動を絶えず戦争の発動というかたちで常態化していた。それがまた,国家総動員法や軍機保護法や国防保安法をはじめ,実に膨大な数の有事法制を整備させ,結果的に国内における治安警察国家化と,外に向かっては侵略国家への道を歩んでしまった。
b)「軍事国家の問題」 軍事力による平和や安全の獲得は,国家緊急権に便乗または依存するしかその方法はない。そこでは,多様な価値観や選択肢を認めあうことで共生関係を創りあげていく民主主義社会の建設は絶望的となる。
特定の価値観や思想で画一化された社会を称して軍事社会とか軍事国家というわけであり,有事法制体制下では必然的に,かぎりなく画一的で,猛烈に管理・統制された社会とならざるをえない。
c)「戦前大東亜体制と戦後安保体制」 戦前期日本帝国主義が採用しようとした〈大東亜共栄圏〉構想のアメリカ版のようなものを,アメリカは構想している。
このことからも,在日米軍とこれに連動する同盟国日本,同盟軍自衛隊の役割はさらに決定的に重要となる。これは,かつての同盟国分担体制論などという次元の話ではなくなっている。註記22)
結局,有事法制による一連の関連法整備は,世界1級の陸海軍の軍事装備を備え,日米合同演習を積みかさねてきた日本の自衛隊が,アメリカ軍の要請に応じて,アジア太平洋地域の周辺事態のもと日米共同作戦を展開する,真に戦える自衛隊に変貌していくことを狙っている。註記23)
以上,政治学者などの有事体制「批判」論(直近では「安保関連法」にまで進行しているが)に聞いてみた。筆者はいまさらのように,日本の経営学者の場合,「戦時体制期の経営学」に批判的な視座を向けて,あらためて再吟味すべきだと考える。もちろん,21世紀にむかうための足場作りのためにも役立つそれである。
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